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2011-09-30 掲載

哲学者、エスノメソドロジーに遭う

ワードマップ エスノメソドロジー──人びとの実践から学ぶ ここには、2011年08月28日に成城大学にておこなった 社会学研究互助会第一回研究会「哲学者、エスノメソドロジーに遭う」における配布資料を収録しています。
この会は、鈴木生郎さん(形而上学) と 井頭昌彦さん(科学哲学) のお二人から 『ワードマップ エスノメソドロジー』『概念分析の社会学』 に対する感想を伺ったうえで、研究会と懇親会の中間くらいの ゆるふわ な雰囲気での意見交換・交歓を目指す、という企画でした(告知文)。 当日は 40人ほどのご参加をいただき、活発な議論が交わされました。
当初、資料の公開は予定していませんでしたが、閉会後に多数のリクエストをいただきましたので、お二人に公開をお願いした次第です。
この頁には井頭昌彦さんの配布資料を掲載しています。

このコーナーの収録物 鈴木生郎さん
  井頭昌彦さん (このページ)
  フロアとのディスカッション摘要
  告知文

「哲学者、エスノメソドロジーに遭う」配布資料(修正版)
井頭昌彦(一橋大学/専任講師)
E-mail: m.igashira[at]r.hit-u.ac.jp

【告知文より】
ゲストのお二人には、それぞれに、上記書籍(特に前者)に接して、 などを、「話題提供」と「雑談」の中間くらいの感じで紹介していただく…

(1)感想

非常にきれいな構成になっていて読みやすい(自分たちが作る時に参考になる)。
(例)「EMは実践についての学問である。」(WM, pp. iv-v)
    「実践を記述するということは、そもそもどういうことなのだろうか」
    「そもそもなぜそんなことをしようと考えるようになったのだろうか」
    「具体的にどういった記述ができるのか」
 ⇒ この3つの問いに対応した3部構成で、順に理解が深められるようになっている。

(2)哲学とEMの類似性

1 ただし、個別科学の哲学には違うモード――科学的実践のうちで取り扱われている哲学的問題そのものに、科学者と共に取り組む、など――のものもある。たとえば、生物学の哲学における「自然選択の単位問題(個体選択説vs集団選択説等)」や「種問題(種とは何か/正しくはどう定義されるべきか)」などでは、哲学者が生物学者と組んで生物学的主張を展開している。
2(私の理解した限りでは)EMは〈検討対象である実践のうちに入り込み〉〈そこで用いられている方法論を実際に使用できるものの目線で実践の記述を行う〉という点において、従来の「外部からの/押しつけ的な記述(モデル化)」とは異なる。とはいえ、EM研究の結果として提示されるoutputと検討対象としている実践とは、同一のものではない。前者は「後者についての記述」であり、その意味で後者に対してメタ的と言えるのではないか。⇒誤解であれば是非ご指摘頂き、理解を前進させたい。
3 ただし、「哲学」という分野そのものが非常に多様で幅広い様々な研究伝統からなる混成体である点は考慮すべき(たとえば、哲学史と分析哲学とでは、理論仮説の正当化に際しての境界条件ひとつとってもかなり異なっている)。それゆえ、一息に「哲学についてのEM」とやるよりは、「分析哲学についてのEM」とか「心の哲学についてのEM」といった形で細分化した方がよいかもしれない。
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(3)EMにおいては研究の「意義」はどう評価されるのか。4

4 おそらく、この疑問点は、EM、ひいては社会学そのものに対する私の不勉強・無理解の故に生じてきているものだろう。しかし、EMに関して私が聞いてみたい論点はほぼこれに尽きると言っても良い。ここが腑に落ちれば、他の論点についても芋づる式に理解が進むのではないかと考えている。
5 感覚を「本人のみが確認できる、主観的内容を持ったもの」として理解してしまうことによって生ずる他我問題その他のアポリアを解消するために、そもそも我々が感覚語をどう使っているかを見る、など。
6 一般的な意義ではなく、個別事例ごとで構わないので、「この概念実践ではしばしばこの区別が見落とされる」⇒「それが見落とされてしまうとこういうマズいことがある」⇒「だから分析する」といったストーリーがあれば、分析することの意義等が非常にわかりやすい形で理解できるのだが。
7 たとえば、研究テーマ立ち上げに際して、「お、この実践は興味深いな」とか「厳密に分析してみる価値があるな」といった判断を通して研究対象のピックアップが始まるのではないのか。
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(4)連携の1つの可能性:哲学理論の妥当性評価のためのデータ提供源として

8 もちろん、直観との整合性だけではなく、科学的に確立された知見との整合性や、広く受け入れられている世界観との整合性等も評価基準になりうる。
9 哲学分野ではこの作業がしばしば「概念分析」と呼ばれる。
10ただし、実験心理学的手法によって得られた一般人の直観をどう利用するかについては、哲学者の直観とのズレを指摘してそもそも直観に頼るやり方自体を批判するための根拠とする強硬派と、一般人の直観と哲学者の直観を組み合わせてより良い証拠生成を目指す穏健派とがおり、実験哲学者の中にも相違がある。
11 異分野融合研究というのは、連携する各研究者の取組みがそれぞれの分野で論文になるといった互恵的な形で着陸しないと長続きしない、と個人的には考えている。
12 現在私が工学者達と取り組んでいる「ロボットを使って心に関する我々の直観を修正できないか」という現在進行形の構想がこれに該当し、その中でEM者と(上述のものとは少し異なる)連携の可能性が生ずると考えている(個人的には、この構想との絡みがEMとの連携についてのメインの関心事)。 ただし、説明するのに時間がかかるので、内容紹介およびその中でEM者に協力を要請したいタスクについては、懇親会等でざっくばらんにお話しできればと思う。
13 「われわれが用いる多くの概念は、いわば「過剰規定」されている。すなわち、ある概念の了解に含まれる規定の総体には、多くの場合、一組の「必要十分条件」以上のものが含まれている。それゆえにこそ、われわれの信念体系は豊かな内容を持ち…信念体系には矛盾が生じうる。」(丹治信春「行為と自由の決定論」大森荘蔵他編『新・岩波講座哲学10 行為・他我・自由』,170)
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