日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

作成:20180621 更新:20180903

酒井泰斗「ルーマン解読8:馬場靖雄さんと『近代の観察』を読む」
(2018年10月3日、11月7日、12月5日、朝日カルチャーセンター新宿)

この頁には、2018年10月から12月に朝日カルチャーセンター新宿にて開催する「ルーマン解読8」講義における講義概要や質疑応答などを収録しています「ルーマン解読」講座全シリーズの紹介。 馬場靖雄さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。

概要
第一回講義(2018.10.3)
第二回講義(2018.11.7)
第三回講義(2018.12.5)

概要

講義概要

 「ルーマン解読」連続講座の最終回として、1992年に刊行された論文集『近代の観察』を取りあげます。1980年以降、ルーマンは自らの研究人生の集大成となる2つの著作シリーズ(社会の理論+社会構造とゼマンティク:計13巻)を続々と刊行していきましたが、この論文集は、その真っ最中(1990-91年)に行われた一連の講演を元にしたものです。
 論文集全体のテーマは──ギデンズの著作の邦訳タイトルを借用すれば──「近代とはいかなる時代か」であり、上掲2シリーズを補完するとともに、それらを理解するための補助線を示してもくれます。ただしルーマンは、先の問いに対して「この問いには答を出すべきなのか/そもそも出しうるのか」との疑念も提起するのですが。

 そこで本講義では、

なお、これまでの講座を受講されていない方も、問題なく受講していただけます。

ゲスト講師紹介
馬場靖雄(大東文化大学社会学部教授)
京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了.専門は社会システム論、社会学史。
主な著書: 『ルーマンの社会理論』(勁草書房、2001年)ほか。
翻訳:N.ルーマン 『社会の社会』1(共訳、法政大学出版局、2009年)ほか

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著作概要
(馬場靖雄)

Q1. 本書で ニクラス・ルーマンが取り組んだのは どのような課題ですか。

 これまで本講座に参加し、あるいはルーマンの著作ないし紹介文献を繙かれたことのある皆さんなら、ルーマンは全体社会(Gesellschaft)の主要な分化様式を「環節分化/階層分化/機能分化」の三つに区分しており、18世紀西欧に始まる近代社会は、機能分化によって特徴づけられる云々と(一応は)主張しているのをご存じでしょう。このテーゼは社会学の世界である程度「定説」として受容されると同時に、特に近年では厳しい批判に曝されています。
 ITの普及・進展とグローバル化が急速に進みつつある現代は、もはや機能分化(とりあえず、経済、法、政治、科学 …… の「専門分化」と考えておいてもよい)という視点では捉えられなくなっている。今や、一度は分化した各領域が複雑に絡み合い、融合する新しい社会編成原理を考えねばならない云々。本書は「セカンド・オーダーの観察」「偶発性」等のルーマン理論の鍵概念を駆使しつつ、すでに早い段階から登場してきたこの種の批判に応答することを通して、ルーマンなりの近代社会理解を明らかにしようとするものです。

Q2. それぞれの課題に対して ルーマンが与えた回答はどのようなものですか。

 ルーマンは「機能分化体制としての近代社会は終焉を迎えつつあり、今やそれに代わる新たな社会構想が求められている」といった類の議論を退けます。そのそも「機能」とは、或る問題に対する等価な代替選択肢を探究する思考法・コミュニケーション様式を意味しており、したがって「機能分化に取って代わる新たな秩序の登場」という発想自体が、機能に定位した社会編成原理を前提にする/そのような社会編成を導くものに他ならないからです。したがって機能分化の「次」はありません。近代社会の編成原理である機能分化は或る意味、ヘーゲル=コジェーヴ=フクヤマが提起したように、「歴史の終わり」に他ならない。ただし「大きな物語の終焉」「歴史の終わり」に対してすでに早い段階から批判されてきたように、この種の主張は根本的なパラドックスを孕んでいます。「もう次はない」という指摘自体が、新たな時代の、新たな体制の到来を示すメルクマールとして呈示されてしまっているからです。
 ルーマンが本書冒頭から、一時期リオタールなどの名とともに喧伝された「ポストモダン」論に対してアイロニカルな態度を示しているのも、まさにそれゆえにです──リオタールの『ポストモダンの条件』の中では、新たな社会秩序像を先駆的に示す論者の一人として、ルーマンが(ある程度)肯定的に援用されているのですが。

Q3. こうした課題に取り組むことには どのような意義がありますか。

 私たちの生活が、社会が、世界が、急速に変化しつつあるのは、誰しも認めるところでしょう。先にも述べたように、現在生じている社会と世界の大転換の兆しとしてよく挙げられるのは、ITの進展と普及、グローバリゼーション、テロとゲリラ戦の蔓延、少子高齢化、地球環境問題の深刻化、などでしょう。これらの個々の問題が深刻化しているのみならず、それらの相乗効果によって、私たちが所属する人類の状態そのものが何らかの臨界点に達して、大いなるカタストロフィが、あるいは変革の時が訪れるのではないか。こう思われてくるのは、むしろ自然なことでしょう。そのような予感を表現するために最近でもしばしば用いられるのが、「パラダイムシフト」や「シンギュラリティと」いった語彙群です。これらの語彙が盛んに口にされ、論じられているのをみれば、私たちは、木村敏が統合失調症患者の精神状態を記述するために用いた表現を借用するならば、「アンテ・フェストゥム」(ante festum=祭りの前)状態の真っ只中に置かれていることがわかります。
 来たるべき祭り(大いなる転換の発生)に備えて/祭りを乗り切るために/祭りの到来を促進するために何をなすべきが。もう一つ、フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンの楽曲のタイトル(ミサ通常文に基づく)を借用すれば、ワレラ死者ノ復活ヲ待チ望ム(Et exspecto resurrectionem mortuorum.)──今現在「常識」「当然のこと」として世に君臨しているものがまもなくその地位から追い落とされ、すべてが新たな審判に服するはずだ云々。それが、ルーマンをはじめとする「グランド・セオリー」に──「そんなものは役に立たない」と揶揄されながらも──何らかの関心を抱き続きている私たち(少なくとも、この講座に参加されている皆さん)の心象風景ではないでしょうか。
 このアンテ・フェストゥムは未来へと開かれた、期待と不安が充満する、生じつつある変革に自分も参与しているという「選ばれてあることの恍惚と不安」(これは、太宰治が引用したヴェルレーヌの言葉でした)を実感できる、ある意味ではすばらしい時間であるとも言えます。しかし同時に私たちは、祭りなど永遠に到来しないのではないかという密かな不安に苛まれてもいないでしょうか。世界は変化し続けている──しかし「常に変化する」というこの状態が、このまま何ら変化することなく永遠に続いていくのではないか。どんな新しいことが起ころうとも、決定的な突破口などもたらしてはくれないのではないか。私たちは、アンテ・フェストゥムの中に閉じ込められてしまっているのではないか。来たるべきものへの期待と願望だけが常に増幅されてゆき、それらがか叶えられることは決してない.そしてその結果、焦燥感だけがいや増していく──近代社会学の創設者の一人であるエミール・デュルケームは、近代社会特有のこの状態を「アノミー」と呼んだのでした。ボードレールが短い、しかしきわめて示唆に富む批評の中で「現代生活の画家」、近代社会を常に変転していく生活様式として捉えた上で、その不安定性からの救済を、科学技術の進歩などではなく芸術の内に求めたのも、同じ問題意識に基づいてのことでした。私もまた同様の疑念を拭いきれないがゆえに、「シンギュラリティ」といった語を無条件に使用する気にはなれないのです。
 本書は決して、近代を超える新たな展望を呈示したり、各人がそのような展望を抱きうるためのヒントを与えてくれるものではありません。しかし性急に「新たなもの」を求めるのではなく、一歩立ち止まって変わりゆくものと変わらないものとを弁別し見極める作業も、激変の最中に居る私たちには必要なのではないでしょうか。
 「われらに、変えうるものを変える勇気を、変えることのできないものを受け入れる智慧を与え給え」──これはアルコール依存症からの回復を目指す自助グループで用いられているスローガンだそうです(「ニーバーの祈り」と呼ばれる)。本書を読み解くことによって、そのような勇気と智慧の一端を会得してもらえればなどと、不遜な希望をも抱いている次第です。

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第一回講義(2018.10.3)

講義概要

[一部抜粋]

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質疑応答

Q101

馬場
受講者
酒井

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