日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
2013-02-02 掲載 2013-02-28 更新

鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』合評会

ここには、2013年04月27日(土)に 東京大学社会科学研究所において開催した 社会学研究互助会第六回研究会「鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』合評会」における配布資料などを掲載しています。

このコーナーの収録物 鶴田幸恵さん (配布資料  
  鶴田幸恵さん (三つの質問への回答 ←このページ
  山根純佳さん (配布資料) (討議)
  浦野 茂さん (配布資料) (討議)  
  全体討議摘要  

※本書の紹介ページがあります。あわせてご覧下さい。

「鶴田幸恵『性同一性障害のエスノグラフィ』に対する3つの質問」への回答
鶴田幸恵(千葉大学文学部 行動科学科 社会学講座)

本書に対する3つの質問:

Q1. 本書で取り組んだのはどのような課題ですか。

本書の課題は、人が性別という属性を持つことの理解可能性を記述することです。もう少し具体的に言うなら、性別という属性を持つこと自体と女/男らしさがどう結びついているかを記述することです。
 しかし、私たちが女や男であることは、多くの場合、あまりに自明なことであり、たとえ女らしさや男らしさに違和感を持っていたとしても、その属性を持つこと、そのこと自体がどのようなことであるかを言語化するのは非常に困難です。そこで、性別を変更した経験を持つ人びとの、その性別を変更する実践についてインタビューすることから、その困難を乗り越えられないかと考えました。

 本書は、これを二つの課題に分けて記述しました。

それぞれ、中心的にはどこに記されていますか。

A は第1部に、B は第2部に分割されて書かれていますが、課題は AB も 序章の はじめに に書かれています。

Q2. それぞれの課題に対して どのような答えを与えましたか。

A

これまでの相互行為に関する研究では、他者の性別は、外見におけるなんらかの「手がかり」からわかるとされていました。それに対し、性同一性障害の人たちが、そのような見方(たとえば凝視)をされた後に女か男だと判断されることを、パッシングの失敗だとしていたことを明らかにしました。彼女ら/彼らが望んでいたのは、そうではなく、一瞥で端的に、望む性別であると判断されることだったのです。このことから、性別の「一瞥による判断」と「手がかりによる判断」という、二つの見方があることを析出しました。さらに、性同一性障害の人びとが、どちらの性別であるか判断に迷うような外見をしているときの経験から、そのような外見をしている際に、「手がかりによる判断」が行われるのであり、つうじょうは、私たちは「一瞥による判断」でもって人の性別をわかるとしていると結論づけました。
 また、性同一性障害の人びとが女にも男にも見えるような外見をしていた際の経験から、「手がかりによる判断」が行われると、それと同時進行しているメインの相互行為が滞ってしまうことを明らかにしました。そこから、ゴフマンのアイディアを援用して、他者の性別がわかるという相互行為は、メインの相互行為の「地」となるような相互行為であると結論づけました。また、「地」が「図」となることはまれであり、通常はそうならないように、一瞥で女に見えた場合には女だとし、男に見えた場合には男だと見ることで、世界が女と男に二元化して見えるようになっていると結論づけました。
以上のような性別カテゴリー化の複雑さが、性同一性障害の人びとが女/男らしさに駆り立てている仕組みであることを記述することで、性同一性障害のエスノグラフィたり得ています。

B

B については、まず、正当な性同一性障害であるためには、どのような基準をクリアしている必要があるのか、ということを記述しました。ここでの基準とは、性同一性障害であるための規範です。次に、正当な男性から女性への性同一性障害であるための基準を記述することによって、性同一性障害である人びとが、いかなる人が女と名乗るのにふさわしいと考えているのかを照らし出しました。続いて同様に、正当な女性から男性への性同一性障害であるための基準を記述することで、「逆」のことをおこないました。それによって、女/男であるために必要だとされている要件を描き出しました。つまり、そもそも女/男であるとはどのようなことなのか、いかなる規範のもと、女/男であること自体が理解可能になっているのかを記述しました。
 B も、性同一性障害の当事者たち自身がきわめて道徳的な基準を設定し、当事者同士のあいだに位階秩序を作り上げ、よりいっそう女/男らしさに彩られた女/男であることに向かって駆り立てられる有り様を記述することで、性同一性障害のエスノグラフィたり得ています。
 なお、性同一性障害であるための基準=規範の析出は、サックスの成員カテゴリー化装置のアイディアを用いたものです。同様に、サックスのカテゴリーの自己執行/他者執行というアイディアを用い、性同一性障害がどのようなカテゴリーであるかを記述することも試みています。

それぞれ、中心的にはどこに記されていますか。

A の「一瞥による判断」と「手がかりによる判断」については 2章 に、性別カテゴリーの特殊性については 4章 に書かれています。

B のまとめは、終章の3 に書かれています。カテゴリーの自己執行/他者執行については、6章前半 に書かれています。

Q3. こうした課題にはどのような意義がありますか。なぜそうした課題に取り組もうと考えたのですか。

ガーフィンケルの「アグネス論文」での記述に始まる性別の「社会性」、ジェンダー論/セクシュアリティ論/クィア・スタディーズではテーゼとなっている、バトラーの言うセックスの「社会性」を、私なりに経験的に記述したいというもくろみがありました。生物学的性別は、つうじょう、服を着て日常生活を行っている際には、外見から判断できると考えられているし、私たちは見えるように生物学的性別を見ていると疑わないからです。しかし、ジェンダー研究の系譜の中に、自分の研究を位置づけた部分は、博士論文から書き換える時点で削除しました。
 なぜなら、これは限界であるのですが、私がいわゆる「ふつう」のジェンダーを生きている人びとではなく、性同一性障害の人びとの経験に依拠し、議論を展開しているからです。しかも、これは限界でもあり利点でもあるのですが、実際の相互行為ではなく、どのような相互行為が行われたかのアカウントを記述の資源にしているからです。もし可能であるなら、性別を越境していない人びとの性別を見るという相互行為に、直接接近できたらと思っていますが、解決策は他にまだ見いだせません。

 上記のような限界を持ちながらも、本研究の持つ意義は、第一に「女/男であること」および、性別カテゴリー化の特殊性を描き出せたことです。人が性別を持つということが社会的であるとフェミニズムが言ってきたことの、その「社会性」とはいかなるものであるの記述を行い、その際には、社会的性差の原因を追及するのではなく、性差があるとされていることの、言い換えるなら女と男は異なると言われることの、日常生活における規範性の記述を試みています。
 第二には、直接観察することが難しい事象について、インタビューというアプローチを用いて接近する可能性をひらいたことです。インタビューは通常、答える人の経験が語られますが、その経験を経由することで、その経験の中で行われていた相互行為がどのようなものであったかを、分析の素材としました。

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