socio-logic.jp - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
作成 20190731|更新 20190731

佐藤俊樹『社会科学と因果分析』読書会
佐藤俊樹『社会科学と因果分析』

読書会配布資料集:第二章「百年の螺旋」

 この頁には、佐藤俊樹『社会科学と因果分析:ウェーバーの方法論から知の現在へ』読書会(2019年3月~8月) における担当者の配布資料を掲載しています。
 読書会第二回の開催日は2019年4月14日(日)、会場は東京大学本郷キャンパス、担当者は 坂井晃介さん(社会学)、北田暁大さん(社会学)の二名でした。

このページ:第二章「百年の螺旋」
[第三回] リッカートの文化科学――価値関係づけの円環
[第四回] 機能主義と因果の推論――制度のしくみと意味
[第五回] システムと文化科学と二項コード――現代の座標系から
※全資料
第一章 社会科学とは何か
第二章 百年の螺旋
第三章 適合的因果の方法
第四章 歴史と比較
第五章 社会の観察と因果分析
講 演:清水雄也「Johannes von Kriesの適合的因果論」
コメント:小野裕亮「佐藤俊樹(2019)『社会科学と因果分析』での von Kries『確率計算の諸原理』pp.107-108 が「文化科学」論文で参照指示されているという説について(第2版)」
読書会案内

[第三回] リッカートの文化科学――価値関係づけの円環
担当:坂井晃介さん(社会学)

一.

二.

  1. das individuelle Kausalverhältnis[s]/individuelle Kausalverhältnisse/individuelles Kausalverhältnis[s]

三.

四.

  1. ア・ポステリオリ

五.

[疑問点・コメント]

  1. 価値関係づけが「観察の理論負荷性」に「近い」[57-9]とはどういう意味か?
  2. 「円環を描く」とはどういう意味か(循環論と同義か?)[61ほか]
  3. 前提条件と理論の関係について[66-7]
    • 「個々の具体的な因果分析に焦点をしぼることで、文化意義も明確に対象側だけに限定されている」[66]。
    • 「…具体的な観察が負荷されている「理論」と、観察される「理論」は必ずしも同じではない」[68]。
    • 「具体的な観察で負荷されている「理論」と検証される「理論」は、必ずしも(=ア・プリオリに)同じではなく、循環論かどうかはケース・バイ・ケースで(=ア・ポステオリ (ママ)に)判断すればよい」[67]。
    →この辺が全体的によくわからない。a. 観察における価値関係づけ(負荷される理論=仮説)とb. 対象における実際の価値関係づけ(=結論、しかしこれを理論と呼ぶのか?)を区別した上で、両者の関係を論じている、ということか。リッカートが「円環を描く」「循環論」になっているのは、aによって文化科学による対象選択だけでなく、bの内実そのものも自動的に規定されうるからだ(と著者が考えている)とも読める。他方ウェーバーの場合、aがbと一致するかどうかが因果同定の具体的な手続きによって経験的に検討されるので、aはあくまで前提条件とみなされる。aが経験的検証を経て組み替えられbとの関係を常に問われるという点で、「循環」ではなく「螺旋」、ということか。
     ちなみに著者は佐藤[2011]において「理論」について次にように論じている。理論には「簡単で一般的な命題群から、論理的な操作で、より複雑でより具体的な命題群を導く」公理論と、「複数の命題群が成立すると仮定して、ある事象が起きたらどんな結果になるかを導く」モデルの二つがあるとし、「社会学には現在のところ、公理論といえるものはない」[佐藤2011: 21-2]。
     そこで著者は社会の自己産出系の公理論化を試みる[佐藤2016; 2018]。ここでの公理論化とは基本的な理論的命題群である「理論構文syntax」を定めた上で、そのsyntaxに関して、対応する事象の水準で考えられたモデルである「意味論semantics」を定式化することであるようだ[佐藤2018: 77-8]。
     [66-7]における二つの「理論」についての議論は、syntax/semanticsを区別せず公理論とモデルを同一視する立場(aとbの循環論者としてのリッカート)と、syntaxを定めた上でそこから想定できる複数のsemantics(モデル)を経験的に検証する立場(semanticsとしてのaとsyntaxとしてのb(?)の螺旋を重んじるウェーバー)という形に対応付けられることができるかもしれない。そうだとすれば、著者はウェーバー解釈を強く自身の議論に引きつけ、自身の立場をウェーバーに投影していることになるだろう(ウェーバリアン)。著者の自己産出系の公理論化の試みにおいてウェーバーは、具体的なsemantics(モデル)を考える際に参照されている(特に動機記述に関して)[2016: 85-7; 2018: 363]。
    →科学哲学の見地からするこの辺りの議論の妥当性はどうなのか。佐藤[2016]ではこの議論をするにあたり「数学や記号論理学における公理論」を解説するものとして野矢[1994]、戸田山[2000]を参照している。
top

[第五回] システムと文化科学と二項コード――現代の座標系から
担当:坂井晃介さん(社会学)

一.

二.

三.

四.

五.

図5-3について…全体社会を見出す視点についての三つの可能性[98]

図5-3

六.

七.

[疑問点・コメント]

  1. ルーマン=ハーバーマス論争ってこんな話だっただろうか?[90-1]
    • 著者はリッカートの「理論的価値関係づけ」とハーバーマスの「理想的発話状況」とルーマンの「システム/環境区別」がいずれも中身が空白である点で等価であると考えているようだ。
  2. ルーマン機能分化論の理解は妥当か
    • 「ルーマンは何を主題にしてコミュニケーションが展開されているかに関する了解に基づいて、機能システムが分化するとした」[93]
      →「コミュニケーションの主題についての了解」は必ずしも機能に関わるわけではないので、これについて複数のシステムが分化しているということはルーマンの機能分化と同じではない。すくなくとも社会における①特定の機能を独占的に有している自律的なシステムが複数分出しており、②そうした個々の機能システムがそれぞれ様々なコミュニケーションを自身に関わるものとそうでないものを区別するために固有で特権的な二値コードを有していること、の二つが機能分化論についてのルーマン解釈において一般的であると思われる[長岡2006: 497-8]。
  3. 二項コード[100ff]の用語法は著者の自己流である
    • ルーマンの二値コードの概念は、様々な形でありうる現象についての意味的な区別(a/非a)のうち、とりわけ特定の選択肢のみがaの否定項として通用しているもの(a/A)のこという。例えば法システムでは合法/不法が、科学システムでは真/偽が排他的な二値コードとしてみなされており、あらゆる事象がこの図式に従って分類されることとなる。こうした特定の二値コードによるコミュニケーションの整序は、ルーマンにおいては様々な意味的な区別(a/非a)が歴史的な構造転換の過程で技術化され、機能システムが分出することによって実現したと考えられている。それゆえ二値コードは組織ではなく機能システムが有するものである。
       それにたいして著者は「二値コード」の社会学的な源流をゲオルク・ジンメルに求めていることからして[87]、人々の相互行為において用いられる意味的な区別や形式一般のことをも含むものとして考えているようだ。
       さらに著者は、「組織である/組織でない」という区別を「二項コード」とみなすところからして[佐藤2008: 128も参照]、これをシステムの自己記述(「このシステムは○○である」という反省)と同義であるとみなしているように読める。これはルーマン自身の立論とは異なる。ルーマンにおける二項コードは各機能システムで一般化されたコミュニケーション・メディアによって成立する安定的な構造であり、当該システムが自身にとってどのようなものか(自己言及/他者言及)についてのコミュニケーションとは区別されている。(例えば概念法学(自己言及)と利益法学(他者言及)がともに合法/不法の区別を前提としている、等)4

      「組織として」である/でないの区別の位置づけにも、[ルーマンと私は]意見のちがいがある。例えば、ルーマンは組織システムには二分コードがないと述べている。私は、「組織として」の区別が組織の二分コードであり、ルーマンが二分コードの有無でとらえようとした事態は、むしろコード値と言及問題の区別のあり方のちがい、例えばコードとプログラムの意味論的な分離の程度のちがいではないか、と考えている[佐藤2009: 27]。
       この文言から解釈すると、著者はルーマンの二項コードとは別個に、様々な事象に対する意味付けをする際用いられる区別を「二項コード(二分コード)」と呼び、それが自己言及に用いられることもあるし、ルーマンのいう意味での二項コードとしても働くこともある、と考えていると思われる。
       ただしそう考えた場合でも様々な区別は、何らかの意味的な境界を共有する認識主体による反省ではないものも含むので、経験的な研究課題として、著者は特定の制度(法や国家、組織、性的規範等?)を想定しているようである。
  1. この件について著者は、①ルーマンのいう意味での機能システムの二項コードを天下り的に前提するよりも、著者のいう自己言及/他者言及に結びつく個々の事象から見出された「二項コード」のほうが経験的な研究のために有用であり、②ルーマンの議論の中で引き継ぐべき部分を理解する上でも①のような解釈が重要だ、というようなことを考えていると思われる。

参考文献

top