日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

作成:20167021 更新:20170118

酒井泰斗「ルーマン解読4:高橋 徹さんと『マスメディアのリアリティ』を読む」
(2016年10月05日・11月02日・12月07日01月11日、朝日カルチャーセンター新宿)

この頁には、2016年10月から12月にて朝日カルチャーセンター新宿にて開催する「ルーマン解読4」講義における質疑応答などの一部を収録しています。 高橋徹さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。

概要
第一回講義(201610.05)
  • Q101 報道・広告・娯楽について
  • Q102 二次観察とマスメディア
第二回講義(2016.11.02)
  • Q201 二つの現実とは
  • Q202 他者言及/自己言及とは
  • Q203 メディア論における技術的契機
  • Q204 ラディカル構成主義について
第三回講義(2017.01.11)

概要

「ルーマン『マスメディアのリアリティ』解読」概要

 ルーマンの最晩年にあたる1995年に刊行された本書は、放送局の依頼に応じて1994年におこなった講演ノルトライン・ヴェストファーレン州の科学アカデミーで行った講演の講演録(1995年) がもとになっています。

 一方で本書は、「我々はどのような現実のなかで暮らしているのか」に関する判断材料を、他に凌駕・匹敵するもののない仕方で与えているマスメディアという制度に照らして・その観点から、現代社会のあり方を描こうとしたものであり、この点で『社会の理論』シリーズと同様の課題を持った著作だといえます。

 他方で、「社会の理論+社会構造とゼマンティク」という著作群が「近代化」をテーマとし、それを主として概念史から素材を借りて論じようとしていたのと比べると、本書にはそうした性格は薄く、またそもそも「ゼマンティク」なる術語自体がほぼ登場しません。代わりにその位置には、(「スキーマ」「スクリプト」などといった)認知科学から取り入れた術語群が置かれています。

 こうした事情に鑑みて、本講義では、

ゲスト講師紹介
高橋 徹(中央大学法学部教授)
東北大学大学院文学研究科博士後期課程修了.博士(文学).
専門はコミュニケーション論、社会システム論。近年はこれらのアプローチを政治社会学に応用している。
主な著書:『意味の歴史社会学―ルーマンの近代ゼマンティク論』(世界思想社、2002年),『滲透するルーマン理論―機能分化論からの展望』(共著、文眞堂、2013年)ほか。
翻訳:N.ルーマン『社会の社会』(共訳、法政大学出版局、2009年)、N. ルーマン『社会構造とゼマンティク3』(共訳、法政大学出版局、2013年)ほか。

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(高橋 徹)
『マスメディアのリアリティ』紹介

Q0a1. 本書で ニクラス・ルーマンが 取り組んだのはどのような課題ですか。

 ポイントになるのは、マスメディアが二重のリアリティを構成しているという点です。普通、マスメディアがリアリティを構成するといえば、マスメディアが描く現実のこと(例えば、「少年犯罪が凶悪化・激増している」といったこと)を思い浮かべると思います。そのこともこの二重性に含まれるのですが、ルーマンがまず着目するのは、マスメディアが現実のコミュニケーション過程(システム論の表現を使えば「作動」として)として構成されるという点です。これは、マスメディアの経験的な営みをどのように捉えるか、という課題だといえます。こうした課題は、一般のメディア研究では、放送制度や各国のメディア環境(有力紙・局の傾向やオーディエンスの数など)、あるいは具体的なイシューをめぐる報道のディスコースなどを実証的に調べたりすることで研究の遡上に上ることが多いと思いますが、ルーマンはこの課題に社会システム論化されたコミュニケーション論のアプローチで取り組みました。

 第二の論点は、マスメディアの「観察」によってリアリティがどのように現れるのか(マスメディア自体にとって、またそのオーディエンスにとって)という問題です。このようなマスメディアによるリアリティの構築という論点は、W・リップマンの古典的な「疑似環境」論を引き合いに出すまでもなく、メディア論に少しでも関心を持たれたことがある方にはなじみ深い論点だと思います。この問題に取り組むには、「観察者」としてのマスメディアが何をどのように観察・記述しているのかを再記述する道具立てが必要になります。そのために、ルーマンは自身の社会システム論を基本的な枠組みとしながら、マスコミュニケーション研究、メディア研究において用いられる「ステレオタイプ」「スキーマ」「フレーム」といった術語を自身の議論に組み込もうという姿勢を示しました。

Q0a2. それぞれの課題に対して、ルーマンが与えた回答はどのようなものですか。

 Q01に対する回答で述べたように、ルーマンはマスメディアが二重のリアリティを構成しているという視点をいわば本書の出発点に据えました。第1の論点(マスメディアの作動)について、ルーマンはマスメディアを社会のなかで特定の役割を担い、かつ独自の論理で作動するシステム(機能システム)として描くことで、マスメディア論をいわば社会理論の土俵に載せました。その理論的な道具立ては、政治や経済、科学のような他の領域に適用されたのと同様のもので、マスメディアのコミュニケーションを独自のものたらしめるコード(主導的な区別)を軸とするものです。平易に述べるなら、そのコードはオーディエンスの注意や関心を集める新奇性の有無だといえます。興味深いのは、ルーマンがマスメディアの内部にそのような新奇性を追求する3つの領域(プログラム領域)を見いだしている点です。簡単にいえば、報道・広告・娯楽の3領域です。報道はその内容の真実性をベースにして新たなもの(ニュース)を日々追求します。広告は、商品やサービスをオーディエンスに訴求したいという明確な意図のもとに訴求内容の新奇性を伝えようとします。娯楽においては、マンネリ化を回避しながら(つまりは新奇性を再生産しながら)日常を忘れるひとときの楽しみを提供します。実際のマスメディアの作動は、これらの諸領域の営みからなる複合体ですが、先ほどこうした3領域の区別をルーマンが自身の理論に持ち込んでいることを興味深いと述べたのは、実際にはこれらの領域にまたがる境界例ともいえそうなケースが散見されるからです。

 たったいま説明したマスメディアのコードや新奇性の追求は、それ自体がマスメディアが何をどのように観察するかを規定している限りにおいて、第2の論点(マスメディアの観察)とも重なっています。そこで重複を避けるために、第1の論点でふれた内容を避けて、もう一つの重要な論点に着目することにします。マスメディアが、その性格から特定の専門知識を前提としない一般オーディエンス向けのコミュニケーションに指向していることは明らかです。生活に忙しく飽きっぽいオーディエンスに対して、マスメディアはどのようにその伝達内容を記述すればよいでしょうか。社会システム論の枠組みでいえば、これはコミュニケーションと意識のカップリングの問題と位置づけられますが、この関係を記述するためにルーマンは認知心理学に由来するスキーマ概念を自らの議論に取り込みました。スキーマは、ある事柄をあるものとして直観的に理解させる働き

(例えば、2012年の米大統領選選挙でオバマ陣営が制作したキャンペーン動画にみられたように「円満な家庭生活を営む」オバマを「信頼に値する人物」として理解させる働き)
をします。これによって伝達者はくどくどした説明なしにメッセージの内容をオーディエンスに理解させることができます。こうしたスキーマの働きはこのように直観的なものであるがゆえに、それが当事者に自覚されることはまれです。スキーマの働きを対象化するには、当事者(観察者)を観察するセカンドオーダーの観察者を必要とするわけです。

Q0a3. こうした課題に取り組むことにはどのような意義がありますか。

 マスメディアの問題といえば、マスメディアによる「世論操作」の問題に関心を持つ方もいるかもしれません。因果的な図式に落とし込めば、

といった形になるでしょう。一般の人がマスメディアに対してもつ認識という意味で、こうした考えを「しろうと理論(lay theory)」と呼ぶ研究者もいます。ルーマンの枠組みは、このような因果関係を実際に引き起すには、きわめて大きなハードルがある、もっといえば原理的に不可能であることを示唆します。ルーマンの枠組みでは、社会システムと意識はそれぞれに独自の選択性を持った別種のシステムとみなされます。こうした認識をよく知られた(P・ラザースフェルドらによる)マスコミュニケーション研究の成果をふまえていいかえるなら、オーディエンスはそれぞれに情報に対する「先有傾向(presdispositions)」を有しており、自らが好ましいと感じる情報を提供するメディアに「選択的接触(selective exposure)」をします。したがって、マスメディアによって伝えられた情報の「影響」はオーディエンスが自らの選択性によって自ら作り出したともいえるわけです。

 それでは、マスメディアのコミュニケーションがオーディエンスの考え方を直接左右するような因果関係を仮定することを除外するルーマンの枠組みを一つの補助線として使うと、何が見えてくるでしょうか。一ついえることは、「マスメディアが世論を操作している」というテーゼそのものが一つの「スキーマ」である、という可能性です。スキーマは対象を理解する観察者の側が用いる図式です。したがって、ルーマンの枠組みでみたとき、問題の立て方は「マスメディアが世論を操作しているか否か」ではなく、「マスメディアが世論を操作している」というスキーマがなぜ稼働するのか、その社会的条件は何かという形に組み替えられることになります。

 実はルーマンは、観察者の観察図式とそれを規定する社会的条件に関する研究を知識社会学的研究(例:『社会構造とゼマンティク1・2・3』、『情熱としての愛』)として残しています。もっとも、それらの研究において問題になったのは主に書物に書き記された諸観念・概念であって、スキーマではありません。スキーマ論をマスコミュニケーション研究に導入したD・A・グレーバーは、マスメディアからの情報の洪水にさらされる現代人の情報処理を研究するためにスキーマ論に着目しました。本書『マスメディアのリアリティ』の議論も、そうした現代の情報環境を前提として共有しています。したがって、本書の議論を補助線として現代的なテーマについて考察することは興味深い思考実験になるでしょう。

 最後に一つ、そうした考察の一例にふれておくことにします。例えば、皆さんの目には2005年のいわゆる「郵政選挙」の際に演じられた「小泉劇場」はどのように映るでしょうか。「小泉首相が巧みなパフォーマンスでまんまとマスコミと有権者を踊らせた」と捉えるなら、わざわざルーマンの著作を読む必要はありません。ここでは詳細は省きますが、この問題を考えるには、独自の機能システムであるマスメディアと政治システムの相互関係、さらにはマスメディア内部に同居するプログラム領域の相互関係の視点を交えたケーススタディが必要になります。講座の担当回では、この点についてもお話しして、皆さんがご自身の関心で本書の枠組みを使ってケーススタディを試みるためのヒントを提供できればと思っています。

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第一回講義(2016.10.05)

(高橋 徹)
講義概要

I. はじめに II. 『マスメディアのリアリティ』の構成
マスメディアの二重のリアリティ[第1章]
(1) 経験的な現象としてのマスメディアのリアリティ
(2) 構成された現実としてのマスメディアのリアリティ
①報道(ルポルタージュ)[第5章]
②広告[第7章]
③娯楽[第8章]
III. ケーススタディ:小泉政権時代のメディア政治
(1) 小泉政権・略史
(2) 小泉政治をめぐる2つの問い
①政治の道徳化?
②政治とメディアの「共犯関係」?
(3) 小泉の政治戦術とマスメディア
(4) 新聞記事みにる「刺客」の流布過程
(5) インプリケーション
①「報道」と「娯楽」の境界線
②マスメディアと道徳の関係
③言説の道徳化がもたらす副作用
IV. おわりに

質疑応答.

Q1a01 報道・広告・娯楽の三区分について

マスメディアは、①報道(ルポルタージュ)、②広告、③娯楽 に区分できる、というお話がありましたが、娯楽と報道をどう区別できるのか疑問を持ちました。たとえば、スポーツ番組は娯楽でワイドショーは報道だろうと言われましたが、スポーツに関する情報はニュース番組でも扱われ「事実」として報道されますし、ワイドショーでは「事実」かどうかも分からないような情報が扱われます。三者の区別についてもう少し解説してください。
高橋
ニュース番組で伝えられるのは「どちらのチームが勝ったか」といった事実です。その情報で「ゲームを楽しむ」ことができるわけではなく、ゲームを楽しむには スポーツ番組によって試合の流れを追う必要があります。そういう意味では、「ニュース番組におけるスポーツ情報」の扱いも、ルーマンの枠組から外れるものではないでしょう。
酒井
「報道|広告|娯楽」という区別は、発信者側も受信者側も利用可能な・常識的資源としての基礎的な規範的建前だろうと思います。「報道番組は事実を伝えるものだ」という前提のうえで、番組制作者が「娯楽として楽しめるニュース番組」の制作を試みることは可能でしょうし、実際行われています。そして、そうしたときにも──というよりも、そうしたときにこそ──何を・どこまで・どのようにやってよいかに関する判断は、基礎的な規範的建前を使っておこなわれるでしょう。

Q1a02 二次の観察とマスメディアの関係について

高橋さんは論文で、「政治システムにおいては──個々人による投票ではなく──世論が、経済システムにおいては市場を観察することがセカンド・オーダーの観察である」といったことを書かれていました。一般的にこうしたことはマスメディアを経由してしか行えないだろうと思います。
他方ルーマンは、本書の最後の方では ほとんど、マスメディアではなく、セカンド・オーダーの観察の話に終始しています。
セカンド・オーダーの観察とマスメディアの関係というのはどういうものだと考えればよいのでしょうか。
高橋
今日の講義では いろいろな新聞記事などを見て、それについてお話をしました。そして「我々が-新聞記事を読む」ということを「セカンド・オーダーの観察」と呼んだわけです。市場の動きの場合だと、我々は個々の取引を直接見ることはできないので、経済指標などを通して観察するわけですが、これは個別の取引から見れば「サード・オーダー」と言えるかもしれません。
 マスコミは、自分がどのように取材し・まとめたのかをオーディエンスに提示するわけですが、現場で起きていることを「ファースト・オーダー」とするならば、記者の観察は「セカンド・オーダー」であり、それを読む我々は「サード・オーダー」の関係になるでしょう。サード・オーダーである我々は、ジャーナリストではないので、ジャーナリズムとは異なる枠組──たとえばこの講義であれば、学問的な枠組──を持ってきて、ジャーナリズムとは異なるタイプの観察をすることもできるわけです。本日は、そうしたヒントがこの本の中にあるのではないかな、ということで お話しました。
酒井
「二次の観察とマスメディア」というトピックは、第三回講義で多少は触れることが出来るのではないかと思います。ここではその前提として、〈一次/二次〉区別については、少なくとも二つのポイントに留意する必要があることを指摘しておきましょう:
  1. 〈一次/二次〉というのは相対的な術語なので、「Xは二次の観察である」と──両者を特定せずに──述べるのはよくありません。つまりこの術語は、「Bは、Aに対して 二次の観察である」というかたちで──仮にAが不明確であれ想像的であれ──使わなければなりません。
    別言すると、「Bは二次の観察である」というのは縮約表現なので、そうしたものを見かけた場合には、「目下の議論におけるAはなにか」をテクストのなかに探すのでなければなりません。
  2. 「Bは Aに対して 二次の観察」であるという言明において BとA に何を選ぶかは、BとA の関係だけによっては決まりません。目下の議論の焦点がどこにあるのかによっても、何を選ぶかは変わります。
     たとえば「政治家は有権者のことをどのような仕方で気にかけているのか」ということを論じている場合には、「政治家は、有権者の活動に対する二次の観察者である」ということが議論の出発点になるでしょうが、「そこで政治家は、マスメディアを通して・世論の形で、有権者のことを知るのだ」というところに議論の焦点があるならば、「政治家は、マスメディアに対する二次の観察者であり、有権者に対する三次の観察である」と述べることになるでしょう。
     仮にそうした「高次の観察」──二つだけでなく、三つ以上のエージェント──が視野に入っている場合であっても、結局のところは、そのつどの分析は そのつどの〈一次/二次〉のペアに照準して行われるわけですから、読者としても「議論のいまここでは、どのペアが話題になっているのか」に気をつけて読む必要があります。
 というわけなので、〈一次/二次〉という区別は、ある事柄について論じる際に、
  • それを──単独にではなく──ペアの相のもとで扱っている(という方針)と
  • 目下どのペアついて議論しているのか(という指示)
を読者に示すための術語である(また それ以上の権能はない)と考えるのがよいと 私は思います。
──と述べた上で質問に戻るならば。マスメディアに関して特別な仕方で二次の観察が論じられているのは、
  • マスメディアは、様々なエージェントに関する二次の観察を行っている
  • というだけでなく、
  • マスメディアは、様々なエージェントが それぞれの事情のもとで 自らの環境の(二次の)観察を行う際の手段を与える
という事情があるからなのでしょうね。

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第二回講義(2016.11.02)

講義概要

質疑応答.

Q2a01 二つのリアリティとは

第5-7段落に登場する「二つのリアリティ」のうち、「マスメディアが構築するリアリティ」(二つめのリアリティ=第7段落)の方は理解できたのですが、一つめの方、「マスメディアというのはどのようなプロセスで生じているか」が分かりません。なぜこれが「リアリティ」と呼ばれるのでしょうか。ルーマンはどういう意味で「リアリティ」という語を使っているのでしょうか。
※参照箇所([ ] は段落番号):

[05] マスメディアのリアリティ──そのリアルなリアリティ、とも言うことができるが──はそれ自身のオペレーションにおいて成立している。印刷されたり放送されたり、そして読まれたりしていることがそうである。送信されたものは受信される。そこには、その事前の準備、ならびに事後にそれについて語る、 というような類の無数のコミュニケーションが絡んでいる。…

[07] … マスメディアのリアリティについては、もうひとつ、二番目の意味において語ることができる。つまり、マスメディアにとって、あるいはマスメディアを通じてその他のものにとって、リアリティがいかなるものとして立ち現れるか、という意味においてである。…この理解によれば、マスメディアの仕事は、単に一連のオペレーションとしてだけではなく、一連の諸観察として捉えられる。もっと正確に言うならば、観察しているオペレーションである。

マスメディアに対するこの理解に到達するためには、その観察を観察しなければならない。一番初めに紹介した理解の仕方であれば、事実が問題とされるだけで事足りるファースト・オーダーでの観察のレベルで十分である。二番目の理解の仕方では、セカンド・オーダーでの観察者という見地を取り入れなければならない。つまり観察者を観察する者という立場である6
ここで述べられていることの骨子は、 でしょう。
②の「現実」がどういうことを指すのかは、本書全体の主題ではありますが、しかし定義的なかたちでの規定は ほぼおこなわれていません。なにも手がかりがないと先を読むのに苦労するかもしれませんので、最初の一歩となる仮の手がかりを私の方で与えておくと、「(或るエージェントにとっての)現実」という表現は、「(そのエージェントが)活動する際の包括的な前提」くらいの意味で使われているように思います。

その次に続けて([07] の後半に)、〈作動/観察〉という区別が出てくるのは、
  1. 「マスメディアの実際の活動①」を、「マスメディアの作動」として扱おう。
  2. 「マスメディアが創りだす現実②」について検討する際には、それをまるごと(「現実」一般として)取り上げるのではなく、
    • 〈或るエージェントが観察している現実〉として
    • =様々なエージェントそれぞれにとっての〈現実〉に分解して
    • =特定の〈エージェント - 現実〉ペアごとに
    扱おう。
という前提があるからでしょう。このうち2は、「〈あるエージェントが、世界・事実 をどのように観察しているか〉 - を社会学者が観察する」という構えを取ることを意味するので、だから〈一次観察二次観察〉という区別がここに登場するわけです。

以上を前置きとして質問に答えると、「マスメディアというのはどのようなプロセスで生じているか」という(①に関わる)問いは、したがって、 という問いと おなじものです。
そして、この局面で「現実」という表現が使われる場合には、これは、「実際には・現に・事実として」といった表現と互換的なものでしょう。

逆にいうと、この引用箇所はこのくらいのことしか言っていないのですが、しかしルーマン先生、文章が驚くほど ほんとうに下手ですね。

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Q2a02 他者言及/自己言及とは

7段落で、本書の出発点として、「マスメディアは、自己言及と他者言及を区別するシステムだ」というテーゼが述べられていますが、これはどういう意味でしょうか。
※参照箇所:

[07] … マスメディアのリアリティについては、もうひとつ、二番目の意味において語ることができる。つまり、マスメディアにとって、あるいはマスメディアを通じてその他のものにとって、リアリティがいかなるものとして立ち現れるか、という意味においてである。

[08] この区別をはっきりさせるためには、私たちは(常に観察者に関係づけて)一番目のリアリティと二番目の(あるいは、観察された)リアリティについて語ってみることができる。私たちはいま、マスメディアという観察されているシステムで起こっている、リアリティの二重性を観察している。そのシステムは実際にコミュニケーションを──何らかのことについて──している。何らかとは、何か別のことについて、あるいは自分自身について、である。つまり、それは自己言及と他者言及とを区別できるシステムだということである

古典的な真理論では、あるいは真理をめぐる日常的理解においても、関心が集まるのはメデイアが報道することが正しいか正しくないかということである。あるいは情報操作されているので、半分ぐらい当たってはいて、半分ぐらいは正しくないのではないか、という点にも関心が集まる。しかし、そんなことをどうして確かめることができようか。個別のケースでは、ある観察者たちにとっては、またとくに報道される側の諸システムにとっては、可能であるかもしれない。しかし毎日駆け抜けていく大量のコミュニケーションにおいて、そんなことはできはしない。私たちは、 この問題を以下の考察において一買して除外しておきたい。
私たちが準拠する出発点は、マスメディアが観察するシステムとして自己言及と他者言及を区別する必要がある、ということなのである。
  1. 「何かについて」の「何か」が「自分」であれば、その場合には「自己言及」━━「反省」という特殊な自己言及━━になるわけですが。
  2. これに関しては、ほかの講義でも何度か解説したことがあります。たとえば『社会の芸術』解読 第5講義(作動的閉鎖について)。
  3. 「自己言及」のタイプを分類して詳しく述べる場合には、[D1]=[D2] に対しては「基底的自己言及」という術語を使います(『社会システム』(1984)第11章「自己準拠と合理性」を参照)
  4. これはもはや「自己言及」という語の通常の使い方から かなりかけ離れているように思うので、私自身はこういう語用は やめたほうがよいのではないかな、と思います。

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Q2a03 メディア論における技術的契機

マクルーハンなどに代表されるメディア論には、新聞、ラジオ、テレビなどを支えている技術的・物質的なものが、人間の感覚やコミュニケーションに影響を与えてきた という、ある種の技術決定論的なスタンスがありました。他方、ルーマンの場合、たとえば 5-6段落や14段落を見ると、技術自体を決定的な影響とはみなしていないようにも思います。技術的なものに対するルーマンの捉え方はどういったものだったのでしょうか。
※参照箇所

[05] マスメディアのリアリティ――そのリアルなリアリティ、とも言うことができるが――はそれ自身のオペレーションにおいて成立している。印刷されたり放送されたり、そして読まれたりしていることがそうである。送信されたものは受信される。そこには、その事前の準備、ならびに事後にそれについて語る、というような類の無数のコミュニケーションが絡んでいる。しかしその伝播のプロセスは、技術の裏付けによってのみ可能である。そのオペレーションの仕方が、マス・コミュニケーションとして可能になるものを構造化し、区切っている。これはあらゆるマスメディア理論において注意が払われるべきことである。とはいえ、こうした機械の仕事や、 もっと言うならばメカニカルな、あるいはエレクトロニカルな内部の仕組みをマスメディア・システムにおけるオペレーションであるとは見なさないでおきたい。システムのオペレーションを可能にする条件となっているもののうち、すべてが必ずしも一連のシステムによるオペレーションの進行の一部であるとは言えない。…

[06] 技術的な装置、つまり「コミュニケーションの物質性5」については、その重要さはもっともではあるが、伝達されるものではないので、コミュニケーションするというオペレーションからは除外することとする。しかし、(理解ないしは誤解される)受信については、その概念に含むことにする。…

[14] … 輪転印刷技術の発明は、決定的な幕開けではなく、効果を強化するためのひとつのステップに過ぎない。というのも、マスメディア的効果の観察と批判は、それよりずっと以前からすでに一般的に行なわれていたからである11。必要なのは歴史的により広がりをもった観察の期間であり、原則的には、印刷メディアが効力をもつようになる時期にまで遡る。そしてなによりも、マスメディア理論を近・現代社会の一般理論のなかに組み入れていくうえで、十分に抽象的な理論的道具立てが必要となる。…

Q2a04 ラディカル構成主義に関する講師の見解は

カントに関するルーマンの見解は

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第三回講義(2017.01.11)

講義概要

第14章「公共圏」

  1. これは、19世紀の生理学者クロード・ベルナールが 生体の恒常性について論じるために提唱した概念です『実験医学序説』。のちにアメリカの生理学者キャノンがこの考えを発展させて「ホメオスタシス」という考えを案出し、それをパーソンズが参照したために、社会学における社会システム論の中でもこの術語が共用されるようになりました。事典には例えば次のように記載されています。
    【内部環境】 milieu intérieur; internal environment
    動物体内の体液を,それが安定的に維持されているという含みをこめて,内部環境という。体外を囲む本来の環境に対して,体内ではあるが,体を構成する器官や細胞にとっては体液が直接にそれらを囲む環境となっていることから,フランスの生理学者 C.ベルナールがこの考えと用語を用いた (1865) 。[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]

※引用文の箇条書きと付号は引用者に拠るものです。

引用①:153頁 公共圏

まぁ読んでも何を言っているのかわかりますまい。順を追って解説していきます。

  1. まずは ①規定として成功しているのか(たとえば「相互に到達可能」とはどういう意味なのか)、②実際に生じていることを的確に描写できるのか、といった問題がありますが、それだけではありません。ルーマンはこれにさらに加えて、「全体社会はシステムである」という主張も行うので、③〈コミュニケーション/非コミュニケーション〉という区別の下における前者の集合が「システムである」とは いったい いかなる意味においてなのか、という問題が生じます。

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質疑応答.

Q3a01

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