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2012-11-19 掲載

マイケル・リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』マイケル・リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』合評会

ここには、2012年12月22日(日)に東京大学にて開催した 社会学研究互助会第四回研究会「マイケル・リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』合評会」における配布資料などを掲載しています。

このコーナーの収録物 中村 和生さん (配布資料 ←このページ
  伊勢田 哲治さん (配布資料) (討議)
  立石 裕二さん (配布資料) (討議)  
  全体討議摘要  

※本書の紹介ページがあります。あわせてご覧下さい。

「マイケル・リンチ『エスノメソドロジーと科学実践の社会学』に対する3つの質問」への回答
中村 和生(青森大学 社会学部)

本書に対する3つの質問:

Q1. 本書で マイケル・リンチが 取り組んだのはどのような課題ですか。

 本書でマイケル・リンチが取り組んだ課題は、エスノメソドロジーと科学社会学を認識論の伝統的なトピックへの経験的アプローチを提供する研究分野であることを示しながら、どのようにしてこれらの分野がもっと効果的にその伝統的トピックに着手できるのかという問いにかなりの注意を払っていくことを通して、いわゆる科学現象を研究するための新たな方針を指し示すことです(序 p. 9)。
 そして、この課題に取り組むための不可欠な作業として、以下の2つが行われています。

A1-1: 科学社会学における科学実践の「社会的説明」をめぐる問い

 科学社会学においては、科学の「社会的側面」に焦点を合わせることによって、科学史・科学哲学が主要な関心としては取り上げない側面を描き出して説明する試みを続けてきました。 では、このときの「社会的」とはいったいどういう意味なのでしょうか。また、そうした描写による「説明」とは、科学の実践者にとってどのような意味があるのでしょうか?

A1-2: エスノメソドロジー研究に関する、実践の理解可能性の「根拠」をめぐる問い

 エスノメソドロジーは、様々な社会現象を人々の方法(論)という観点から捉え、それを理解可能性の次元において分析し、多様な知見を提出してきました。ところで、エスノメソドロジーも、経験的研究であるならば標準的方法が備わっていても良さそうですが、その辛辣な社会科学批判はそうした手続きを否定しているようにも思えます。エスノメソドロジー研究といわゆる方法論的根拠の関係はどのように考えることができるのでしょうか。また、それが明らかにされることで、エスノメソドロジーは科学社会学も含めて科学論のテーマにどのようにアプローチすることができるでしょうか?

Q2. それぞれの課題に対して、リンチは どのような答えを与えましたか。

A2-1

 A1-1 に示した問いに対して、マートン流の科学社会学では、社会的であるとは制度的・組織的であるとみなされ、その外的側面(例:研究資金の流れ) や 内的側面(例:引用のネットワーク) を描き出されます。科学知識の社会学では、科学の知識内容の生成や興隆に利害関心や時代的風潮が結びつけられます。どちらにしても、制度や利害関心といった社会学的説明要因が用いられています。 それに対して本書では、こうした説明の対象とされた時点で見失われてしまう、科学的営為じたいの理解可能性を捉えていく方向性が打ち出されます。
 こうした理解可能性は、それに基づき、またそれを当てにしながら日々の科学活動が営まれているという点で一次的なものです。また、それに携わる実践者ならば誰にでもわか(りう)るという意味で社会的です。とはいえ、この社会性は実践者にとっては対象化されることは稀であるのが普通です。この理解可能性という水準で科学を捉えることによって、多様な科学実践のそれぞれ固有な組み立てられ方を一つ一つ紐解いていくことが はじめて可能になるのです。

 マートン流の社会学の試みについて書かれているのは 2章 p. 72~p. 85 です。ちなみに 2章 では、マンハイムの知識社会学のプログラムが数学や自然科学を対象領域に収めなかったという定説とは異なる解釈を打ち出しながら、知識社会学の方法論的問題を回避する形でマートンの科学社会学が誕生していく様も論じられています。3章 では、マートン流の科学社会学を批判して登場した科学知識の社会学がマートンと共通する説明法を採用していることを背景としながら、ブルア、コリンズ、ウールガー、ラトゥールらのプログラムが検討されています。これらを受け、5章において、科学の知識内容を捉えていこうとする科学知識の社会学や実験室研究が、その説明法に含み込まれている懐疑主義のために当の対象に迫りきれていないことが、規則にかんするヴィトゲンシュタインの解釈を題材にして主張されていきます。こうして、科学的営為にアプローチしていく新しい方向性が要請されます。A2-1 は5章全体を通して示されていると言えます。

A2-2

 A2-1 で要請された、科学現象へとアプローチしていく新しい方向性とは、エスノメソドロジーによる科学研究と言えるかもしれません。あとは、エスノメソドロジーを使って科学的営為を分析すれば良いだけだと思えるかもしれません。しかし、科学知識の社会学内外で様々に交わされた方法論をめぐる論点を背景としながら、エスノメソドロジーの研究や方法を振り返ってみれば、事態はそう単純ではありません。日々の(科学)活動を明に暗に支える一つ一つの(科学的)行為じたいの理解可能性は それに携わる実践者ならば誰にでもわかりうる、という観察からエスノメソドロジーが導きだした主張は「研究されている実践的行為の領域の外側に理解可能な理論的立場などありえない」(4章 p. 178)というものです。しかし、実のところ、エスノメソドロジーもまた、現象に対して特権的な立場をとる学問的“悪癖”をしばしば示してしまっていました。つまり、エスノメソドロジーは「研究されている実践的行為の領域の外側に理解可能な理論的立場などありえない」と主張しつつも、その方針を貫けてはいなかったのです。リンチはこのことを、初期のエスノメソドロジーや会話分析の具体的研究を取り上げて検討しながら論じています。
 そして、この、言わばエスノメソドロジーのアポリアを抜け出ていく方向性として、ポスト分析的エスノメソドロジーが打ち出されます。それは、科学のあり方に対する判断を差し控えて、方法論や認識論の用語── 観察、表象、測定、再現、説明など(リンチの言葉では「認識トピック」)── で名指される実践の営まれるあり様を一つ一つの事例において検討していくというものです。こうした研究の明快な例が示され、その指針が7点に分けて論じられます。

 初期エスノメソドロジーに孕まれた問題については 4章 p. 156~p. 181 で論じられています。会話分析に対する同様の指摘は6章全体を通して行われていますが、とくに「メンバーの直観と専門的分析」との区別をめぐって論じた箇所(p. 280~p. 292)に直接的に述べられています。ポスト分析的エスノメソドロジーは7章全体を使って提唱されており、「認識トピック」探求の方針は7章 p. 344~p. 353 で論じられています。

Q3. こうした課題にはどのような意義がありますか。なぜそうした課題に取り組もうとリンチは考えたと思いますか。

会話分析のオルタナティヴとなるエスノメソドロジー研究の提唱

 H.ガーフィンケルが『エスノメソドロジー研究』を出版してから25年経った1993年に本書の原著は公刊されました。本書6章にある通り、会話分析は、その時点で既に、知見産出が可能な経験的研究プログラムとして一定の成果をあげていました。そして、ガーフィンケル流のエスノメソドロジーには理論批判の意義は与えられたものの、非生産的な経験的研究プログラムであるという印象が社会学内にはありました。
 そのような状況下でのポスト分析的エスノメソドロジーの提唱は、知見産出が可能なエスノメソドロジーは会話分析だけではないのかというイメージを払拭し、ガーフィンケルを時には批判的に継承しながらガーフィンケルのアイデアを生かす方向性を打ち出したと言えます。なお、日本語版序文に挙げられている通り、この方向性の下に諸々の経験的研究をリンチは行っており、それらを編纂して公刊する計画もあるようです。

科学社会学の新しい経験的研究のあり方の提案

 本書の結論である、観察、表象、測定、再現、説明などの「認識トピック」の探求は、科学知識の社会学や実験室研究の成果をふまえた上で新たに打ち出されたものでもあります。本書3章にある通り、本書が公刊された頃までには、実験室に代表される科学の現場を取り上げる研究は様々な理由で下火になっており、ラトゥール(『科学がつくられているとき』)に代表されるような、言わば理論的アプローチが台頭してきていました。(本書でも、このラトゥールによる方向性を意識した記述がしばしば見受けられます。)
 こうした中、ガーフィンケルとヴィトゲンシュタインに拠りながら、理論の検証としての事例研究という枠組に乗ることのない経験的研究の方向性として打ち出されたのが「認識トピック」の探求です。この探求は、とくに実験室研究が持っていた、実際に科学が行われている場への注目を継承しつつ、その場で行われている事柄の理解可能性を丹念に描いていこうとするものなのです(7章)。

社会学理論とエスノメソドロジーの関係性の再考

 日本でも1990年代には、エスノメソドロジーは、当初の拠り所の一つであったA.シュッツの多元的現実論を捨ててヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論を採用するに至ったなどと言われるようになっていました。しかしながら、ガーフィンケルじしんはあまりヴィトゲンシュタインには言及していません。上記の主張は、本書と J.クルターの『心の社会的構成』に端を発していますが、その内実がそれほど掘り下げて論じられたわけではなかったように思えます。
 本書では、ヴィトゲンシュタインを「拡張」させて新しい経験的研究への導きの糸とする(5章)際の事前作業として、エスノメソドロジーの発展にとってのシュッツの役割を限定しています(4章)。リンチはこの作業を通して、エスノメソドロジーはシュッツの社会理論から何を学び、そして何を批判したのかを明らかにしています。また、それに先立って、エスノメソドロジーを理論検証の1プログラムとみなした上で批判を繰り広げるなどしたギデンズなどの理論家たちへの応答も章の半分程度を使って行われています(1章)。その中で、社会学に端を発するエスノメソドロジーという研究の問題関心が丁寧に説明されてもいます。こうした点で、本書は、社会学理論の系譜におけるエスノメソドロジーの位置づけを再考させてくれるものともなっています。

STSへの貢献可能性

 さて、日本語版序文においてポスト分析的エスノメソドロジーの方針の下に行われた諸々の経験的研究が挙げられていると述べました。これらが対象としたフィールドは多種多様であり、光学や表面科学といったいわゆる科学領域から、小学校における理科実験や法廷における法医学、さらには有効投票数の算出といったいわゆる社会領域まで扱われています。このことは、科学の現場だけにこのトピックの生きる場所を限定する必然性はないという探求方針を如実に現していると言えます。
 ところで、科学哲学や科学史、科学社会学などの成果を活かして、科学技術の社会に対する影響などを捉え、そこに孕まれる問題を明確にし、解決策をもだしていく志向をSTS(科学技術社会論)と呼ぶことが定着してから10年以上経ちます。さしあたりは社会領域において行われたポスト分析的エスノメソドロジーは、この志向にたいして間接的な貢献ができるのではないでしょうか。例えば、「冷めた科学」と疎まれることもある理科実験の生き生きとした姿は、その実践者にも科学教育に関わる政策論者にも豊かな素材を提供するかもしれません。本書では、こうした経験的研究の方針を打ち出しているに過ぎませんが、その実現可能性を垣間見せてくれているとも言えます。

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