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ここには、2013年09月07日(土)に 成城大学において開催した 社会学研究互助会第七回研究会シンポジウム「making up people:イアン・ハッキングの歴史的存在論」における配布資料などを掲載しています。
このコーナーの収録物 | 重田 園江さん (配布資料) (討議) | ←このページ |
渡辺 一弘さん (配布資料) (討議) | ||
浦野 茂さん (配布資料) (討議) |
※シンポジウムの告知ページがあります。あわせてご覧下さい。
要するに、私には矛盾を解消できず、かといってどちらかを捨てることもできない二つの原理がある。それは、「わたしたちが抱くすべての別々の知覚は別々の実在である」という原理と、「心(精神)は別々の実在の間にどんなリアルな結びつきも知覚しない」というものだ。Hume, A Treatise of Human Nature, III, Appendix 2
*日本語訳は木曾好能訳『人間本性論』第一巻326頁
またハッキング 『言語はなぜ哲学の問題になるのか』264頁に収録
意識は知覚からなる。だから知覚がバラバラなら意識はバラバラ。意識がバラバラなら、それを統一する自己や人格は出てこない。自己や人格が意識を統一すると想定するなら、あらかじめ自己や人格の統一性がないといけない。でも、自己意識を含むあらゆる意識は知覚から生じるのだから、統一的自己はどこからも生じない。たいへんだあぁ!
この問題を解決したのが、カントの「純粋悟性概念の超越論的演繹」だ、ということになっている。
ほんとなの?!純粋とか超越論的とか怪しいな。
フーコーのカント理解(「カントの人間学」は『言葉と物』の一つの核となるテーマを展開していた)。 「超越論的、と、経験的、が互いを支え合う」という読解について。
このことと、フーコー―ハッキングの「思考の可能性の枠」そのものの歴史性、という発想との間にはたいへんな飛躍があることに注意。
フーコーとハッキングのやったこと:
「合理性」の様式には日付と場所が付いて回る。(『知の歴史学』191頁)
ハッキングが言うとおり、言葉は物に秩序を強いる(「五つの寓話」『知の歴史学』85頁)。だがその強制力の源泉についてフーコーは何も言わない。「可能性の体系を規定する秩序は、思考の体系の内側では明確に表現されることがなく、ある種の「深い知識」を形成する」(『知の歴史学』203頁)というようなことだけを言う。
推奨される文献は、『言葉と物』。とくにルネサンスと古典主義時代の対比の部分。
哲学的問題の「空間」は、それらの問題提起をそもそも可能にしている条件によって、大部分決定されているのではないか。ある問題は、ある一定の概念を用いることではじめて、一個の問題として立てられる。そして、それらの概念を用いてそもそも何ができるかは、当の概念が出現してくるための前提条件によって、呆れてしまうほどに決定されてしまっている。そうした「問題の空間」のもつ性質をわれわれは認識できないが、それが容易には見通せないほどの広がりを持つこともまた確かである。問題の肯定的な 解決 solutionであれ、否定的な 解決countersolution であれ、さらには問題の 解消 dissolutionであれ、結局それらは全てそうした空間の内部で行われるのではないか。ハッキングにおいては、この「空間」が持続するタイムスパンは、長かったり短かったりする。たとえば、『言語はなぜ哲学の問題になるのか』における、観念の全盛期(17世紀)、意味の全盛期(20世紀前半)、文の全盛期(20世紀後半)の区分と、それぞれの関係はとても複雑。
「ライプニッツとデカルト」 『知の歴史学』397頁
我々がロックやバークレーをその典型と考えた思想の時代と、ファイヤーアーベントやデイヴィドソンに代表される時代との結びつきは、どのようなものであるのだろうか。我々は一方に、すでに終結してしまった一つの対象を見る。それは、我々が観念の全盛期と名付けたところの、17世紀的な哲学の営みである。……そして我々はもう一方に、我々が現代哲学と呼ぶところの、一つの開かれた、現在進行形の営みを経験している。我々はまだ、それがどの点でもっとも目覚ましいものなのかについて、はっきりとした認識に至っていない。それゆえ、これら二つを比較しようとするのは、いかにも危なっかしいことである。しかし、私はここで、これらが構造を同じくしながらも内容において異なる二つのものなのだ、と主張しようと思うのである。
構造と内容というこの語り方はかなり重々しいが、その中身は古い時代と新しい時代とを表す二つの図によって、戯画的に示すことができる。それぞれの図の中では、いくつかの「結節点node」が互いに関係しあっていて、一方の図の中でのそれらの間の結びつきは、形式的にはもう一方の図のそれと同一になっている。しかし、その結節点を占めている要素そのものは、互いに別々である。それゆえに、二つの図は構造を同じくするが、その内容において異なっている、と言われるのである。『言語はなぜ哲学の問題になるのか』第13章、248頁以下
分かりやすいので最低限の説明で。
人々を分類するカテゴリーが存在するようになるのは、人々の種類がそれらのカテゴリーに適合するようになるのとまさに同時であり、これらプロセスの間には双方向の相互作用が成り立っているのである。「五つの寓話」 『知の歴史学』117頁
デカルトの置かれた状況をもう一度考えてみよう。われわれは普通、彼を観念の世界に閉じ込められたエゴとして捉えている。そのエゴは、自分の観念に対応するものを探し出そうと試み、「いかにして私は知ることができるのか?」という形の問題について、考えにふけっているのである、と。しかし、彼の作品の奥底には、もっと深刻な危機感が潜んでいる。真理などそもそも存在するのか?観念の領域においてさえ、真理が存在するとはもはや言いきれないのである。彼がいうには、永遠真理とは「われわれの思惟の外側には存在をもたない……知覚である」(Principles: I. xlviii)。ではわれわれの思惟の内側ではどうかというと、さまざまな永遠真理はある意味で、互いに孤立した知覚なのである。「ライプニッツとデカルト」 『知の歴史学』414頁
確かにヴィトゲンシュタインは、心と身体は二つの「実体」であるとか、「心」がある特殊な事物を名指しているなどとは考えていなかった。だが多くの本質的な点で、彼はデカルトとまったく同じくらい二元論者なのである。両者はともに、心理学は、自然科学で求められるものとはまったく異なった記述の仕方や方法論を要求すると考えている。デカルトの危機感の背景にあるものが、ロック、ヒューム、カントを経て現代哲学にまで受け継がれているというハッキングの見方。問いと答えは形を変えても、背後にある「世界と思考」についての見方は根本的には同型のままということか。「哲学的心理学者ヴィトゲンシュタイン」『知の歴史学』425頁
カントの哲学は、デカルトやロックやライプニッツの場合とまったく同様に、私秘性を基礎に構築されている。人間とは、感覚印象と思考が絶え間なくその中を飛び交うエゴである。するとここには、客観性の根拠はどうのようにして見出されるのかという難問が生じてくる。この客観性の問題に対する解答は…自然学についても倫理についても同じものになっている。すなわち判断とは、あらゆる合理的人間が同じ状況に置かれたときに下すような判断でなければならない。われわれが世界について得る知識の客観性は、空間と時間、そして因果性や実体などといった、経験のある種の前提条件に由来する。道徳の領域での客観性は、われわれが(叡智的で私秘的な行為者として)他の皆に意志してほしいと望むようなことだけを意志しようとすることで得られる。理性の声は標準化の声であり、また公共的規範の声なのである。そしてこの私秘性という本質の客観性は「統覚の超越論的統一」によって、すなわちどんな思考にも「私がこれを考えている」という思考が付随することによって初めて保証されるのだ。私の思いや意識や知覚は、この世界が在るということ、あるいはこの世界に何かが、誰かが在るということと、いったいどのように関係しているのか、という問い。「いつ、どこで、なぜ、いかにして…」 『知の歴史学』271頁
ここから生じる問いは二つに分岐する。一つは認識と存在。思考と世界。意識と現実。
もう一つは自己と他者との「あるべき」つながりという問い。
カントの「超越論的」解決。実践理性と定言命法。
ハッキングは倫理の問題をどう位置づけているか。
私は、偶然、決定論、情報や統制といった概念を取り上げ、それらについてのわれわれの現在の考え方の中に組み込まれている、何が起こりえて何が起こりえないかという可能性と制約のネットワークを明らかにするという試みを行った…。
しかし、いま提案しているような研究の方向性のもとで、倫理的な概念はどう扱われるだろうか?この種類の研究をしてきたのはほぼ私一人だが、私が取り上げた例は児童虐待である。児童虐待は、単なる反道徳的な行いではない。それは現在では、絶対的な不正である。……
児童虐待は、人間の行動の種類を記述しかつ評価する、事実と価値が一緒くたになった概念である。『知の歴史学』156-157頁
『監獄の誕生』と『知への意志』における、権力と自己との関連づけ(ループ効果)
真理の編成規則──権力行使のあり方──人間の自己認識や自己規定という三つのものの関係づけ。
フーコーの倫理が持つ、これとは別の側面。別のラインからのアプローチのしかた。
道徳的な義務は、道徳的な行為者としての我々自身が構成したものであり、そのような義務のみが、同じく道徳的な行為者である我々が必要としている自由と両立可能なのだ」という考えが、イマヌエル・カントの定言命法からジョン・ロールズの正義論やミシェル・フーコーの自己陶冶にいたるまで、一貫して受け継がれている……
カント、ロールズ、フーコーは倫理学において、道徳的命令をいかにして築くか、そして、なぜ築かねばならないかを示した。(社会的)構成主義者にも同様に、「構成」の原義に近い隠喩に忠実であろうとする信条を持ちつづけてもらいたい。「多すぎるメタファー」 『何が社会的に構成されるのか』111,119頁