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この頁には、清水雄也さん・小林佑太さんの論考を掲載しています。
本稿は、一橋大学大学教育研究開発センターの刊行物 『人文・自然研究』14号に掲載予定論文の掲載決定版であり、掲載予定誌から許可を得て本サイトに先行公開するものです(掲載決定通知:2019年9月28日)。校正前の非正式版であり、正式版(2020年3月刊行予定)とは字句修正レベルで内容が異なる場合があります。
2020.4.1 追記:
一橋大学のリポジトリにて正式版が公開されました。論文等での引用や参照は正式版からおこなってください。
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19世紀末,ドイツの生理学者Johannes von Kriesは,適合的因果(adäquate Verursachung)1 という概念を提唱した.この概念は,同時代において,法学と社会科学方法論という2つの分野に取り入れられ,前者においては(いくつもの批判と修正を経つつも)長く受け継がれたのに対し,後者においては早々に忘却され,一部の学説研究者以外にとっては馴染みの薄いものとなった.本稿が主題とするのは,この概念である.
社会学者の佐藤俊樹は,最近の著作『社会科学と因果分析——ウェーバーの方法論から知の現在へ』(佐藤 2019)において,適合的因果の概念に注目し,その社会科学方法論に対する意義を歴史的側面と現代的側面の両面から論じている.社会科学方法論において一度は忘れられた適合的因果論の重要性を,歴史的文脈から整理し直し,現代の新しい議論との接続まで示そうというわけである.もう少し詳しくいえば,佐藤の主たる目的は,Max Weberの社会科学方法論に関する議論を,彼に影響を与えたKriesの議論を踏まえて再構成し,それによってWeberの時代から現代へと至る社会科学における因果分析の伝統に統一的な描像を与えることである.佐藤自身も認めるとおり,Weberの方法論的著作にKriesの影響があること自体は,学説史分野では知られたことである.しかし,Kriesの議論自体にまで深く踏み込んだ論述を展開している研究は少ない.その点で,佐藤の議論は貴重である.
ところが,佐藤の適合的因果論に関する議論は,Kriesの議論に関する根本的な誤解に基づいて展開されており,その結果,全体として不適切なものになってしまっている.本稿の目的は,それを明らかにすることである.Kriesの適合的因果論は,歴史的にも現代的にも非常に興味深い議論である.それに目を向けさせる佐藤の仕事を引き受ける意味でも,その誤解を明示化し,精確な理解に基づく適合的因果論を再び現代的議論の俎上に上げる準備としたい.
本稿の構成は次のとおりである.まず,第2節で,Kriesの適合的因果論と,それに関連する重要概念について説明する.紙幅の都合上,Kriesの議論のうち,ごく基本的な部分しか扱えないが,本稿の目的を果たすにはそれで十分である.その後,第3節で,佐藤の主張がKriesの議論を基本的な点で誤解していることを明らかにする.最後に,第4節で,本稿が展開する佐藤批判の妥当性について何点か補足し,結語とする2.
まず,Kriesについて簡単に紹介しておこう.Kriesは,19世紀後半から20世紀序盤にかけてドイツで活躍した生理学者であり,特に視覚(二重作用説や色順応の理論)の研究などで知られている(Buldt 2016).また,Kant主義的な学者としても知られており,新Kant派の学者として紹介されることも多い3 (杉森 1973: 151; Heidelberger 2001: 177; Pulte 2016: 112).とりわけBernd Buldtは,彼の哲学的立場を生理学的Kant主義と呼んでいる(Buldt 2016: 221).Kriesは,確率の基礎論に対する貢献でも知られており,1886年に確率論に関する主著である『確率計算の諸原理』を公刊している(Kries [1886] 1927).Kriesの確率論は,古典的確率論に代わり頻度説が主流となっていく中間的な時代に登場したもので,古典的確率論が依拠した等確率の原理などに対して独自の批判と提案を行なっている(Kamlah 1987; Pulte 2016; Zabell 2016).これは,論理的解釈の先駆的業績とも見られている4 (杉森 1973; Fioretti 2001; Heidelberger 2001).
『確率計算の諸原理』を刊行したのち,Kriesは,そこでの議論の一部を応用した論文「客観的可能性という概念とその若干の応用について」(Kries 1888=2010)を著し,そこで因果性に関する独自の理論を提示した.これこそが,ここで取り上げる適合的因果論である5.適合的因果論は,Kriesが確率に関する議論の中で用いた客観的可能性(objective Möglichkeit)という概念に基づいて構築されている.ゆえに,適合的因果論を精確に理解するためには,この概念を理解することが不可欠である.そこで,以下では,客観的可能性の概念を説明したのち,適合的因果論の説明へと進みたいと思う.
Kriesは,客観的可能性の概念を構成するにあたって,法則論的決定(nomologische Bestimmung)と存在論的決定(ontologische Bestimmung)という対概念を導入する.これらは,世界(あるいは特定の系)の在り方が決定される2つの仕方のことである.Kriesは,惑星運動を例に挙げ,運動を支配する重力法則が法則論的決定に当たり,実際にどのような質量が存在し,それらが特定の時点で,空間上のどこに位置し,どのような運動状態にあるのか,といった特定的状態が存在論的決定に当たるとしている(Kries [1886] 1927: 85-6]).また,Kriesは,『確率計算の諸原理』第2版序文において,この対概念について次のようにも述べている.
『諸原理』の中で初めて鋭くなされた法則論的現実決定と存在論的現実決定の区別でもって,私はその当時,何か新しい考えを表現したのではなく,様々な領域,とりわけ数理物理学において自明なものとして前提されているものを表現したつもりだったのである.例えば,しばしば数理物理学では,法則は運動を決定する微分方程式として現れるが,存在論的決定は積分定数として現れる.(Kries [1886] 1927: XV)
ここでは,物理学において,微分方程式が法則論的決定を表し,積分定数が存在論的決定を表すと説明されている6.より一般的な仕方で特徴づけるならば,次のようになるだろう.すなわち,任意の系について,その時間発展に関する決定が法則論的決定であり,特定時点におけるその系の状態に関する決定が存在論的決定である.なお,法則論的知識は法則論的決定についての知識,存在論的知識は存在論的決定についての知識である.
これに加えて,客観的可能性の概念を理解するためには,Kriesが採用している「現実に生じるすべての出来事は,あらかじめ存在する諸関係の全体をとおして,必然的にもたらされる」(Kries 1888: 4=2010: 137)という理論的前提についても押さえておく必要がある.このような決定論的前提を置いた場合,特定の出来事の生起/非生起に関する確率(Wahrscheinlichkeit)は,主観的なものと理解されざるを得ない.特定の出来事が起こるか否かということが決定されているならば,世界それ自体に確率的な不定性はないはずだからである7.この意味で,確率は,それを語る者が世界について何らかの知識を欠いているということに基づくものである(Kries 1888: 4=2010: 137-8).
これは可能性(Möglichkeit)についても同様のはずである.しかし,Kriesは,客観的なものとしての可能性を考えることができるという8.決定論的前提を置いたとき,いかにして客観的可能性などというものを考えることができるのだろうか.Kriesは次のように述べている.
私たちが或る帰結を,一般的で概括的に記述された諸条件に関連づけた途端に,この概念は1つの意味を獲得する.或る状況下で,或る出来事が起こることも起こらないこともあり得るということ,つまり,どちらも客観的に可能であるということは,前提となる状況の記述が,いくつかの異なる展開の余地を含むような一般的で細密でないものである場合には,充分な根拠と理解可能な意味をもつ主張となる.(Kries 1888: 5=2010: 138)
Kriesによれば,特定の結果が,粗く(「一般的」に)記述された条件へと関連づけられるとき,客観的な意味での可能性というものを語ることができる.先行状況を完全に細密な仕方で記述するならば,その後の展開について複数のパターンを考える余地はない.しかし,先行状況を粗く記述した場合,その分だけ,その後の展開に不定性が生じることになる.上で論じた概念を用いて表現するならば,先行状況に関する記述とは存在論的決定に関する記述である.このため,「客観的可能性に関する命題にはつねに法則論的内容の知識が表現されている」(Kries 1888: 6=2010: 138)ということになる.なぜなら,特定の存在論的決定からどのような結果がもたらされるかというのは,まさに法則論的決定の問題だからである(Kries [1886] 1927: 88-9).このように,客観的可能性とは,存在論的決定に関する粗い記述と,法則論的決定に関する知識または想定の組み合わせに基づくものとして理解されるのである.そして,この種類の主張は客観的なものであり得る,というのがKriesの着想である9.
Kriesは,上に述べたような,複数の結果が生じる余地のことをあそび(Spielraum)10 と呼ぶ(Kries 1888: 7=2010: 139).この概念を用いていえば,或る出来事が客観的に可能であるというのは,その出来事の先行状況が含んでいるあそびの中に,当該の出来事の生起が含まれているということである11 (Kries [1886] 1927: 89).そして,Kriesは,客観的可能性の大小を,あそびの概念によって特徴づけている.例えば,或る状況記述によって生じるあそびの中に,特定の出来事の生起が含まれているとしよう.このとき,その出来事の生起と非生起のあそび全体に占める割合が,それぞれ半分ずつであるならば,その出来事が生起する客観的可能性は1/2である,ということになる12.このように,或る出来事の生起の客観的可能性は,その出来事の生起が,先行状況が含むあそび全体のうちに占める割合によって,大小比較したり,数値化したりすることができるのである13.
以上のような客観的可能性の概念を用いて,Kriesは適合的因果論を展開した(Kries 1888=2010).まず,Kriesは,因果関係を個別的ないし具体的なもの(いわゆるトークンレベル)と一般的ないし抽象的なもの(いわゆるタイプレベル)という2つの種類に分ける(Kries 1888: 20-1=2010: 147).この区別は,現代の因果論においてもしばしば前提とされるものである.たとえば,特定の人物が特定の期間にわたって喫煙したことが,その人の肺ガンを引き起こしたとすれば,これは具体的因果である.それに対して,喫煙が一般的に肺ガンの原因になるというのは抽象的因果である.この区別をした上で,Kriesは,具体的因果と抽象的因果を「関連づける」ことによって,特定の具体的因果を適合的なものと偶然的なものに分類するという議論を展開する.この議論を理解するには,そもそも,なぜそのような区別をしようとするのかを理解しておく必要がある.最も重要なのは,適合的因果論は基本的に責任帰属の文脈で意義を持つものであるという点である.具体的因果に適合的なものと偶然的なものがあるという区別は,因果があっても責任がないようなケースについて合理的に説明するための議論の一部として導入されたものなのだ14.
Kriesは,具体的因果の概念については,現在でいうところの反事実説(counterfactual theory)によって理解している(Kries 1888: 24=2010: 149).因果の反事実説によれば,「出来事cが出来事eの原因である」というのは(簡単にいえば)「cが起こらなければeは起こらなかっただろう」という意味である15.しかし,責任帰属について考えるとき,反事実説的な因果理解だけでは不充分であるように思われるケースがある.Kriesが挙げるのは以下のようなものである.
一人の乗客を運ぶ御者が酔っ払って,または居眠りをして,そのために道に迷い,それからその乗客が雷に打たれて死んだとすると,上で仔細に検討した意味で,御者の居眠り(または酩酊)は乗客の死の原因となった,ということができる.御者が決められたとおりに御していたなら,馬車は雷雨のときに別の場所にいたわけで,乗客は無事でいただろうということには疑問の余地がない.(中略)たしかに,この特殊な事例において,最終的な結果の誘因はその契機であろうが,しかし,一般に,御者が目覚めているときでも,眠っているときと同様に,乗客は同じように雷に打たれて死ぬことがあろう.(Kries 1888: 25-6=2010: 150)
このケースのポイントは,御者の居眠りと落雷による乗客の死の間には具体的因果関係があるにも関わらず,何か別の重要な意味で,居眠りをすることと雷に打たれることの間には関係がないようにも思われるということである.つまり,御者が目覚めていようが眠っていようが,雷に打たれるときは打たれるのであって,その意味では両者には関係がないように見えるというわけである.これは,責任帰属の文脈でいえば,落雷を受けたことによる乗客の死亡について居眠りを責めるのは不当であるように思われるという問題である.このことは,別のケースと対比することで明確になる.
ところが,例えば,上記の例をまた使うが,馬車がひっくり返って,乗客がその結果として負傷または死亡したときは,話はまったく違う.この場合,御者の居眠りと事故のあいだには,単に個別的なものだけではなく,一般化され得るものとしての因果関係をも推定できる.(Kries 1888: 26=2010: 150)
このケースでも御者の居眠りと乗客の死亡という2つの出来事の間に具体的因果関係があるという点は同様だが,こちらの場合,転倒による乗客の死亡について居眠りを責めることは特に不当ではないように思われる.そして,転倒ケースにあって落雷ケースにないものを,Kriesは「一般化され得るものとしての因果関係」と呼んでいる.つまり,個別的ないし具体的な因果関係とは別のレベルの,一般的ないし抽象的な因果関係である.上で言及した「具体的因果と抽象的因果を関連づける」という議論がここで登場する16.そして,具体的因果関係が抽象的因果関係を伴うということの意味は,上の箇所に続けて次のように述べられている.
たしかに,御者のその過失は必然的に馬車の転倒のような事故を引き起こすものではないが,しかし,一般的に十分至当なものであって,そういうことを引き起こす傾向があり,その可能性または確率を高める,と主張されるであろう.(Kries 1888:26=2010: 150)
ここで,抽象的因果の有無が客観的可能性の概念と結びつくことになる.居眠りと落雷の間には抽象的因果関係がないのに対し,居眠りと転倒の間にはそれがあるというのは,つまり,居眠りをすることは一般的に雷に打たれる可能性は高めないが転倒する可能性は高めるということを意味しているのである.ここからわかるように,Kriesの抽象的因果理解は,現代的にいえば,確率上昇(probability-raising)によって因果性を特徴づける確率説の一種である17.
このように,Kriesは,具体的因果と抽象的因果を区別し,具体的因果については反事実説を,抽象的因果については確率説を採っている.その上で,特定の具体的因果関係を抽象的因果関係と関連づけることによって,責任帰属の直観や実践に合致するような分類を構成する議論を展開しており,そこでなされる区別こそが適合的因果と偶然的因果(zufällige Verursachung)の区別なのである .適合的因果と偶然的因果に関するKriesの特徴づけを簡単に整理してみれば,以下のようになる.(ただし,小文字のxとyは具体的な出来事トークンを表し,大文字のXとYはそれらに対応する抽象的な出来事タイプを表す.)
[適合的因果] | xが原因でyが結果であるような具体的因果関係は,Xの生起がYの生起する確率を高めるとき,適合的である. |
[偶然的因果] | xが原因でyが結果であるような具体的因果関係は,Xの生起がYの生起する確率を変えないとき,偶然的である. |
御者のケースでいえば,御者の居眠りと落雷による乗客の死の関係は偶然的因果関係で,御者の居眠りと転倒による乗客の死の関係は適合的因果関係であるという対応関係になる19 (Kries 1888: 25-8=2010: 150-1).以上が,Kriesの適合的因果論の基本的な内容である.
本節では,佐藤の論じている適合的因果論が,前節で説明したKriesの議論を正しく捉えたものになっていないことを示す.佐藤の議論は,Kriesの議論を直接参照していながら,元の概念規定や理論構成を大きく逸脱してしまっている.以下では,まず適合的因果の概念に関する直接的な誤解を指摘し,次に関連する重要概念に関する誤解について述べる.
佐藤は,適合的因果論が因果関係を同定するための方法論であると考えている.このことは,たとえば,「仮定を用いて因果を経験的に同定するという,適合的因果の本来の考え方」(佐藤 2019: 43),「J・v・クリースの因果同定手続きの方法論,『適合的因果構成 adäquate Verursachung』」(佐藤 2019: 115),「適合的因果は,仮定を用いて因果を経験的に同定する方法だといえる」(佐藤 2019: 123),といった表現に現れている.そして,その手続きは次のようなものであると説明される.
適合的因果構成という枠組みは,因果を(a)反事実的に(=反実仮想の形で)定義した上で,(b)条件つき確率の差で測るものだ.具体的にいえば,原因候補Cと結果Eの間に因果があるかどうかを,原因候補Cがある場合とない場合との結果Eの出現確率の差で判定する.(佐藤 2019: 34)
つまり,佐藤は,適合的因果論とは因果同定の方法論または枠組みであり,それは,反事実説的な意味での因果を確率上昇の有無によって特定するようなものであると理解しているのである.
しかし,前節で確認したことからわかるように,Kriesの適合的因果論は因果関係を同定する方法や枠組みではない.むしろ,適合的因果/偶然的因果の概念は,関連する具体的因果関係と抽象的因果関係の両者が同定されている場合に適用できるものであり,佐藤の見方は明らかに誤解である.さらに佐藤は,(Kriesの適合的因果論という)「この方法は分析哲学や統計学のなかでさらに発展をとげて,統計的因果推論という数理・計量手法の分野にまで成長している」(佐藤 2019: ix)という学説史的な見解も提示しているが,これも誤解に基づいた無理のある主張である.Kriesの適合的因果論が,因果関係を発見したり正当化したりすることを眼目とするものではない以上,そもそも現代的な因果推論とは異なる種類の議論だからだ.
このような誤解は,少なくとも部分的には,具体的因果と抽象的因果の区別がKries的な適合的因果論の出発点になっているということを十分に捉えてないために生じているように思われる.たとえば,上で引用した「因果を(a)反事実的に(=反実仮想の形で)定義した上で,(b)条件つき確率の差で測る」(佐藤 2019: 34)という説明は,一見,Kriesの議論の要点を捉えているように見えるかもしれない.因果の反事実説と確率という2つの要素は,たしかにKriesの議論の要となっているからである.しかし,前節で見たように,Kriesの適合的因果論は,反事実説によって定義された因果関係を確率的連関によって判定するというものではなく,反事実説によって理解された具体的因果を,確率説的に理解された抽象的因果と関連づけることで,適合的なものと偶然的なものに区別するという議論なのである.具体的因果/抽象的因果の区別を適切に導入しなければ,この議論は構築できない.そして,佐藤の論述にはそれが欠けているのである.
適合的因果論に対する誤解は,偶然的因果の説明にも現れている.佐藤は,偶然的原因を「疑似原因(贋の原因)spurious cause」(佐藤 2019: 121-2)と同一視し,その上で,「疑似原因は,計量分析でいう『疑似相関 spurious correlation』にあたる」(佐藤 2019: 151)と述べている.つまり,偶然的原因とは疑似相関のことだと論じているのである.擬似相関(擬似因果)とは,実際には因果関係がないところに,共通原因(交絡因子)の存在などによって生じる相関である.しかし,上で述べたように,Kriesの議論における偶然的因果とは,具体的因果として実際に成立しているもののうち,抽象的に見ると確率上昇関係が認められないようなもののことである.偶然的因果はあくまでも(具体的なレベルで成立している)因果であり,それを擬似相関と混同するのは致命的である.このように,佐藤における適合的因果の概念に関する理解は,Kriesの議論とは根本的に異なるものになってしまっている.
佐藤は,客観的可能性についても様々な点で不適切な理解を提示している.その中でも特に重大なのは,この概念の前提となる法則論的決定/存在論的決定という対概念に関する誤解である.既に述べたとおり,この対概念はKriesの適合的因果論を理解する上で重要なものであり,佐藤も法則論的/存在論的という対概念にはくり返し言及している.佐藤は,法則論的/存在論的の区別を次のように説明している.
広い意味では,v・クリースのいう「法則論的」は,その時点の知識において,ある事態や対象に関して成立していると考えられている,一般的に定義できる性質をさす.「存在論的」はそれ以外,すなわち(その時点の知識において)その事態や対象でのみ成立していると考えられている性質をさす(『確率計算の諸原理』前掲S.86など).(佐藤 2019: 142-3)
ここでは,「法則論的」という性質と「存在論的」という性質があり,前者は,特定の事態や対象だけでなく一般的に成立するような性質,後者は,その事態や対象でのみ成立するような性質であると述べられている.ここでの説明も精確とはいえないものだが,それ自体はKriesの論述(Kries [1886] 1927: 86)をほぼそのままなぞったものであり,原文を踏まえて好意的に読むかぎりは,元の議論から大きく逸脱しているようには見えない.ただし,ここでの論述だけを見たときに,それが不適切でないとしても,それは,佐藤がこの箇所について正しく理解しているということではない.なぜなら,佐藤は,国内の先行研究において,法則論的知識が法則についての知識,存在論的知識が事実や史実についての知識と解釈されてきたことについて不適切だと批判しているからである(佐藤 2019: 141, 146-7, 158).もし,ここでのKriesの論述を正しく理解するならば,佐藤が批判しているような解釈が,別段不適切なものでないことがわかるはずである.したがって,佐藤は,すでにこの箇所について誤解しているものと見られる.実際,そうでなければ,この後に見るような決定的な誤解は生じないはずである.
それでは,法則論的/存在論的の区別に関する決定的な誤解はどこにあるのか.それは,上の引用箇所でいえば,「その時点の知識において」と表現されている点に関わっている.以下のような論述において,このことは明らかである.
両者の組み合わせは,個々の事実や対象によってちがってくるだけではない.区別の線引き自体が,現在時点の知識に応じて時間的に変化する.(佐藤 2019: 145,傍点省略)
この区別の可変性ゆえに,特定の事態や対象ごとに個別的なものが残りつづけるだけではない.各時点での法則論的知識の内容が変わるたびに,一般的/個別的の区別が書き換えられる.(佐藤 2019: 146,傍点省略)
ここでは,特定時点での知識状態に応じて,法則論的なものと存在論的なものとの境界が変動するとされている.また,法則論的知識の内容の変化に応じて,一般的/個別的という区別が書き換えられるとも述べられている.そして,佐藤は,この区別の可変性が「最も重要な論点」(佐藤 2019: 146)だという.しかし,この理解はKriesの議論と一致しない.Kriesの用語法において,法則論的決定とは特定の系が示す挙動の法則性に関する決定であり,存在論的決定とは特定時点における系の状態に関する決定である.このように,法則論的決定と存在論的決定は,そもそも種類の異なる概念なのである.したがって,この対概念の区別が時間的に変化することなどということはあり得ない20.
さらに,佐藤は,あそびの概念を,「『法則論的/存在論的』の可変性から帰結する,『存在論的』な性質の非決定性(不定性)にもとづく」と説明する(佐藤 2019: 159).また,あそびの原理は,ベイズ更新と同じ考え方であるとも述べている(佐藤 2019: 158-60, 198).しかし,存在論的な性質(決定)の不定性は,法則論的/存在論的の区別の可変性から帰結するものではない.すでに述べたように,Kriesの議論において,存在論的決定に関する不定性は,その記述の粗さに基づくものである.そして,そのような一般性に基づいて,複数の出来事が生じる余地,すなわちあそびが生じるのである.当然,あそびの原理もベイズ更新とはまったく異なるものである.こうして,法則論的/存在論的の区別に関する誤解は,あそび概念の誤解にまで及んでいる.これらの概念を正しく捉えていなければ,客観的可能性の概念についても正しく理解することはできない.
以上のように,佐藤がKriesに帰しつつ論じている適合的因果論は,実際にはKriesの議論とはかけ離れたものとなってしまっている.本稿では,なぜそのような誤解が生じたのかということについて詳しく検討することはできない.しかし,どのような理由からであれ,Kriesの適合的因果論に関する大きな誤解を含むことは,佐藤の議論全体に対する評価にも,重大な影響を与えないわけにはいかないだろう21.
本稿が佐藤の議論に対して述べた批判は,Weberとの比較を欠いているがために不充分であると見えるかもしれない.佐藤の議論における第一義的な題材は(書名にも現れているように)Weberの方法論だからである.しかし,そのことは本稿の指摘を無効化するものではない.それは,佐藤自身が,本稿で検討したような適合的因果論を,明示的にKriesのものとして提示しているからであり,また,KriesとWeberの適合的因果論を同一視しているからである.たしかに,佐藤は,KriesとWeberの議論にいくつかの相違点があるという指摘もしているが,それらは比較的小さな相違として扱われている.基本的に,WeberはKriesの適合的因果論を「全面的に採用」(佐藤 2019: 144)した,というのが佐藤自身の見解であり,むしろ,最も強調されている主張でさえある22 .
また,佐藤の論述の中には,その箇所だけを見ればKriesの議論の説明として間違っていない部分も含まれている.特に,元の文献に書いてあることを,ほぼそのままのかたちで提示している箇所は当然そうなっている.しかし,部分的にKriesの論述と一致している,ということは佐藤によるKries理解の正当な擁護の基盤にはならない.Kriesの議論から重要な点で大きく逸脱した論述が無視できないほど多く提示されている以上,むしろ,それは佐藤の説明が内的に整合していないことを示すものである.
草稿に対して,太田勇希,小田和正,小野裕亮,酒井泰斗(五十音順)の各氏から詳細かつ有益なコメントをいただいた.このおかげで,本稿の精確性と可読性は大いに向上したはずである.また,『社会科学と因果分析』読書会における参加者たちとの議論も,本稿の構成を考える上で大きな手がかりとなった.なお,本稿で提示した適合的因果論に関する説明は,2017年に開催された日本社会学理論学会の第12回大会にて「然るべき因果という難題——適合的因果理論の意義と課題」と題して発表した研究の一部に基づくものである.発表時に参加者たちからいただいた質問や批判が,説明の工夫につながった.これらの方々に厚く御礼申し上げる.