
このページは、エスノメソドロジー研究の論文集、酒井・浦野・前田・中村編『概念分析の社会学』
(ナカニシヤ出版・2009年4月刊行予定)を ご紹介するものです。
... したがって必要となるのは概念分析である、こう本書は考えます。あたかも私たちを圧倒するかのような知識に学びながら、そしてとりわけその概念の結びつきをたどりながら、専門的概念と常識的概念との間に現に存在しまた存在しなければならないはずの関係を記述していくこと ―― このような作業こそが、専門的概念やその具現としての高度な科学技術的環境に対する私たちの関係を測るにあたって必要となると本書は考えているのです。 (「はじめに」 より)各章で扱われるトピックは(生物学的人種や遺伝学的知識、ポルノグラフィや化粧など)さまざまですが、どの章も「私たちが自らのあり方や自らの経験や行為を理解するさいに用いている概念の用法を記述しよう」という、一つのはっきりしたねらいをもって書かれています。 ですから、
ここには、「立ち読みコンテンツ」として いくつかのセクションの本文も掲載してありますので、購入や教科書採用などを検討する際の参考にしていただければ幸いです。
|
![]() 酒井泰斗・浦野 茂
・前田泰樹・中村和生 編 『概念分析の社会学 ──社会的経験と人間の科学』 ナカニシヤ出版 2009年 4月 2,800円 A5判 290頁 ISBN 978-4-7795-0314-6 |
※詳細目次は エスノメソドロジー・会話分析研究会の会員著作紹介ページ
に掲載されています。
※本書表紙に使用させていただいた作品は宮山香里さんによるものです。プロフィールや他の作品は ウェブサイト Change by Gradation
(blog
) をご覧ください。
「立ち読みコンテンツ」は、校正前の原稿に もとづいて制作しています。引用・参照は 書籍からおねがいします。
[浦野 茂]
本書は、科学や医療、法などの専門的な知識のただなかにおかれている私たちの存在と経験、行為について、さまざまな具体的トピックを切り口にしながら記述していく試みを収めています。
人間についてのさまざまな専門的知識のもと、私たちの存在と経験、行為のあり様はこれまでにきわめて大きな変容を経てきました。また現在もそのただなかにあります。したがって本書は、このような変容に焦点をあてているとひとまず言うことができます。しかしこのような変容については、すでに数多く研究が積み重ねられてきました。そのため本書を手に取られた皆さんのなかには、なにを今さらとの印象をもたれる方もいるかもしれません。そこで本書の目指すところを明らかにしておく必要があるでしょう。
本書は、現代の社会と人間に進行しつつあるさまざまな変容めぐる最新レポートを目指しているわけではありません。あるいはまた、このような変容についてこれまで把握されてはこなかった歴史的由来を発見しようというのでもありません。たしかにこのような変容と取り組みながらも、本書の主眼はむしろ、そうした変容を現に生きている私たちのだれもが知っているはずの事柄をあらためて思い起こさせることの方に置かれています。このような本書の目指すところについて、基本的論点のいくつかに立ち返りながら紹介してみましょう。
私たち人間はみずからを記述する能力をもつ動物です(Sacks 1972 36 = 1989 105)。大げさな言い方に聞こえるかもしれませんが、べつにこれは誇張でも何でもありません。私たちは四六時中、さまざまな他者との関係やそのなかでの行為、経験をさまざまに記述しています。あるいはまた生活のそのつどの状況において、声に出さずとも私たちは自分が何者であり何をしているのか、またなぜそうするのかを把握しているはずです。記述することはこのように私たちの社会的経験にとって欠かすことのできない契機となっています。
けれども記述の重要性はこれにとどまりません。そもそも私たちの社会生活の諸相は、それについて私たちが行なう記述ぬきには存在しえないからです。言いかえれば、私たちの社会的経験はすべて、それについて私たちがもっている概念による記述とともにはじめて現にある仕方でありえているのです。たとえば、投票制度という概念を欠いた人々にとっては投票するという行為を行なうことは論理的に不可能であることを考えてみれば、このことはわかるはずです。あるいは、何らかの社会的アイデンティティ概念を欠いた社会に住んでいるだれかについて、それにもかかわらずこの人物がこのアイデンティティの獲得を願っているなどと述べることのナンセンスを考えてみてもよいでしょう。いずれにしても私たちの社会的経験は、私たちがもつ概念を用いた記述を不可欠な構成要素とすることで成立しているのです。そして本書の具体的課題はこの事実から導き出されています。
その紹介かたがた、すこし考えてみましょう。私たちの日々の生活をそのつど意味あるものとして組織している常識的概念と、科学や医療、法などの専門的知識において用いられている概念とは、どのような関係にあるのでしょうか。このように問われて思い浮かぶのは、たとえば「曖昧な常識的概念」と「正確な専門的概念」といった対比かもしれません。しかし、このような対比については注意が必要です。この対比がそもそも意味をなすのは、常識的概念と専門的概念がともに同一の前提のもとに捉えられているかぎりにおいて、言いかえれば両者がともに同じ仕事を行なうものとして捉えられているかぎりにおいてのことです。概念とは独立に存在しかつ同定できる何かがあらかじめ与えられており、そのうえで常識的概念と専門的概念とがともにこれを記述すべく競っている ――こんなイメージがここからは浮かんできます。しかし私たちの社会的経験にかんして、このようなイメージは適切なのでしょうか。
ここで日常言語学派の哲学者 G. ライルのことばに耳を傾けておきましょう。ライルは、「中傷効果」というある混乱の経験について述べています。中傷効果とは、日常的概念と専門的概念との関係についての誤解から生じる混乱の経験のことです(Ryle 1954 72 = 1997 118)。たとえば、私たちがひごろ経験している事柄が科学によると実はそうではないのだなどと聞かされたり、そう思いこんでしまうというような経験はなかったでしょうか。あなたはいま机の上に置かれた書物の文字を読んでいると思っているかもしれない。けれどもそれは、じつは脳神経系のプロセスにすぎない。あなたはきのう椅子から滑り落ちたせいで右肘に痛みを感じているかもしれない。けれどもそれは、じつは神経繊維のひとつであるC繊維の発火にすぎない、などなど。
このように、私たちが実際に経験している事柄がじつはその通りではなくむしろダミーだったのだと考えさせられてしまうことが中傷効果です。ここにあげた例はたしかに机上の経験かもしれません。けれどもこうした机上の経験においてですら、私たちはときに目が眩む思いをしたり、あるいは心を引き裂かれるような思いすらしたりすることがあります。そうだとすれば、高度な科学技術が具現された環境にさらされたときに私たちがもつだろう経験については、もはや言うまでもないでしょう。
さてそのうえで、ライルはこのような経験に対するいわば処方箋として、概念の実際の使用法に注意を喚起していきます。一組の常識的な概念がそれぞれどのように連関しあいながら現実に用いられているのか。専門的概念が意味をなすとすれば常識的概念とどのような関係になければならないのか。内部的に連関しあった専門的概念群の関係についてどのように考えればよいのか。ライルはこのような点をそれぞれ明確にしていきます。
このように、さまざまな概念の実際の用法を記述し、またそうした用法から一連の概念の関係を把握しなおしていく作業のことを、彼は概念分析と呼んでいます。そしてこの概念分析をつうじて明らかになってくることのひとつは、常識的概念と専門的概念との関係は、私たちの手とペンチの関係のようなものであるということです(Ryle 1954 35 = 1997 54)。手はそのままではナットをしっかり固定することはできません。けれども だからといって手をペンチと取り替えてしまえ、などということにはなりません。ペンチによってナットを固定することができるためには、そもそも手を使うことができなければならないからです。手とペンチを競合的する道具として対比させるようなイメージは、専門的な道具じたいが手足の使用に依存していることを見落としてしまっているわけです。
これと同じことは常識的概念と専門的概念の関係についてもあてはまります。そもそも専門的概念を用いることができるためにはまず常識的概念を用いることができなければなりません。またとりわけ人間の存在や経験、行為にかんする専門的概念の場合、専門的概念を用いてなにか意味ある言明を行なうためには、常識的概念を前提とし、またそれとなんらかの仕方で関連づけられていなければなりません。すでに述べたように、私たちの生活の諸相は常識的概念とともにはじめて意味ある形をなして存在しています。したがって常識的概念に依拠しないかぎり、人間についての専門的知識はその対象すら手にすることができないはずなのです。
このようにみてくると、概念分析とは概念の用い方をただ単に記述し整理するだけのものではないことが分かると思います。いやむしろ、そのような記述と整理こそがじつはきわめて重要な意義を担っているということがわかるはずです。
専門的知識のただなかでまたそれとともに暮らしていかざるをえない私たちにとり、専門的概念やその具現としての高度な科学技術的環境に対していかなる関係をとるべきかという問題から逃げることはできません。ときに私たちにも、専門的知識に魅了されるあまり語りすぎてしまうといったことがあるかもしれません。あるいは反対に、専門的知識に圧倒されて自身の経験を語ることに困難を感じることもあるかもしれません。専門的概念に対する関係のとり方の問題は、さまざまな姿をとって私たちに課題を突きつけてくるのです(詳しくは本書の各章を参照してください)。
それでは、このような問題に直面したとき、私たちにとってどのような態度が必要とされるのでしょうか。専門的知識に対して目と耳を閉ざすことができるのであれば、それはそれでよいでしょう。けれどもそれが可能であるとはもはや思えません。あるいは、このような知識に対してなにか外在的な文脈に基づいてこれを批判することが必要なのでしょうか。社会学のなかでも数多くなされてきたそのような作業の意義はたしかに否定できません。けれどもそのような作業において、専門的知識と私たちの生活とのあるはずの関係あるいは専門的概念と常識的概念との間に存在している論理的関係がそのつどの具体的文脈に即して記述されていくことはありません。ということはまた、そもそもの問題の核心をなしている中傷効果(たとえば先ほどの魅了と圧倒)にしても、じつはその内実まで解き明かされているというわけではないのです(以上の論点については、社会構築主義に対する I. ハッキングによる批評がよい参考になります〔1999 = 2006〕)。
したがって必要となるのは概念分析である、こう本書は考えます。あたかも私たちを圧倒するかのような知識に学びながら、そしてとりわけその概念の結びつきをたどりながら、専門的概念と常識的概念との間に現に存在しまた存在しなければならないはずの関係を記述していくこと ―― このような作業こそが、専門的概念やその具現としての高度な科学技術的環境に対する私たちの関係を測るにあたって必要となると本書は考えているのです。
さてこの点を確認したうえで、人間がみずからを記述する能力をもつ動物であるという点に戻りましょう。
すでに述べたようにここから導かれるのは、次の事柄、すなわち私たちの生活の諸相は私たちがもっている概念による記述を不可欠な構成要素として成立しているということでした。私たちがそのつど何者でありえ、どのような経験と行為をもちうるかは、私たちがどのような概念をもちどのような記述をなしうるかという事柄と切り離して考えることはできないということです。そしてだからこそ専門的な知識が、その概念を通じて私たちの存在と経験、行為のあらたな可能性を作り上げ、また裁ち直していくということもありうるのです。
人間と社会についての専門的知識を形づくる概念を自身の存在と経験、行為の概念的前提として用いること、あるいはそのような知識が具現された技術的環境のなかに身を置くこと。さまざまな機会を通じて、専門的な概念は私たちが何者として何をなしうるのか、あるいはさらには何をなしえたのかについての理解をあらためていきます。そしてこのことは再び、そのような人間を捉えるべくあらたな専門的概念の形成へと跳ね返っていくということもあるはずです。このようなプロセスを科学哲学者 I. ハッキングはループ効果と呼びました。そしてこの視点の中心に据えられているのもやはり、人間についての専門的概念がもっている、自己記述する動物である人間にとっての特異な位置づけなのです(Hacking 1996)。
もちろんだからといって、専門的概念だけを追っていけばよいというのでは単純化が過ぎますし、それではそもそもどうして専門的概念が問題だったのか見失われてしまっていると言わざるをえません。
さきほど中傷効果について触れたとき、このように述べました。すなわち、人間についての専門的概念とそれを用いた記述が有意味でありうるのはそれらが常識的概念とそれを用いた記述を前提にしているからである、と。これと同じことが、いまの場合にもあてはまります。人間についての専門的概念がそのものとして人間の存在と経験、行為の概念的前提となりうるとしたら、それはこうした概念を用いてなされる記述がその有意味性を常識的概念に依拠しており、また実際に常識的概念を用いてなされている実践のひとつの構成要素となっているからなのです。専門的概念はそれを用いる実践を通じて、したがって常識的概念の使用のなかへと編み込まれていくことを通じて、私たちの生活の諸相に一定の形を与えていくことになるのです。
冒頭でも述べましたが、本書の課題は、科学や法などの専門的な知識のただなかにある私たちの存在と経験、行為についてさまざまなトピックを切り口に記述していくというものです。そしてこれまでに述べたことを踏まえるならば、こうした課題は、具体的な実践にもとづきながら、すなわち常識的概念とともに専門的概念が用いられていくそのしかたを記述していくことを通じて、成し遂げられるはずです。したがってこのような記述は現代社会を一望のもとに診断するようなものにはなりようもありません。また、具体的な実践に対する外在的な文脈に依拠しながらこうした実践を裁断してしまうことも避ける必要もあります。むしろこのような具体的な実践とともにあることこそが 今日の私たちの存在と経験、行為の条件についてのただの断言を超えた真摯な検討へと通じていくことになるはずだろう ── 本書はこのように考えています。
| 誤 | 正 | 備考 | ||
|---|---|---|---|---|
| ナビゲーション1 | ||||
| p.5 | Coulter 1989b | → | Coulter 1989 | |
| p.6 | P. サルトル | → | J.-P. サルトル | |
| p.8 | Coulter, J., 1989b | → | Coulter, J., 1989 | |
| ナビゲーション2 | ||||
| p.71 | 基づく | → | もとづく | 5行目 |
| p.73 | 反事仮想 | → | 反実仮想 | |
| 第3章「医療者の〈専門性〉と患者の〈経験〉」 | ||||
| p.81 | 行うわけではないでない。 | → | 行うわけではない。 | 2段落7行目 |
| 第4章「触法精神障害者の「責任」と「裁判を受ける権利」」 | ||||
| p.109 | 第2節 | → | 3-2 | 4-1。1行目 |
| p.120 | 加わっている) | → | 加わっているが) | 8行目 |
| p.128 | 犯罪と精神医学 | → | 犯罪と司法精神医学 | 読書案内の7行目。2冊目書名 |
| 第7章「優生学の作動形式」 | ||||
| p.218 | [漢字「遑」のふりがなが ズレている] |
→ | 4行目。 | |
| p.229 | 石井(2009) | → | 石井(2009a) | 6行目。本文中の参考文献挙示において、石井(2009a) と石井 (2009b) が区別されていない。 |
| p.229 | 石井(2009) | → | 石井(2009b) | 11行目。同上。 |
| p.229 | 石井(2009) | → | 石井(2009a) | 下から5行目。同上。 |
| おわりに | ||||
| p.262 | (主として会話を | → | (主として会話データを | 【1】2行目。 |
| p.265 | お返事の中で私は、 | → | お返事の中で自分が、 | 一行あき後3行目。 |
| p.266 | この課題に対して〈システム研究とゼマンティク研究〉という研究プログラムペアでもって | → | この課題に対して「社会秩序それぞれを自己構成するシステムとして把握すること」と「システム研究+ゼマンティク研究という研究プログラムペア」とでもって | 注記二段落目。 |
| p.267 | 現れることを願っている。 | → | 現れることを期待したい。 | 注記最後の文 |