日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

作成:20170418 更新:20170519

酒井泰斗「ルーマン解読5:ドグマ的思考の社会学──毛利康俊さんと『法システムと法ドグマティク』を読む」
(2017年04月17日・05月15日・06月19日、朝日カルチャーセンター新宿)

ニクラス・ルーマン(1974)『法システムと法解釈学』

この頁には、2017年4月から6月にて朝日カルチャーセンター新宿にて開催する「ルーマン解読5」講義における質疑応答などの一部を収録しています。
毛利康俊さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。

概要
第一回講義(2017.04.17)
  • Q101 入門的文献は
  • Q102 この議論の独自性は
  • Q103 社会システムと個人の行為の関係は
  • Q104 法規範と法教義学の関係は
  • Q105 一般的な正義の観念との関係は
  • Q106 既存の法社会学との関係は
第二回講義(2017.05.15)
  • Q201 近代化論について
  • Q202 必要性とは
  • Q203 無過失責任について
  • Q204 自由な個人とドグマ
  • Q205 行動科学とドグマ
第三回講義(2017.06.19)

概要

「ルーマン『法システムと法解釈学』解読」概要

 ドグマはふつう、人々の思考を縛るものだと考えられています。しかし1974年に刊行された本書においてルーマンは、法専門職の仕事を例に取り、ドグマ的思考は法律家の思考を解放する側面と、類似の事例に法的決定を一貫させるという効果をあわせ持つ、と主張します。そしてドグマ的思考のこうした積極面に着目することで、法律家集団内外からの法律家批判に適切に応じることができるようになるとしています。
 また本書6章では特に所有概念が取り上げられます。近代的な所有権概念の成立後も所有をめぐる判例理論が展開しただけでなく、さまざまな私法の特別法が制定され、種々の公法的な規制が所有権に加えられてきました。その結果、所有の基本的な概念は同じままでも、その機能には大きな変化が生じました。この変化の背景に、ルーマンは、法律家たちの、所有概念をコアとする概念ネットワークを複雑化し、洗練させてゆく努力をみているわけです。さらに、所有の概念は近代社会を特徴づける経済システムの分出に対応するものなので、ルーマンは新たな理論装置を作ってはさまざまな角度からたびたびこのトピックに立ち戻ることになりました。
 残念ながら本書は、ルーマンの理論装置がまだ未整備だったために分かりにくい面もあるのですが、この点は後年の『社会の理論』シリーズを参照することで明確になります。したがって、70年代のルーマンが、所有をめぐる諸制度と法思考についてどのように見ているかを知ることは、彼の理論の全体がどのように展開していったかを知るためにも有意義でしょう。そこで本講義では、

という順序で、のちに「冗長性と多様性」や「構造的カップリング」といった術語で語られるようになる事態について、法解釈学を例に考えてみたいと思います。
ゲスト講師紹介
毛利康俊(西南学院大学 法学部教授)
京都大学大学院法学研究科単位取得退学(1996年)。著書に『社会の音響学:ルーマン派システム論から法現象を見る』(勁草書房2014年)がある。
この著作では、ルーマンの理論を法秩序論の方法論として再構成し、若干の応用例を示した。最近では、システム論や推論主義意味論の観点から、法的思考・法解釈学の実態を適切に記述し、位置づけることを試みている。

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(毛利康俊)
『法システムと法解釈学』紹介

Q0a1. 本書で ニクラス・ルーマンが 取り組んだのはどのような課題ですか。

(1)法的思考の教義学的性格を正確に記述する。

 法的思考はいろいろな人がやっています。典型的なのは、判決書をまさに書いている裁判官です。判決書を読みながら、肯定的に、否定的に、評釈や論文、書物を書いている法律学者もそうです。弁護士も、クライアントの直面する事件で、もし裁判になったら裁判官はどういう判決をくだすだろうか、気にしますから、その限りでは法的思考をしています。

 立場はさまざまであっても、法律家が法的思考をしている限りで共通にしているのは、権威的テキストへお互いを拘束していることです。平たく言うと、法律家は、民法典なり刑法典なり、六法に収まっているような法律の条文にしつこいくらいに立ち戻りながら議論をしないと、何を言っても法律家共同体のなかでは相手にされません。

 不可疑のものとして出発点に置かれる教義を一般にドグマと言い、ドグマを前提とする学をドグマーティク、教義学と言います。代表的な例として、聖書を権威的な書物と認める神学があります。法学も、法典などを権威としてみとめるので、教義学性を持っています。

 ところで、どんな前提をも疑って知の地平を広げていくことに自らの存在意義を認める近代の学問理念から見れば、神学や、こういう意味での法学は、ずいぶん古くさく、怪しげなものに見えます。実は、真面目な法学者たちは、そういう自己懐疑にずっと悩まされてきました。法学は、法的思考は、教義学性をもつにもかかわらず合理的なものでありうるでしょうか? この問題に真面目に取り組むためには、まず法的思考が教義学的性格をもつというのはどういう事態であるのか、正確に記述することが必要になります。

(2)法的思考の教義学性に合理性があるとすれば、どういうものかを明らかにする。

 前述の近代的な学問理念からすれば、ドグマ的思考は人から自由な発想を奪うものですから、もうそれだけで不合理なものだということになりそうです。しかしながら、法典にも判例にも拘束されずに、裁判官が自ら信じる正義のみに依拠して裁判をしたら、どうでしょう。これはこれで合理的とは思えません。したがって、法的思考の教義学性は、法の合理性になんらかの寄与はしていそうです。では、それは何でしょうか?

 教義学的思考の実態解明とともに、法に可能な合理性、法に社会から期待される合理性もあわせ考慮して、答えられるべき問題です。

Q0a2. それぞれの課題に対して、ルーマンが与えた回答はどのようなものですか。

(1)特定のテキストをドグマ化することは、一面では確かに法的思考を拘束するが、他方では法的思考を自由にもする。

 実は、ドグマ的思考の被拘束性、不自由さばかりを強調する見解が根強いのですが、ルーマンはこれに対して、ドグマ的思考の解放的性格を強調します。口から出たそばから消えてしまう口頭言語と比べて、文字化されたテキストは、それに批判的な吟味を加えることを可能にします。また、当事者の前に無前提に立たされる決定者は、共感性の高い立派な人であるほど、当事者の個別の事情に振り回されがちですが、権威的なテキストに拘束されることで、当事者の事情のうち考慮に値することと値しないこと(テキストが考慮を要求していることとしていないこと)の分別が可能になります。つまり、目の前の事例にたいして適切な距離がとれます。ルーマンは、この種の自由度が、(2)で見るような課題に答えるのにちょうど良いと見ています。

(2)法的思考の教義学性は、裁判実務が、もろもろの判決を実質的に一貫させるという制約条件の下で、可能な限りの複雑性を増大させることに寄与する。

 教義学的思考によって獲得される、こうした自由はどのように行使されるべきでしょうか。ルーマンは、近代社会で自立化した法システム、とくに司法システムの存在意義という角度から、こう答えます。近代の司法システムは、「あっちでこういう判決が出ているのに、こっちでこういう判決が出ているのはオカシイよ」という批判を受けないようにしなければなりません(一貫性の要求)。他方で、複雑で変化の早い現代社会では、判決のバックグラウンドとなる法的知識も相応の複雑性を備えていなければなりません(複雑性の要求)。

 教義学的思考とは、ルーマンによれば、むやみに権威的な思考ではなく、テキストから示唆される概念の体系を日々、更新し続けるという地道な作業であり、だからこそ、法がこのような要求に応えることに寄与できるのです。

Q0a3. こうした課題に取り組むことにはどのような意義がありますか。

(1)法律家を無用な劣等感から解放する。

 法学史を振り返ると、法律家はここ150年以上、自らの思考の教義学性にコンプレックスを抱き続けてきていて、悪い意味での教義学性に居直ることと、良い意味での教義学性を投げ捨てることの間で不毛な振り子運動を繰り返してきました。ルーマンの議論が成功しているなら、法律家はこの振り子運動から抜け出せるかもしれません。ただ、結局ルーマンが言っているのは、法律家が日々やっていることを自信を持って真面目に続けて行こうよということですから、法律家に甘すぎる、保守的だという批判はありうるところです。

(2)法律家を、できもしないチャレンジから引き戻す。

 本書の出版当時、教義学性批判は、裁判官はみずからの判決の結果を考慮せずに木で鼻をくくったような態度に終始しているという、という形で噴出していました。それで法律家のなかには、結果志向的な法的決定へと方向転換を図る人たちも出てきました。ルーマンは、こういう動きにきわめて懐疑的で、そんなことはできないし、無理にやろうとすればせっかく良き役割を果たしている教義学性が台なしになると言います。法的思考はどこまで結果志向的でありうるかという論争は現在も継続中で、この意味で本書は懐疑的立場からの古典と見ることができます。

(3)裁判の社会的意義から考える。

 裁判は、当事者にとって重要な意義を持っているのは言うまでもありませんが、それを通じて規範的意味での世間の相場が形成されるという意味で、生涯一度も裁判の当事者になることがない人にとっても、重要な意義をもっています。後者の意義を重視する論者は比較的少なく、ルーマンはその稀な例にあたります。したがって、こういう視角から法的思考の諸問題を解いていこうという彼のアプローチは貴重だと言えるでしょう。

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第一回講義(2017.04.17)

講義概要

    酒井
  • 1. 本講義の趣旨と方針
  • 2. 『法システムと法解釈学』に関するメモ
    • 論点1:社会理論と法
    • 論点2:「法解釈学」と「正義」─ テキストによる二次の観察と偶発性定式   
    • 論点3:「所有」─コミュニケーション・メディアと構造的カップリング
    毛利
  • はじめに
  • 一 本書の内容
  • 二 特徴・限界・固有の価値
  • 付録 教義学的思考の例
  • 【参照文献】

[酒井講義 一部抜粋]
論点1:社会理論と法

なぜルーマン理論にとって「法」が重要なのか

[毛利講義 一部抜粋]
二 特徴・限界・固有の価値

特徴

※一般的な正義の観念の分類
 適法的正義
 形式的正義
 実質的正義
   配分的正義
   矯正的正義
   交換的正義
 衡平
 手続的正義

ルーマンの論じる「正義」はこれらと一致していないため評価がやや難しい。

限界

固有の意義

ルーマン研究で
法的思考研究で
* しかし結果そのものを基準とする見解がほとんどない現状から振り返ってみると、逆に、ルーマンの立場は、結果考慮の持ちうる意義や、機能分析的法律学の可能性を大いに認めるものであったことが注目される。ポレミックな語り口から受ける印象にもかかわらず、ルーマンの見解はかなり穏当なものではないか。
** 『社会の法』(1993年)「論証」章では、〈冗長性/多様性〉として論じられるようになる。
*** 『社会の法』「論証」章ではむしろ後景に退く。


質疑応答.

Q1a01 入門的文献は

法的思考についての入門的文献にどのようなものがありますか。
また、法におけるドグマ的思考について、参考になる文献があれば教えてください。
毛利
法的思考について、法学部新入生レベルでは、陶久利彦『法的思考のすすめ 第二版』があります。法哲学の入門書レベルでは、長谷川晃、角田猛之『ブリッジブック法哲学 第二版』、竹下賢ほか編『はじめて学ぶ法哲学・法思想』に法的思考の章があります。
 法思想史では、田中他編『Sシリーズ 法思想史』が、近代以降の法的思考の諸学派にかなりの頁を当てています。
 1970~80年代、ドイツでは法的思考の教義学性について議論が盛んでした。邦語文献では、田中成明『法的思考とはどのようなものか』第5章に紹介があります。

Q1a02 この議論の独自性は

規則による拘束によって逆に自由度が増すという現象は、かなり一般的なものではいでしょうか。ルーマンの独自性はどこにあるのでしょう。
毛利
ルーマン独自の発想ではありませんが、ルーマンお得意の話題ではあります。「ドグマ」に関してこういうことを指摘する人は珍しいです。法ドグマを積極的に評価する人でも、「言うほど制約はきつくない」と指摘したり、「制約されていることにも積極的な意味がある」という角度から論じたりするのが一般的です。

Q1a03 社会システムと個人の行為の関係は

ルーマンは本書で、法システムの統一性と可塑性の両立の可能性を論じていますが、ルーマン理論のなかで、こうした法システム全体の在り方と、個人の行為(判決など)はどのようにつながっているのでしょうか。 個々の行為者(裁判官など)が一貫性と自由などを考慮して意思決定すれば、法システムの統一性と可塑性は両立することになるのでしょうか。
毛利
ルーマンの理論枠組みでは、一般的に、個々の行為ごとに構造が再生産されることになります。本書については、個々の判決ごとに、法規範が再生産されることになります。ただ、この構造の再生産の在り方は多様でありうるので、どのように再生産されれば、法システムの統一性と可塑性がどのようになるのかは、また別の問題になります。
 ルーマンは、一般的に社会的現象の有り方が個々人の行為に還元されるという発想をとりません。本書については法システムの統一性と可塑性のバランスを取るのに、法教義学が構成的な役割を果たしているという前提で、ルーマンは議論を進めています。

Q1a04 法規範と法教義学の関係は

法規範と法教義学の関係について教えてください。
毛利
どういう事件にどういう判決が出されるかを決定するのが法規範です。この際、前提として踏まえておかなければならないのは、法律の条文=法規範ではないことです。法律家は 法律の条文に一定の解釈を加えて、事件に適用しています。
 法律の条文をどのように解釈するべきかを論じるのが、法教義学で、これがいわゆる法律学の大きな部分を占めます。
 また、法規範という言葉ですが、一般的に、解釈される前の規範を指すことも、解釈済みの、適用される規範を指すこともあります。ルーマンにもこういう二義性がありますが、解釈される対象を指すときは、本書では「素材」という言葉をあえて使っているところもあります。
 事件と判決をつなぐのが法規範ですから、その解釈にあたる法教義学は、法システムの統一性と複雑性をバランスさせるのに重要な役割を果たす、というのがルーマンの見立てです。

Q1a05 一般的な正義の観念との関係は

「一貫性と両立する限りでの複雑性」というルーマンによる「正義」の定義が、一般的な正義の観念に収まらないとすると、なぜルーマンはそれを「正義」と呼ぶのでしょうか?
毛利
ルーマンは、すでに人びとによって使われている観念に解明を与えようとしているわけではありません。われわれが現に使用している諸観念は、古代以来の歴史を引きずっており、近代の機能分化体制に適合した形態をすでに獲得している場合もあれば、まだ獲得していない場合もあります。
 あれこれの価値観念の場合、古代中世では、個々の決定や社会全体の在り方を評価する文脈で使用されてきました。近代社会でもそういう文脈が存在することは確かですが、ルーマンは、それだけでは不十分だと考えます。全体社会の部分システムは、全体社会から期待されるものがあるので、それに応えるように当のシステムの作動を方向づける価値概念が必要になります。
 こういう、部分システムにとっての価値概念を、すでにわれわれが、古代以来の観念の進化の結果としてすでに所有しているかは、ケース・バイ・ケースです。
 法律家は、その活動を方向づける価値理念として今も「正義」を多義的に使いながら日々の仕事をしています。しかし、講義でも紹介したような、その幅を考慮しても、ルーマンは、法律家の使う「正義」観念は、やはり個別の意思決定や社会全体の在り方を評価する基準としての文脈に拘束されており、法という部分システムにとっての価値理念としては不十分であると見ているようです。
 ルーマンの「正義」概念は、法律家の使う「正義」観念を、こういうものを含むように拡張してはどうかという提案と読むことができると思います。

Q1a6 ウェーバー、エールリッヒなどとの関係は

「法を社会学的に検討する」という課題に関して、ルーマンは、歴史法学やウェーバー、エールリッヒなどについてはどのように捉えていたのでしょうか。
酒井
ルーマンのテクストのなかにエールリッヒの名前はそこそこ頻繁に登場しますが、法社会学において参考にすべき先行者というよりは歴史記述の対象として、という感じですよね。不思議なのはウェーバーの方で──ルーマンはアメリカの行動科学的行政学に依拠したウェーバー組織論批判でデビューしたという経緯があるにもかかわらず──そもそも ほとんど名前が登場しないという印象があります。
毛利
ルーマンは、われわれが思うほど自分のことをドイツ人だとは思っていないということではないでしょうか。
 歴史法学、ウェーバー、エールリッヒ、どれをとっても、ルーマンが自分の法の理論を作るときに内的な会話を繰り返したという印象はありません。注を読んでも、彼らが決定的なところで引かれていたという記憶はありません。
 ウェーバーについては、方法論的な次元で違和感があると思います。行為論の側面にせよ、理念型論にせよ。また、法の歴史的現在を同定する場合でも、ウェーバーは形式的合理性から実質的合理性へというとらえ方をしますが、ルーマンはこういうとらえ方では問題を精確に把握できないと、反対するでしょう。だからこそ、システム合理性などという概念を作る必要があったわけで。
 エールリッヒについては、法そのものを扱っているのではなく、ローカルな問題を扱っているにすぎないという評価になると思います。
 歴史法学については、法史、法思想史のなかで重要なものとされるのは当然ですが、他の理論傾向と比べて特権的な扱いはされていません。本書『法システムと法解釈学』については、ルーマンは、制定法時代(19世紀後半から)の法教義学を対象にしているので、学識法時代(19世紀前半)の歴史法学への言及はありません。対象範囲が広がれば、相応に取り上げられたであろうという予想はできますが、他の書き物を見ても、それ以上のことは予想できません。
 もっとも、歴史法学のなかで、ローマ法の伝来的な読み方の変更がなされ、それが近代大陸法のパラダイム的概念枠組みの形成に繋がったわけですから、ゼマンティク論の観点からは、つっこんだ研究がなされても不思議はないところです。ルーマンが長命に恵まれなかったことが惜しまれます。
 なお、学識法曹層は、それ自体としては、機能システムでも、狭義の組織でも、相互行為でもなく、つまり、ルーマンのいう社会システムではないところの、社会的まとまりですから、ルーマンが歴史法学を主題にしたらどう論じただろうか、と考えてみることは興味深いテーマだと思います。
酒井
1988年来日時に、インタビューの中でエールリッヒについてコメントしている箇所があるので、参考までに引用しておきます(論点二つのうちの最初の方だけを引用しました。続きは書籍を当たってください)
※河上倫逸によるインタビュー「法史と社会システム論」295頁あたりから。(河上倫逸編(1991)『社会システム論と法の歴史と現在―ルーマン・シンポジウム』所収)
オイゲン・エールリッヒに関しては、その一部についてまずお話したいと思います。
 オイゲン・エールリッヒを私は歴史的テクストとして読みます。当時──つまり19世紀末の段階で──法がほとんどもっぱら国家によって制定された法として定義されていたということをはっきりと理解しておかないとエールリッヒのテクストも正確には理解できないと思うのです。彼はまずブコビナに生活しているオーストリアの法律家として、住民の本当の法意識が国家法とは一致していないということ、即ち国家法が法そのものであるという主張の不当性を看取していたのです。そして、歴史的研究の中で、つまり『法律的論理』の中で、エールリッヒは Systematik、即ち近代ローマ法の概念体系は古代のローマ法とは全く一致していないというテーゼをたてたのです。何故なら、古代ローマでは 訴権理論actio 的な考え方、つまり actio は訴権である という考え方 が支配的だったからです。ローマ人からすれば、請求のための訴権を有しているかどうかが重要だったのです。彼らにとっては、訴権体系──例えば サヴィニーにおける 財産権の体系といったものが存在しているかどうかなどではなく、法廷で成功し得るかどうかということの方が重要だったのです。それ故、エールリッヒの研究は、近代の法発展の批判なのです。[…]
 しかしエールリッヒの述べたことは我々の共有する知識となってしまっております。我々は、もはや、法実証主義的な立場を取ってはおりません。[…]エールリッヒの発見は大変興味深いものだったのですが、しかしそうした知識はその後にごく一般的なものになった、少なくとも社会学者にとってはそうなったのです。以上が第一の点です。[…]

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第二回講義(2017.05.15)

講義概要

  1. 本書の構成とストーリー
    • 構成と分量
    • 全体的なストーリー
    • 題材の取捨選択 
  1. 本書の主要トピック
    • 未来志向
    • 法解釈学
    • 正義・法解釈学・所有 
  1. 本書の章構成と各章の分量配分を見たうえで、本書全体のストーリーを確認しました。それを踏まえ、今回の講義でどのトピックを取り上げるべきかを検討しました。
    • 本書を単体で捉えた場合、その核は、「〈法における結果志向〉のシステム論的再解釈」が提示されている第4章にあると言えるでしょう。
    • 他方、本書をルーマンの著作群のなかの一冊として捉えた場合、これは、
      • 他の多くの著作同様、様々な領域における近代化の形を、特に「法システム>法解釈学>法における結果志向」を取り上げて描いた著作であり、
      • そこで重要なのは「過去志向から未来志向への時間志向の転換に、法システムはどのように反応しようとしているのか」というトピックであり、
      • まずはそれを論じる前提となる第1~3章をとりあげるべきだということになるでしょう。
    今回の講義では後者の線を選びました。
  2. 講義の本論として、本書が「近代化のなかの法システム」を取り上げたものであることに注目し、
    • 「過去から未来への時間志向の転換」という表現のもとで ルーマンが どのようなことを想定しているのかを、信頼リスク危険 といった観念を例に紹介し、
    • 本書において、法システムにおける法解釈学の位置はどのようなものとして提示されているかを確認し、
    • 〈正義・法解釈学・所有〉というセットが、後年(1993年)『社会の法』の歴史記述において、どのようなかたちで登場してくるのかについて6章「法の進化」を取り上げて紹介しました。

質疑応答.

Q2a01 近代化論について

本日の講義は、本書を近代化論の一例として読む、という趣旨でした。ルーマンの近代化論は、ほかの(たとえばロストウのような)近代化論と比べて、どのような特徴があるのでしょうか。

Q2a02 必要性とは

引用文に出てくる「信頼、リスク、危険、必要性」のうち、「必要性」とはどのようなことでしょうか。
※参照箇所:
『法システムと法解釈学』第4章と第5章(訳文は毛利による)

[4章8節 ¶91]  こういう次第で、信頼、危険、リスクのような問題定式が隙間に飛び込んでくること、事情変更の原則が都合良く用いられることも、偶然ではない。こうして、未来責任を法的諸関係のなかで制御する教義学的諸基準への普遍的要求がある。それらは、透明性、相互的近さ、保険可能性、使用可能な代替的選択肢の存在などの観点によって洗練させられえよう。

[5章2節 ¶98]  [機能分化に対応して登場した]より最近の、教義学的にはまだ十分には洗練されていない現象については、われわれは先に注目しておいた。すなわち、全体社会の未来地平の延長と未規定化に教義学が対応し、ある種の未来責任を個別の法関係に組み入れようとするための諸概念──信頼、リスク、必要性のような諸概念──である。」

毛利
「必要性」で、特に思いつくような特定の法制度なり法学理論なりという ものはありません。注まで見ても、特定の具体例はないので、ここでは相当に一般的な意味で使われているように思います。
 法律家は法文から離れるような新規の議論をするときには、必要性‐許容性‐論法をしばしば使います。
  • 法文や実務慣行にはないが、~のようにする必要がある。
    法文や実務慣行から離れる以上、慎重に考えなければならないが、そのようなことをすることは、既存 の法文や実務慣行との関係でも、・・・ということから許容される。
この程度のことではないでしょうか。
 ちなみに、未来責任という見出しでルーマンが言っていることは、法律家も認識はしているが、正面からは扱いあぐねているもので、正面から扱う理論はときどき登場するものの、通説の地位をしめることはまずありません。個別の論点や事例を扱うときに、考慮したりしなかったりという程度です。正面からの理論化を院生がやろうとしたら、まず、「止めとけ」と言いようなテーマです。 ですので、このあたり、ルーマンはずいぶん思い切ったことを言っている印象です(革新的というか、社会学者だから気楽にものが言えるというか)

Q2a03 危険責任

危険責任、無過失責任については、いわゆる近代的な法の概念とは違ったものとして位置づける議論がありますが、ルーマンもそのように考えていると理解してよいでしょうか。

Q2a04 自由な個人とドグマ

〈個人主義の登場-と-機能分化の成立〉との構成的関係について紹介がありました。
『制度としての基本権』からの引用文にある「社会秩序の地平において拡散しつつある行為予期は統一的な構造の中では調整されえなくなっているので、もはや異論の余地ない制度的な行為範型に訴えることができなくなっている」といった箇所を見ると、これはドグマ的なものの否定になっているように思われるのですが、どうでしょうか。60年代と70年代でルーマンの見解が変わったのでしょうか。
※参照箇所:
『制度としての基本権』(1965)第3章「基本権の自然法的基礎づけと精神科学的基礎づけ」
[…] ひとは、市民としての[~政治的な]役割の他に別の役割をも果さねばならない。つまり彼は社会のかなり多数の下位システムに参加しなければならない。
それの分化は彼の役割管理が困難なものになるということのうちに反映されている。彼は経済システムに参加して生産し、文化を伝逹し、多くの非政治的な公共的出来事に参加し、家庭生活を営み、これらすべての役割を崩壊させることもなく対立的な行為態度義務によって引き裂かれることもなしに、遂行せねばならない。彼がそれをなしうるのは、ただ一切の役割を通して自己自身を一個同一のものと表出しうる場合だけである。
そのためには、彼は様々な役割を人格的に形成していく中で役割コンビネーションを有意味な生活連関としてもっともらしいものにする自己自身の一般化されたシステムを、個人的な人格性を、もたねばならない20
 逆に見れば、分化した社会秩序は、多数の特定化され別々なものとして課せられている機能を充足させるべき多数の様々な人格性を必要とする。
単純な社会秩序の同形的な人格性構造を基礎とするなら、そのような社会秩序は萎縮してしまうであろう。そのために必要とされる多種多様な才能、構え、動機づけを欠くことになろうからである。それゆえそれは個々の人格性の多様性を正当化し、それを個体性に対する権利として慈織しなければならないのである。
 西洋の個人主義が国家と教会という中世的な二元論に促されて現われてきたこと21、そこからただちに更に経済セクターの自律的な役割要請が剥離せしめられたことは、決して偶然ではない。三身分、即ち教会身分、政治的身分、経済的身分は22異なったヒエラルヒーとして並行的に現われてくる。今や社会秩序の地平において拡散しつつある行態予期は統一的な構造の中では調整されえなくなっているので、もはや異論の余地ない制度的な行態範型に訴えることができなくなっている問題に対して、ますます個人的、人格的な問題解決が発見されねばならなくなった。
18、19世紀という過渡期において友情というものが特に強調されたということのもつ意味が、テンブルックによって23このような問題の布置状況から明らかにされた。このような発展の終末である19世紀には、社会学と「ダンディ」なる人間類型とが現れた。人格性は今や個人として(しかも社会的役割の最大限遂行者としてだけではなく、英雄、聖人、芸術家、哲学者として)理想化された。個人としての人格性が社会秩序の構造的統制のために機能的に重要となったからである。個々人は自己自身を整合的に維持しうる選択原理としなければならない。即ち、彼はデザイナーであり、社会民主党に投票し、ボルシェを運転し、そしてベレー帽をかぶる等々。個人主義の機能的意味賦与はそれゆえ全面的に個人の差異性に立脚する。それは、18世紀の合理的個人主義のように、社会秩序の根拠付のために個人の平等の最高の可能性を、理性を、要請する必要はないのである。
  1. [ジンメル『社会分化論』『社会学』など、デュルケーム、ガース&ミルズなどへの参照]
  2. このような二元論は、宗教も排他的な体系という様相をとるがゆえにのみ可能となっているのである。そのことによって、宗教の領域において個人的な宗教的な決定、能動性、そして自己の安寧に対する責任を原理とすることが、本源的に宗教的な体験が繰り返しこの原理の限界を越え出た視界を獲得する時でさえ、不可避となる。例えば、クローデル『繻子の靴』
  3. [トレルチ「キリスト教会およびキリスト教諸集団の社会教説」(古代中世)]
  4. [テンブルック(1964)「友愛」]

「統一的な構造の中では調整されえない」のは〈複数の構造に分裂してしまったから〉です。〈構造がなくなってしまったから〉ではありません。
 これは、〈複数の構造がバッティングする状況下では、パーソナルな問題解決が要求される〉という議論なので、それら分裂してしまった複数の構造のうちにドグマティックなものが含まれていることとは矛盾しません。
 また──注21で注意されているように──単に多元的であるだけでは自由や創造性の要請には至らないのであって、(宗教・政治・経済といった)それぞれの構造が 排他的に自らの論理で筋を通そうとするからこそ、それを調停する位置に〈自由な個人〉が要請される、というのがこのストーリーのポイントです。
 したがって、「これはドグマ的なものの否定にはなっておらず、60年代と70年代でルーマンの見解が変わったわけではない」が答えです。

Q2a05 行動科学とドグマ

ルーマンは行動科学の影響下で仕事をした、という紹介がありました。
行動科学的なものとドグマ的なものは矛盾しないのでしょうか。
これは「イメージ」の話でしょうから応答するのが少し難しいですが。
 たしかに、たとえば政治学の中で行動科学のムーブメントが起きた時に最初に取り組まれたのは、計量的なアプローチを採りやすい 投票行動のようなトピックでした。そしてここには、「旧来の政治学のように法・政治的な制度や法の条文の分析をするのではなく、具体的な人々の行動を・科学的に扱おう」という指向があったでしょう。そうした例に鑑みても、ドグマティクは行動科学とは縁遠いトピックのような気がします。また行動科学運動には一般に、「役に立つものを・新しく・科学的に 作り出す」ことへの指向も見受けられるので、この点でも、ドグマティクとは相性が悪そうです。
 しかし、本書におけるルーマンの議論が という点に注目すれば、これが「なんであれ それを〈行動〉との関係で捉え直せ」という行動科学の方針と それほど距離の遠くないものであることまでは理解していただけるのではないでしょうか。

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第三回講義(2017.06.19)

講義概要


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質疑応答.

Q3a01

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