酒井泰斗プロデュース「socio-logic ─ 〈概念分析の社会学(エスノメソドロジー)〉からはじめる書棚散策2」紀伊國屋書店新宿本店ブックフェア(2016年4月11日~)

『概念分析の社会学2』

 このページは、ブックフェア socio-logic をご紹介するために、WEBサイト「日曜社会学」の中に開設するものです。

 本ブックフェアは、2016年4月~5月、ナカニシヤ出版の企画協力を得て、紀伊國屋書店新宿本店3階にて開催しました。フェア開催中、店舗では 選書者たちによる解説を掲載した24頁のパンフレットを配布しました。このWEBページでも その内容の一部を公開しています。紀伊國屋書店ナカニシヤ出版にもフェア特設ページが開設されています。あわせてご覧ください。

 このフェアはエスノメソドロジーの研究論文集『概念分析の社会学2』刊行にちなんで開催されるものです。本シリーズについては書籍紹介ページをご覧ください:

なお別の年にも、本フェアと同様の趣旨の下記ブックフェアを開催しています。そちらの紹介ページもご覧いただければ幸いです:
更新情報
2016.12.22
「07. ポルノグラフィ」(小宮友根)の選書と解説文を掲載しました。これですべての項目が掲載されました。
2016.12.10
「09. 生殖補助医療」(石井幸夫)の選書と解説文を掲載しました。
2016.11.26
「02. 人種と集団」(浦野 茂)の選書と解説文を掲載しました。
2016.06.10
昨日、フェア無事終了いたしました。たくさんのご来場ありがとうございました。
2016.06.08
「05. 性同一性障害」(鶴田幸恵)の選書と解説文を掲載しました。
2016.06.03
「03. 神経多様性」(浦野 茂)の選書と解説文を掲載しました。
2016.05.29
なんと。会期延長となりました。沢山の方のご来場に感謝いたします。本日の紀伊國屋書店さん曰く:
人文書コーナー特設棚、酒井泰斗さんプロデュース企画「概念分析の社会学からはじめる書棚散策2」フェアですが、多くのお客様からのご要望に応じて、6/9(木)まで開催延長させていただきます。品切書籍の期間中再入荷は難しいので、是非お早目にご来店下さい。 [19:18]
2016.05.26
ブックフェアも残すところあと5日となりました。本日は、「10. 優生学」(石井幸夫)の選書と解説文を掲載しました。
2016.05.20
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
人文コーナー特設棚の「概念分析の社会学からはじめる書棚散策2」フェアは5/31までの開催でして、残すところ2週間を切りました。なかなか棚に並ばない希少な洋書もございます。ぜひ、一度手に取ってご覧くださいませ。現時点での売上ランキングをご紹介します。 [15:31]
フェア売上
  1. 『概念分析の社会学2』(ナカニシヤ出版、2016)
  2. 『概念分析の社会学』(ナカニシヤ出版、2009)
  3. 『社会福祉学の〈科学〉性』(勁草書房、2007)
  4. 『「知」の欺瞞』(岩波書店、2012)
  5. 『エスノメソドロジー』(新曜社、2007) [18:48]
2016.05.19
ブックフェアも残すところあと12日となりました。本日は、「06. 精神障害と司法」(喜多加実代)の選書と解説文を掲載しました。
2016.05.12
ブックフェアも残すところあと19日となりました。本日は、「08. ソーシャルワーク」(北田暁大)の選書と解説文を掲載しました。
2016.05.06
「12. 心の哲学と社会学」(中村和生)の選書と解説文を掲載しました。
2016.05.04
「11. 誕生と死の形而上学」(加藤秀一)の選書と解説文を掲載しました。
2016.05.02
本日からフェア四周目に入ります。今週もどうぞよろしくお願いします。
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
先週のランキングは、①『概念分析の社会学2』ナカニシヤ出版、②ソーカル/ブリクモン『「知」の欺瞞』岩波書店、③ハッキング『偶然を飼いならす』木鐸社、③サックス他『会話分析基本論集』世界思想社でした。[18:37]
GW突入後、今まで売れてなかった書籍も売れ始めてまいりました。遠方からいらっしゃるお客様がたも多いよう様子。まことにありがとうございます。随時補充をかけ、品切本は最小限におさえました。ぜひ一度ご来場下さい。[18:39]
2016.04.28
「13. 科学社会学」(中村和生)の選書と解説文を掲載しました。ゴールデン・ウィークはぜひ会場へ足をお運びください。
2016.04.25
本日からフェア三周目に入ります。今週もどうぞよろしくお願いします。
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
新宿本店独占先行入荷していた『概念分析の社会学2』(ナカニシヤ出版)ですが、グランフロント大阪店にも通常入荷いたしました。ぜひ関西の方も手にお取りくださいませ。 [18:48]
フェア売上冊数累計順位は、
  1. 『概念分析の社会学2』ナカニシヤ出版
  2. 『社会福祉学の〈科学〉性』勁草書房
  3. 『職場のLGBT読本』実務教育出版
  4. 『科学が作られているとき』産業図書
  5. 『〈個〉からはじめる生命論』NHK出版
他同売上2種です。 [18:47]
2016.04.22
「16. 裁判員制度」(小宮友根)の選書と解説文を掲載しました。
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
初週で売れた品の再入荷が始まっています。まさかの初日品切となった洋書 Ethnomethodology at Play が再入荷。ぜひお早めにF26棚へおいで下さいませ。[10:24]
2016.04.18
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
二週目に入りました。入荷遅れの品が数種入ってきており、初日と大分雰囲気が変わっています。一度訪れた方も、よろしければぜひ再来店くださいませ。[12:32]
一週目のランキングは、
  1. 『概念分析の社会学2』
  2. 三島亜紀子『社会福祉学の〈科学〉性』
  3. ラトゥール『科学が作られているとき』
  4. ウィンチ『社会科学の理念』
でした。[12:37]
2016.04.15
「14. 教示と学習」(五十嵐素子)の選書と解説文を掲載しました。
2016.04.14
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
出版社のご尽力で中里見 博『ポルノグラフィと性暴力』(明石書店、2007)が若干数限定入荷。お早目に。[16:12]
エスノメソドロジー・会話分析研究会の「会員の著作紹介」コーナーに、書籍紹介頁が掲載されました。
2016.04.13
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
本日ご紹介する在庫僅少本は、井上俊『武道の誕生』(吉川弘文館、2004)。文明開化の時代、武士階級と結びついていた武術は、存続をかけ模索を試みる。複雑な事情を持った武道の歴史を探る一冊。[19:06]
2016.04.12
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
次に紹介する希少本は米沢泉美『トランスジェンダリズム宣言』(社会批評社、2003)。表紙に不備がある状態なのをご了承下さいませ。[11:40]
ウィンチ『社会科学の理念』が品切に、再入荷絶望的。原書"The Idea of a Social Science and Its Relation to Philosophy"は在庫有。[11:07]
2016.04.11
本日の紀伊國屋書店さん曰く:
今回の在庫僅少本目玉は、ピーター・ウィンチ『社会科学の理念 ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』(森川真規雄訳、新曜社、1977)。各地から少部数調達しました。先着順ですので品切時はご了承下さい。[09:27]
既に多くのお客様にご覧いただいております。本日「観光と視覚メディア」項目参考文献 Ethnomethodology at Play が品切となりました。再入荷時はご連絡いたします。[15:28]
2016.04.11
ついにブックフェア開催日となりました!
紀伊國屋書店新宿本店ではフェア会場にて『概念分析の社会学2』を先行販売していますが、一階にも平積みで置いていただいているそうです。ぜひご来場ください。
フェア紹介ページのほうには 下記項目を掲載しました。
2016.04.08
いよいよ週明け11日からブックフェアスタートです。 紀伊國屋書店とナカニシヤ出版のWEBページにも、ブックフェアの特設ページをつくっていただきました。 なお、すでに紀伊國屋書店新宿本店には『概念分析の社会学2』が全国に先駆けて数冊入荷したとのこと。店頭で購入できるそうです。
2016.04.07
「15. 授業と学級」(森 一平)の選書と解説文を掲載しました。
2016.04.04
「17. サービスデザイン」(秋谷直矩)の選書と解説文を掲載しました。
2016.04.01
「18. スポーツと格闘技」(海老田大五朗)の選書と解説文を掲載しました。
2016.03.30
ページを公開しました。
2016.03.27
下記項目の選書と解説文を掲載しました。
2016.03.10
下記項目の選書と解説文を掲載しました。
2016.03.08
ページ制作を開始しました。
socio-logic──概念分析の社会学からはじめる書棚散策2 - はてなブックマーク数

書籍リストの構成と担当者

  1. 01. イントロダクション
      ──実践の社会的論理
    (浦野 茂)
  2. 02. 人種と集団(浦野 茂)
  3. 03. 神経多様性(浦野 茂)
  4. 04. 遺伝学と病いの語り(前田泰樹)
  5. 05. 性同一性障害(鶴田幸恵)
  6. 06. 精神障害と司法(喜多加実代)
  1. 07. ポルノグラフィ(小宮友根)
  2. 08. ソーシャルワーク(北田暁大)
  3. 09. 生殖補助医療(石井幸夫)
  4. 10. 優生学(石井幸夫)
  5. 11. 誕生と死の形而上学(加藤秀一)
  6. 12. 心の哲学と社会学(中村和生)
  7. 13. 科学社会学(中村和生)
  1. 14. 教示と学習(五十嵐素子)
  2. 15. 授業と学級(森 一平)
  3. 16. 裁判員制度(小宮友根)
  4. 17. サービスデザイン(秋谷直矩)
  5. 18. スポーツと格闘技(海老田大五朗)
  6. 19. 観光と視覚メディア(酒井信一郎)

趣旨:はじめに

2016.4.11(月) 9時、紀伊國屋書店 撮影

そこで何が行われているのか。それは如何にして可能なのか[★]

 社会学の一流儀であるエスノメソドロジー(EM)は、このシンプルな問いを、様々な場において、その場で行われていることに即して、丁寧に跡づけていこうとするものです。
 一方でエスノメソドロジーは、研究者がその都度注目している場面において、そこに参加している人たちがどのように──他の局面でも使えるだろう一般的な仕掛けを/しかしその場特有の事情に合わせて用いながら──お互いの行為や活動を編みあげていくかを捉えよう[●]とします(これは、なるべく多数の現象・行為・活動に当てはまる──という意味で一般的な──知見の獲得を目指そうとする通常の社会科学の流儀とはずいぶんと違います)
 他方でエスノメソドロジーは、取り組んでいる課題と方針のシンプルさゆえに、多様な現象に広くアクセスしていける普遍性と柔軟性を持っています。
 エスノメソドロジー研究のこうした特徴を書籍遊猟者たちにも利用していただこうという趣旨のもと、私たちは2014年にも、ブックフェア「実践学探訪」を開催しました。同様の趣旨で今回は、論文集『概念分析の社会学』『概念分析の社会学2』の執筆者たちに、各章の主題に関係する書籍を選書してもらいました。
 各項目が関連する書棚にある他の書籍と比較しつつ、各章との違いを読むとともに、方針に乗っかりながら別の本棚にもアクセスしてみる。そんなふうに、いつも立ち寄る書棚を違った眼で眺めたり、いつもは立ち寄らない棚に寄り道してみたりするために、このブックリストを利用していただけたら幸いです。(酒井泰斗)

概念分析の社会学
社会的経験と人間の科学

酒井 泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生編
ナカニシヤ出版、 2009年
概念分析の社会学2
実践の社会的論理

酒井 泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生・小宮友根 編
ナカニシヤ出版、 2016年
  • 第1章 類型から集団へ
  • 第2章 遺伝学的知識と病いの語り
  • 第3章 医療者の〈専門性〉と患者の〈経験〉
  • 第4章 触法精神障害者の「責任」と「裁判を受ける権利」
  • 第5章 「被害」の経験と「自由」の概念のレリヴァンス
  • 第6章 化粧と性別
  • 第7章 優生学の作動形式
  • 第8章 科学社会学における「社会」概念の変遷」
        ※詳細目次
  • 第1章 「神経多様性」の戦術
  • 第2章 新しい分類のもとでの連帯
  • 第3章 性同一性障害として生きる
  • 第4章 触法精神障害者と保安処分の対象
  • 第5章 彼女たちの「社会的なものthe social」
  • 第6章 生殖補助医療を標準化する
  • 第7章 〈誤った生命〉とは誰の生命か
  • 第8章 素朴心理学からDoing sociologyへ
  • 第9章 「教示」と結びついた「学習の達成」
  • 第10章 授業の秩序化実践と「学級」の概念
  • 第11章 裁判員の知識管理実践についての覚え書き
  • 第12章 想定された行為者
  • 第13章 柔道家たちの予期を可能にするもの
  • 第14章 観光における「見ること」の組織化
        ※詳細目次

書籍リスト

01. イントロダクション──実践の 社会的論理 s o c i o - l o g i c

003
ヘスター&フランシス
2014
ナカニシヤ出版
001 酒井泰斗ほか編 『概念分析の社会学━社会的経験と人間の科学』 2009 ナカニシヤ出版
002 酒井泰斗ほか編 『概念分析の社会学2━実践の社会的論理』 2016 ナカニシヤ出版
004 H. ガーフィンケルほか 『日常性の解剖学―知と会話』 1997 マルジュ社
005 H. サックスほか 『会話分析基本論集―順番交替と修復の組織』 2010 世界思想社
006 Garfinkel, H.ほか Ethnomethodology's Program: Working Out Durkheim's Aphorism 2002 Rowman & Littlefield Publishers, Inc.
007 Schegloff, E. Sequence Organization in Interaction: A Primer in Conversation Analysis I 2007 Cambridge U. P.
008 G. ライル 『心の概念』 19879 みすず書房
009 P. ウィンチ 『社会科学の理念―ウィトゲンシュタイン哲学と社会研究』 1977 新曜社
010 西阪 仰 『相互行為分析という視点』 1997 金子書房
011 Hutchinson, P. & Read, R. There is No Such Thing as a Social Science: In Defence of Peter Winch 2007 Ashgate
012 Button, B.編 Ethnomethodology and the Human Sciences 1991 Cambridge U. P.
013 前田泰樹ほか編 『ワードマップ エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ』 2007 新曜社
H. ガーフィンケル 『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』 1987 せりか書房
L. ウィトゲンシュタイン 『ウィトゲンシュタイン全集 8 哲学探究』 1976 大修館書店
Garfinkel, H. Studies in Ethnomethodology 1967 Polity

 概念分析の社会学とは、人びとの用いている概念を記述することを通して社会的現実を明らかにする試みのことである。人びとが一連の物事を捉え結びつける仕方、そして一連の行為を連ねながら活動を組み立てる仕方、これらを記述することを通して社会生活の内実を明らかにすることを概念分析の社会学は目指している。>>解説文を開く

 こうした発想のひとつのルーツには、日常言語学派における概念分析がある。たとえば心身二元論という古典的な哲学的問題に対して、G. ライルは心に関わる一連の事象についての秩序づけ方を明らかにしていくというアプローチをとった。心に関わる一連の概念が形づくる「概念の論理的地形」についてその境目を見定めて境界画定を行うことを通じて、彼はこの問題から哲学を解放しようとした008『心の概念』

 ところで、私たちは同じ進み方を L. ウィトゲンシュタインの後期の哲学に見ることができる『哲学探究』 。しかしここで注目するべきなのは、微妙ではあるものの重要な力点の移動である。すなわちこの哲学においては概念の解明が、言語がその一部をなしている多種多様な生活形式のただなかでなされようとしているのである。言い換えるならば、概念のあり方を、多様な実践におけるその使用において検討することがなされようとしているのである。そしてウィトゲンシュタインにおいて想像的事例にとどまっていたこの概念と実践との結びつきについて、これを現実の実践の場において追究することによって新たな社会学の構想へと結びつけたのがP. ウィンチによる 009『社会科学の理念』である。また同じように、人びとの用いている概念をその実践のなかに特定していく試みは、エスノメソドロジーという名の下に H. ガーフィンケルや H. サックスらによって開始された004『日常性の解剖学』006Ethnomethodology's Program。この ふたつの動向はおそらく独立して進められたものではある。けれどもいずれもが同時期の哲学の動向に同様の示唆を受けながら、社会生活の解明という同じ目標に向かって構想されている(これらの動向を架橋している書物として 012Ethnomethodology and the Human Sciences010『相互行為分析という視点』011There is No Such Thing as a Social Science

 自分の想像力の限界を超えて現実の実践の多様さに触れ、哲学的問題へのとり組みを超えて社会生活の解明へと向かうこと。この目的に向けて、それでは私たちはどのような作業を行えばよいのだろうか。H. サックスが与えてくれた ひとつのアイデアは、録音・録画機材の使用である(なお、その経緯と意義については 075『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』の第6章に詳しい)。そして彼のこのアイデアのもとに、会話分析conversation analysis)あるいは相互行為分析(analysis of talk-in-interactionと呼ばれる研究が始められ、現在ではとても大きな研究領域をなすに至っている005『会話分析基本論集』007Sequence Organization in Interaction。その広がりの度合いは、ともするとエスノメソドロジーというとこうした分析と文体のことと連想されてしまうほどである。

 しかしこの研究領域は、実践とはすなわち相互行為のことであるなどとの特異な存在論を唱えているわけではない。この手法と文体が採用されているのはただ、これらが会話や相互行為を形作る際に人々が用いている概念にとって相応しいからにすぎない。また、概念の分析は相互行為の分析を通じてなされなければならない理由もない(このような点を考慮しながら作られた入門書として 003『エスノメソドロジーへの招待』013『ワードマップ エスノメソドロジー』

 このように考えるならば、会話分析と相互行為分析の研究領域の外側にはもちろんその内側にも、まだまだひろい実践の領野が残されていることがわかるだろう。そしてそうであれば、それらがどのような概念を用いて組み立てられているのか、明らかにされる必要があるだろう。私たちが作った二冊の本が目指しているのは、こうした課題に応えることである001『概念分析の社会学』002『概念分析の社会学2』。 (浦野 茂)

02. 人種と集団

015
ベルトラン・ジョルダン
2013
中央公論新社
014 I. ハッキング 『偶然を飼いならす』 1999 木鐸社
016 Reardon, J. The Race to the Finish 2004 Princeton U.P
017 Stocking Jr., G. W. Race, Culture and Evolution 1968 University of Chicago Press
018 竹澤泰子 編 『人種概念の普遍性を問う』 2005 人文書院
114 N. ウェイド 『人類のやっかいな遺産』 2016 晶文社
UNESCO The Race Concept 1952 UNESCO
中篠 献 『歴史のなかの人種』 2004 北樹出版
Jasanoff, S.編 Reframing Rights 2011 The MIT Press
Morning, A. The Nature of Race 2011 University of Chicago Press

 人種とは生物学的根拠を欠いた神話であるとよく言われる018『人種概念の普遍性を問う─西洋的パラダイムを超えて』。おそらくこのフレーズのひとつの由来となっているのは A. モンタギューを責任者として起草され、1950年にユネスコによって発表された『人種に関する声明』だろう。>>解説文を開く

 しかし実際に読んでみればわかるはずだが、この声明はそのようなことを述べてはいない。この声明はむしろ、地域集団の遺伝子頻度によって定義される遺伝学的人種概念を積極的に提示することにより、それ以前に成立していた類型としての人種概念を神話として否定しているのである014『偶然を飼いならす―統計学と第二次科学革命』017Race, Culture and Evolution: Essays in the History of Anthropology。この点を踏まえるならば、人種概念を神話として否定することで事足れりとする態度は、皮肉なことにみずからが否定していると思い込んでいる当の遺伝学的人種概念によってその立脚点を与えられていたということに気づくはずである016 The Race to the Finish: Identity and Governance in an Age of Genomics

 現に、近年の集団遺伝学の進展を背景にしながら、こうした欺瞞的態度のほころびはたびたび指摘されてきた。たとえば人種概念否定論者のエースである R. C. ルウォンティンに対する集団遺伝学者 A. W. F. エドワーズによる批判が挙げられるだろう(この点について詳細は001『概念分析の社会学』第1章および114『人類のやっかいな遺産』第5章を参照)。他方、いくぶん不注意に付けられた邦題ゆえにこの点が見えづらくなってしまっている点が残念だが、じつは015『人種は存在しない─人種問題と遺伝学』も、類型概念として捉えられた限りの人種概念を乗り越えながら、しかし人間の地域集団の備える遺伝的多様性の事実とその含意を見据えるものとなっている(そしてこの多様性をどう呼び表すのかは依然として開かれた概念的問題であることも押さえられている)。また N. ローズも指摘しているように056『生そのものの政治学―二十一世紀の生物医学、権力、主体性』、遺伝学的人種概念の社会的インパクト――そこには類型としての人種概念の場合とは異なる帰結をもった差別と、争異、効用があるだろう――を把握するためにも、旧来の態度を乗り越えて考えていく必要があるのだろう。(浦野 茂)

03. 神経多様性

020 石原孝二 編 『当事者研究の研究』 2013 医学書院
021 河野哲也 『現象学的身体論と特別支援教育―インクルーシブ社会の哲学的探究』 2014 北大路書房
022 Silberman, S. Neurotribes: The Legacy of Autism and How to Think Smarter about People Who Think Differently 2015 Avery
023 立岩真也 『自閉症連続体の時代』 2014 みすず書房
小澤 勲 『自閉症とは何か』 2007 洋泉社
Locker, D. Symptoms and Illness 1981 Tavistock
Feinstein, A. A History of Autism: Conversations with the Pioneers 2010 Wiley-Blackwell
星加良二 『障害とは何か―ディスアビリティの社会理論に向けて』 2007 生活書院
Silverman, C. Understanding Autism: Parents, Doctors, and the History of a Disorder 2012 Princeton U.P.
中邑賢龍・福島 智 編 『バリアフリー・コンフリクト―争われる身体と共生のゆくえ』 2012 東京大学出版会

 自閉症という障害はいかなる性質の現象なのか。標準的とされる診断基準やガイドブックなどを見ると、この障害がどのような症状からなるのかはわかる。けれどもこの問いが目指しているのはこのようなことではない。そのような「症状」によって定義される自閉症という障害概念について、この概念がいかなる根拠のうえに意味を得ているのかという概念の論理的な地位について、この問いは焦点を当てているのである。 >>解説文を開く

 この問いに対して I. ハッキングはそれが「相互作用する種類」(interactive kinds)であると、すなわち多種多様な知識と制度からなる社会的マトリックスのなかにおいて可視化され、識別され、経験され、支援と研究の対象とされる現象のことを意味する概念である、と答えた。もちろん症状とされる行動そのものが作りあげられるというわけではない。自閉症の概念とは、ある社会的マトリックスのなかに置かれた行動のことを意味しているということである(この点について詳細は002『概念分析の社会学2』第1章を参照)。したがって「自閉症児」「自閉症者」というアイデンティティをめぐって繰り広げられている様々な事象についても023『自閉症連続体の時代』 、このようなマトリックスの編成との関わりにおいて考える必要があるだろう019 The Autism Matrix

 他方、自閉症の概念をこうした社会的マトリックスとの関わりで捉えることは、この障害の障害たる根拠に光を当てることによって、この障害への支援のあり方について捉え直すことにもつながっていく(私見では、「神経多様性」という用語は、この捉え直しを促すために現れた)。この作業はこの障害をもつ当人によって、そしてまた特別支援教育をめぐる哲学において、すでに展開されている020『当事者研究の研究』 021『現象学的身体論と特別支援教育―インクルーシブ社会の哲学的探究』 。また、こうした動向を合衆国の文脈において追っているのが022 Neurotribes: The Legacy of Autism and How to Think Smarter about People Who Think Differently である。(浦野 茂)

04. 遺伝学と病いの語り

028
Featherstone, K., Atkinson, P., Bharadwaj, A. & Clarke, A
2006
Berg
024 A. W. フランク 『傷ついた物語の語り手─身体・病い・倫理』 2002 ゆみる出版
025 山中浩司・額賀淑郎 編 『遺伝子研究と社会─生命倫理・実証的アプローチ』 2007 昭和堂
026 柘植あづみ・加藤秀一 編 『遺伝子技術の社会学』 2007 文化書房博文社
027 平子友長ほか編 『危機に対峙する思考』 2016 梓出版
029 A. ウェクスラー 『ウェクスラー家の選択』 2003 2003
Wexler, A. Mapping Fate : A Memoir of Family, Risk, and Genetic Research 1996 University of California Press
野口裕二 編 『N:ナラティヴとケア 第6号』 2015 遠見書房
N. ルーマン 『リスクの社会学』 2014 新泉社

 遺伝学が提供する新しい知識のもとで、病者はどのような経験をしているのか。 001『概念分析の社会学』(第2章)002『概念分析の社会学2』(第2章)においては、多発性嚢胞腎という単一遺伝子疾患を生きる人びとの語りから、この問いについて考察した。>>解説文を開く

 この問いを考えるために、まず、病者の経験を物語という観点から論じた著作として、 024『傷ついた物語の語り手─身体・病い・倫理』 を挙げておきたい。現代社会において病いをもって生きるということがどのようなことなのかについて、社会学者A. フランクが、自らがんを患った経験をもとに書いた著作であり、自らの物語を語ることの困難から、再び語り直す声を獲得していく過程として、病む人の経験が描かれている。

 遺伝性疾患を生きる人びとの経験という点においては、何よりも 029『ウェクスラー家の選択』 (原題 Mapping Fate : A Memoir of Family, Risk, and Genetic Research を読んで欲しい。著者A. ウェクスラーは、ハンチントン病の親を持つ家族の一員として、また一人の歴史学者として、ハンチントン病の共同研究プロジェクトへと参加していった経歴をもつ。この著作には、ウェクスラー自身の家族たちの病いをめぐる経験と、ハンチントン病遺伝子が特定され発症前診断が可能になっていく経緯とが、一つの現代史として、重ね合わされるように描かれている。

 2000年代に入って、先述した問いに対して、着実な経験的調査に基づいて答えようとする動向が見られる。英国カーディフ大学の社会科学者と遺伝学者との研究 028Risky Relations: Family, Kinship and the New Genetics には、遺伝学的知識を告げられる家族が、その知識をどのように受け止め、それを誰にどのように伝えているのか、が描かれている。本邦においても、経験的調査をふまえた論文集が2007年に2冊編まれている。 026『遺伝子技術の社会学』 025『遺伝子研究と社会─生命倫理・実証的アプローチ』 は、遺伝子研究がどのようなものとして行われ、遺伝子技術がどのように用いられているかについて、考察の入り口を提示してくれる。

 なお、後者に収録されたD. ヒースらの「遺伝学的市民とは何か」で示された「遺伝学的シティズンシップ」という概念は、N. ローズ 056『生そのものの政治学─二十一世紀の生物医学、権力、主体性』 では「生物学的シティズンシップ」と拡張して用いられ、治療手段の獲得などをめぐって行われる患者側の活動を、シティズンシップの請求という観点から理解していく視点を提供している。また、こうした現状を理解していくためになされる社会学的概念分析の方針については、 027『危機に対峙する思考』 におさめられた拙論において概観している。(前田泰樹)

05. 性同一性障害

030 米沢泉美 編著 『トランスジェンダリズム宣言―性別の自己決定権と多様な性の肯定』 2003 社会批評社
032 針間克己・平田俊明 編 『セクシュアル・マイノリティへの心理的支援―同性愛、性同一性障害を理解する』 2014 岩崎学術出版社
033 柳沢正和ほか 『職場のLGBT読本―「ありのままの自分」で働ける環境を目指して』 2015 実務教育出版
034 天田城介ほか編 『差異の繋争点―現代の差別を読み解く』 2012 ハーベスト社
035 田中玲 『トランスジェンダー・フェミニズム』 2006 インパクト出版会
P. コンラッド、J. W. シュナイダー(進藤雄三ほか訳) 『逸脱と医療化―悪から病いへ』 2003 ミネルヴァ書房
椿姫彩菜 『わたし、男子校出身です。』 2008 ポプラ社
現代思想 10月号 『特集 LGBT 日本と世界のリアル』 2015 青土社
宮内洋・好井裕明 編 『当事者をめぐる社会学―調査での出会いを通して』 2010 北大路書房

『逸脱と医療化―悪から病いへ』 は、主に医療化について書かれているが、同性愛の脱医療化について一章割いてある。セクシュアリティの脱医療化としてまとまって訳出されているものとしては、唯一である。>>解説文を開く

 そのような同性愛を皮切りにしたセクシュアリティの脱医療化、ここのところでは性別を越境する行為についての脱医療化が、DSM(診断・統計マニュアル)の改訂などを通して世界的には進んでいる。しかし、日本ではいまだ性同一性障害に対する医療的ケアについての議論が盛んである。DSM改訂後のものでは、032『セクシュアル・マイノリティへの心理的支援―同性愛、性同一性障害を理解する』 がある。特に、精神的なケアについて解説されている。

 性同一性障害に対抗するものとして030『トランスジェンダリズム宣言―性別の自己決定権と多様な性の肯定』 は、トランスジェンダーをライフスタイルの問題として提起し、多様な性のあり方を紹介している。メディア、パブリックスペース、制度的性別、医療、歴史など様々な角度からトランスジェンダーの問題について考察している。035『トランスジェンダー・フェミニズム』 も、それに連なるものである。やはり、性別を移行する行為をライフスタイルとして捉えている。

031『性同一性障害のエスノグラフィ―性現象の社会学』 の第2部は、「私は性同一性障害という病気です」だから「認めてください」という言い方で、身近な人から職場まで認知を広めていた当時の性同一性障害のあり方について書いてある。具体的には、性同一性障害の下位カテゴリーの序列化と、それらのカテゴリーからの排除について分析している。

 その後のコミュニティの状況を分析するために、002『概念分析の社会学2』第三章「性同一性障害として生きる」を寄稿したが、『わたし、男子校出身です。』 を読むと、当事者の声として性同一性障害を病気とは捉えない、性同一性障害概念の新たな捉え方がわかる。

 また、寄稿した論文で取り上げた性別移行を行う人びとの就業問題について、日本の社会学において初期に書かれたものとして、「トランスジェンダー・性同一性障害者の職場における実践と課題――労働規範と性別二元規範・異性愛規範」034『差異の繋争点―現代の差別を読み解く』 がある。さらに最近の企業の取り組みなどを紹介するものに、033『職場のLGBT読本―「ありのままの自分」で働ける環境を目指して』 がある。両者とも、性同一性障害とトランスジェンダーを区別して書かれていない点では、寄稿した論文と共通点がある。(鶴田幸恵)

06. 精神障害と司法

036 富田三樹生 『精神病院の改革に向けて―医療観察法批判と精神医療』 2011 青弓社
037 中谷陽二 『刑事司法と精神医学―マクノートンから医療観察法へ』 2013 弘文堂
038 高岡健・岡村達也 編 『自閉症スペクトラム・浅草事件の検証―自閉症と裁判』 2005 批評社
039 A. フランセス 『〈正常〉を救え─精神医学を混乱させるDSM-5への警告』 2013 講談社
040 橳島次郎 『精神を切る手術─脳に分け入る科学の歴史』 2012 岩波書店
富田三樹生 『東大病院精神科の30年―宇都宮病院事件・精神衛生法改正・処遇困難者専門病棟問題』 2000 青弓社
立岩真也 『造反有理─精神医療現代史へ』 2013 青土社
中山研一 『心神喪失者等医療観察法の性格―「医療の必要性」と「再犯のおそれ」のジレンマ』 2005 成文堂
佐藤幹夫 『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』 2008 朝日新聞出版
平井秀幸 『刑務所処遇の社会学―認知行動療法・新自由主義的規律・統治性』 2015 世織書房

 2003年に成立した心神喪失者等医療観察法(以下、医療観察法)は、犯罪行為を行った精神障害者(触法精神障害者)が、刑法39条の心神喪失規定で無罪となるか、心神喪失・心神耗弱で不起訴になった場合の固有の処遇を定めたものである。>>解説文を開く

001『概念分析の社会学』第4章では、医療観察法の成立前後に触法精神障害者の「責任」や「裁判を受ける権利」をめぐってどのような議論があったかを検討したが、制度や処遇については現在も課題や議論があり、医療観察法にも様々な評価がある。 036『精神病院の改革に向けて─医療観察法批判と精神医療』 は、戦後からの精神医療関連法や制度の変遷を踏まえつつ、精神医療の現在の課題との関係で医療観察法を批判している。 037『刑事司法と精神医学─マクノートンから医療観察法へ』 は、欧米の処遇制度とその課題、診断カテゴリー学説史など司法と精神医学をめぐる問題を幅広く論じ、最終章で、受刑する精神障害者数の増加、裁判員裁判、医療観察法の実施など現代の課題を指摘する。

 触法精神障害者の処遇に関する課題は、このように長期にわたって議論されつつも未解決の部分が多いという面もある。他方で、かつての議論と2003年前後では、かなり問題設定が異なるという面もある。002『概念分析の社会学2』第4章では、1960~70年代を中心に、2000年代とは異なる議論の様相を見た。1960~70年代の問題意識や関係者の活動については『造反有理─精神医療現代史へ』 が詳しい。 040『精神を切る手術─脳に分け入る科学の歴史』 は、1970年代に、精神科の患者の人権を無視した治療の最たるものとされた精神外科について、「過去の悪行」としてタブー視しない姿勢で詳細に論じつつ、情報開示、治療効果の厳密な評価、患者の選択の重要性を説く。

 精神障害と司法については、自閉症スペクトラムの障害をもつ触法者の判決や処遇が新たに課題になってもいる。03「神経多様性」とも関連する 038『自閉症スペクトラム・浅草事件の検証―自閉症と裁判』 は、診断概念史、教育や小児療養等の社会的場面での障害の扱いなどとともに、裁判事例が大きく取り上げられている。

039『〈正常〉を救え─精神医学を混乱させるDSM-5への警告』 は司法と関係する記述は少ないが、同書では、こうした診断の変遷、新たな精神障害の規定、特定の精神障害への注目や患者の増減などが、DSM(診断・統計マニュアル)や向精神薬との関係で述べられている。特定の精神障害の流行など、I. ハッキングの著作とも重なる内容もあり、またマトリックスやループ効果をこの著作のなかに読み込めるように思う。また同書の向精神薬の薬害に関する指摘と併せて考えるとき、 040『精神を切る手術─脳に分け入る科学の歴史』 が述べる情報開示等の重要性が改めて認識されるといえよう。(喜多加実代)

07. ポルノグラフィ

041 C. マッキノン、
A.ドウォーキン(中里見 博、森田成也 訳)
『ポルノグラフィと性差別』 2002 青木書店
042 C. マッキノン(森田成也、中里見 博、武田万里子 訳) 『女の生・男の法(上)』 2011 岩波書店
043 『女の生・男の法(下)』 2011 岩波書店
044 N. ストロッセン(岸田美貴 訳、松沢呉一 監修) 『ポルノグラフィ防衛論―アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性』 2007 ポット出版
中里見博 『ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて』 2007 明石書店
R. ドゥウォーキン(石山文彦) 『自由の法─米国憲法の道徳的解釈』 1999 木鐸社
行動する女たちの会 編 『ポルノ・ウォッチング―メディアの中の女の性』 1990 学陽書房

 ポルノグラフィをめぐる論争は、しばしば「法規制の是非」という論点ばかりに注目が集まってしまうけれど、考えなければならない重要な点はその手前にいくつもある。もっとも重要なのは、フェミニズムがポルノグラフィに対して批判を向けるとき、その批判はポルノグラフィが「性的」であることにではなく「性差別」であることに向けられてきたということだ。 042 043『女の生・男の法(上)(下)はポルノグラフィ批判でよく知られるフェミニスト、キャサリン・マッキノンの思想の集大成的な論文集である。そこに並ぶさまざまなトピックを見れば、彼女が一貫して性差別の問題に関心を持ち、その中でポルノグラフィの問題を考えていることがわかるだろう。>>解説文を開く

 焦点が性差別という問題にあるのであれば、考えるべきは「どんな差別があるのか」「その解消のためにはどんな手段が適切か」といった問いであるはずだ。 041『ポルノグラフィと性差別』は、マッキノンがアンドレア・ドウォーキンとともに立法を目指した反ポルノグラフィ条例の解説的な書籍である。そこからは、彼女たちが一見多様な問題にポルノグラフィとかかわる性差別という観点から一貫性を見いだし、どう解決に取り組もうとしていたのかを知ることができる。

 もちろん、彼女たちが取り組もうとしたいくつもの問題のそれぞれに対して、ポルノグラフィの法規制が最善の解決策であるかどうかには議論がありうるし、またポルノグラフィ批判が性的なものに対する抑圧へと横滑りしてしまう危険性には敏感であってありすぎることはない。この点『自由の法─米国憲法の道徳的解釈』044『ポルノグラフィ防衛論―アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性』で展開されているマッキノンたちへの批判からも重要な論点が読み取れるだろう。特にマッキノンとロナルド・ドゥウォーキンの対立については、 045『実践の中のジェンダー―法システムの社会学的記述』7章で、やや丁寧に分析を試みているので参照してほしい。

 日本の文脈では、『ポルノグラフィと性暴力―新たな法規制を求めて』が、国内で生じている被害と法的措置の必要性について詳しく論じている。また、メディアにおける女性の差別的描写に異議を唱えつつ同時に「法規制より論争を」と主張した「行動する女たちの会」の『ポルノ・ウォッチング―メディアの中の女の性』も、日本のフェミニズムの視点と運動史を知るうえで重要な著作である。図書館で手に取ってみてほしい。(小宮友根)

08. ソーシャルワーク

046 K. ダンジガー 『心を名づけること―心理学の社会的構成(上)』 2005 勁草書房
047 K. ダンジガー 『心を名づけること―心理学の社会的構成(下)』 2005 勁草書房
049 渡邊芳之 『性格とはなんだったのか―心理学と日常概念』 2010 新曜社
050 L. フェダマン 『レスビアンの歴史』 1996 筑摩書房
051 Danziger, K. Constructing the Subject: Historical Origins of Psychological Research 1990 Cambridge U. P.
Muncy, R. Creating a Female Dominion in American Reform 1890-1935 1994 Oxford U. P.

 ソーシャルワークやハルハウスの社会史的研究はアメリカ圏では多くの文献が出版されている。「ソーシャルワークの母」としてのジェーン・アダムズ、メアリ・リッチモンドについては「聖母」として描く伝記的記述は子供向けのものを除けばほとんど姿を消し、書簡史料についての精査にもとづいた様々な研究が提示されているが、日本語で読める文献は限られている。>>解説文を開く

そのなかでも比較的新しい年に出版された 048三島亜紀子『社会福祉学の〈科学性〉─ソーシャルワーカーは専門職か?』 は、ソーシャルワークの専門職化にかかわる事柄を知るためのみならず、合衆国ソーシャルワーク史の関連文献を通覧するうえでも有用である。三島の本では日本での展開との異同も重要なテーマとして扱われている。

 さて黎明期ソーシャルワークを含む世紀転換期アメリカにおける女性たちの「社会的な」活動をめぐっては、「忘れられた社会学者」「正史に書かれてこなかった女性たちの発見」という形で、70年代以降様々な研究が提示されてきたが、後世の人びとが作りだしたカテゴリ(「第一波フェミニスト」など)で理解するのではなく、当時の人びとの理解の条件にもとづいて再構成されるべきであるという研究の方向性が90年代以降有力になってきている。その淵源はいうまでもなくフーコーの歴史研究のスタイルであるが、002『概念分析の社会学2』第5章では そのスタイルを明確化したイアン・ハッキングの055『歴史的存在論』 、および その方法論を忠実に心理学領域で再現したクルト・ダンジガーのテクストに倣っている。

 ダンジガーの 051 Constructing the Subject: Historical Origins of Psychological Research は、心理学における「実験者/被験者」という関係性がどのように変容していったのかを、心理学を規定する知のスタイル、社会的・制度的文脈などと関連させながら論じるものであり、概念の「対」に着目した拙稿でも大いに参考にした。「research / survey / investigation」などの言葉が現在の社会学で厳密に区別されることはない(というより、サーベイ・リサーチという言葉があるくらいだ)。しかし拙稿で分析したように、世紀転換期の「調査者」たちは、自らの調査実践が他の実践とどのように、なぜ異なるのかを鋭敏に捉えていた。同様に、心理学内の「実験者/被験者」もまた実験という実践がなされる文脈と無縁ではなかった。残念ながら、本書は未邦訳であるが、その基本的なエッセンスは 046 047『心を名づけること―心理学の社会的構成』(上)(下)などで把握することができるだろう。 (北田暁大)

09. 生殖補助医療

055
イアン・ハッキング
2012
岩波書店
052 柘植あづみ 『文化としての生殖技術─不妊治療にたずさわる医師の語り』 1999 松籟社
053 上杉富之 編 『現代生殖医療─社会科学からのアプローチ』 2005 世界思想社
054 菅沼信彦ほか編 『生殖医療(シリーズ生命倫理学 第6巻)』 2012 丸善出版
056 N. ローズ 『生そのものの政治学─二十一世紀の生物医学、権力、主体性』 2014 法政大学出版局
057   A Turn to Ontology in Science and Technology Studies?,
Social Studies of Science, 43(3)
2013 Sage
  『死生学研究』(第15号) 2011  
櫻田嘉章ほか 『生殖補助医療と法』 2012 日本学術協力財団
吉村泰典 『生殖医療ポケットマニュアル』 2014 医学書院
中村和生 『ポスト分析的エスノメソドロジーの展望と展開』 2015 (博士論文)

 論理的考察(例えば、実践における論理性の欠如の指摘)、そして/あるいは、比較社会学的考察(例えば、欧米と日本の現状の比較評価)を梃子として、経験的資料(統計データやインタビューデータ)を読み解き、ここから、例えば日本の現状の隠された問題点(例えば、そこに潜む専門家支配、男性支配といった権力の存在、さらにはそこに至る抑圧と隠蔽の歴史の存在)を暴露すること、そして、そうした問題含みの現状を改善するための処方箋を提示することを目指す――こうした、広い意味でバイオエシックス的と言いうるアプローチは、医療に関する社会的研究の定番となっているが、この事情は生殖(補助)医療の社会的研究に関してもまったく変わらない(柘植あづみ 052『文化としての生殖技術─不妊治療にたずさわる医師の語り』』、 上杉富之編053『現代生殖医療─社会科学からのアプローチ』、 菅沼信彦ほか編054『生殖医療』>>解説文を開く

 これに対して、バイオエシックス的なアプローチの意義を認めながらも、それ自体が一つの論理的、政治的スタンスであり、こうしたスタンスを採ることで、医療の場で日々行われる実践は覆い隠されてしまうのだと考えるアプローチもある(例えば、インタビューにおいて医師、患者が自らの医療実践(経験)について語ることは、あくまで「医療実践を語るという実践」であって、医療実践それ自体とはとりあえず区別される必要があろう)。すなわち、それは、バイオエシックスのように外在的な基準を持ち込み、これによって私たちの医療実践の意味解釈、価値判断を行うことを目指すのではなく、私たちの医療実践を、あくまでそれがなされる場の中で、それが従うその論理、その交渉に即して、理解することを目指す、そしてさらに、これによって(今や医療の中に多様な形で組み込まれている)バイオエシックスそれ自体を一つの実践として再記述することを目指すアプローチである。

 生殖(補助)医療に対する後者のアプローチによる具体的なアウトプットは非常に乏しく、その考え方も手探りの状態と言えるが、ローズ056『生そのものの政治学─二十一世紀の生物医学、権力、主体性』の他、ハッキング055『知の歴史学』、そしてリンチ057 Social Studies of Science, 43(3) 収録)の著作は、そして、もちろん彼らが等しく参照するフーコーの著作も、こうしたアプローチを採ろうとするとき、私たちが何をどう考えていけばいいのか、重要なヒントを与えてくれるはずだ。(石井幸夫)

10. 優生学

058
ダニエル・J. ケブルス、リーロイ・フード 編
1997
アグネ承風社
059 Paul, D. The Politics of Heredity: Essays on Eugenics, Biomedicine, and the Nature-Nurture Debate 1998 State University of New York Press
060 Goodman, A., Heath, D. &
Lindee, S.
Genetic Nature/Culture: Anthropology and Science Beyond the Two-Culture Divide 2003 University of California Press
061 Rabinow, P. Essays on the Anthropology of Reason 1996 Princeton U. P.
赤川 学 『セクシュアリティの歴史社会学』 1999 勁草書房
I. ハッキング 『何が社会的に構成されるのか』 2006 岩波書店

 21世紀の現在、先進自由民主主義国においては、ゲノミクスベースで、生命の最適化を目指す多種多様な医療が進行しているが、こうした医療には一つの疑問がつきまとっている。すなわち、これは新たな優生学ではないか?、という疑問である。>>解説文を開く

確かに、現代のゲノミクスベースの医療は、遺伝子プールの改善を国家-社会的な意志として強行した20世紀前半の優生学と異なり、生命の最適化を個人の選択において追求しているに過ぎない。現代的生政治は優生学的生政治とは明らかに異なるように思われる。だが、現代的生政治には強力な標準化への指向性が内蔵されているように見える。これは優生学的と言いうるのではないか? ケラー058 ケブルス&フード『ヒト遺伝子の聖杯―ゲノム計画の政治学と社会学』 第13章)、タウシグ+ラップ+ヒース060 Goodman, A., Heath, D. & Lindee, S. Genetic Nature/Culture: Anthropology and Science Beyond the Two-Culture Divide 第3章)の懸念はここにある。_

 だが、ローズ056『生そのものの政治学─二十一世紀の生物医学、権力、主体性』 (特に第2章))、ラビノウ061 Essays on the Anthropology of Reason 第5章)らに言わせれば、こうした懸念は抽象的なワードゲームの生み出す杞憂に過ぎない。医療現場の実践をしっかり見つめ、優生学を埋め込んでいた前期近代的な生政治とはまったく異なる枠組みの中に新しい生政治が出現していることを、新しい自己と連帯と希望の生政治が出現していることを見逃してはならない、と彼らは言う。

 歴史の中に優生学の痕跡を暴露、断罪するゲームの様相を呈した一時の優生学ブームは過ぎ去った。だが、私たちは優生学とは何か?という問題に対する明快な回答を手にしているわけではない。優生学はその出現以来、鵺のように概念的変遷を遂げてきており、そもそも一義的な定義を与えること自体が難しいとも言える059 Paul,D. The Politics of Heredity: Essays on Eugenics, Biomedicine, and the Nature-Nurture Debate 。ゲノミクス時代の医療の質を考えるためにも、優生学の歴史を、抽象的なバズワードでなぞるのではなく、個々の場を生きる人々の活動として経験的に精査することは依然重要な課題なのである。(石井幸夫)

11. 誕生と死の形而上学

068
加藤秀一
2007
NHKブックス
062 ルクレーティウス 『物の本質について 1961 岩波文庫
063 アウグスティヌス 『告白Ⅰ』 2014 中公文庫
064 T. ネーゲル 『コウモリであるとはどのようなことか』 1989 勁草書房
065 D. パーフィット 『理由と人格─非人格性の倫理へ』 1998 勁草書房
066 三浦俊彦 『多宇宙と輪廻転生─人間原理のパラドクス』 2007 青土社
067 Benatar, D. Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence 2008 Oxford U.P.
坂口ふみ 『〈個〉の誕生─キリスト教教理をつくった人びと』 1996 岩波書店
加藤秀一 編 『生─生存・生き方・生命(自由への問い8)』 2010 岩波書店
Wasserman, D. & Roberts, M.編 Harming Future Persons : Ethics, Genetics and the Nonidentity Problem 2009 Springer

 「誕生と死」という概念対は多くの人々に微かな違和感をもたらすのではないだろうか。むしろ「生と死」の方がずっと馴染み深いクリシェ(常套句)だろう。私たちは皆、すでに生きており、その地平の上で、来たるべきおのれの死にしばしば心を震わせる。それに対して、自分がかつて生まれたこと、すなわちそれ以前には無=非存在であった(だろう)という事実に思い悩む人はほとんどいない、とされる。>>解説文を開く

 ならば、古代の賢者エピクロスやルクレティウス 062『物の本質についてが説いたように、私なるものが非存在であるという点で死後と誕生前には何ら違いがないのだから、後者に思いを馳せず前者ばかりをことさらに恐れるのは非合理であると言うべきだろうか。近年(ごく一部で?)活況を呈しつつある「死の害」をめぐる哲学論議の端緒を開いたネーゲルの古典的論文「死」064『コウモリであるとはどのようなことか』所収)も、ルクレティウスの洞察に新鮮な照明を当てつつ、基本的には死にのみ合焦している。

 それでは、私なるものが無から生まれ出でたという事実には、問うべき何物も隠されてはいないのだろうか。少なくともアウグスティヌスにとってはそうではなかった。自分はどこからこの世に――「死せる生」あるいは「生ける死」に――やってきたのか知らない。彼は神に向かって、それだけが自分の言いたいことなのだとさえ哀訴する。この箇所を含む 063『告白』第1巻第6章は、第11巻の有名な時間論と並んで、なお尽きせぬ形而上学的難問を私たちに投げかけている。そして興味深いことに、今日においては、生殖医療技術の発展といった物質的条件と絡み合いながら、誕生すなわち存在の生成にまつわる謎が改めて謎として見出されつつあるようだ。パーフィット 065『理由と人格─非人格性の倫理へ』が「非同一性問題」として提示したのはまさにそのような謎の核心である。ただしそれは哲学者の謎であるとともに、日常を生きる私たちすべての生に絡みつく謎であり、社会学者により記述・分析されるべき水準があるはずだ。拙著 068『〈個〉からはじめる生命論』 はそのような見通しから、パーフィットを参照しつつ、「ロングフル・ライフ訴訟」という特異な実践を構成する「私は生まれない方が良かった」という命題を吟味し、私たちにとっての「誕生」の意味という問いを再定式化しようと試みたものである。 002『概念分析の社会学2』第7章では 同じ素材の断片をより詳細に分析した。他に、哲学・倫理学分野から、存在することは根本的に悪であると論じるベネター 067 Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence の、陰鬱なのに妙に力強い極論や、「私はなぜ存在するのか」という問いに「人間原理」をもって明快に答える三浦俊彦 066『多宇宙と輪廻転生─人間原理のパラドクス』の目眩く知的曲芸に触れてみるのもよいだろう。後者は概念と世界との関係というテーマにも簡単に触れている。(加藤秀一)

12. 心の哲学と社会学

073
前田泰樹
2008
新曜社
069 M. トマセロ 『心とことばの起源を探る―文化と認知』 2006 勁草書房
070 S. ギャラガー、
D. ザハヴィ
『現象学的な心―心の哲学と認知科学入門』 2011 勁草書房
071 J. クルター 『心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』 1998 新曜社
072 西阪 仰 『心と行為―エスノメソドロジーの視点』 2001 岩波書店
074 Hutto, D. Folk Psychological Narratives : The Sociocultural Basis of Understanding Reasons 2008 MIT Press
Leuder, I.
& Costall, A.編
Against theory of mind 2009 Palgrave Macmillan
Carruthers, P.
& Smith, P.編
Theories of Theories of Mind 1996 Cambridge U. P.
Hutto, D.編 Narrative and Understanding Persons 2007 Cambridge U. P.
Sacks, H. Lectures on Conversation 1992 Basil Blackwel

001『概念分析の社会学』は「ループ効果」における「もう一つのループ」という局面を新たに掲げ、人間を対象とする科学の理論における新たな概念が、常識的概念と、それに関わる実践に根ざしていることをも示した。この専門的概念と常識的概念の関係とは、現在に至るまで、人間を対象とする人文・社会科学すべてにとって基盤に関わる問題でもある。>>解説文を開く

本項で取り上げる「心の理論」の是非をめぐっても、心理学だけでなく、哲学、社会学、教育学などにおいても多様な議論がなされてきた。002『概念分析の社会学2』第8章は、哲学による批判を導きの糸とし、「心」に関するエスノメソドロジー(EM)研究の方針と知見を用いた例証を通して、「心」にたいする一つの社会学的な向き合い方と若干の知見を示した。

 哲学からの「心の理論」批判としては、070『現象学的な心―心の哲学と認知科学入門』074 Folk Psychological Narratives : The Sociocultural Basis of Understanding Reasons を取り上げた。前者には「心の理論」批判も含め、昨今の現象学による諸科学への貢献の可能性が見て取れる。後者はヴィトゲンシュタイン研究からの発展とみなせる。なお、本章では注に留めたが、発達心理学や動物行動学の知見を統合しつつなされた「心の理論」批判である069『心とことばの起源を探る―文化と認知』にも注目できる。

 「心」のEM研究として主に依拠したのは、ヴィトゲンシュタイン派EMの立場から概念分析を行った071『心の社会的構成―ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』、ならびに073『心の文法─医療実践の社会学』である。前者は、人間の行為を、それがまさに実際に行われている有り様において経験的に研究するEMの意義を明確にし、その方向性を指し示している。本章で検討した「動機」のほかに「経験」や「感情」、「思考」(「考える」「思う」)といったトピックが取り上げられている。後者は、同様の「心的」現象が特に問われる場面として、医療に関わる様々な人々による実践がなされる場面に焦点を合わせ、その実践(に携わる人々)に寄り添った記述的解明を行っている。

 また、会話分析の技法を駆使して、実際に織り成されている行為の例証(「相互行為分析」)を通じて、視覚、想像、想起といった「心的」現象の概念分析を行った072『心と行為―エスノメソドロジーの視点』にも注目できる。なお、相互行為分析と概念分析との関係については、まずは010『相互行為分析という視点』を参照されたい。(中村和生)

13. 科学社会学

075
マイケル・リンチ
2012
勁草書房
076 B. ラトゥール 『科学が作られているとき―人類学的考察』 1999 産業図書
077 金森修 『サイエンス・ウォーズ』 2000 東京大学出版会
078 J. ラウズ 『知識と権力―クーン/ハイデガー/フーコー』 2000 法政大学出版局
079 藤垣裕子 編 『科学技術社会論の技法』 2005 東京大学出版会
080 Alač, M. Handling Digital Brains : A Laboratory Study of Multimodal Semiotic Interaction in the Age of Computers 2011 The MIT Press
R.K. マートン 『社会理論と社会構造』 1961 みすず書房
D. ブルア 『数学の社会学 - 知識と社会表象』 1985 培風館
Lynch, M. Art and artifact in laboratory science : A Study of Shop Work and Shop Talk in a Research Laboratory 1985 Routledge & Kegan Paul
R. ウォリス編 『排除される知』 1986 青土社
Woolgar, S. Science : the very idea 1988 Tavistock Publications
A. ソーカル、J. ブリクモン 『知の欺瞞』 2000 岩波書店
Sormani, P. Respecifying Lab Ethnography : An Ethnomethodological Study of Experimental Physics 2014 Routledge

 マートンとラトゥールを除けば、科学哲学におけるポパーやクーン、最近ならフラーのようなスターもいないマイナーな分野、科学社会学になぜ注目するのかと思われる人も多いだろう。しかし、科学哲学・科学史・科学社会学などが渾然一体をなす現代の科学論が政治論的転回を果たした事情を理解するには、科学社会学の展開は見過ごせない。これを〈科学〉と〈社会〉という概念対に的を絞って明らかにしたのが 001『概念分析の社会学』第8章である。>>解説文を開く

 そのメインキャストだけ挙げさせて頂こう。まずは〈科学 vs. 社会〉の事実上の生みの親、R.K.マートン『社会理論と社会構造』。その概念対をバッサリ切り捨て、科学知識すら知識社会学の対象にできるのだと説いた D.ブルア『数学の社会学 - 知識と社会表象』。そして、その社会決定論における〈社会〉を諸々のアクターへと解体したB.ラトゥール076『科学が作られているとき―人類学的考察』。さらに、〈科学 vs. 社会〉を前景化させた J.ラウズ078『知識と権力―クーン/ハイデガー/フーコー』のような哲学的論客。くわえて、サイエンス・ウォーズ077『サイエンス・ウォーズ』という、〈科学(者)〉を自己帰属的人工類(I.ハッキング)へと差し戻そうとする事件。この系譜を辿れば、政策志向重視の日本の科学論079『科学技術社会論の技法』がその方向性を強めたのも当然の成り行きとみなせる。

 さて、この大きなうねりの中、科学実践の解明を主眼としてきた科学のエスノメソドロジー(EM)研究はいかに展開したのか。その一端を075『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』 の研究方針に見出せる。観察する、表象する、測定するといった行為 (「認識トピック」)を科学の内外における多様な実践活動において探究し、ときには、政治論的転回後の科学論のテーマに関わる、「科学」と「社会」が交わる場の実践活動を対象とすることで、それに貢献するというものである。最後に、会話分析の技法を取り入れた、現在の科学のEM研究も紹介させて頂こう。080 Handling Digital Brains : A Laboratory Study of Multimodal Semiotic Interaction in the Age of Computers は、マルチモーダルな分析技術の下、ジェスチャー、トークの詳細、手や頭の動きに注目した、精密度の高い分析を行っている。(中村和生)

14. 教示と学習

083
佐伯 胖、渡部信一 編
2010
大修館書店
081 茂呂雄二 、青山征彦ほか編 『状況と活動の心理学―コンセプト・方法・実践』 2012 新曜社
082 Sawyer, R.K. 編 The Cambridge Handbook of the Learning Sciences 2014 Cambridge U.P.
084 西阪 仰 『分散する身体』 2008 勁草書房
085 Seedhouse, P. The Interactional Architecture of the Language Classroom 2004 Wiley
086 茂呂雄二 『実践のエスノグラフィ』 2001 金子書房
上野直樹 『仕事の中の学習―状況論的アプローチ』 1999 東京大学出版会
川床靖子 『学習のエスノグラフィー─タンザニア・日本・ネパールの仕事場と学校をフィールドワークする』 2007 春風社
R. K. ソーヤー編(森 敏昭、秋田喜代美 監訳) 『学習科学ハンドブック』 2009 培風館

 学習や発達を文化的なものや歴史的なものと不可分とする考えは、L.ヴィゴツキーからM.コール、J.V.ワーチ、B.ロゴフ、Y.エンゲストロームらの研究群で大きく展開し「社会文化的アプローチ」「状況論的アプローチ」として紹介されてきた。>>解説文を開く

 これらの概要をつかむ解説書として 081『状況と活動の心理学―コンセプト・方法・実践』 が、辞典として 083『「学び」の認知科学辞典』が役に立つ。こうした研究では学校教育の外の社会的実践において「学習」や「発達」を捉え直す試みもなされてきた。なかでも認知科学者のハッチンスや、人類学者のJ.レイヴ、エスノメソドロジストのL.サッチマン、C.グッドウィン、M.リンチ075『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』によるワークプレイス研究に影響を受けた研究に 『仕事の中での学習―状況論的アプローチ』『学習のエスノグラフィー─タンザニア・日本・ネパールの仕事場と学校をフィールドワークする』 がある。後者の事例研究が収録された著作には 086『実践のエスノグラフィー』 がある。

 学校教育の研究の研究では、いわゆる第一言語による一斉授業が紹介されてきたが、第二言語習得の授業の会話分析の成果も蓄積している。学習者が順番をとりながらいかに会話に参加し、学習者の発言を教師がいかに修復しているのかなど、言語習得の過程を示してくれる著作として 085The Interactional Architecture of the Language Classroom が代表的である。 授業を分析しその改善に資しようとする「学習科学」は近年日本で紹介されつつある『学習科学ハンドブック』082The Cambridge Handbook of the Learning Sciences が、エスノメソドロジー・会話分析がその視点や方法論の支柱の一つであることはあまり知られていない。上記書をめくれば、エスノメソドロジー・会話分析が、いかに「知識」が協同的に生成されているのかを分析する手法として有効であることが理解できる。

 これまで述べてきた研究群と一線を画す対象設定をしているのが西阪仰の「何の学習か」084『分散する身体』である。氏は「学習の過程」ではなく「達成としての学習」を対象にし、それが帰属される条件の一つとして子どもがバイオリンを弾く際の身体の構造化に焦点を当てた。『概念分析の社会学2』第9章の拙稿では、氏の関心を授業の教示場面へと広げて学習概念を再検討し、学習者自身がいかに教示で示された行為の基準を組み込みながら行為を成し遂げ、学習が帰属されたのかを考察した。 教育実践を展開するには学習者の実際と自身の実践への振り返りが不断に必要となるが、これらのアプローチは、どれも実践へのまなざしを鍛えてくれる知見を提供してくれるだろう。(五十嵐素子)

15. 授業と学級

087 稲垣忠彦・佐藤学 『授業研究入門』 1996 岩波書店
088 苅谷剛彦 『教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか』 2009 中央公論新社
089 宮寺晃夫 編 『再検討─教育機会の平等』 2011 岩波書店
090 柳 治男 『〈学級〉の歴史学―自明視された空間を疑う』 2005 講談社
092 Hester, S.K. & Francis, D. Local Educational Order: Ethnomethodological Studies of Knowledge in Action 2000 John Benjamins Publishing Company
森田尚人ほか編 『教育学年報3 教育のなかの政治』 1994 世織書房
宮坂哲史 『宮坂哲文著作集(全3巻)』 1968 明治図書出版
日本教育方法学会編 『日本の授業研究〈上巻〉―授業研究の歴史と教師教育』 2009 学文社
日本教育方法学会編 『日本の授業研究〈下巻〉――授業研究の方法と形態』 2009 学文社

 一度に多人数の子どもたちを同時に教育せねばならない学校教育においては、その多人数の子ども集団、すなわち「学級(クラス)」をどう組織化するかということが授業の運営と切り離しがたい課題となる。とりわけ日本においては歴史的に、この課題が非常に重要なものとみなされてきた。>>解説文を開く

 「学級」とは基本的に、子どもたちを単一のまとまりとして扱い、「個」を浮上させにくくする装置である。087『授業研究入門』 では理想的な授業(研究)のありかたを追求するなかで、この「学級」の性質への強烈な忌避感が示され、それを例えば複数の「個」のオーケストレーションへと置き換えることが主張されている。他方、「教育機会の平等」という(個性重視の教育とは)別の理想から見れば、「学級」という基礎単位のもとで教育を標準化することこそが重要な意味をもちうる。このことをさまざまな素材の分析により浮き彫りにしたのが088『教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか』 だ。しかし、個別の実践事例を検討していけば、条件と方法次第で個性重視の教育こそが機会平等の価値にかなう場合もあることが分かる。このことを示しているのが「個性化教育の可能性――愛知県東浦町の教育実践の系譜から」089『再検討─教育機会の平等』 である。

 1つの教室に1つの学級と1人の教師、そこでなされる一斉授業――私たちが思い描き、そして上述の著作群でも前提されているそうした学級の姿は自明なものではなく、歴史的な生成と変容の末に成立したものである。その生成と変容の過程をイギリスから日本へとコンパクトに辿ってくれているのが090『〈学級〉の歴史学―自明視された空間を疑う』 である。また、091『学校教育の理論に向けて―クラス・カリキュラム・一斉教授の思想と歴史』 は学級に関わるより広範なトピックについてその歴史をトレースしている。なかでも興味深いのはアダム・スミス由来の「共感」をベースとした道徳観念が一斉教授法の成立に影響を与えたとする洞察である。"Classroom as Installations: Direct Instruction in the Early Grades," 092 Local Educational Order: Ethnomethodological Studies of Knowledge in Action では、この「共感」概念が授業実践のなかでどう具体化されているかが検討されている。筆者の論考『概念分析の社会学2』第10章も同様に、しかしより「学級」概念に焦点化したかたちで、それを――理想の追求や歴史的文脈ではなく――授業というコンテクストに差し戻し、それがどう用いられ・いかなる実践的機能をはたしているかを追求したものである。(森 一平)

16. 裁判員制度

094 松村良之・太田勝造・木下麻奈子 編 『日本人から見た裁判員制度』 2015 勁草書房
095 柳瀬 昇 『裁判員制度の立法学─討議民主主義理論に基づく国民の司法参加の意義の再構』 2009 日本評論社
096 橋内武・堀田秀吾 編 『法と言語―法言語学へのいざない』 2012 くろしお出版
097 神谷説子・澤康臣 『世界の裁判員―14か国イラスト法廷ガイド』 2009 日本評論社
藤田政博 『司法への市民参加の可能性―日本の陪審制度・裁判員制度の実証的研究』 2008 有斐閣

 裁判員制度が施行されて7年が経とうとしている。ある日突然裁判所に呼び出され、人の人生を左右する決定に携わらなくてはならなくなるかもしれない私たちは、この制度についてどのように考え、かかわればよいのだろうか。>>解説文を開く

095『裁判員制度の立法学─討議民主主義理論に基づく国民の司法参加の意義の再構』 は、そもそも裁判員制度の目的について、その立法過程で「争い」があったことを描き、あらためて討議民主主義によって制度の意義を解釈しようとする試みである。何が制度の意義だと考えるのかは制度の評価の仕方にも大きな影響を与えるはずだが、じつは必ずしも十分に議論が尽くされているとは言えないことがわかる。

 他方、制度にどのような意義を見いだすにせよ、その評価のためには実証的な研究が欠かせない。094『日本人から見た裁判員制度』 は、一般の市民や弁護士が裁判員制度をどう受けとめ、評価しているかについての貴重な実証分析である。もちろん、「人びとが賛成/反対しているかどうか」と「制度が必要かどうか」は独立の問いであるけれど、材料がなければ考察もできない。また、実際に裁判員が参加することになる法的な言葉のやりとりがどのようなものかを知ることも重要である。096『法と言語―法言語学へのいざない』 は、法言語学という研究領域の紹介をとおして、言葉のやりとりの研究が法の研究にとっていかに重要かを教えてくれる。なにより、裁判員の考えが判決へと反映されるのは、評議で自分の意見を述べるという具体的な言葉のやりとりをとおしてのことにほかならない。ここから、では評議のやりとりをどう設計したらよりよいコミュニケーションが可能かという関心も出てくる。093『裁判員裁判の評議デザイン―市民の知が活きる裁判をめざして』 では、模擬評議の詳細な分析にもとづいて評議デザインの具体的な提案がおこなわれている。

 冒頭の問いに対する明確な答えはまだない。私たちはもうしばらく、制度に参加しながら同時に考察を続けていかなければならない。ここに挙げた著作はどれもそのための手がかりとなるし、まずは気軽に097『世界の裁判員―14か国イラスト法廷ガイド』 をパラパラめくって他の国の制度を面白く知り、国ごとの違いに驚いてみるのもいいだろう。(小宮友根)

17. サービスデザイン

098 黒須正明 『人間中心設計の基礎』 2013 近代科学社
099 マーク・スティックドーン、ヤコブ・シュナイダー (郷司陽子ほか訳) 『THIS IS SERVICE DESIGNTHINKING. Basics - Tools – Cases 領域横断的アプローチによるビジネスモデルの設計』 2013 ビー・エヌ・エヌ新社
100 ノーム・ワッサーマン(小川育男 訳) 『起業家はどこで選択を誤るのか:スタートアップが必ず陥る9つのジレンマ』 2014 英治出版
102 村田智明 『問題解決に効く「行為のデザイン」思考法』 2015 CCCメディアハウス
テリー・ウィノグラード(瀧口範子 訳) 『ソフトウェアの達人たち』 2002 ピアソンエデュケーション
HCDライブラリー委員会 『人間中心設計の海外事例』 2013 近代科学社
HCDライブラリー委員会 『人間中心設計の国内事例』 2013 近代科学社
ジュリア・カシム、平井康之ほか編著 『インクルーシブデザイン:社会の課題を解決する参加型デザイン』 2014 学芸出版社
山崎和彦、上田義弘ほか 『エクスペリエンス・ビジョン』 2012 丸善出版

 顧客理解(問題発見)、顧客モデルの構築、それを踏まえたデザイン、評価。こうした一連のプロセスを回すことを「人間中心設計」098『人間中心設計の基礎』 、 「行為」のデザインに焦点化したものとして 102『問題解決に効く「行為のデザイン」思考法』 と言い、それをサービスの設計にも導入したものをサービスデザインと呼ぶ 099『THIS IS SERVICE DESIGNTHINKING. Basics - Tools – Cases』 >>解説文を開く

もともとは、ソフトウェアやウェブデザインの使いやすさについて、認知工学や人間工学をベースに設計するユーザビリティの議論にルーツを持つ。多様なビジネスの対象に、様々なアクターがこのようなプロセスを実践することをデザイン思考と呼ぶ 101『発想する会社!』 。 そのゴールは、新たな価値の創造、つまりイノベーションの達成である。

 さて、一見社会学に関係なさそうなものをなぜ挙げているのかと疑問に思う人もいるかもしれない。これらをピックアップした理由は2つある。まず、これらのテキストは、私たちの日常生活に溢れているコト・モノをいかにデザインすべきかという問いに対峙してきた専門家・実践家が、人間(の行為の)理解とその応用について経験を純化し、諸科学の知見を適宜導入しつつ、伝達可能なものに仕立てあげてきた痕跡群であることから、「人間(の行為)はいかに理解可能か」という問いに対する特定の目的のもとでのアプローチとして非常に興味深いからである。もうひとつは、協働的達成としてのデザインという観点から、そのエスノメソドロジー研究を始めようとする動機を持つ者にとって、上記のテキスト群は、その出発点として読むことができるからである。本書に寄稿した論文は、以上の観点と動機のもとで、特に顧客モデルを作る際の実践的方法について書いた。なお、当該論文では起業コンテスト場面を扱ったため、起業(及びデザイン)における協働的側面について学ぶために 100『起業家はどこで選択を誤るのか』 を執筆に先立ち読んだ。起業家はよく「イノベーション」を旗印にすることを考えれば、同じくイノベーションに指向した人間中心設計・デザイン思考はどこかで結びつくのかもしれない。そうしたことを考えれば、デザインのエスノメソドロジー研究は、様々な展開がありえそうである。(秋谷直矩)

18. スポーツと格闘技

103 石岡丈昇 『ローカルボクサーと貧困世界―マニラのボクシングジムにみる身体文化』 2012 世界思想社
105 倉島 哲 『身体技法と社会学的認識』 2007 世界思想社
106 井上 俊 『武道の誕生』 2004 吉川弘文館
107 渡 正 『障害者スポーツの臨界点:車椅子バスケットボールの日常的実践から』 2012 新評論
108 Kissmann, U.T. Video Interaction Analysis : Methods and Methodology 2009 Peter Lang
宇都宮 徹壱 『ディナモ・フットボール―国家権力とロシア・東欧のサッカー』 2002 みすず書房
田嶋 幸三 『「言語技術」が日本のサッカーを変える』 2007 光文社
杉山 茂樹 『4‐2‐3‐1 ― サッカーを戦術から理解する』 2008 光文社
山際淳司 『スローカーブを、もう一球』 2012 角川書店
吉井妙子 『神の肉体 清水宏保』 2002 新潮社

 スポーツ、特に格闘技を社会学的に検討するといった場合、近年立て続けに日本語で読めるエスノグラフィが公刊されている事実は注目に値する。そのなかでもここで取り上げるのは、 105『身体技法と社会学的認識』 103『ローカルボクサーと貧困世界―マニラのボクシングジムにみる身体文化』 104『ボディ&ソウル―ある社会学者のボクシング・エスノグラフィー』 の3冊である。>>解説文を開く

 この3冊に共通していることを2つに絞って言うならば、1つは格闘技を扱うためか、身体感覚の参照がよくなされるということであり、もう1つはフィールドワークや社会における当該格闘技の位置付けの検討に莫大な時間と労力をかけていることである。この3冊を特徴づけるために「身体感覚の言語化」を一方の極に、もう一方の極を「社会と当該格闘技の関係づけ」に置くならば、前者寄りなのが105、後者寄りなのが104、中間に103 といったところだろうか。 108 Video Interaction Analysis : Methods and Methodology にはシンドラーの The produce of «vis-ability» という論文が収録されている。シンドラーが生み出した概念である «vis-ability» は、「見ること」と「できること」を包括する概念なのだが、こうした「見ること」についての能力も身体感覚についての記述の一部であるかもしれない。もしそのように考えれば、筆者が 002『概念分析の社会学2』第13章で展開した議論は、この座標でいえば「身体感覚の言語化」寄りと読まれる可能性が高い。だが、筆者が言語化したのは身体感覚ではない。では何を記述したのかといえば、002 に直接あたっていただきたい。

 次の2冊を読めば、スポーツ社会学の面白みを知ることができると同時に、他にもありうるスポーツや格闘技の概念分析への緒を掴むことができる。1冊は歴史に関する著作である。ご存知のとおり戦後日本は民間情報教育局(CIE)主導のもとで、学校教育における武道教育が廃止される。こうした事実だけ見れば、講道館柔道は軍部と近い存在だったという推測をしてしまいがちだが、事情はもっと複雑であった。柔道の歴史を扱った研究書は複数あるが、ここでは 106『武道の誕生』 を挙げておいた。さて、現代の柔道指導者たちはこうした歴史にどれだけ通じているのだろうか。もう1冊は筆者の現在の関心に最も近い障害者研究に関する著作だ。筆者がどうしても気になるのが 107『障害者スポーツの臨界点:車椅子バスケットボールの日常的実践から』 である。本書はエスノメソドロジーの議論に大きく影響を受けている。本書を読めば、障害者スポーツの実践に埋め込まれた概念の豊富さに圧倒されるだろう。(海老田大五朗)

19. 観光と視覚メディア

113
遠藤英樹・堀野正人・寺岡伸悟 編 2014
ナカニシヤ出版
109 D. ブーアスティン (星野郁美・後藤和彦訳) 幻影 イメジ の時代―マスコミが製造する事実』 1974 東京創元社
110 J. アーリ・J.ラーセン (加太宏邦訳) 『観光のまなざし(増補改訂版)』 2014 法政大学出版局
111 D. マキァーネル (安村克己他訳) 『ザ・ツーリスト――高度近代社会の構造分析』 2012 学文社
112 C. ノウルズ編 (後藤範章監訳) 『ビジュアル調査法と社会学的想像力』 2012 ミネルヴァ書房
Rouncefield, M. & Tolmie, P., eds. Ethnomethodology at play 2013 Ashgate

 観光を消費社会論や近代化論に位置づけて論じるという社会学的な視座の古典が、109 幻影 イメジ の時代─マスコミが製造する事実』である。観光客は目の前の現実よりもメディアによって構築されたイメージで満足しているとする「擬似イベント」論は、今日なお多くの研究者が共有するところである(「がっかり名所」を考えてみよ)。このような主張に対して、観光客はメディア言説化されていない「裏舞台」(ゴッフマン)にこそ「真正性」を見出そうとしている、とエスノグラフィーをもとに反論したのが111『ザ・ツーリスト――高度近代社会の構造分析』 である。>>解説文を開く

 とはいえ「真正性」もまた商品化されるのが観光であるのだから(「隠れ家レストラン」を考えてみよ)、現代の観光において、「真擬」を問うことそれ自体がもはや成立しないともいえる。観光の対象がそもそもどのようにして文化的に形成されていくのかを論じた110『観光のまなざし』 の主張を学史的に理解するには、前者2冊と併せて読む必要がある。113『観光メディア論』 はメディアと観光の関係を現代日本の事例において考察した近刊である。上記3冊の影響力は本書においても強く見て取ることができる。

 視覚的行為そのものの研究を主題に試みた拙稿『概念分析の社会学2』第14章の主張は、112『ビジュアル調査法と社会学的想像力』 と対比されることにより、より鮮明となろう。エスノメソドロジー研究の「まなざし」と、オーソドックスな社会学のそれとを比較してみてほしい。なお、『ザ・ツーリスト――高度近代社会の構造分析』 の第7章は管見の限り観光学の領域において初めてエスノメソドロジーの名が登場した文献であるが、その内容は極めて表面的な試みにとどまっている。(酒井信一郎)

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