日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

作成:20180403 更新:20180611

酒井泰斗「ルーマン解読7:長岡克行さんと『権力』を読む」
(2018年4月2日・5月7日・6月4日、朝日カルチャーセンター新宿)

この頁には、2018年4月から6月に朝日カルチャーセンター新宿にて開催した「ルーマン解読7」講義における質疑応答などの一部を収録しています「ルーマン解読」講座全シリーズの紹介。 長岡克行さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。

概要
第一回講義(2018.4.2)
  • Q101a 心と社会
  • Q101b 言語とSGCM
  • Q102 非合法的・非政治的
  • Q103 非蓋然性とは
  • Q104 権力と選択
  • Q105 AGILと機能分化
  • Q106 SGCMと機能システム
  • Q107 リアリスティックとは
  • Q108 権力と暴力
  • Q109 シンボルとは
  • Q110 ブルデューとルーマン
第二回講義(2018.5.7)
  • Q201 帰属とは
  • Q202 コミュニケーションと行為
  • Q203 公的な理解可能性とは
  • Q204 「抽象的」とは
第三回講義(2018.6.4)
  • Q301 コード(化)とは
  • Q302 「生活世界」論の基本書
  • Q303 生活世界と技術
  • Q304 ルーマンとフッサール現象学
  • Q305

概要

講義概要

 1975年に刊行された『権力』は、〈シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア(SGCM)〉論をある程度まとまったかたちで提出したという点で、ルーマン理論の形成史において一つの画期をなす著作だといえます。これによって、「機能分化した現代社会の成立を人類史的なタイムスパンにおける社会進化として描く」という構想に コミュニケーション理論からアプローチする、というルーマンのプロジェクトの最小限の道具立て(システム分化論+社会進化論+SGCM論)が いちおう揃ったことになるからです。
 他方でこの著作は、70年代初頭に ハーバーマスとの論争によって一躍悪名を轟かせることになったルーマンからの、ハーバーマスへの返答でもあります。数あるSGCMの中でも特に「権力」が選ばれたのは、「社会システム論には、対立や闘争の側面よりも現存支配体制の維持安定と効率とを重視するテクノクラート主義的な傾向があり、支配の諸関係や権力現象についてのリアリスティックな分析が欠けている」といった批判への応答でもあっただろうからです。

こうした事情を踏まえ、この講義では、死後刊行された『社会の政治』(2000)も併せて参照しつつ、 というかたちで、この著作にアプローチしてみたいと思います。

※講義では邦訳テクスト(長岡克行 訳、勁草書房、1986年)を使用します。お持ちでない方はお近くの公共図書館に購入リクエストを出してみてください。

ゲスト講師紹介
長岡克行(東京経済大学名誉教授)
神戸大学大学院経営学研究科博士課程終了 経営学博士。東京経済大学経営学部教授を経て、現在、名誉教授。ブッパータール大学経済学部客員教授、ヴィッテン・ヘルデッケ大学経済学部教授を歴任。
著書: 『企業と組織 グーテンベルク経営経済学研究』(千倉書房、1984年)、『ルーマン/社会の理論の革命』(勁草書房、2006年)。
翻訳書: ルーマン『権力』(勁草書房、1986年)
論文: 「社会理論としての社会システム理論とハーバマス=ルーマン論争」(『思想』680号、1981年2月)[CiNii]。「ルーマンの社会の理論:全体像と現代的意義」(『社会学研究』83号、2008年3月)[CiNii]

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著作概要
(長岡克行)

Q1. 本書で ニクラス・ルーマンが 取り組んだのはどのような課題ですか。

 ルーマンは、社会を社会システムとして捉える立場を選びとって社会の理論の刷新をめざしていたのだが、しかし、システム理論を援用する社会の研究には、次のような批判が寄せられていた。すなわち、システム理論的な社会の研究には、対立や闘争の側面よりも現存支配体制の維持安定と効率とを重視するテクノクラート主義的な傾向があり、支配の諸関係や権力現象についてのリアリスティックな分析が欠けている、と。あるいはまた、社会システム理論において権力が扱われている場合には、それは合法的な権力だけに限られている、と。そしてルーマン自身も、こうした批判は、過去の経験に照らすかぎり、必ずしも不当ではないと考えていた。本書は、そのルーマンが書いた権力論であり、権力の因果的な捉え方に対する批判と、権力へのコミュニケーション理論からの接近、という点に新しさがあった。

Q2. それぞれの課題に対して、ルーマンが与えた回答はどのようなものですか1

 ルーマンは、権力は、ある人が「否定的なサンクション」を設定することができ、それによって脅しをかけることができる場合に存在しているとしていた。たとえば、圧倒的な物理的暴力をそなえていて、要求や命令に従わなければいつでも相手に危害を与えることができる場合が、それにあたる。ただしかし、ここで実際に暴力が行使されると、権力は破壊されてしまう。それゆえ、権力をコミュニケーション・メディアとして使用するには、要求者は暴力の行使とか雇用関係の解消といったこと(権力資源)を背景にして、要求者も被要求者も回避したがっているのだが、被要求者の方がもっと避けたがるような回避選択肢を構成できなければならない。そして、ここで被要求者から見て、要求への服従と彼が要求者よりももっと避けたがっている回避選択肢(要求者による暴力の行使とか、解雇されること)との差(回避したい程度の差)が、被要求者に要求提案を受容するように動機づける働きをするのである。ルーマンによれば、権力という社会的な〈力〉の由来は、ここにある2

  1. 上記(1)(2)(3)の課題にルーマンが与えていた回答をそれぞれ10行程度でまとめることは、残念ながら私(長岡)の能力ではできません。ここではただ、(1)の課題に対するルーマンの回答についてのみ、──しかし、「コード」という基本概念に触れるのは省き、したがってまた重要事項「コードとコミュニケーション過程との差異」に論及することもしないで──ごく簡単にまとめることにします。
  2. 【「再読のガイド」と「この本のポイント」について】
    本訳書を一度読まれた人はすでにご存知ですが、その人びとにとっても最良の「再読のガイド」は、本書『権力』の「日本語版への序文」であろう、と私は思います。そこにおいてルーマンは、広義の権力概念ではなくて狭義のそれを選びとる理由をはじめ、本書のエッセンス、本書刊行後にドイツでおこなわれた議論、などについて簡潔にまとめてくれています。そして、まだ本書を読んでいないひともまた、この序文から、ルーマンが考えていた「この本のポイント」を知ることができます。

Q3. こうした課題に取り組むことにはどのような意義がありますか。

  1. 本書の冒頭で扱われているコミュニケーション・メディアの理論は、1960年代末のルーマンの草稿 "Macht im System" (2012年に A. Kieserling の編集で初めて出版)ではまだ姿を現しておらず、その概略が最初に提示されたのは、1971年のハーバーマスとの論争書においてであった。おそらくはコミュニケーション・メディアの理論が未完成であったために、この草稿の出版は見送られ、「第1章 権力理論の古典的な諸前提」だけが雑誌に投稿(1969年)されたのではないか、と思われる。その後、ルーマンは、パーソンズ記念論文集に寄稿した論文(ただし、出版は『権力』の翌1976年)や本書『権力』、そして『権力』の執筆にすぐ接続して書かれた雑誌論文 "Einführende Bemerkungen zu einer Theorie symbolisch generalisierter Kommunikationsmedien" (ただし、この論文掲載号の発行は『権力』の前年)によって「コミュニケーション・メディアの理論」を完成させている。
     ところで、留意しておきたいのは、このコミュニケーション・メディアの理論は、ルーマンにとっては権力研究だけではなくて、社会の理論全体にとっても重要だったという事実である。本書『権力』でも触れられていたことだが、ルーマンはコミュニケーション・メディアの理論の完成と同時に、社会の理論は「システム分化の理論」と「社会文化的な進化理論」に新たに「コミュニケーション・メディアの理論」をくわえた、3つの部分によって構成すべきであるという見解に到達している。主著『社会の社会 (1997年)は、この3部分構成論にしたがって書かれることなる。
  2. 前述のように、ルーマンは、ハーバーマスとの論争書でコミュニケーション・メディアの理論をはやくも援用していたが、コミュニケーション・メディアとその関連問題の扱いは、パーソンズとルーマンとハーバーマスの社会の研究を分つと同時に、ルーマンとハーバーマスの社会の理論のその後の中心的な争点となっていた。したがって、ルーマンとハーバーマスの社会の理論を比較しようとする場合には、コミュニケーション・メディアとその関連諸問題を中軸にすえて進めなければならないだろう。ここではしかし、細部に立ち入ることはできないので、ルーマンのみならずハーバーマスもまた、パーソンズから出発していたことについてのみ簡単に触れておこう。
     ハーバーマスは、主著『コミュニケーション的行為の理論 (1981年)において、生活世界とシステムとを結びつける2層的な社会という社会理論構想を確立したのであるが、この社会理論構想もまた、Q01の(3)の所で述べておいたルーマンの場合と全く同じように、主要にはパーソンズの社会システムの4機能図式と交換メディア論との対決を通じて形成されたのであった。そのことは、ハーバーマスが生活世界とシステム、社会的統合とシステム統合という二分法を最初に提起していた『後期資本主義における正当化の諸問題』[文庫](1973年)や、パーソンズのハイデルベルク大学博士号獲得50周年記念の集会(1979年)でハーバーマスが発表した論文 "Handlung und System. Bemerkungen zur Parsons' Medientheorie" を見れば分かる。前者では例えば、社会的統合の諸機能はパーソンズの用語では integration と pattern maintenance であり、システム統合の諸機能はパーソンズの用語では adaptation と goal attainment であるといわれている。後者はこの表題の通り、パーソンズのメディア論を検討した論文であり、邦訳書で「制御媒体の理論」と題されている『コミュニケーション的行為の理論』の第7章第2節(3)の元となった論考であった。

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第一回講義(2018.4.2)

講義概要

酒井 長岡講義
  • 『権力』へのイントロダクション。これまでの講義を振り返って
    1. 『制度としての基本権』(1964)
    2. 『信頼』(1968)
    3. 『権力』(1975)
  • (0)酒井さんからのご要望
  • (1) 『権力』は、権力の扱いをめぐって社会システム理論に向けられてきた批判に対するひとつの回答であった。
  • (2) ルーマンの回答の新しさ(『権力』における権力の捉え方の新しさ)
  • (3)ルーマンの社会の理論にとっての<シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディアの理論>の意味
  • 補足資料:
    • 【資料1】訂正すべき箇所
    • 【資料2】
    • 【資料3】ルーマンの権力に関する文献
    • 【資料4】パーソンズの4機能図式と相互交換メディア、ハーバーマスの社会の2層的構造

[酒井講義 一部抜粋]
これまでの講義を振り返って:『権力』へのイントロダクション

(1) 『制度としての基本権』(1965)

ジンメルに依拠した「社会分化論」の構想をはじめて提出したもの。
  • 「近代への移行に伴う全体社会の機能分化」と「広がりと奥行きのある人格を備えた個人の登場」は相即した現象。
    • 機能分化と個人は相互に必要としあい・可能にしあう関係。
    • 「人権」としてリストされる諸規範・諸価値は、その内容だけにしたがって規範体系として統合できるようなものではない雑多な寄せ集め。それら諸規範は、機能分化に楔を打ち込むポイントに個別に発達してきた社会進化上の獲得物だと考えて初めて統一的に理解できる。
      • 「人権」も「人格的個人」も社会進化上の獲得物。
  • 規範的で解釈学的なドイツ憲法理論と行動科学的なアメリカ政治学(政治システム理論)を摺り合わせるかたちで議論を展開。

(2) 『信頼』(1968)

  • 機能分化論のもとで、「信頼」を社会進化上の獲得物として検討したもの:
    1. 広がりと奥行ある人格を備えた自由な個人同士の付き合いには人格への信頼が必要である。
    2. 機能分化は個人同士の信頼を成り立ちやすくしている。
    3. 機能分化を支えるためには、見通しえない非人格的秩序への信頼が必要である。
    4. 〈広がりと奥行きのある-分節化された人格を備えた・自由な個人〉が登場しうるのは、非人格的秩序(機能分化)のもとでである。
  • 展開されている信頼論の内実はモートン・ドイチェによる社会心理学実験の知見をベースにしたもの。
    • それを社会理論にどう組み込むか、というところがルーマン自身の課題。

(3) 『権力』(1975)

  • 象徴的に一般化したコミュニケーション・メディア(SGCM)論を はじめて集中的に論じた著作。
    • これによってはじめて、ルーマン社会理論の最も基礎的なパーツである
      • 社会進化論
      • 社会分化論
      • コミュニケーション論
      の全てにアクセスできる理論的パーツが確保された。
  • 展開されている権力論の内実は行動科学的なアメリカ政治学をベースにしたもの。
    • それを社会理論にどう組み込むか、というところがルーマン自身の課題。

[長岡講義]
ルーマンの権力理論について —— その新しさを中心に

(0)酒井さんからのご要望

講義では、 といったこと、大枠のこと・全体的な方向性について、持論を自由に

(1) 『権力』は、権力の扱いをめぐって社会システム理論に向けられてきた批判に対するひとつの回答であった。

  1. 批判の例
  2. しかも、社会システム理論における「権力」論に向けられてきた批判は、大部分のシステム理論的研究にそのままあてはまる、とルーマン自身も考えていた。
    →「訳者解説 社会システム論と権力」の「1 従来のシステム論と権力」、208-9頁を参照。遡ってはまた、Luhmann, Macht im System, 2012,S.を参照。
    • 死後に出版されたこの草稿と『権力』の関係について【資料3】
  3. さらには、『権力』に対する次のような批判的見解をも参照:
    第一に、システム論的思考が一般にそうであるように、それは広く知られながらも従来の概念図式では理解できなかった現象を新しく理解できるようにすることに成功することを目指すよりは、以前からすでに知られていたことを別の言葉で表現し直すことにとどまっている。
    (盛山和夫 『権力』 東京大学出版会、2000年、117−118頁)
    = 参加者への宿題②:この批判は適切か?

(2) ルーマンの回答の新しさ(『権力』における権力の捉え方の新しさ)

  1. 古典的な権力理論の諸前提に対する批判的検討から出発(→『権力』訳者解説、210頁以下を参照)
  2. 権力問題にコミュニケーションという観点から接近。逆に言えば、コミュニケーション研究に権力問題を導入
    1. 意味提案の受容問題
    2. 常識的なコミュニケーション観とは対照的。また、権限受容説のバーナードに対しても批判的。
  3. 「自明性で満たされていた共同生活」・「日常的自然的な生活世界」のなかに新しいコミュニケーション・メディアが出現してくる事情の解明から出発。
  4. パーソンズの<相互交換のメディア(一般化された相互交換のシンボリック・メディア)>の理論(→訳者解説、228-229頁を参照)を改作した、<シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア(貨幣・権力・真理・愛)>の理論を使いつつ、権力の説明をめざす:
    • ルーマンは「symbolische Generaliseirung」という考え方をパーソンズから継承しながらも、次の点の改作をはかる。
      1. 交換からコミュニケーションへ
      2. 言語学に見られる「コード」(「コードとメッセージ」)から生物発生学などでいわれる「(2項的)コード」へ
      3. 言語を補足する装置=受容を動機づける働き
      4. 影響力はコミュニケーション・メディアから外される。
  5. 狭義の権力概念(=「否定的サンクション」に限定)から出発して、権力を影響力と区別するとともに、権力と暴力・強制との関係を解明。
  6. 権力の因果的な捉え方に対する批判と代替理論の定式化=権力という社会的な<力>の由来の説明:
    1. 権力は、ある人が「否定的なサンクション」を設定することができ、それによって脅しをかけることができる場合に可能になる。たとえば、彼が圧倒的な物理的暴力をそなえていて、要求や命令に従わなければいつでも相手に危害を与えることができる場合が、それにあたる。ただしかし、ここで実際に暴力が行使されると、権力は破壊されてしまう。暴力は脅しという形で非現実(イレアリス)に、つまりまだ適用されていないという形で利用されなければならない。そしてこのことは、たとえば解雇が否定的サンクションとして使われる場合にも同様。
    2. 権力をコミュニケーション・メディアとして使用するには、要求者は暴力の行使とか雇用関係の解消といった否定的サンクションを背景にして、要求者も被要求者も回避したがっているのだが、被要求者の方がもっと避けたがるような回避選択肢を構成できなければならない。そして、ここで被要求者から見て、要求への服従と彼が要求者よりももっと避けたがっている回避選択肢(要求者による暴力の行使とか、解雇されること)との差(回避したい程度の差)が、被要求者に要求提案を受容するように動機づける働きをするのである。ルーマンによれば、権力という社会的な<力>の由来は、ここにある。
  7. (狭義の権力概念を採用していたとはいえ)パーソンズとは異なり、非合法的権力と政治以外の権力を視野に収める。また、組織における権力の解明。
  8. 「共生的メカニズム」の指摘(コミュニケーション・メディアのシンボルの水準とコミュニケーション参加者の身体的—有機的(生体的)水準との両立問題:有機体の一般的な情報処理能力に加えて、真理と知覚、愛と性、貨幣コードと欲求充足、権力と物理的暴力)
  9. 「肯定的なサンクション威力」の「否定的なサンクション威力」への一種の変換法則の指摘と現代社会におけるその重要性の示唆。
  10. 政治的権力と法、民主主義の関係についても従来の正当性論やリベラルな立憲主義とは異なる・・・洞察を提起
    (井口 暁 「ルーマン権力論の構図―権力概念と政治権力論を中心に―」、『社会システム研究』第23号、2011年9月)

(3) ルーマンの社会の理論にとっての<シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディアの理論>の意味

補足資料:

【資料1】訂正すべき箇所
38,39,41,49頁 「様態変化 Modalisierung」 「様相化」
40頁 「様態による一般化 modale Generalisierung」 「様相的一般化」(「様相による一般化」?)
第7章表題、122頁ほか 権力の「危険(リスク)」(Risiko) 「リスク」
第8章表題ほか 「権力の社会的な関連 Relevanz」 「権力の社会的なレリヴァンス」
171頁 「要素水準 Anspuruchsniveau」 「要求水準」
【資料2】

【資料3】ルーマンの権力に関する文献

【資料4】パーソンズの4機能図式と相互交換メディア、ハーバーマスの社会の2層的構造

パーソンズの4機能図式と相互交換メディア、ハーバーマスの社会の2層的構造

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質疑応答

Q101 心と社会、言語とSGCM

Q101a 心と社会
普通は心理的現象に使われる「予期・期待(expectation)」や「動機付け(motivation)」といった言葉を、ルーマンは社会システムにも使います。 そこで、ルーマンの著作を読んでいると、その都度、意識の話をしているのかコミュニケーションの話をしているのか、しばしば分からなくなります。
「予期」や「動機付け」がコミュニケーションに対して使われるとき、それはどのような意味なのでしょうか。意識と社会の切り分けはどうなっているのでしょうか。
長岡
期待概念自体にはここで立ち入ることはできませんが、心的システムの期待と社会システムの期待との違いは、科学の例や法の例を参照すると分かるのではないのでしょうか。私個人が抱いている認知的期待や規範的期待と、科学における認知的期待や法における規範的期待とは、区別できますし、しばしば一致しません。
 また、ひとは自分の期待と社会システムの期待とを混同 (同一視)しないことからして、ひとは少なくとも実践の上では、両者を容易に区別していると言えます。
 ただ、権力のコミュニケーションの場合には、ひとつ注意を要することがあります。権力のコミュニケーションにおいても、「予期」なしには進行可能ではありませんが、そのこととは別に、このコミュニケーションには、他のコミュニケーションにおいてと同様に、心的システム (意識)のほかに組織という社会システム(そしてこれは国家の諸機関も入る)もまた、参加できますし、参加します。したがって、権力コミュニケーションは、個人に対してのみならず組織という社会システムに対しても同じように、選択提案を受容するように「動機付け」をすると言えます。
Q101b 言語とSGCM
2-4-3 「SGCMは言語を補足する装置だ」について。
「言語的コミュニケーションが否定・拒絶で終わる蓋然性の高いところでSGCMが受容を動機づける」ということと、「言語メディアもSGCMも、〈肯定/否定〉の二値コードを使って コミュニケーションの水路づけをおこなう」ということとはどういう関係にあるのでしょうか。
長岡
ルーマンは、コミュニケーションを「情報・伝達・理解の綜合」だとしています。「理解」が達成されればコミュニケーションは成立しますが、理解と受容は別のことであり、受容は受け手の側(心的システムや組織システム)で生じます。
受講者
「心的システムが受容する」というのはどういう状況なのでしょうか。「否」という意味処理はどこで起きているんですか。
長岡
個人の心の中、もしくは組織の中です。
受講者
たとえば「反応しない」とか「無視する」とかというのもそうですか?
長岡
そうです。その場合には、権力保持者は確認のためにおそらく再度、コミュニケーションを試みるでしょう。もちろん、明示的な拒絶の返事がかえされることもありえます。しかし、いずれであれ、言語メディアとSGCMとの違いは、(「反応しない」「無視」を含めて)選択提案に〈ノー〉という返事(受容拒否)が返されたときに、「否定的サンクション(例えば暴力)」が行使されるか否かという違いにあります。
 〈ノー〉と言う返事を返せば「否定的サンクション」を覚悟しなければならないということが、「受容するように動機づける」働きをするのです。
受講者
個人の心的システムで受容が生じた場合、社会システムに対してなにか影響はあるのですか。
長岡
命令者が「~をやりなさい」と命令し、受け手がそれをやった場合、「受容した」ということがわかるわけですね。それを受けて、さらに次のコミュニケーションへと進むわけです。
酒井
コミュニケーションに関するルーマンの主張を筋の通ったものとして理解するのは非常に難しいですよね。私自身は、ルーマンのコミュニケーション論はパーソンズ理論に象徴的相互作用論を接ぎ木したものであって、関連する主張全てを網羅的に救える穏当で無矛盾な解釈を与えるのは不可能だと考えています*。
 他方、「システム」とか「コミュニケーション」とか「情報・伝達・理解の綜合」といった「理論的」トピックや術語を全く持ち出さなくてもルーマンの面白さについては語れるので、そもそもこの講義シリーズでは、これまで「システム」についても「コミュニケーション」についても一切触れずにやってきたわけです。
 とはいえシリーズも終わりに近づいて来ていますし、次回講義では、「公的な理解可能性」とか「条件的レリヴァンス」といったエスノメソドロジー的発想の助けを借りて、権力を例に、ルーマンのコミュニケーション論の一部を救う解釈を与えてみることにしましょう。
* これについては、2007年に公刊した論文でも多少触れました。 この論文は改稿のうえ下記著作(第2章)に収録されています。

Q102 非合法的/非政治的

2-7に「非合法的権力と政治以外の権力を視野に収める」とありますが、「非合法的権力」と「政治以外の権力」とはどんなものでしょうか。幾つか例示をお願いします。
長岡
パーソンズが『政治と社会構造』で扱っていたのは、〈先進国〉にみられる政治システムの合法的な権力でした。ところが、司法権の独立性(政権からの自立の程度)が低い〈後進国〉では、政治システムでも合法的でない権力が発動されがちになります(例えば、不平等な税務調査と徴税、政治的活動に対する制限と妨害)
政治システム以外での合法的な権力の代表例としては、組織内権力が挙げられます (ただし、組織内でも、もちろん〈非合法的〉な権力の行使がみられます。例、長時間残業)。また、非合法な権力の代表としては、武器や身体能力の圧倒的差異に依拠した脅迫があります。「セクハラ」「アカハラ」「パワハラ」も非合法な権力行使です。

Q103 非蓋然性

なにかを「ありそうにない」とみなす視点はどこから生じるのでしょうか。また「ありそうだ/ありそうにな」という判断を下す基準はなんでしょうか。
長岡
すでに成立している社会秩序から出発し、それを一旦(現象学の言葉を使えば)括弧に入れて、当然だとされているものを疑ってみて「それはどのようにして成立したのか」と考えてみる、といった反省の作業から生じるものでしょう。
酒井
抽象水準を一つ落とすと。ルーマンの議論において「非蓋然性を問う」ことは、その都度話題にしている特定の事柄について、
  • それはどのような社会進化上の獲得物なのか
という問いを立てるかたちで進められているのではないかと思います。そしてそのときの資源となっているのは、主として歴史学と人類学の知見でしょう。この講義シリーズで扱った著作でいえば、「人権」や「物事をリスクの相のもとで見ること」や「信頼」などが、社会進化上の獲得物として分析されていた*というわけです。
* ここには、超越論哲学と進化論の 議論構成法における類縁性というテーマが潜んでいるように思うのですが、これまでのところこの点について論じた著述家は見たことがありません。

Q104 権力と選択

2-6-2 「権力は…回避選択肢を構成できなければならない」について。
私は、権力というものは選択肢を無くしてしまうものだと思っていたのですが、ルーマンが言っているのは「権力は選択肢を作るものだ・提供するものだ」ということなのでしょうか。
長岡
ルーマンの定義によれば、選択肢がないところでは、権力は作用しようがありません。
ルーマンは、相手に選択を許さない力の行使 を「強制」と呼んで、権力と区別しています。

Q105 パーソンズ、ハーバーマスとルーマン

「資料4」のパーソンズ、ハーバーマスの図とルーマンの機能分化論はどう違うのでしょうか。
パーソンズの4機能図式と相互交換メディア、ハーバーマスの社会の2層的構造
長岡
パーソンズの図が四象限なのに対して、ハーバーマスはこれを踏襲しつつも、〈社会統合/システム統合〉の二分法でまとめ直しています。〈基盤となる生活世界/制御メディアを持った社会システム〉という対比です。
ルーマンは四象限も二分法も使わず、4つ以上の機能システムを想定しているので、図で対照させることはできません。またパーソンズが「交換」を論じているのに対して、ルーマンが「コミュニケーション」を論じている点でも違います。
酒井
私の講義の『信頼』のパートで提示した図を変形すると──『信頼』~『権力』刊行時の定式化としては──上右図のようななかたちでの比較はできそうです。これでもって、ハーバーマスとルーマンが、等しくパーソンズから出発し・同じようにフッサールから「生活世界」という術語を取り入れながらも、相当に異なる社会の捉え方をしていることまではわかるでしょう。ここで、ルーマンの謂う「道徳」が 「人格」シンボルを用いた 社会関係の縮減形式であることを踏まえると、図の「人格的個人」を「道徳」に置き換えることができ、もう一歩だけハーバーマス/ルーマンの対比が明確になりますね。
 なお、パーソンズとハーバーマスにおいては、それぞれ四分法と二分法が彼らの主要ステートメントを為しているのに対し、ルーマンの場合はそうではありません。なので、ルーマンの議論を図示した場合──パーソンズやハーバーマスの場合とは異なり──必ず議論のうちの特定の契機を取り上げ、他を捨てることにならざるを得ないことには注意が必要です。私が書いたこの図の場合も、例えば──ルーマンがコミュニケーション・メディアについて述べていることはパーソンズやハーバーマスほど単純ではないので──SGCMを書き込めませんでした。

Q106 SGCMと機能システムの対応関係

後期の著作を読んで、SGCMと機能システムは一対一対応している という印象を持っていたのですが、『権力』を読んでみると政治システムの外で働く権力も描かれています。個々のSGCMと個々の機能システムは、どの程度関連・対応しているのでしょうか。
長岡
SGCMは機能システムの歴史的成立を助けるものですが、SGCMを持たない機能システム(教育や医療など)もあるので一対一対応はしていません。
酒井
学術研究制度の外でも正しい知識は産出されていますし、市場の外でも所有物の交換はされていますし、政治システムの外でも権力は作用していますから、この意味でも SGCMの働く領域 と 機能システム は対応していません。この点については『社会の理論』シリーズのどの著作でも指摘されていますよ。

アンケートから

Q107 リアリスティックとは

「3つの質問」のA1に、「システム理論的な社会の研究には、…、支配の諸関係や権力現象についてのリアリスティックな分析が欠けている」とあります。ここでいう「リアリスティック」とはどのような意味でしょうか。
酒井
「リアル」は様々な仕方で使われる語ですが、ここでは「世の現実は力関係で成り立ってるよね」くらいの 世間に対する特定の見方のことを指していて、「リアリスティックではない」というのは「力関係にもとづく支配と服従、闘争・紛争、抗争などが視野に入っていない」というほどのことを言いたいのでしょう。

Q108 権力と暴力

「実際に暴力が行使されると権力は破壊されてしまう」というのは興味深い視点ですが、「みせしめ」を用いた恐怖政治のような場合はどうなるのでしょうか。
長岡
「みせしめ」は、「否定的サンクション」の恐ろしさの可視化であり、周知徹底策でしょう。この他に、とりわけ独裁政権のもとでは、力の強大さを誇示し、畏怖の念を起こさせようとして軍事パレードなどが愛用されます。

Q109 シンボルとは

「シンボルによって一般化された」というときの「シンボル」とは、権力の場合だと具体的にはどのようなものですか。あるいはまた「シンボルでないもの」はどんなものでしょうか。
長岡
シンボルについては【資料2】で挙げておきましたが、そのなかでも分かりやすいのは、ルーマン最晩年の『社会の社会』(358-360頁)です。まずは、それを参照して下さい。そこでは、シンボルとほとんど同義で使われている記号との区別も扱われています。貨幣や真理や愛や権力は、それぞれシンボルであり、シンボルとして使われていますが、権力ではさらに、地位の名称や制服や徽章などを用いることによってシンボルの具体化と可視化がおこなわれます。
引用2:ルーマン(1984→1993)『社会システム』 第2章9節(訳書 142頁)
 意味の自己準拠的な処理は、シンボル的一般化を必要不可欠としている。…シンボルないしシンボル的という概念は、しかるべき統一体を形成するメディアを言い表し、一般化という概念は、なんらかの多数のことがらを効果的に取り扱う機能を指し示している。非常に大まかにいうと、なんらかの多数のものがしかるべき統一体に組み入れられ、そのことによって多くのものが象徴的に表現されるということがここで問題となっている。そうしたシンボル的一般化によって、オペレーション(あるいは過程)の水準とシンボルの水準との差異が成立しており、そうした差異によって自己準拠的なオペレーションがそもそもはじめて可能とされる。シンボル的一般化という概念を形成するきっかけも、また「一般化」の用語も、心理学的研究に由来している。その出発点は、刺激/反応-図式が心理システム理論によって解体させられたことであった。というのも、環境の状態ないし環境の出来事がシステム内部では概括的に捉えられ、したがって一般化されたものとして表象されなければならないことが見抜かれたからである。
引用1:ルーマン(1997→2009)『社会の社会』 (訳書 358-361頁)
《象徴的に一般化された》という表現は、パーソンズとの関連でよく知られている定式化を踏まえたものである。ただし、その定式化はあらゆる点で満足すべきものだとは言えないのだが。パーソンズが《象徴的に》という場合に焦点が当てられているのは自我と他者の差異、すなわち社会次元である。一方、《一般化された》のほうが狙いを定めているのは状況の違い、つまり そのつどプロセシングされる意味が持つ事象(=内容)の次元なのである。そこでは(ウィトゲンシュタインにおける規則の概念の場合と同様に)次のように想定されている。社会的な一致が達成されうるためには、踏まえられている共通性がひとつ以上の状況にわたって存続していなければならないはずである、と。ここまではわれわれも同意できる。しかしそれ以上の点では、本書で提示される象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの理論は、パーソンズ流の相互作用メディア(あるいは相互交換メディア)の理論と接点を持ってはいない。後者は、AGIL図式という理論構成法に拘束されているからである220。われわれはそれに代えて、次の仮定から出発することにしよう。コミュニケーションが成功することは低い蓋然性しか持たない。言語のコード化によっては この一般的問題が構造化されるだけで、解決されるわけではない。むしろこのコード化のもとでは受け入れと拒否とが明確に対置されることになるから、問題はさらに先鋭化するのである、と。コミュニケーション・メディアという一般的概念は、この場合に対しても適用可能である。象徴的に一般化されたメディアも、やはりメディアである。というのは、そこではルースなカップリングとタイトなカップリングとの差異が前提とされており、ルースにカップリングされたメディア基体に基いて形式形成が可能になるからである。ただし今や問題となっているのは特殊な言語でも流布メディアでもなく、別種のタイプのメディアである。別の形式、別種の区別、別用のコードが登場してくる。したがって細部に立ち入る前に、どこが違うのかを明らかにしておかねばならない。
《象徴、象徴的な》という概念は、特に19世紀以降、きわめて一般的で焦点の定まらない意味において用いられてきた。《記号》とほとんど同義のものとして扱われることも しばしばだった。しかしそれでは《象徴》概念そのものが余計なものだという話になってしまうだろう。精確な意味を回復するために、ここではそれを、記号が自身の機能を指し示す場合、つまり再帰的になる場合へと限定しておくこととしよう。「自身の機能」とはすなわち、指し示すものと指し示されるものとの統一性を描出するということである。それゆえに「象徴化」によって表現され、また表現されることによってコミュニケーションとして取り扱えるようになるのは、以下の事態なのである。差異のうちに統一性が存していること。分かたれたものが同じものに属していること。かくして、指し示すものを、指し示されたものの代理として(単に、指し示されたものを示唆することとしてではなく)用いうることになる──大いなる伝統において、聖なるものの代理として用いられてきたように、である。
 したがって、 《象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア》の概念という文脈において《象徴的》ということで考えられているのは(この点ではパーソンズも同様なのだが)、このメディアが差異を架橋し、コミュニケーションが受け入れられるチャンスをもたらすことなのである。これらのメディアは、言語の場合とは異なって高度に複雑な条件が整えられている中で、そのつど初めて選択されたコミュニケーションであっても十分な理解が保証されるということで満足するわけにはいかない。理解が保証されるという点は、このメディアにとっても前提となる。しかし多くの場合、他ならぬその理解が今度は、コミュニケーションが受け入れられるのをきわめて困難にするのである。例えば蓋然性の低い主張がなされる場合、譲渡を要求する場合、こう行動せよという司令が恣意的に発せられる場合を考えてみればよい。ここにおいて当てにできるのが言語だけだとすれば、失敗するのは目に見えている。したがってそのようなコミュニケーションはなされないという結果になるはずである。言い換えれば言語そのものは、それ自体だけからでは、言語的に可能なもののごく一部しか実現しえないのである。別類の追加装置がなければ、それ以外のすべては失望効果を被ることになるだろう。象徴的に一般化されたメディアは、ノーのほうの蓋然性が高いことを、イエスのほうの蓋然性が高いことへと、驚嘆すべき仕方で変換する。例えば、手元に置いておきたいと考えられている財やサービスに対して、支払いを申し出ることを可能にすることによってである。このメディアは、コミュニケーションを用いて、それ自体としては蓋然性が低いが適切なものと確立するという点ではシンボリック(象徴的)である。しかし同時に、その適切なものを達成する中で新たな差異を生み出すという点ではディアボリック(悪魔的)である。この独特のコミュニケーション問題は、統一性と差異とを新たに配置し直すことで解決される。支払える者は望みのものを得られるが、支払えない者は得られない、というようにである。
 別の言葉でもう一度述べておこう。象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは複数の、ただちには結合され得ないはずの選択を整えて並べる。それらの選択は、さしあたりはその点で、ルースにカップリングされた一群の要素として与えられるのである。それら一群の要素とはすなわち、情報の選択、伝達の選択、理解内容の選択である。これらの選択は、それぞれのメディアに対応する特殊な形式によってのみ、タイトなカップリングへと至る。例えば理論、愛の告白、法律、価格などの形式によって、である。またこのメディアは、象徴的に機能するのみならず、 (いま挙げた例からもわかるように)一般化されてもいる。というのは、それぞれに対応する予期が、以後続くオートポイエーシスを先取りしつつ形成されうるのは、形式が相異なる多数の状況にまたがる場合に限られるからである。愛の告白ですら、通用するのはその直後の瞬間だけだというわけではない──もっとも、常に同じ形式でしめされるなら、まったく通用しなくなってしむだろうが。結局のところ常に問題となるのは、受け入れのチャンスを追加することでコミュニケーションを通気付けるという点なのであり、さらにはそうすることで、自然のままなら不毛であるがゆえ耕されずに終わっただろう領土を、全体社会のために獲得してやることなのである。
 そたがってこれらのメディアの働きを、またそこに典型的に見られる形式の働きを、 選択と動機づけという蓋然性のきわめて低い組み合わせを継続的に可能にしていくこととして記述できる。ただしここでは、これらの概念が指し示しているのは心的状態ではなく(支払う者が貨幣を手放すときに何を感じるかは、コミュニケーションの成功にとっては無関係である)、社会的な構築物である。

Q110 ブルデューとルーマンの権力論

本日の講義では、ルーマンは、権力は政治という場以外でも作動すると捉えていたことが紹介されました。また以前の『制度としての基本権』の講義でも、政治が他の部分社会に介入しすぎないような全体社会のあり方が重視されていたと思います。そうするとルーマンは、権力というメディアの特別な力・危険性みたいなものを意識しているように感じました。
ブルデューの場合は、数ある場の中で、権力場を上位に位置づけます。これと同様にルーマンにも、権力を政治というサブシステムにとどまらない位置づけを与える視点はあるのでしょうか。また政治というサブシステムを、他とは異なるある種の特権的な位置にあるものとして見なすでしょうか。
酒井
おそらく第二回講義を聴くと質問の内容が変わるだろうと思います。
そうしたらまた質問してみてください。

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第二回講義(2018.5.7)

講義概要(一部抜粋)

  1. イントロダクション:ルーマン理論における政治と権力
  2. 可能な講義トピック
  3. ルーマンの権力モデル
    1. モデルの諸契機
  4. 力と因果
    1. そもそも力とは? 因果とは?
    2. 権力はいつ政治学の問題となるのか
    3. 「因果論的権力論の批判」とは?
  1. 帰属による縮減:行為とコミュニケーション
    1. 〈情報|発信|理解〉の綜合:
      ルーマンモデルのエスノメソドロジー的解釈
    2. 行為の構成と動機の語彙
    3. 権力源泉の構成
    4. シンボルとしての暴力、金塊と証券
    5. 共生メカニズム:身体と観念の社会学

0. イントロダクション:ルーマン理論における政治と権力

著作『権力』は、政治的権力と非政治的権力の双方を視野に入れたものだが、政治学においてそうであるように、ルーマンにおいても権力が政治に関する考察の中心に置かれていることには変わりがない。
ちなみにもう一つの中心概念は「決定」である。
本講義へのイントロダクションとして、2000年に刊行された遺稿である『社会の政治』の第二章「権力というメディア」から冒頭の二つの段落をみておこう。

【引用1】 I「システム理論と権力」

 権力、しかも特殊政治的権力は、評判がよくない。多くの観察者の目には、政治は、汚れた仕事に見える。
権力に有効に抵抗できない事態は、〔最近では〕否定的に判断されるべきものへと変化しているように思われる。権力が恣意的に行使されているとする見方から、権力が腐敗しているという見方まで、〔権力にまつわる〕嘆きは数多い。政治的権力は自らを正統化しなければならないという主張は、これらの非難の中でもまだ一番無害だが、しかし、政治が自らを正統化しようとすると、幾たびとなく「ポピュリズムだ」という非難が繰り返される。
 政治的権力に関する観察へのこうした直接的反応は、包括的な理論構築のなかに取り込まなくてはならない。このような〔政治への〕反作用それ自体は、まだ十分な政治的概念を提供するものではない。いささか否定的なこれらの経験的判断は、秩序を維持するには政治的権力が必要だという見解と、関連づけなければならない。
もう二つ、今度は「権力」に関する引用を見よう。

【引用2】 2000『社会の政治』第2章「権力というメディア」IX「出来事としての作動と構造」[77-78頁]

 権力というメディアにおけるすべての構造形成は(…)定義され得ない神秘的な契機をも備えている。メディアの統一性が、また〔権力の〕ルースなカップリングとタイトなカップリングとの統一性が、なかなか明確なかたちで指し示されないのはこのためである。それゆえ権力が、実際に維持されているのかどうか、権力の実際の姿が表面的に目に見えているものと同じなのかどうか、あるいは、突然崩壊してしまうかもしれない過剰なシンボル化が施されているものであるのかどうかという、それ以外の不確かさも依然として保持されている。だから恣意性という契機を《主権》についての記述から排除できずにいるのである。…

【引用3】 1975『権力』第1章「コミュニケーション・メディアとしての権力」 [14-15頁]

以上の簡単な考察からからすでに明らかなように、具体的な権力を関係を明確に規定し、操作化し、測定するという仕事は、きわめて複雑で込み入ったものとなる。
 権力関係においては、その両方の側が(権力連鎖が形成されている場合には、すべての関与者が)それぞれ諸可能性の中から一つの行為を選び出すことができる。したがって、権力関係の規定や測定のためには、まずは、これらすべての可能性の複雑性に関する多次元的な物差しがなければならないだろう。権力保持者がその権力の行使にあたって、多様なより多くの選択肢から選択をすることができるならば、彼の権力はそれだけ大きなものになる。しかも、多様な多くの選択肢を持っているパートナーに対してなおかつそうすることができるとすれば、彼の権力はいっそう大きいことになる。権力は、両方の側での自由と比例しあって増大するのであり、たとえば、ある社会の生み出す選択肢が増加していく場合、その社会における権力も、それにともなって増大していく。
 いま述べたことは、しかしながら、科学とその方法の問題だけに関係しているのではない。むしろ権力測定にまつわるこのような複雑さから、社会自身にとっては、次のような帰結が生まれてくるのである。すなわち、社会は権力状況を正確に比較するための代用物を作り出さなければならず、しかも、このような代用物それ自体が権力要因になる、という帰結である。そのような代用物の役目を果たすものとしては、…。
* こうしたスタンスが、たとえば『リスクの社会学』におけるそれと正確に同じものであることを確認してみてほしい。

1. 可能な講義トピック

『権力』という著作をめぐっては、時間さえあれば、このくらいの論題をとりあげることができる。
  1. 権力の規定:「脅して・させる」
    1. ルーマンの権力モデル
  2. 力と因果
    1. 力とは? 因果関係とは?
    2. 権力はいつ政治学の問題になるのか
    3. 因果関係の批判とは?
    4. 実体的権力観と関係的権力観?
      • フーコー権力論との比較1:因果論批判
  3. 行動論的政治学の諸論題
    1. 決定と影響力
    2. 政治システム
  1. 権力の契機
    1. 権力源泉と回避選択肢
    2. 命令行為
    3. コード
    4. 動機づけ
    5. 〈権力者/服従者〉
  2. 〈体験/行為〉マトリクス
    1. SGCMの比較:真理、所有、芸術…
    2. 真理と権力─ハーバーマスとの論争
      • フーコー権力論との比較2:行為に対する行為
  3. 暴力
    1. 普遍的権力源泉
    2. 象徴
    3. 共生メカニズム
      • 身体と語彙の社会学
  1. 政治的権力
    1. 政治システムの機能:集合的に拘束力をもった決定産出の準備
    2. 政治システムのコードとプログラム
  2. 生活世界と技術
    1. フッサール:真理、実証主義、沈殿物としての文化
    2. シュッツとハーバーマス:日常的知識の世界
    3. ハイデガーとルーマン:馴れ親しみ
    4. 影響力の技術化と政治システム
  3. 非政治的権力
しかしながら、残念なことに時間がない。 本日は、a, b, d を中心に取り上げる。

2. ルーマンの権力モデルとその諸契機

2-a モデルの諸契機
ルーマンの権力モデルとその諸契機

3. 力と因果

3-a 力と因果

(略)

3-b 力はいつ政治学の問題となるのか

(略)

3-c 「因果論的権力論の批判」とは?

以上を踏まえて再度、「著作概要」のこの箇所の意味について考えてみると:

本書は、そのルーマンが書いた権力論であり、権力の因果的な捉え方に対する批判と、権力へのコミュニケーション理論からの接近、という点に新しさがあった。

4. 帰属による縮減:行為とコミュニケーション

4-a. 〈情報|発信|理解〉の綜合:ルーマンモデルのエスノメソドロジー的解釈

(略)

4-b. 行為の構成と動機の語彙
[選択がシステムに帰属されるときに「行為」、環境に帰属されるときに「体験」と呼ぼう。行為帰属の際に生じるのは]行為の事実を前提してそれに説明を与える類別化、すなわち自己の行為や他者の行為の体験の仕方を秩序づける類別化である。… [自由意志や動機は]第一次的な事実ではなく、ましてや行為の 原因でもない。そうではなくて、それらは、行為についての社会的に一致した体験を可能にする 帰属認定のあり方なのである。動機は、行為するにあたって必要なものではないが、行為を理解しつつ体験するためには必要なものである。この理由から、社会的秩序は、行為そのものの水準においてよりも動機認定の水準において、はるかに強く統合化されることになろう。だからこそ動機の理解は、そもそも そこに行為が存在しているのかどうかということについて、遡及的に認識するための助けとなるのである。[31-32頁]
4-c. 権力源泉の構成
権力保持者

質疑応答

Q201 帰属とは

「4. 帰属による縮減:行為とコミュニケーション」に出てくる「帰属」とはなんでしょうか。
「帰属」は社会心理学の術語です。ルーマンはこれを、自分の理論のなかで、非常に多様な論題において使っていますので、この講義シリーズでも繰り返し取りあげてきました。なかでも一番詳しく解説したのは、最初に取り上げた『リスクの社会学』のときですので、その時の質疑応答にリンクを貼っておきます。

『リスクの社会学』講義で──〈リスク/危険〉区別の解説のために──使ったも自家引用しておきましょう。いま必要なのは「図1b」の箇所だけです。「帰属」という言葉の使い方は次のとおり:


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Q202 コミュニケーションと行為

「4. 帰属による縮減:行為とコミュニケーション」で、「ルーマンは行為とコミュニケーションをセットで扱っている」というお話がありました。
社会学の中では両者をセットで扱っていない議論もあるのでしょうか。また、ルーマンの〈情報|発信|理解〉モデルと、「行為とコミュニケーションはセット」ということとは、どういう関係にあったのでしょうか。

ルーマンのように「行為とコミュニケーション」をセットで扱う論者というのは、むしろ少数派ではないかと思います。たとえばハーバーマスは違いますね。ハーバーマスにとって「コミュニケーション」は、複数ある行為類型のうちの一つ──「コミュニケーション的行為」──です。そして、社会学では、こちらの方が一般的な使い方ではないでしょうか。

それはさておき、「行為/コミュニケーション」関係については、『信頼』講義の初回(2017.10.18)質疑応答5「行為の連鎖」で述べましたので、ここでもその箇所を自家引用しておきましょう。

「行為」は、特に20世紀アメリカの社会学では基礎語であり、ルーマンもずっとそのように使ってきた言葉です。 ところがルーマンは「コミュニケーション」という術語も基本語として使うわけです。では両者の関係はどうなっているのか。[…]  1984年の『一般理論要綱』 の中で提示されているのは、ごく簡単に述べれば次のようなヴィジョンです:
  • 社会システムの構成要素は「コミュニケーション」であり、「行為」はコミュニケーションが抽象(=分節化、縮減)されたものである。
    • 一方で、この抽象は──学的観察者ではなく──コミュニケーションの参加者たち自身が、〈意図・目的・動機・理由・原因 といったものを、動詞の主語 や 行為者カテゴリー といったものに 帰属 する〉という道具立てを使って 相互に行い合っていること(=帰属による行為の構成)であり、
    • 他方で、そうした 要所要所での行為への抽象によってコミュニケーションは「流れる」。
 ルーマンの議論の中に「行為への分節化」に関する議論が極めて乏しい──困惑するほど乏しい──理由も、ここにあるのだと思います。つまり、その分節化は理論家の仕事ではない(=コミュニケーション参加者たち自身の仕事である)から──したがってルーマンは、それが自分の仕事だとは考えていないから──なのでしょう。
今回、ルーマンの「〈情報|発信|理解〉の綜合」というモデルを解説する際に、この点を引き合いに出したのは、 ということを指摘したかったためでした。
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Q203 公的な理解可能性とは

4-a でルーマンのコミュニケーション・モデルを批判した際に、「理解は公的にアクセス可能なかたちで示される」と述べていましたが、この点についてもう少し敷衍してください。
この議論は、エスノメソドロジーのテクストでは「公的な理解可能性」というタイトルで出てきます。たとえば次の教科書を読んでみてください。 本日の講義にとって重要だったのは、さしあたり、 というところまでです。
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Q204 「抽象的」とは

「4-b 行為の構成と動機の語彙」でこう述べられています。
  • コミュニケーションを「帰属」という働きで特徴づけるのは、社会学的観察者が勝手におこなった抽象ではない。帰属というこの抽象は、コミュニケーション参与者たち自身が行っているものである。
    • そして、まさにこの点を考慮したかたちで議論を進めているときに、ルーマンは、エスノメソドロジーに もっとも接近することになる。
ここでいう「抽象」とはどういう意味でしょうか。「抽象的」といわれると、観念的なものや理論的なものを思い浮かべますが、それとは違う意味があるのでしょうか。

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第三回講義(2018.6.4)

講義概要

  1. ルーマン権力論はどのような意味で「コミュニケーション論的」なのか
    1. コミュニケーションモデルと権力モデル再論
    2. 権力源泉の構成
    3. 象徴としての権力
    4. 政治的権力と非政治的権力
  2. 権力と政治
    1. 力と決定
    2. 象徴としての暴力
    3. 金塊と証券
  1. 生活世界と技術
    1. フッサール(1954→1972/1995)『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
    2. 『権力』(1975)第5章「生活世界と技術」
    3. 『近代の観察』(1992)第1章「近代における近代的なもの」
    4. 『リスクの社会学』(1991)第5章「ハイテクノロジーという特殊事例」

講義の一部抜粋

1. ルーマン権力論はどのような意味で「コミュニケーション論的」なのか

2. 権力と政治

3. 生活世界と技術

ルーマン理論における〈生活世界/技術〉図式の転用
図3-1:『制度としての基本権』
図3-2a:『信頼』
〈人格的個人/機能分化〉 〈生活世界/〈人格的個人/機能分化〉〉
『制度としての基本権』:〈人格的個人/機能分化〉 『信頼』:〈生活世界/〈人格的個人/機能分化〉〉
図3-2b:『信頼』 図3-3:『権力』以後
〈生活世界/〈人格的個人/機能分化〉〉 〈生活世界/〈人格的個人/技術〉〉
図3-1:生活世界・人格的個人・機能分化(『信頼』) 『権力』:生活世界・個人・技術
  1. と書いたが、『信頼』はすでに〈生活世界/技術〉図式のもとで書かれていたと考えるべきだろう。
  2. この〈生活世界/技術〉という図式は、哲学者エトムント・フッサールの著作『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』に由来するもので、特に1960~1970年代に──そして日本では少し遅れて1980年代に──「近代批判」の文脈で世界中で大流行したもの。ルーマンも60年代末に この図式を取り入れ、その後晩年に至るまで活用し続けた3
  3. この項の末尾に、例として──次回講座でとりあげる──1992年の論文集『近代の観察』からの引用を載せておいた。90年代になると「生活世界」は もはや術語としては ほとんど使われなくなるが〈生活世界/技術〉に相当する論題は残り続けた。なお、『信頼』において「生活世界」の実質的な規定として使われていた「馴れ親しみ」の方は晩年の著作まで術語として使われている。
〈生活世界/技術〉図式の含意
  1. そのうえですぐに指摘できる両者の違いについて一言しておくと。フッサールの議論において「生活世界」は「人格主義的な態度」の領域であるのに対して、ルーマンの図式に登場する「人格」は、権利・自由・責任を帰属できる近代的な「個人」である。こうした違いが生じるのは、ルーマンが「人格」や「個人」や「人権」といった観念を社会進化上の偶然的な獲得物だと──言い換えれば、「人格を備えた個人」もまた 理念的な図式化の産物(さらに言い換えれば制度的な事柄2)であり、技術的な性格を持つと──捉えているためである。この違いがフッサールとルーマンの議論の間にどれほどの齟齬をもたらす(/もたらさない)かというのは別途検討が必要な課題であって、簡単には答えられない。
  2. この発想自体は──少なくともデュルケーム以来──社会学ではおなじみのものである。進化的獲得物としての「個人」については、たとえば『制度としての基本権』(1965)で論じられている。
「機能分化」論の技術論的定式化

ここであわせて、技術に関する後年の議論をみておこう。

* 『リスクの社会学』では、狭義の科学技術も こうした社会技術の特殊ケースとして捉えられている。
※以上の議論に関わる箇所を引用しておく:
技術の区別:内側と外側
[108] 「技術」概念の内側 [108] 「技術」概念の外側
  • 「技術」として指示されているほうの側面は、因果関係というメディアの中で機能作用している単純化である
    • 単純化されている領域の内部にタイトな(通常は、機能作用したり反復されたりなどする)カップリングが設えられている
    • こうしたタイトなカップリングが可能になるのは、外部の諸要因の干渉が大幅に排除されている場合に限られる
  • したがって、技術は作動領域の十分な因果的閉鎖性としても把握できる。
    • 技術化の成果とはそれゆえ、因果関係を多かれ少なかれ首尾よく孤立化させることであって、その結果、(1) その過程が制御可能となり、(2) 諸資源が計画可能となり、(3) 誤謬を(損耗も含めて)認識したり帰属したりできるようになる。
      • とはいっても、そもそも技術の動員可能性が実際に行使されることまで、これによって約束されているわけではない。たとえば、技術を動員する可能性のための経済的条件を考えてもらいさえすればよい。だがもし、こうした可能性を行使できるならば、個別的な因果的過程の利点を入手できる。
技術についての以上の記述それ自体は、何ら意外なことは含まれていないし、疑問の余地などはほとんどないと思われる。だが、この形式の他方の側面も考慮されるときにはじめて、新しい見方が評価できるようになる。すなわち、
  • 同時に進行している非常に複雑な因果的諸過程
が、である。スペンサー=ブラウンとともに定式化すれば、技術に明確な輪郭を与えている形式の他方の側面がこれである。…
技術概念の形式2
[109-110] 技術と市場 [111] 「技術」の形式とその綻び
[技術と合理性を結び付けて考える古いヨーロッパのスタイルを採用する]代わりに、機能作用する単純化という技術の領域にますます多くの複雑性が添加されていく場合に、つまり、〔単純化された因果関係としての技術という〕タイトなカップリングが増大すると同時にそれによって固定されていた領域を外部から密封するのにますます失敗するようになる場合に、いったい何が起こるのか、に関心を移してみることにしたい。これまでは、この種の効果は経済によって阻止されていた。少なくともそのように思われていた。
  • 資源は利益から支払い可能なものでなければならなかったし、さもなければ技術の動員はなされなかった。
  • また廃棄物は自然に返されうるものでなければならなかったし、場合によってはコストとして引き受け可能なものでなくてはならなかった。
    • 市場、つまりは経済システムそれ自体が、この二つの点で技術の動員を制限する要因となっていた。
だが、そうこうするうちに、市場や経済もまた同様に、機能作用する単純化の一つのモデルにほかならないことが明らかになってくる──つまり技術の動員を規制するための技術的モデルの一つであり、このモデルにとっての「外部の」因果関係をなおざりにせざるをえない。かれこれするうちに「ハイテクノロジー」というかたちで現実化されてきたもの、あるいは現実化の可能性をともなってその姿がはっきりと浮かび上がってきたものは、技術に対する技術的な規制の限界を突き破ってしまっているように思われる──このような規制がしっかり機能しているときでも、また、しっかり機能しているときにこそ、そうなのである。…
そこで技術の形式が問題となる。
  • 技術の形式は、包含されている因果関係と排除されている(にもかかわらず現実的な)因果関係との境界線をマークしている。
    • だがハイテクノロジーの場合には明らかに、たえずこの形式を規定している境界線の乗り越え、排除されたものの包含、予見しがたい仕方での横断的結びつきといった事態がもたらされる。
付録:『近代の観察』(1992)第1章「近代社会における近代的なもの」
晩年のルーマンの議論においても〈生活世界/技術〉図式が使われていることがわかる箇所を一つあげておく。
[080-09] 社会学者によって、近代社会に関するいくつもの記述が育まれてきた。そのなかでも突出した地位を締めてきたのは、カール・マルクスを引き合いに出しつつ推し進められてきた、資本主義経済システムへの批判である。[…] 例えば《疎外》を取りあげてみよう。〔人間疎外の克服とか人間疎外からの回復といった〕人間学的アプローチではなく社会学的アプローチを採用するなら、そこで問題となるのは経営経済および政治経済における貨幣技術であることがわかる。
すなわちまず 資材コスト、信用コスト、労働コストを差引勘定する。さらにそれを踏まえつつ、企業および国家レベルでの計算手段を用いて、どの企業が収益をあげうるか、どれがそうでないかを明らかにすることなのである。
 言うまでもなくそこでは、資材と人間が《働く》のは、それぞれまったく異なる意味においてであるという点が度外視されている。さらに、働く者自身にとって労働がどんな意義を持つかも無視されているのは明らかである。最後に次の点もまた明白だろう。そもそも労働が貨幣によって、あるいはその他の経済的に重視される製品によって支払われる以上、つまり働く者が家計を消費して生活していく以上、経済計算を別の方法で行うことはできないのである。
 この議論において用いられているのは、機能を考える上で必要な《~を度外視して》という観点そものではないか。フッサールによる《ガリレオ的》科学への批判も、同じ意味において理解されねばならない12。こちらの場合も議論の核心となるのは、〔近代科学においては〕個人主体に対する意味を具体的に創出する意識の働きが度外視されていることである。つまりフッサールが論じているのは技術と人間の個体生との間に損するパースペクティヴの食い違いに他ならないのである。
 マルクス/フッサールの平行性に思い至るためには、技術をより抽象的な概念として踏まえておかねばならない。[…] 技術とは、包括的な意味において考えるならば、機能する単純化にほかならない。すなわちそれは複雑性を縮減する形式であり、それが生じるための舞台となる社会と世界を知らなくても構成され実現されうるのである。[…] 個人の開放は──非理性的な個人を含めての話であることに留意しておこう──の技術化から不可避的に生じる副次的効果なのである。
[…]
技術と個人性の二輪車で、未来という霧のなかへ乗り入れていく。これがわれわれが置かれた状況であることを強調しておこう。 …

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質疑応答.

Q301 コード(化)とは

「コード(化)」の意味を教えてください。

第三章(訳 51-52頁)の記載によれば次のとおりです:

 非常に基本的な意味、あるいは相互行為的な意味で、権力は常に一つのコードである。すなわち、権力は、 を一対一の対応で付属させ、そうすることで考慮に入れられる諸可能性を二重化するという限りで、コードである。[…] が並列させられるのであるが、このことはコードに典型的なこの二重化によって可能とされるのである。
大学進学を望んでいた者は、召集令状によって──しかも召集令状によってはじめて──入隊を望んでいなかった人になるのであり、こうして彼は、権力の文脈のなかで決定可能な
  • 〈欲すること〉-と-〈欲しないこと〉
の相補性のなかに連れ込まれる。自発的な目標追求活動がおこなわれる社会生活のなかで、権力は、このようにして特殊独自的な諸操作の条件として、欲することと欲しないこととの〈非自然的〉な配分をつくりだす。
このように、「或る選択肢を、それに相補的な別の選択肢とセットにする」ことが、〈コード化〉と呼ばれています。
これをそう呼ぶのは、〈「核酸塩基3つの組み合わせ」 (トリプレット)は「1つのアミノ酸」をコードする〉といった用例*に倣ってのことでしょう。
* Wikipedia: コドン
コドン(英: codon)とは、核酸の塩基配列が、タンパク質を構成するアミノ酸配列へと生体内で翻訳されるときの、各アミノ酸に対応する3つの塩基配列のことで、特に、mRNAの塩基配列を指す。DNAの配列において、ヌクレオチド3個の塩基の組み合わせであるトリプレットが、1個のアミノ酸を指定する対応関係が存在する。この関係は、遺伝暗号、遺伝コード(genetic code)等と呼ばれる。

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Q302 「生活世界」論の基本書

フッサールの「生活世界」論に関する基本書、お勧めできる本があれば教えてください。
 なにはともあれ、まずはネタ元である『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んでいただくのがよいと思いますが、少し量が多いですね(文庫本で553頁)。まるごと一冊『危機』書を解説した本というのも幾つかあり、たとえば は今回の講義を準備する際も参照しましたが、気軽にお勧めできる感じではありません。手元にないため内容を再確認できていないのですが、 には、50年代に半ばに『危機』がフッサール全集に収録刊行されたあと、60年代のシンポなどを通じて「生活世界」なるワードがバズっていく様子も書かれていた……ような気がします。その後の遺稿研究によって、当初流布した見解がかなり修正されていった点には触れていなかったかもしれませんが、『権力』周辺時代の状況を把握するには便利なのではないかと思います。論点を深く掘り下げるというよりはいろんな話題を紹介してくれるタイプの本なので、現象学周辺の思潮への導入書としてもよいかもしれません。なお、これまでまったく現象学に触れたことがない、という方は、まずは の冒頭から第二章終わりまでを読んでみてください。

 『権力』で〈生活世界/技術〉図式を導入するにあたってルーマンが直接に参照したのは、注にも挙がっている ですが1、これと、ブルーメンベルクの師匠であり、「生活世界」論の展開にも大きく寄与したラントグレーベのものは読んでおいたほうがよいです。 『権力』と同時代の議論状況は、70年代末に刊行された論文集に掲載された でも伺うことができます2
 バズワードになって以降の「生活世界」論に対する現象学者からの応答としては、北米の状況も伺える を挙げておきます。

 なお最後に、こうしたルーマンのアプローチに対して現象学者がどのような応対 (というか仕打ち)をしてきたか、というのが伺える文献も挙げておきましょう。 こういうものを読んでしまうと、「現象学者はルーマンが現象学文献を読んだ程度にはルーマンのテクストを読まないし、狭量で頭の固い 度し難い人たちだなぁ。はやく滅びればいいのに。」という印象を得ることは避けがたいところがありますね。
  1. なお、ハーバーマスが「生活世界の技術化」という図式を取り入れたのは、ルーマンの本書『権力』を経由してのことです: その際ハーバーマスは、「技術化」の中味を、ルーマンがまさに「そう考えてはならない」と注意していた──「目的行為の増大」のような──方向へと変えてしまいました。
  2. ラントグレーベとブルーメンベルクは、ルーマンも様々な著作で参照している論者です。2015年に紀伊國屋書店新宿本店で開催したブックフェア「社会のブックガイド──ルーマンからはじめる書棚散策」でも、『社会の科学』の項で、 を選書しました。

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Q303 生活世界と技術──シュッツ、ハーバーマスとルーマン

ハーバーマスとルーマンの著作には、どちらにも「生活世界・技術・コミュニケーション」といった同じ言葉が出てきますが、意味も関係も ずいぶん違うようです。それぞれの関係はどうなっているのでしょうか。
「生活世界」をめぐるハーバーマスとルーマンの見解は、狙っているものが違いすぎるために、比較するのが非常に難しい、という話がありました。またハーバーマスは、ニューヨークでアルフレート・シュッツやその弟子たちに「生活世界」概念を教えてもらったという紹介がありました。実際、ハーバーマスの「生活世界」概念はシュッツからの影響が大きいように思います。しかしルーマンの書いたものを見ると、たとえば「レリヴァンス」の概念など、シュッツからの影響が伺えるようにも思いますが、その点どうなのでしょうか。

 ルーマンがシュッツを比較的丁寧に読んでいた、というのは間違いないことです。が、こと「生活世界」論に関していえば、ルーマンにとってのシュッツは、ルーマンが参照した──フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティをはじめする──多くの現象学者のうちの一人であって、特別な重みは持たないようには思います。

 とりとめもなく挙げていくのでよければ、シュッツ+ハバーマスとルーマンの生活世界論の違いということで指摘できることはたくさんありますが(難しいのは、それらを整理して提示し、トータルに見てどのような違いだと言えるのかを語ることです1、私としては 、両者を隔てる顕著な特徴として、まず最初に、 という点を挙げたくなります。

 この点での両者の違いは明白なのですが、その違いの意味の方は はっきりしません。そして、特に社会学方面では「生活世界」という語は、シュッツやハーバーマスに関連付けて語られることが多く、そしてシュッツやハーバーマスに依拠する論者は──当然ながら──この点を取りあげない傾向があります。

 なお、次の論文は、「生活世界と技術」をめぐるハーバーマスとルーマンのコントラストについて考えるときにも示唆的です。この論題に関心のある方には一読をお勧めします。 デューイとハイデガー それぞれの技術論を、両者の存在論まで立ち返って比較検討したうえで、ハーバーマスの「技術による生活世界の植民地化」論に対してハイデガーならば どう応えられたかについて論じたものです。
  1. これはなかなかに難しい課題ですが、それ以上に大きな問題は、そうした仕事に価値があるようにはあまり思えない ということの方ですね。
  2. この拒絶と引き換えにシュッツが提案したのが「自然的態度の構成的現象学」でした。
  3. 「尊重した」という微妙な表現を使ったのは、「採用した」わけではないからです。このように、ルーマン理論と超越論的現象学の関係は かなり微妙なものであり、評価は簡単ではありません。

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Q304 ルーマンにとってのフッサール現象学

ルーマンはフッサールをどういう経緯で読んでいたのでしょうか。ルーマンの著作に現象学がはっきりと登場するのは いつ頃からですか。

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Q305 権力連鎖とは

「権力連鎖」とはどういうものでしょうか。

Q306 権力の機能

権力は政治システムの外でも働くものだ(=社会的権力)というお話がありましたが、だとすると、「政治システムにおいて・政治システムにとって権力はどのように働くものなのか」という議論とは別に、「各システムにとって権力はどのような機能を持つのか」という問いを問いを立てることができそうです。
「経済における権力」、「法における権力」、「教育における権力」といったものを比較する研究はできるでしょうか。

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