『概念分析の社会学2-実践の社会的論理』(酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生・小宮友根 編、2016年4月、ナカニシヤ出版)

  このページは、エスノメソドロジー研究の論文集、『概念分析の社会学2』(酒井・浦野・前田・中村・小宮編、ナカニシヤ出版・2016年4月刊行)を ご紹介するものです。目次のほか、本文いくつかを公開しています。

 この論文集は2009年に刊行した『概念分析の社会学』の続編です。あわせてご覧ください。

 また本論文集の刊行準備として、

をはじめとする様々な研究会を行ないました。研究会の一覧はこちらにまとめてあります: 社会学研究互助会(第三期)のご案内

 本論文集刊行時には紀伊國屋書店新宿本店にてブックフェアを開催していただきました。本書に関連する書籍150点ほどを、執筆者たちが選書・解説しています。併せてご覧ください:

※このページは、校正前の原稿に もとづいて制作しています。引用・参照は 書籍からおねがいします。
※表紙の作品は宮山香里さんによるものです。詳細は下記WEBサイトをご覧ください。
・表紙作品: The way down to the sky 空へ降りる方法
・プロフィールなど: Change by Gradation / blog

『概念分析の社会学2』
更新情報
2016.10.24
「催事と反響」欄を更新しました。
「おわりに」に「社会学研究互助会」の例会一覧を掲載しました。
2016.08.08
「催事と反響」欄を更新しました。
2016.07.21
「催事と反響」欄に下記情報を追加しました。
  • 本郷概念分析研究会 合評会(2016年8月11日)
2016.07.08
「催事と反響」欄に下記情報を追加しました。
  • 短評:京都大学生活協同組合書評誌『綴葉』2016年7月号 No.349「新刊コーナー」
2016.07.07
「催事と反響」欄に下記情報を追加しました。
  • 短評:雑誌『精神看護』19巻4号(2016年7月)「今月の5冊」
2016.06.13
「催事と反響」欄に下記情報を追加しました。
  • 関西EMCA互助会 読書会(2016年7-9月)
2016.06.09
紀伊國屋書店新宿本店のブックフェア「socio-logic」、本日にて終了いたしました。たくさんの皆様のご来場に深く感謝いたします。紹介ページは今後も常設し、時折更新する予定です。こちらもご訪問下さい。
2016.05.31
本日まで開催予定だった 紀伊國屋書店新宿本店のブックフェア ですが、好評により会期を延長していただくことになりました。会期中にぜひいらしてください。
2016.05.19
新潟青陵大学のWEBサイトに紹介ページを設けていただきました。ありがとうございます。
2016.05.02
「催事と反響」欄に下記情報を追加しました。
  • 山口社会学研究会「概念分析の社会学2を読む」(2016年5~7月)
2016.04.14
エスノメソドロジー・会話分析研究会の「会員の著作紹介」コーナーに、書籍紹介頁が掲載されました。
2016.03.30
本書刊行にちなんで、ブックフェアを開催します。開催日は 4/11、場所は紀伊國屋書店新宿本店です:
2016.03.27
「ナビゲーション3」(前田泰樹)の前半部分を掲載しました。
これで、本文以外のすべての文章を公開しました。刊行日は 4/30 に決定しました。書店に並ぶまでもう少々お待ちください。
2016.03.16
「ナビゲーション2」(中村和生)の後半部分を掲載しました。
2016.03.05
「ナビゲーション1」(前田泰樹)の後半部分を掲載しました。
2016.02.27
「ナビゲーション4」(小宮友根)の後半部分を掲載しました。
2016.02.21
「ナビゲーション3」(前田泰樹)の前半部分を掲載しました。
2016.02.12
「ナビゲーション4」(小宮友根)の前半部分を掲載しました。
2016.02.05
「はじめに」(浦野 茂)の後半部分を掲載しました。
2016.01.28
「ナビゲーション2」(中村和生)の前半部分を掲載しました。
2016.01.22
「ナビゲーション1」(前田泰樹)の前半部分を掲載しました。
2016.01.15
「はじめに」(浦野 茂)の前半部分を掲載しました。
2016.01.04
目次執筆者紹介「おわりに」(酒井泰斗)を掲載しました。
2015.12.28
ページ制作を開始。
『概念分析の社会学2』はてなブックマーク数

目次と書誌

概念分析の社会学2─実践の社会的論理
酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生・小宮友根 編
定価:3,200円(税別)
2016年4月30日刊行
ナカニシヤ出版
A5判 326頁
ISBN978-4-7795-1014-4
そこで何が行なわれているのか。それは如何にして可能なのか。
社会生活における多種多様な実践を編みあげる方法=概念の分析
知識の社会学のエスノメソドロジー的展開
はじめに 浦野 茂
ナビゲーション1 (前田泰樹)
第1章 「神経多様性」の戦術――自伝における脳と神経 浦野 茂
第2章 新しい分類のもとでの連帯――遺伝学的シティズンシップと患者会の活動 前田泰樹
第3章 性同一性障害として生きる――「病気」から生き方へ 鶴田幸恵
第4章 触法精神障害者と保安処分の対象 喜多加実代
ナビゲーション2 (中村和生)
第5章 彼女たちの「社会的なものthe social」――世紀転換期アメリカにおけるソーシャルワークの専門職化をめぐって 北田暁大
第6章 生殖補助医療を標準化する 石井幸夫
第7章 〈誤った生命〉とは誰の生命か――ロングフル・ライフ訴訟の定義から見えるもの 加藤秀一
第8章 「素朴心理学からDoing sociologyへ──記述の下での理解と動機のレリヴァンス 中村和生・森 一平・五十嵐素子
ナビゲーション3 (前田泰樹)
第9章 「教示」と結びついた「学習の達成」――行為の基準の視点から 五十嵐素子
第10章 授業の秩序化実践と「学級」の概念 森 一平
第11章 裁判員の知識管理実践についての覚え書き 小宮友根
ナビゲーション4 (小宮友根)
第12章 想定された行為者──プラン設計におけるユーザー概念使用の分析 秋谷直矩
第13章 柔道家たちの予期を可能にするもの 海老田大五朗
第14章 観光における「見ること」の組織化 酒井信一郎
おわりに 酒井泰斗

はじめに

 本書を手にとられたみなさんの中には、目次を見て各章の多様さに戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。主題について言えば、障害と医療に始まり、司法とソーシャルワーク、教育、ビジネス、スポーツ、起業、そしてさらには観光まで。同じことは各章が用いている資料の形態についても言えるでしょう。出版された文書や議事録、判決文、実践場面の録画映像、そしてフィールドノート。よく言って多様、実際には編集不足なだけの雑多な論文集。そんな声も聞こえてきそうです。

 けれどもこうした多様さ(あるいは雑多さ)には、十分な理由が、しかもそれを積極的に追究すべき理由があると私たちは考えています。言い換えると、この多様さは概念分析の社会学という試みから導かれる、必然的なとまでは言えないもののとても自然な帰結であるということです。そこで以下では、概念分析の社会学とはどのような試みで、それがどうしてこんな多様な形をとることになるのかについて、基本的な事柄を説明しましょう。もっとも、これについては本書の4つのナビゲーションと「おわりに」でも触れられていますので、ここでは少し違った角度から述べておきましょう。>>続きを読む/閉じる

 上に挙げたような社会生活における様々な事象は、いずれもがそれに携わる人びとの実践によって組み立てられています。障害や病いを経験する、社会や人びと、技術をめぐる言説を組織し判断を行う、 授業や法的評議、ミーティングに参加する、そしてスポーツや観光を行う。いずれの実践も、それに携わる人びとがそれぞれ固有の仕方で携わることによってそれぞれに固有の形で組み立てられています。ともするとこうした実践のなかには、それがあたかも型通りに進んで行くように見えるため、取り立てて注目するに値しないと思われるものもあるかもしれません。けれどもそれは見かけだけのことで、むしろその実践がとても巧妙に成し遂げられていることを示しており、したがってかえって目を留める必要があるのだと考えることもできるでしょう。

 少し大げさに聞こえたかもしれません。けれども、ここにはしばし立ち止まって確認しておくべき重要な論点が含まれています。それは次のこと、すなわちどのような実践においても、それに携わる人びとは自身が何者として何を行っているのかわきまえているということです。確かに、それぞれの実践のもたらす帰結についてはかならずしも実践者に見通せるわけではなく、その場合には事後的な観察を必要とするでしょう。けれどもその実践のさなかにおいて自分たちが何をしているのかと問われれば、その巧拙はともかくとして、実践者はこれに答えて、状況における行為の意味と理由、それを成し遂げる仕方について他者が理解できるように説明できるはずです。実践者は、その実践を成し遂げることがどのようなことであり、またそのためにはどのようにする必要があるのか、わきまえているはずなのです。このことを指して、実践に携わる人びとはその実践について一通りの概念を持っている、と言うことができるでしょう。ちなみにかつてP. ウィンチは、ある社会生活についてその社会生活に参加する人びとのもつ概念抜き考えることの無意味さを指摘していました。この指摘も、実践がそれに携わる人びとの概念を通じてのみ成し遂げられるという事態を踏まえてのものです(Winch 1958=1977)

 さて、そうすると本書のタイトルの一部にある「概念分析」が何を意味するのかも見えてくるでしょう。概念分析の対象となるのは、人びとがすでにもっている概念、換言すれば社会生活を形づくるそのつどの実践において実践者がそのさなかに用いている知識です。そのつどの実践において、どのような概念が用いられているのか。その概念はどのような組織性をそなえ、どのように用いられているのか。概念分析とは、このような問いに答えを与えていく作業であるとひとまず言うことができるでしょう。そしてこうした作業のことをG. ライルは、「概念の論理的地形を画定する」ことであると鮮やかに述べています(Ryle 1949: 8=1987: 3)

 とはいえ、すでに分かっていることをあらためて明らかにする作業にどれほどの意義があるのか。こんな疑問をもたれる方もいるかもしれません。しかし、おなじ箇所でライルが述べているように、「用い方を知っていること」と「用い方について語ること」とは別の事柄です。そして用い方について語るとき、私たちはしばしば実際の用い方を裏切って語ってしまいがちである、このようにライルは指摘しています。であればこそ、概念の用い方をそのつどの実践の中に見いだし、記述する作業が必要になるでしょう。

 ところで先に触れたウィンチは、こうした概念分析を自身でも提唱しながら、しかしこれをより積極的に提唱するからこそ概念分析の位置づけをめぐってライルに批判的に言及しています(Winch 1958: 4=1977: 5)。この批判は、概念分析の意義をめぐって両者の間に見解の相違があることを教えています。そして小さなように思われるこの相違は、本書にとって案外大きいと私たちは考えています。

 ウィンチが批判しているのは、ライルが概念分析を経験科学に対するいわば「下働き」として位置づけていることに向けられています。ここで下働きという表現で名指されているのは次のような概念分析の位置づけ方、すなわち概念分析は世界についての私たちの理解になんら積極的なものを加えず、もっぱら経験科学の基礎的概念の混乱を除去するだけである、という位置づけ方です。この位置づけ方を敷衍すれば、次のようになるでしょう。概念分析ができることは経験科学における概念的混乱を除去するだけである。それが済んだら概念分析は舞台を退き、代わって経験科学が世界について積極的な知見を与えてくれるだろう。つまりは世界についての積極的知見を与えてくれるのは実験や観察、調査だけなのだ……。ウィンチが批判しているのは、概念分析についてのこうした位置づけ方なのです。

 もっとも、これがライルへの批判としてどの程度まで当たっているのかについては慎重に考えるべきかもしれません。けれどもライルがどのような目的のもとに分析を行っていたのかを考えてみると——たとえば彼の有名な仕事である心身二元論批判や、科学と日常生活との接点における概念的混乱をめぐる治療的分析などを思い浮かべてみると——、ウィンチの批判はさほど的を外しているようには思えません。たしかに、もっぱら既存の学説や世間に浸透している信念に見られる混乱を解きほぐすことをおもな目的として、概念分析がライルによって援用されているように見えるからです。

 それではこれに対し、ウィンチは概念分析をどのように位置づけているのでしょうか。彼にとっては概念分析とは下働きなどではなく、むしろ実験や観察、調査と並び、とはいえこれらとは異なる仕方において世界についての積極的理解を与えてくれるものです。そしてこのことは社会生活をめぐっても当てはまります。すなわち、私たちのもつ概念を検討することは、それに基づいて組み立てられている社会生活がどのようなものであるかを積極的に解明することであるということです。概念分析として行われる社会学のあり方がここに端的に示されています。

 ただしここで、概念と言うことで何を指すのかをめぐって少しだけ注意が必要かもしれません。たとえば、概念と言われると言語のこと、語のことが思い浮かんでくるかもしれません。概念とはすなわち語のことである、というように。しかし両者のこうした等値は不正確です。ここで概念と呼んでいるのは、物事を捉え、成し遂げる仕方のことだからです。たしかに、こうした仕方にとって語はひとつの重要な要素かもしれません。また、必要な場合にはこの仕方について説明することができるという意味において、概念と言語とは密接な関係にあるでしょう。しかし、だからといって両者が同一であるとまで言うことはできません。

 このことは、それを端的に名指す語が見当たらずしたがって定式化することはできないけれども、しかし現に私たちが持っていると言いうる物事の捉え方や成し遂げ方のことを考えてみれば、わかるはずです。たとえば謝罪するという行為を考えてみましょう。私たちは、いま自分の行っている行為が謝罪であるなどとわざわざ明示的に述べずとも、適切に謝罪することができます。むしろこのような場合の方が多いでしょう。そしてもしそうだとすれば、私たちは次の事柄をわきまえているのです。すなわち、どのような状況においてどのような語と振る舞いによって表現を作ることが謝罪を行うことになるのか。また、こうした謝罪と見なされうる表現を作ることにより、これに続けて以後どのような事柄が自分や相手に期待されるのか。実際に謝罪を行うとき、私たちはこれらの事柄をわきまえながらそれを行っています。そしてこのような場合、私たちは謝罪という概念を持っている、と言うことができるでしょう。

 このように概念ということで呼び指しているのは、そのつどの状況において語や振る舞いを一定の仕方で結びつけながら表現を作ることによって行為を成し遂げる仕方、すなわち実践を組織する方法のことであり、語そのもののことではありません。したがって概念分析の焦点となるのは、このような実践を組織する方法なのです。ちなみにここから導かれるのは、分析において用いられる資料の形態における多様性です。出版された文書や録画映像、あるいはまたフィールドノート。多様な形態の資料にもとづいて概念分析は展開されますが、こうした資料の選択も分析対象となる実践に応じて決まることであり、いずれかの資料形態を特権視するようなことは概念分析の視点から導き出すことはできません。

 さて、以上のように整理するならば、ウィンチがそのアイデアを示している概念分析の社会学は、H. ガーフィンケルや H. サックスを先駆者とするエスノメソドロジー研究によって実現されていることがわかるはずです(Lynch 2000; Hutchinson, Read and Sharrock 2008: chap. 3)。たとえばこのことは、エスノメソドロジー研究のマニフェストであるガーフィンケルによる『エスノメソドロジー研究』の序文に収められた次の指摘、すなわち実践を組織する方法はそのつどそれを理解できるものにする方法と同一であるとの指摘のうちに、はっきりと確認することができるでしょう(Garfinkel 1967: vii)。そしてこの指摘から、私たちは次のような課題を見いだすことができるでしょう。さまざまな実践についてそれに携わる人びとがそのさなかにおいて用いている一連の概念を、すなわちそれによってその実践を理解できるものとして作りあげていくその方法を解明する、という課題です。

 この課題を追うためには、概念分析は下働きという位置づけにとどまっているわけにはいきません。社会生活の内実を形づくる実践は多様です。スポーツを行うことと観光を行うこと、法的評議に参加することとミーティングに参加すること、社会についての言説を組織することと自伝を組織すること……。これらのいずれもが固有の実践であり、したがってそれぞれに固有の方法によって組織されていること、言い換えればそれらを組織している何らかの単一の方法なるものへと還元できるはずもないことは、言うまでもないでしょう。そしてもしそうであるならば私たちがするべきなのは、下働きという位置づけにとどまらず、それぞれの実践の内実に分け入り、それらをそれぞれ固有の形に作りあげている参与者の用いている概念を明らかにしていくことでしょう。まただからこそ、ともすると各実践間の相違をもみ消すことへと通じがちな想像上の事例にとどまることなく、現実の状況における偶然的で雑多な要素を含む「ザラザラとした」実例に向かう必要があるのです。

 社会生活は多種多様な実践から成り立っています。概念分析の社会学を進めていく本書が、主題についても資料の形態についても多様であるのは、このような現実の社会生活の多様性ゆえのことなのです。社会生活を理解するという以上、まずはこの多様性について、それを形作っている実践に固有の組織方法を明らかにすることが必要になるはずです。この作業は、私たち自身がそのつどの実践に携わる際に用いている一連の概念を明らかにしていくことであり、ひいては特定の時代、特定の場所において生きる私たちとその生活の立脚点を——ときにその適切ならざる把握に換えて——改めて捉え直すことと言えるでしょう。

 本書において私たちが目指しているのは、私たちの社会生活が含むこうした多様性に少しでも近づき、その立脚点についての像を得ることなのです。(浦野 茂)

文献
Garfinkel, H., 1967, Studies in Ethnomethodology, Prentice-Hall.
Hutchinson, P., R. Read, and W. Sharrock, 2008, There is No Such Thing as a Social Science: : In Defence of Peter Winch, Ashgate.
Lynch, M., 2000, “A new disease of the intellect?: Some reflections on the therapeutic value of Peter Winch's philosophy for social and cultural studies of science,” History of the Human Sciences, 13(1) /a>, 140-56.
Ryle, G., 1949, The Concept of Mind, Hutchinson. (=1987, 坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳『心の概念』みすず書房.)
Winch, P., 1958, The Idea of a Social Science and its Relation to Philosophy, Routledge.(=1977, 森川真規雄訳『社会科学の理念——ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』新曜社.)

ナビゲーション

ナビゲーション1

ループ効果とマトリックス

 前著、『概念分析の社会学』において定めたねらいは、私たちが自らのあり方や自らの経験や行為を理解するさいに用いている概念の、その用法を記述しよう、というものでした。本書もまた、原則的には、このねらいを引き継いでいます。前著においては、人間を対象とする諸科学において新しい概念が用いられ、私たちの経験や行為の理解の仕方を変えていくような場合をとりあげて、考察しました。こうした現象に照準するために、科学哲学者の I. ハッキングが用いた「ループ効果(looping effect)(Hacking 1995=1998, 1996)という言葉を足がかりに、人間科学の概念とその概念によって記述される人々の間でおこる相互作用に着目したわけです。

 本書の冒頭に掲げられる数編の論文もまた、こうした問題を引き継いでいます。「自閉症」、「単一遺伝子疾患」、「性同一性障害」といった概念は、医療や法の交錯する領域において実際に生きる人びとを名指すために用いられたもので、そして比較的短い期間の間に、その概念が位置づけられる場所が移動してきたものであります。本書の冒頭数編の論文は、そうした概念の連関の移動そのものを記述しようとする試みです。>>続きを読む/閉じる

ナビゲーション2

新しい概念の登場とマトリックス

 本書このパートも、私たちが自らのあり方や自らの行為や経験を理解するさいに用いている概念の、その用法を記述しよう、というねらいをもっている点で前著『概念分析の社会学』を継承しています。そして、このパートは、新しい科学などが、特定の理論、特定の技術、特定の専門職などと結びついて登場し、定着していく様が取り上げられます。とくに、そこで用いられていくことになる新しい概念とどのように折り合いをつけていくか、あるいは様々な概念をどのように組み合わせて新たなものを作り出していくのかといったことが、何らかのかたちの緊張を持った問題として経験される場合に照準があわされています。このことを、再び「マトリックス」(「その中で観念ないしは概念や種が形づくられる社会的な状況」)という考えを用いて見ていきましょう。 >>続きを読む/閉じる

ナビゲーション3

概念の実践学的探求としてのエスノメソドロジー

 本書もまた、前著『概念分析の社会学』から、私たちが自らのあり方や自らの行為や経験を理解するさいに用いている概念の、その用法を記述しよう、というねらいを引き継いでいます。そして、見てきたように、新しい科学が、特定の理論、特定の技術、特定の専門職などと結びついて登場し、定着していくとき、そこで用いられている新しい概念とどのように折り合いをつけていくか、ということは、一定の緊張を持った問題として経験されることがあります。「ソーシャルワークの専門職化」(第5章)「生殖補助医療の標準化」(第6章)「ロングフル・ライフ訴訟の登場」(第7章)「心の理論とその批判」(第8章)といった文脈において生じた問題を、私たちは、つねに新しい問題として経験してきたわけです。>>続きを読む/閉じる

ナビゲーション4

概念分析と相互行為のデータ

 本書には、ビデオデータや音声データ、フィールドノートなどを分析の素材とした論考がいくつも収録されています。そこで分析の対象となっているのは、実際の相互行為の中で、その相互行為への参加者たちがおこなった発話や、用いた身振りや手振りなどです。「概念分析」という本書の主題に照らしたとき、このことを奇妙に思う読者もいるかもしれません。たとえば、「概念分析」を「言葉に厳密な定義を与えること」だと考えるならば、私たちは普段の相互行為のなかでそんなに厳密に言葉を用いていないのですから、その様子を録音録画することにはあまり意味がないと思われるかもしれません。ましてや身振りや手振りなど、概念の分析とは関係がないと思われるかもしれません。けれど、「はじめに」ナビ1~3 でも繰り返し述べてきたとおり、本書のねらいとする概念分析は、私たちが概念のもとで自らの行為や経験を理解するその仕方を描くことです。ここではそのねらいにとって、発話や身体動作の分析がどのような意味をもつのかを述べておくことにしましょう。>>続きを読む/閉じる

おわりに

 幸いにも前論文集『概念分析の社会学』(酒井ほか 2009、以下「前著」と略)が予想外の支持を受け、続編刊行の機会をいただけることになった。とは言っても「無名の執筆陣による・エスノメソドロジー研究の・論文集」という売れる要素がどこにも見当たらないものが普通に売れた1というほどのことではあるのだが、ともあれまずは前著を購入してくださった皆さんに御礼を申し上げたい。

1. 2016年3月末現在、書店には第六刷が並んでいる。

 前著「おわりに」に記したように、もともとこの企画はナカニシヤ出版から編者の一人(酒井)にいただいた単著刊行リクエストに対して──長らく社会学を愛好してきた者の一人として、この学に多少なりとも恩返し的なことをしてみようとの考えから──出版社の意向を曲げるかたちで応えたものである。前著では、そこで私がエスノメソドロジー(以下EMと略)を選んだ理由については述べる余裕がなかったから、本書ではそこから話を始めよう。>>続きを読む/閉じる

 私のような門外漢にとって、社会学の面白さは、その知見が抽象性と具象性を兼ね備えたかたちで提示されるところにある(どちらかだけであれば、他に相応しい学科やジャンルを当たればよいが、両者を自覚的に・同時に追求している分野はそんなにはない)。だから本書を最初に構想した際にも、この特徴を中心に据え、かつ職業研究者たちには手の出しにくいやり方で応えるのがよいだろうと考えた。ところで、社会学の具象性は、それが経験的な学を目指している──したがって何らかの具体的な資料やデータにもとづいて議論が展開する──ところに由来するのだろうし、抽象性の方は、拠り所となる制度的基盤──たとえば政治学にとっての国家、経済学にとっての市場のようなもの──を持たず、非定型的なものや一時的なもの、通常は重要だとは見なされないありふれたものまでも含めた様々な、あまりにも多様な事柄を扱わなければならないところに由来するのだろうと思う。ところで後者は、伝統的には主として「理論」という形をとってきた2。しかしもし抽象性の由来が上述のところにあるのであれば、それには別の仕方でも対応できるはずである。そして実際、EMはその実例を与えている3のであるが 、それが「別の仕方での対応である」ということこそ、これまで標準的な社会学がEMを適切に評価することを妨げてきた理由の一つなのだろうと思う。だとするとEMは、〈社会学の核心に関わり かつ 社会学者には取り上げにくいもの〉だといえる。これが選択理由の片面である。

2. こうした事情を外から眺めた報告として バーク1986 を挙げておく。
3. 多くの事柄について広く通用する(という意味で一般性を持つ)整合的な主張群を研究者が獲得することが理論構築の課題であるが、EM研究は別の方向へと進む。つまり、社会学者たちを理論構築に取り組ませることになる課題が、もともとは社会学の研究対象の側で取り組まれている課題に由来することに注目し、それによって、それを単なる研究者にとっての課題として扱うのを辞めるのである(後述)

 他方、EMの方に目を転じると、そこには別の事情があった。輸入期をある程度過ぎて以降、日本のEM者たちは「様々な事象を実際に分析できる」ことを売りにしてきたように見える。もちろん、この方針は健全かつ重要なものだ。だがおそらく、それだけではプロモーションやリクルーティングには向かなかったのである。というのは、これまでのところ結果として得られたのは、「確かに分析らしきことができているようではあるが、何をしているのか・何の意味があるのか分からない」というパブリック・イメージであったようだからである。だとするとここには、もっぱら「実際に分析できる-ことを示す」ことに注力せざるを得ないEM研究者たち自身には手の出しにくいプロモーションの仕事があると考えてよいだろう。これが選択理由の裏面である。

 管見の限り、社会学のなかにEMと同程度の水準で具象性を備えた抽象性を追求している流儀はなく、しかし──私にとっては幸いなことに──そのことは社会学の内部で見逃され続けてきた。ならば自ずと為すべきことも決まる。すなわちEM研究がもともと備えている抽象性──その研究を支えている理屈4──に定位したプレゼンをおこなえば、それがそのまま社会学への貢献にもなるはずだ。

4. とはいえEMの場合、理屈をそれだけで手際よくまとめて見せればよい、というわけにはいかない。私個人の経験からいっても、EMの難しさは、単に理屈の難しさだけによるものではなく、その理屈が個別の分析のどこにどのように働いているのかを見て取ることの難しさだと思うからである。編者が執筆者たちに要求できるのは、理屈の明快な定式化を具体事例の分析とセットで提示することまでであり、両者を照らし合わせる形で個々の論文の組み立てを読み解いていく作業は読者に一つ一つおこなっていただくしかない。

 そうしたわけで前著では、

  • EMのパブリック・イメージを形作ってきた会話分析とは異なるタイプの研究に(も)取り組んでいる中堅の研究者たちに集まってもらい、やや多めの紙幅を使って、こうしたタイプの研究群の輪郭を見てとれるよう提示することを目指した。その際、
  • すでに参加者たちの一部が注目していたイアン・ハッキングの「人々をつくり上げること(making up people)」という研究プロジェクトを取り上げ、ハッキングの仕事から会話とは異なる対象の分析のやり方を学びつつ、改めてEMの研究方針について、ごく基礎的なことから再確認してもらった。そして数年にわたる研究会でのやり取りをへて、
  • EMの研究方針に できる限りシンプルで明快で抽象的な表現を与えて欲しいという私のリクエストに対して、「概念連関をたどることによる実践の記述的解明(=概念分析の社会学)(以下Cと略す)という回答が与えられた、

というわけである。

 ところで、こうした狙いをもった論文集を実際に刊行してみると、

「EMが何なのか分からなくなった」
「これのどこがEMなのか。会話分析と違いすぎる」
「言説分析とどう違うのか分からない」
「このやり方では会話分析のような精緻な分析はできないだろう」

といったたくさんの反響をいただくことになった。そうであるからには、前著の試みはまったくおかしなものであったか、それともこれまでEMにきちんとは出会ってこなかった人たちにまで届いたかのどちらかだろう。しかし反応の内容は私の当初からの狙いとぴったりと噛み合っているのだから、後者であることの方がもっともらしい。つまり前著は低い水準で成功したということなのだろうと思う 。以下、こうした反響も振り返りながら、前著と本書との関係について γ α β の順に述べてみよう。

5. なにしろ、「分かっていなかった」ということが分かることは学習の重要なステップなのだから、これはこれで重要な貢献だろう。

γ 概念分析の社会学という方針について

 EMの方針に抽象的定式を与えるという課題6について考えるには、注2で述べたことに立ち返るのがよい。EMは、「一般性」を、単なる研究者にとっての課題として引き受けるのを辞め、その代わりに研究対象が備えている一般性の方に定位する。それは、〈他の状況でも使用できる(という意味で一般的な)能力や道具や装置その他の資源を、或る特定の状況に適ったやり方で使うことによって、その状況に適切に参加し・そこに固有の課題に取り組む〉ということが、その状況の参与者たち自身にとっての課題であることから生じるものである。そこでEM研究は、〈特定の状況への参加者たちが、どのように状況を──物や場所時間を、そしてまた人々を──分節化し、その下でどのような実践を産出するのか〉を、〈一般的に使えるもの-の-個別的な状況に適った使い方〉というペアを切り離さずに取り出してくることによって、解明していこうとする。だからEM研究の抽象性は、我々の社会生活がもともと備えている抽象性に、その出所と権利を持っているのである。

6. 当然ながら、「EMとは何か」への回答はいくつ試みられてもよい。回答が複数得られた際には、それらの相互関係が問題となるだけである。我々のバージョンの回答は、いわゆる「ウィトゲンシュタイン派」と呼ばれる流儀に倣ったものである。
 なお、我々が用いた「概念分析」という表現は、直接にはピーター・ウィンチを典拠としているのだが(「はじめに」文献 Winch 1958=1977)、まことに遺憾なことに前著ではこの点を記し忘れた。ウィンチの語用と分析哲学者の通常のそれとの関係は20世紀イギリス哲学史に属する論点だろうが、これについては、現時点では私の友人の哲学者たちにも不明な点が多いようであり、今後の研究が俟たれるところである。

 我々の社会生活における個々の営みは──不可能でも必然でもないという意味で──偶然的であり、分節化の方も──状況に応じて、また歴史的に変わり得るという意味で──偶然的である。しかし、個々の状況における分節化は個々人が勝手に行うことが出来るものではなく、その下での諸実践に対して可能性条件の位置にある7(歴史的アプリオリ)。Cに謂う 概念連関をたどる とは、この 分節化の把握 を意味している8のであり 、Cを継承しているという点で本書は前著の続編なのである。

7. この〈偶然的なもの-と-その産出の可能性条件〉、〈偶然的な実践-と-それが生じる可能性空間〉という組み合わせに相当するものは、様々な社会学理論に見て取ることが出来る(例えばルーマンの〈作動/システム構造〉のペアのように)。異なるのは、その「可能性」の性格の特徴付けであり(例えばルーマンの「システム構造」は意味的に分節化される予期という特徴を持つ)、したがってこの抽象水準に定位すれば かなり多くの社会学的議論を系統的に比較できる筈である。そして前著と本書の刊行によって私が訴えたかったのは、EM研究もその水準で読まれ・検討されるべきだということなのであった。
8. この点については「はじめに」やナビ4においても解説したが、こうした言葉づかいをとらえて、「EM研究は言語に偏重している」とか「そのやり方では非言語的なものは捉えられない」といった批判を受けることがしばしばある。こうした論難が行われるときに、言語についての常識的な直観がそのまま議論の資源として持ち込まれているように見えるところがまずは気になるが、それをさておくとしても、こうした論題については──〈言語的/非言語的〉のような制御の難しい空虚な区別を振り回すのではなく──、「どのようなデータが入手可能・利用可能なのか」・「データから得られる知見の身分はどのようなものなのか」といった方向で争論を組み立てたほうがよいように思う。

α 論考の主題と資料の多様性について

 本書では、「会話分析以外の」という制約を取り払うとともにゲストも加えて執筆者をほぼ倍増した。これについては二つのことを述べる必要がある。

 一方では。抽象水準を上げて方針を定式化してみると、Cは社会学内外の様々な研究においても(しばしば目立たないかたちで)行われていること・行うことが可能であること9が視野に入ってくる。今回は、そうした可能性を掘り起こすために、加藤秀一・北田暁大の両氏を招き、彼ら自身の仕事を方針Cのもとでおこなうよう試みていただいた10。他方では。今回は、録画データを主要資料とする若い世代の研究者などにも声をかけ、やや少ない紙幅で、研究の拡がりをカタログ的に示すことにした。後者についてもう少し補足しておこう。

9. EMはその方針を明示的・反省的・組織的に追求しているだけだとも言える。もちろん、探究を組織的に行うか否かは小さなことではないが。
10. 私の見立てでは、標準的な社会学とEMとの位置関係に照らすと、北田さんは より社会学に近いところ、加藤さんは より遠いところにおり、今回両氏が実例を提示してくれたことで、社会学の中にEMとのコンタクトポイントが かなり広範に存在することを示すことができたと思う。

 会話分析は、会話のターン毎のステップに着目した分析を行うことで豊かな成果を上げ、それによってEM研究群の中心に位置してこの分野の研究を牽引してきた。ところがその成功の影でその研究方針の方はしばしば見逃され、〈EMは会話(という特殊な対象)のみを扱うものであり、またそれのみに通用するものだ〉という印象も生じてしまった。だから前著で我々は、それ以外のタイプの資料に拠り・それ以外のタイプの実践を扱った論考を揃えたうえで、研究方針とセットで提示したのである。しかし一旦そうしたからには、次には、様々なタイプの資料を使った研究が同様の方針の下で行われていることを示すのがよいだろう。そんなわけで本書では、資料や対象に関する制約を取り払い、代わりに方針Cにより鋭く定位して分析を提示するよう注力してもらうことにした。

 資料タイプの違いを超えた方針の統一性の如何についてはナビ4でも触れたから、ここではそれを踏まえて前掲の懐疑的な反響いくつかについて考えてみたい。「概念分析の社会学」とは、対象である社会的実践(活動や行為)の研究を行う際に概念連関に照準することを述べたものだった。他方、「会話分析」という語は、分析の対象が会話という活動であることを述べているだろうし、「言説分析」のほうは、分析のための資料が「話されたり書かれたりものの痕跡」であること──もしくは、そうした資料を遺すことになった諸実践が分析の対象であること──を述べているだろう。語「概念分析」は資料タイプについては何も述べていないのだから、用いる資料が「言説分析」のそれと重なりうることに何の不思議もない。またもし資料の特徴を話題にしたいなら、会話分析については録音録画データとその扱い方を取り上げるべきだろう。単にこうした事情だけから言っても、「概念分析」と「会話分析」や「言説分析」とを並べ、比較観点も示さずに同じだとか違うとか云々するのは比較のやり方を誤っているのである。

 ちなみに、「テクストの分析は会話分析と同様にはできないのではないか。会話分析のような精緻さは期待できないのではないか」といった趣旨の疑問・質問は、前著刊行以降様々な機会に特に繰り返しいただいたものである。疑問者たちによれば、こうした疑念が生じるのは、読み書きにおいては、お喋りの場合よりも、たとえば受け手の不確定さや理解の不確定さが大きいからなのだという。これについて論じるべき事柄は多いが、手短に述べられることだけに絞って述べてみよう。

 こうした疑問が生じるのは、分析対象と分析を切り離したうえで分析だけを複数並べ、比較しているからである。確かに お喋りと読み書きは相当に異なる活動であって、たとえば お喋りにおいて参加者たちは、非常に短いタイムスパンで──順番交代を含む──たくさんのことを行わなければならないのに対し、読み書きの場合はそうではない。だからそれに応じてお喋りの分析の方も、短い時間内に生じるたくさんのことを追う──という意味でなら読み書きの分析よりも精緻な──ものになるのは当たり前である。ところで、もし読み書きという実践が疑問者のいうような特有の難しさをはらむものなのだとしたら11、それは分析者にとってよりも前に まず参加者たちがすでに直面しているはずのことであり、そうした実践が まさにそのように成立するための契機にもなっているだろう。だから、あるタイプの資料の分析の難しさが もともと研究対象の側にある難しさに由来するなら、それは研究に対して困難だけでなく指針をも──その対象が成立しているあり方に応じてその対象を分析せよ(→ナビ1 p.xx)──与えてくれるはずなのである。分析結果だけを取り上げて精緻さを比較するなら、こうしたことのすべてを無視することになる。

11. 「発話の宛先をどのように選び・示すか、そのためにどのように発話をデザインするか」というのがお喋りの参加者たちに恒常的に付きまとう問題であることを想えば、また我々が、多少なりとも込み入った話をしようとする際に、内容次第で或る場合には対面のやり取りを、また別の場合には文書でのやり取りを選ぶことを想えば、疑問者たちのこうした前提自体も怪しいように思うが。要するに常識的に考えて、「精緻さ」も一枚岩ではないのである。というだけでなく、その都度の場面においてどの程度の「精緻さ」が必要なのかということからしてすでに参加者たちの問題なのだから、それはそのようなものとして取り上げて分析すべき事柄であるはずだ。

β 「人々を作り上げること」プロジェクトについて

 前著で我々が参照した科学哲学者イアン・ハッキングの研究プロジェクト「人々を作り上げること」(以下MPと略す)は、『何が社会的に構成されるのか』(ハッキング 2006)や『歴史的存在論』(ハッキング 2012)などに述べられているように、もともと二つの研究関心を織り合わせたところに生じたものである(以下、両書の参照箇所を 略号 SC・HOと邦訳頁で示す)。一つは、ミシェル・フーコーに発する近代的な個人──何かを識り・他人に働きかけ・規範のもとで自らを律するなかで成立する自己──の登場に関するものであり、それは様々な文献においてしばしば「主体化」なるジャーゴンで呼び馴らわされている[HO 3]。もう一つは、ネルソン・グッドマンに発する「概念変容」に関する関心であり、「新しい種類[~分類]はどのように存在するようになるのか」とか、「我々はどのように新しい種類[~分類]を選び編成するのか」といった問いに関わるものである[SC 282]。両者は〈或る種類の人間であること-が備えている-可能性の空間〉という焦点によってブリッジされ、ここにフーコー的な主題へのグッドマン的な観点からのアプローチが成立する。

 我々が何者であるかという問いは、われわれがこれまでにしてきたこと、今していること、これからすることのみを問うているのではなく、われわれが過去に何をしえたか、今そしてこれから何ができるかをも問うているのである。「人々を作り上げる」ことによって、「ある人物であること」の可能性の空間自体が変容するのだ。[HS 223]

 そして、ハッキングは、この「可能性の空間」に照準しながら、児童虐待や多重人格や肥満といった様々な実例に即した研究を進めてきたのである。──と、ここまでのところは上掲両書を併せ読めば簡単に確認できる。それを指摘した上で考えてみたいのは、前著にいただいた次のようなコメントである:

  • 前著論考には、専門的知識が変更されないものが含まれている。そこではループは生じていないのだから、この論文集には相応しくない。
  • 分類の被適用者から分類提供者へのフィードバックが起きたかどうかを確認するには詳細な資料が揃っていなければならない。だからループ効果の研究は一般に難しく、このプロジェクトの射程は限られたものだ。

 これらの主張には、

  • MPや「ループ効果」に関する研究は、「歴史上のある時点において、人間の制作やループが事実として生じたかどうか」を資料によって確かめることを目標にしている

という前提があるだろう。しかし前著においても本書においても、我々は こうした見方はとっていない。たとえば前著において我々は、「ループ効果」について、

人々の分類・記述に用いることができる専門的な知識や概念や方法が日常生活に提供され、分類・記述された当の人々によって、それらの分類・記述が、引き受けられたり・拒絶されたり・書き直されたりするといった現象のことを指す言葉 [前著 70]

 だとまとめた上で、こうした現象を研究する際に注目できるポイントを次のように下位分類した:

[p] 人間に関する科学的・専門的な概念は、どのようにしてその意味を獲得し、日常生活との関連性を持ちうるのか。
[q] 人間に関する科学的・専門的な概念が日常生活に入り込んでくるとき、そこでどのような経験の可能性が生じるのか。
[r] 新たな経験にもとづく知識は、専門的な知識にどのような効果をもたらしうるのか。[前著 70]

こう記した際に前提としているのは、MPが可能性に関する研究だということである 。ところが上掲のような疑問は、まさにこのことを踏まえてらず、しかも r のことしか話題にしていない。ここでハッキング解釈について争うつもりはないが、少なくとも、可能性に定位した我々の方の議論は、たとえば、「MP を研究する際に、r が生じなかった事例を取り上げてもよいし、r に焦点化しなくてもよい」と考えるくらいには初めから柔軟に組み立てられているのである。

12. pqr のどれも、「ある人が・特定の状況において・どのような誰で有りうるか」という可能性に関わっているのである。

 もう一つ重要なことがある。ハッキングのMPのうち、たとえば「自分に対する分類の使用」や「人間に関わる専門的な知識」といった契機の方はフーコー的な関心──「自己」や「未成熟な科学」──に対応しているだろうし、「新たな分類による経験や行為の可能性の変容」といった契機はグッドマン的関心に対応するものだろう13。そして前著においては我々も、これらの契機をゆるやかに共有したのである。ところで、こうした契機の一つ一つについてバリエーションを考えてみると、かなり広大な研究スペクトルを考えることができる。つまりたとえば「専門的ではない」知識・分類に関する研究、「他人に関する」分類や「人ではないもの(~物や場所時間など)」の分節化についての研究、あるいはまたそもそも「可能性が変容しない」現象に関する研究などなど14。こうした研究はすべて、MPを取り上げる時と同じ姿勢で行える15。そう考えれば、ある研究がMPに属するかどうかは、こうした研究スペクトルの中における強調点の違いだと言えるし16、これが前著と本書の関係にも相当する。本書の論考には、前著と同様にMP的契機に注目したものもあれば、そうでないものもある。しかし後者も、前著のそうした契機は踏まえたうえで、それと関連付けが可能な仕方で仕事を進めているわけである。

13. グッドマンが「変容」について詳しい議論をしてくれないことに不平を述べた箇所で、ハッキングがまた──通常の哲学の流儀とは異なって──特に「詳細な具体例」、しかも「千年かかった進化の事例ではなく、ここ二、三十年の進化の事例」[SC 282]を要求していることは(彼が別の研究テーマにおいては──通常の哲学の流儀と同様──思考実験などを使った論文を書いていることと併せて)強調しておいてよい。「可能性の変容」は、一般的な類型が成立するかどうかも怪しいような、そして常人の追想や想像力では追いつかないような、複雑な仕方で生じるのである(→ナビ4)。当然ながら我々はこの箇所に、ハッキングの哲学的・概念的な議論と、社会学のような経験的研究分野との最初のコンタクト・ポイントを見ているわけである。
14. ハッキングがMPプロジェクトに注力したのは、人間に関わる科学が日々「新しい分類」を提供しており、それが人間に関わるものであるがゆえにループ効果が生じやすく、したがって「種類の制作」というハッキングにとっての端緒的な哲学的問題を検討する際に、そうした現象に注目することが好便だったからである。しかしまたそうした状況においてしばしば、関与者たちにとって非常に切実な──したがって学問的に取り上げてよい──道徳性を帯びた問題が生じるからでもあった。とはいえ切実な問題は専門的な知識によってだけ引き起こされるわけではないし、また社会学はもっぱら切実な問題だけを取り上げるべきだなどということもないだろう。
15. ついでに言えば我々はだから、ハッキング自身が巻き込まれた「自然種と相互作用種は完全に区別しきれるのか」などなどといった哲学的な議論にはまったく関知しない。というのは、仮にこうした点についてどのような決着がついたとしても、社会学者が行うべきこと・できることは変わらないからである。そして、この点について(社会学にとって)もっとも重要なのは、こうした哲学的問題が解決されなくても、社会学の仕事はまったく問題なく進められる、ということだろう。
16. たとえば、人々を作り上げることは「不運にも選ばれてしまった者だけでなく、われわれ皆に当てはまることなのだ。作り上げられるのは、多重人格者やウェイターといった以前に存在しなかった種類の人々だけではなく、われわれの各々が作り上げられるのである。」[HO 229]と述べるとき、ハッキング自身にもこうした発想はあるように思う。

 前著に関しては、既存の研究伝統における様々な「枠組」との相違を論じて欲しいとの多数のリクエストを受けたが、今回もそれは果たせなかった(それは論文集でおこなう仕事ではないし、そもそも本企画の目標には「新規性ある枠組の提起」は含まれていないのである)。代わりに、本書参加者たちが公刊した関連文献を本稿末尾の「文献2」にリストしておいたので、関心のある方はそちらをあたっていただきたい。私自身は、続編の刊行依頼を受けてまず、もともと前著の企画を準備していたときに(私自身がEMを勉強するために)作った「社会学研究互助会」を復活させ、今回はここで、EM研究に従事しない多数のゲストを招いて前著および関連論考に関する批判的検討を行っていただいた。出版準備研究会と並行して開催したこれらのイベントにおけるゲストたちとのやり取りは、本書各章の執筆に際してもそれぞれに活かされているはずである。ここに登壇者のお名前をあげ感謝の意を表したい(敬称ならびに専攻分野のうち社会学の記載は省略した。* は本書参加者)17

検討対象/会タイトル 登壇者
2011.08.28 第1回 哲学者、エスノメソドロジーに遭う 鈴木生郎(哲学)、井頭昌彦(哲学)
2012.03.03 第2回 小宮友根『実践の中のジェンダー』合評会 加藤秀一*、中里見 博(憲法学)
2012.09.09 第3回 前田泰樹『心の文法』合評会 山田圭一(哲学)、井頭昌彦(哲学)、飯島和樹(神経科学)
2012.12.22 第4回 マイケル・リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』 伊勢田哲治(哲学)、立石裕二
2013.03.20 第5回 小宮友根『実践の中のジェンダー』合評会2 毛利康俊(法哲学)
2013.04.27 第6回 鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』合評会 山根純佳浦野 茂*
2013.09.07 第7回 シンポジウム「making up people──イアン・ハッキングの歴史的存在論」 重田園江(政治思想史)、渡辺一弘浦野 茂*、鈴木晃仁(精神医学史・疾病史)
2014.03.01 第8回 ギルバート・ライルの現象学とエスノメソドロジー 小宮友根*、植村玄輝(哲学)、村井忠康(哲学)
2016.12.25 第9回 ピーター・ウィンチ『社会科学の理念』とエスノメソドロジー 浦野 茂*、山田圭一(哲学)、笠木雅史(哲学)
2012.08.11 番外1 加島 卓「〈広告制作者〉の歴史社会学」合評会 石井幸夫*、竹中 朗(編集者)、野上 元、山本貴光(文筆家)
2014.09.13 番外2 松木洋人『子育て支援の社会学』合評会 萩原久美子小宮友根*
17 この他にも、前著に関連して
  • 2008年度 エスノメソドロジー・会話分析研究会例会(2009年3月、登壇者:浦野 茂*、前田泰樹*、串田秀也)
  • STS Network Japan + 大阪大学グローバルCOEプログラム「コンフリクトの人文学」共催による合評会(2010年1月、登壇者:中村征樹〔科学技術社会論〕、東島 仁〔科学技術社会論〕、酒井泰斗*、中村和生)
  • 応用哲学会ワークショップ「哲学と社会学のコラボレーションのために」(2011年9月2012年4月、登壇者:出口康夫〔哲学〕、二瓶真理子〔哲学〕、山本耕平、浦野 茂*、中村和生*、中河伸俊、前田泰樹*、酒井泰斗、井頭昌彦〔哲学〕)
などを開催していただいた。また紀伊國屋書店では、勁草書房、新曜社、ナカニシヤ出版の協力のもと、前著タイトルを使ったブックフェアを開催していただき、本書のような試みをどのような研究の広がりの中で捉えるべきなのかを示すことができた。

[後略] (酒井泰斗)


文献1
ピーター・バーク, 1986, 『社会学と歴史学』(森岡敬一郎訳, 慶応通信).
イアン・ハッキング, 2006, 『何が社会的に構成されるのか』(出口康夫・久米暁訳, 岩波書店).
イアン・ハッキング, 2012, 『知の歴史学』(出口康夫・大西琢朗・渡辺一弘訳, 岩波書店).
酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生, 2009, 『概念分析の社会学──社会的経験と人間の科学』, ナカニシヤ出版.
文献2
Lynch, M., 1993, Scientific Practice and Ordinary Action: Ethnomethodology and Social Studies of Science, Cambridge University Press. =2012、水川喜文・中村和生監訳『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』勁草書房.
前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編, 2007, 『ワードマップ エスノメソドロジー』新曜社.
鶴田幸恵・小宮友根, 2007, 「人びとの人生を記述する――『相互行為としてのインタビュー』について」『ソシオロジ』52(1): 21-36.
浦野 茂, 2007, 「記憶の科学──イアン・ハッキングの『歴史的存在論』を手がかりに」『哲学』117, 245-66.
前田泰樹, 2008, 『心の文法──医療実践の社会学』新曜社.
鶴田幸恵, 2009, 『性同一性障害のエスノグラフィ──性現象の社会学』ハーベスト社.
石井幸夫, 2009, 「境界の言葉──永井潜著『医学と哲学』について」 『ソシオロジスト』 11, 75-105, 武蔵大学社会学会.
石井幸夫, 2009, 「言語をいかに問うべきか」 『社会学年誌』50, 117-133, 早稲田社会学会.
小宮友根, 2011, 『実践の中のジェンダー――法システムの社会学的記述』新曜社.
前田泰樹, 2012, 「経験の編成を記述する」 『看護研究』 45(4), 311-323, 日本看護研究学会.
石井幸夫, 2013, 「種の曖昧な縁――ハッキングの歴史的存在論について」中河伸俊・赤川学編『方法としての構築主義』勁草書房.
浦野 茂, 2014, 「保健医療分野におけるエスノメソドロジー――診断をめぐるいくつかの論点について――」『保健医療社会学論集』25(1), 10-16, 日本保健医療社会学会.
前田泰樹, 2015, 「物語を語り直す──遺伝子疾患としての多発性嚢胞腎」『N:ナラティヴとケア』6 遠見書房, 84-91.
石井幸夫, 2015, 「歴史の概念分析の分析-記述について」 『ソシオロジスト』 17(1), 123-145, 武蔵大学社会学会.
前田泰樹, 2015, 「「社会学的記述」再考」『一橋社会科学』7: 39-60.
前田泰樹, 2016, 「人間の科学の諸概念に対する社会学的概念分析」平子友長・景井充・橋本直人・佐山圭司・鈴木宗徳編『危機に対峙する思考』梓出版, 56-73.

執筆者紹介

※執筆順

浦野 茂うらの・しげる

慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。三重県立看護大学教授。 >>業績

前田泰樹まえだ・ひろき

一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(社会学)。社会学専攻。東海大学教授。 >>業績

鶴田幸恵つるた・さちえ

東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。博士(社会学)。社会学専攻。千葉大学文学部准教授。 >>業績

喜多加実代きた・かみよ

お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士課程単位取得退学。社会学専攻。福岡教育大学教授。 >>業績

中村和生なかむら・かずお

明治学院大学大学院社会学・社会福祉学研究科社会学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(社会学)。社会学専攻。青森大学准教授。 >>業績

北田暁大きただ・あきひろ

東京大学人文社会系研究科博士課程退学、博士(社会情報学)。東京大学情報学環教授。 >>業績

石井幸夫いしい・ゆきお

早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程単位取得退学。社会学専攻。早稲田大学他非常勤講師。 >>業績

加藤秀一かとう・しゅういち

東京大学大学院社会学研究科Aコース単位取得退学。社会学専攻。明治学院大学教授。 >>業績

森 一平もり・いっぺい

東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。教育社会学専攻。帝京大学講師。 >>業績

五十嵐素子いがらし・もとこ

一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。社会学専攻。北海学園大学准教授。 >>業績
  • 『ワークプレイス・スタディーズ――働くことのエスノメソドロジー』〔共編著〕(ハーベスト社、近刊)
  • 『ペダゴジーの社会学』〔共著〕(学文社、2013年)
  • 「保育実践における子どもの感情経験の取り扱い―エスノメソドロジーの視点から」(『子ども社会研究』第17号、2011年)
  • 「『相互行為と場面』再考―授業の社会学的考察に向けて」(『年報社会学論集』第17号、2004年)、他。

小宮友根こみや・ともね

東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程修了。博士(社会学)。社会学専攻。東北学院大学准教授。 >>業績
  • 『実践の中のジェンダー』(新曜社、2011年)
  • 「評議における裁判員の意見表明―順番交代上の『位置』に注目して」(『法社会学』77、2012年)
  • 「裁判員は何者として意見を述べるか―評議における参加者のアイデンティティと『国民の健全な常識』」(『法社会学』79、2013年)、他。

秋谷直矩あきや・なおのり

埼玉大学大学院理工学研究科理工学専攻博士後期課程修了。博士(学術)。社会学専攻。山口大学助教。 >>業績

海老田大五朗えびた・だいごろう

成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学。博士(文学)。コミュニケーション学専攻。新潟青陵大学准教授。 >>業績
  • 「障害者の労働はどのように「デザイン」されているか?―知的障害者の一般就労を可能にした方法の記述」『保健医療社会学論集』第25巻2号〔共著論文〕(2015年)
  • 「柔道整復師はどのようにしてその名を得たか」『スポーツ社会学論集』第20巻2号(2012年)、他。

酒井信一郎さかい・しんいちろう

立教大学大学院社会学研究科博士後期課程単位取得退学。社会学専攻。兼業主夫。 >>業績

酒井泰斗さかい・たいと

大阪大学大学院理学研究科(物理学専攻)修士課程中退。音楽制作会社を経て現在は金融系企業のシステム部に所属。ルーマン・フォーラム管理人(socio-logic.jp)。 >>業績

催事と反響

本書に関わる催し物、執筆者たちの活動や書評などの情報を掲載します。情報掲載依頼は まで。

催事

2016年10月23日(日)
書評セッションエスノメソドロジー・会話分析研究会 大会

  • 会場: 成城大学
  • 評者: 池谷のぞみ(慶応義塾大学)、平本 毅(京都大学)
  • [詳細]

2016年8月11日(木・祝)
第28回京阪奈社会学研究会

鶴田幸恵が報告「性同一性障害概念の大衆化と非病理化」を行ないます。
  • 会場: あべのハルカス四天王寺大学サテライトキャンパス

2016年8月11日(祝)
『概念分析の社会学2』合評会本郷概念分析研究会

  • 範囲: 全14章のうち10章を選んで
  • 会場: 東京大学本郷キャンパス
  • (非公開)

2016年8月8日(月)
「知る・学ぶ。伝える eaquality」奈良女子大学男女共同参画推進機構と社会連携センター 平成28年度地域貢献事業

鶴田幸恵が報告「性同一性障害概念の変遷――大衆化と非病理化」を行ないます。
  • 会場: 奈良女子大学文学部S棟128教室
  • 詳細

2016年7-9月
『概念分析の社会学2』読書会関西EMCA互助会

  • 範囲: 全14章のうち8章を選んで
  • 開催日: 7月~9月、全四回
  • 会場: 京都府下
  • 詳細

2016年7月30-31日
企画部会
「疾患・障害カテゴリーにおける当事者性と支援」 東北社会学会大会@青森県観光物産館アスパム

  • オーガナイザー 板倉有紀
  • 泉 啓「依存症臨床における「支配する女性」の病理言説──アルコール問題の医療化をめぐる一考察」
  • 喜多加実代「触法精神障害者とカテゴリーの結びつき──誰が当事者になるのか」
  • 鶴田幸恵「「ライフスタイル」としての性同一性障害」
  • 学会WEB頁

2016年6月26日
『概念分析の社会学2』読書会エスノメソドロジー研究会

  • 範囲:第1章、第10章、第14章
  • 開催日:6月26日(日) 時間:13:00~17:30(撤収込み)
  • 場所:放送大学文京学習センター
  • 連絡先:https://twitter.com/ethnoken_toyo/

2016年5~7月
『概念分析の社会学2』を読む 山口社会学研究会

  • 連絡先: 秋谷直矩(山口大学国際総合科学部) akiya0427[at]gmail.com

2016.05.14(土)
ラウンドテーブル
「問題経験の語りと専門的知識」 第42回 日本保健医療社会学会

  • 大会WEB頁RTD趣旨文
  • 登壇者:
    • 企画者・話題提供者: 前田泰樹(東海大学)
    • 企画者・司会者: 酒井泰斗(無所属)
    • 話題提供者: 中村英代(日本大学)、鶴田幸恵(千葉大学)
    • 指定討論者: 浦野 茂(三重県立看護大学)
  • 会場: 追手門学院大学

2016.04.11(月) - 05.31(火)06.09(木)
socio-logic
概念分析の社会学 エスノメソドロジー からはじめる書棚散策2 エスノメソドロジー・ブックフェア

  • フェア紹介ページ
  • 会場: 紀伊國屋書店新宿本店 三階
  • 企画: 酒井泰斗
  • 企画協力: ナカニシヤ出版

反響

短評
  • 京都大学生活協同組合書評誌『綴葉』2016年7月号 No.349「新刊コーナー」
  • 雑誌『精神看護』19巻4号(2016年7月)。
    巻末の「今月の5冊」に短評を掲載していただきました。

誤植と修正

第二刷にて修正

    備考
第01章
017頁l6 身体的・生物の次元 身体的・生物的な次元
第04章
093頁 7-2 保安処分の対象からの精神病質の放棄概念の放棄 7-2 保安処分の対象からの精神病質の放棄と概念の放棄
第05章
079頁 l4-5 ①第1に、過去にもたらされたへの功績(service)への給付であるように思われる ①第1に、過去にもたらされた功績(service)への給付であるように思われる
第13章
259頁 なんとなくなとどいう なんとなくなどという
第14章
283頁 2人はハイラインの最南端口を目指して歩き続きた 2人はハイラインの最南端口を目指して歩き続けた
292頁 フィルドワーク フィールドワーク
奥付
小宮友根 *小宮友根 編者を示すマークが欠けている

索引項目一覧

人名

五十嵐素子、石井幸夫、石岡丈昇、市野川容孝、浦野 茂、岡田靖雄、小川太郎、倉島 哲、小宮友根、立岩真也、鶴田幸恵、西阪 仰、平野龍一、平本 毅、前田泰樹、松浦加奈子、三橋順子、宮坂哲文、森山達矢

アボット、エディス(Abbott, Edith)、アボット、グレース(Abbott, Grace)、アダムズ(Addams, Jane)、ベネター(Benatar, David)、ボトキン(Botkin, Jeffrey R.)、ブレキンリッジ(Breckinridge, Sophonisba )、バージェス(Burgess, Ernest)、クルター(Coulter, Jeff)、イヤル(Eyal, Gil)、ギャラガー(Gallagher, Shaun)、ガーフィンケル(Garfinkel, Harold)、ゲデス(Geddes, Patrick)、ジャートン(Girton, George D.)、グランディン(Grandin, Temple)、ハッキング(Hacking, Ian)、ヒース(Heath, Deborah)、ハスラー(Hustler, David)、フレクスナー(Flexner, Abraham)、フーコー (Foucault, Michel)、フランクフルター(Frankfurter, Felix)、ジュリア・ラスロップ(Lathrop, Julia)、ルーマン(Luhmann, Niklas)、マクベス(Macbeth, Douglas)、ミーハン(Mehan, Hugh)、リンチ(Michael Lynch)、オルテガ(Ortega, Francisco)、パーク(Park, Robert)、パーフィット(Parfit, Derek)、ラップ(Rapp, Rayna)、リッチモンド(Richmond, Mary)、ローズ(Rose, Nikolas)、サックス(Sacks, Harvey)、シンドラー(Schindler, Larissa)、シェグロフ (Schegloff, Emanuel A.)、シャロック(Sharrock, Wes)、シンガー(Singer, Judy)、タウシッグ(Taussig, Karen-Sue)、テデスキ(Tedeschi, Guido)、テオグニス(Theognis)、アーリ (Urry, John)、ヴァカン(Wacquant, Loïc)、ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein, Ludwig)、ウィング(Wing, Lorna)、ウィンチ(Winch, Peter)、ズウェブリン(Zueblin, Charles)

事項

概念、概念の論理的地形、概念的混乱、概念分析、概念分析の社会学、概念の用法、概念連関、概念対、概念の適用範囲 種・種類[kinds]、相互作用(する)種類 [interactive kinds]、自然種 [natural kinds]、無関心な種類 [indifferent kinds] 対象の構成、 論理(的)、記述の論理、実践の論理、論理文法、 方法、記述の方法、実践の方法、テクストを組織する方法、実践を組織する方法、実践を理解できるものにする方法、資料の解釈方法[documentary method of interpretation]、教示の方法、説明の方法、方法的手続き、方法的知識、方法の固有妥当性要求 [unique adequacy requirement of method]、 経験、経験科学、同じ病の経験、カテゴリーと結びついた経験、経験に基づいた知識、経験の語り、経験の所有、経験的素材、経験的研究、 可能性、理解の可能性、行為の可能性、選択の可能性、活動の可能性、可能性の空間、予期の共有可能性、予期失敗の記述可能性、知覚の可能性、実践の可能性、論理的可能性、 再記述、 会話分析、連鎖 [sequence]、行為の連鎖、IRE 連鎖、 非優先的、エスノメソドロジー、見る者の格率/聞く者の格率、 成員カテゴリー [membership category]、成員カテゴリー集合、成員カテゴリー化装置 [membership categorization device、MCD]、 資源 [resources]、 測定のシステム [measurement system]、 推断を構成するマシーン [inference making machine]、 エスノグラフィ、ワーク、関連性 [relevance]、 オムニレリヴァント [omnirelevant] 教示 [instruction]、 道徳、常識(的)、常識的知識、常識的理解、常識的概念、 常識モデル、 ループ効果 [looping effects] マトリックス [matrix] 未熟な科学 [immature science] 人間(の)科学、 医療化、診断、DSM [Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders:精神疾患の診断と統計マニュアル]、心神喪失者等医療観察法(医療観察法)、存在と非存在の比較