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作成:20130526 更新:20130628

朝日カルチャーセンター「北田暁大:ルーマン入門」 北田暁大「ルーマン入門」 feat. 酒井泰斗
(2013年05月24日、朝日カルチャーセンター新宿)

この頁には、2013年05月24日に朝日カルチャーセンター新宿にて開催した講義「ルーマン入門」における質疑応答の一部を収録しています。(当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答の双方が含まれており、回答はすべて酒井によるものです。)
この講座は、北田暁大さん担当の朝カル講義「ルーマン入門」(全二回)の初回に 酒井が話題提供者・対談者として参加したもので、 当日は50名を越える方のご参加を得て、たくさんの ご質問をいただきました。どうもありがとうございました。
なお、記事先頭には 酒井による「話題提供」のダイジェストも載せておきました。

  • ダイジェスト
    • 『社会の理論』を〈社会学的DJ ニクラス・ルーマンによる「社会のブックガイド」〉として読む
  • 質疑応答
    • Q01 既存のルーマン研究と本日の報告の関係は
    • Q02 「〈社会の理論〉シリーズから三冊」の前に読むべき本は
    • Q03 ルーマンが述べているのは事象の研究ではなくて方法論なのか
    • Q04 〈社会の理論〉シリーズ以前・以外の論考は、「下準備」の価値しか持たないのか
    • Q05「トピックをバリエーションのもとで把握する」とは
    • Q06 別の比較もいろいろ可能な中で 特定の比較をする妥当性は何処にあるのか
  • Q07 第三部各巻の〈当該領域・対象領域〉とは何のことか
  • Q08 ルーマンがやろうとしたことにとって比較は必須なのか。比較のどこがよいのか。
  • Q09 「社会学的DJ」とはどういうことか
  • Q10 ルーマンはメディア論を得意としていたのか
  • Q11 ある領域をどうしたら機能分化したとみなせるのか
  • Q12 ルーマンは私領域を どう扱ったのか。
  • Q13 社会の恋愛、社会の友人関係、社会の家族といった本を書く予定はあったのか
  • Q14 ルーマンを援用した研究が難しいのはなぜか
  • Q15 エスノメソドロジー研究とルーマン理論の間にはどのような関係があるのか
  • Q16 ルーマンの社会システム論に固有のゲームとは何か
なお、この話題については、次のようなブログ記事を書いたことがあります。併せて お読みください。

ダイジェスト: 
『社会の理論』を〈「社会のブックガイド*」〉として読む
酒井泰斗(ルーマン・フォーラム)

※ご参考: 当日の配布資料は A4 で 30頁、報告時間は40分でした。

1: 本日のお題

  1. 本日の大テーマは、「ルーマンのどこが駄目か。どこがよいか。」です。この論題について、主として、私と同様に 研究には従事していない方へ向けて、報告者の経験に基づく指針を与えることを目標とします。
  2. この論題は様々な水準で検討することができますが、今日は──「ルーマン入門」という講義タイトルに鑑みて──もっとも大枠でのそれに 話題を限定します。
    • ルーマンの主著は『社会の理論』シリーズですので、この話題提供も このシリーズを題材におこないます。
  3. ルーマンのテクスト作法には多くの欠点があり、それに付き合うには高いコストが要求されます。したがって、私個人としては、基本的には他人にルーマンを読むことを勧めることはできません。 ここでは しかし、「それでも読みたい」という意向をもっている人に対して、
    • [Q1] ルーマンのテクストにはどんな欠点があるのか。ルーマンの近寄りがたさは何に由来するのか。
    • [Q2] ルーマンを読むことに どんなメリットがあるのか。特に、ルーマン以外にはあまり見られない議論は何か。
    について確認した上で、
    • [Q3] 特長を活かし・欠点を軽減するためには、ルーマンのテクストと どのように付き合えばよいのか。
    について少しだけ無駄足の少なくなる途を示します。
  4. なお、「ルーマンを読む」とは「大量に・速く読む」ということです。読みの速さはルーマンに付き合うためのミニマムな条件であり、テクストを読むのが遅い人には ルーマンは まったく お勧めできません。以下に私が述べるのは、「大量に読める」だけでは解消しない事柄についての対処の見通しだけです。

※記したように、私には 他人にルーマンを読むことは薦められませんが、もしも(なにか特殊な事情があって、あるいは うっかり)読み進めることになってしまった場合には、下記メーリングリストや研究会への参加もご検討ください。傷を舐め合いましょう。

2: 下位課題

課題Q を さらに次の三つに分解して答えます。
  問い 答え
2-1 [D1] ルーマンはどんな作業をおこなったのか
  • 各対象領域に関する先行研究が与えるトピックを、理論のもとへ包摂すること。
  • トピックを包摂できるように理論を調整・改鋳すること。
  • ※Q8の図も参照のこと。
2-2 [D2] それは、作業スタイルの点で どんな課題に対する回答になっているのか: 
  • まずなによりも、多様な歴史的諸事象を概念把握するために、
  • ついでまた、他分野からの高い学習能力を確保するために、
  • 議論の抽象性の水準をコントロールするための方法(機能分析)と抽象的な理論(システム理論)を導入した。
2-3 [D3] それは、作業内容の点で どんな課題に対する回答になっているのか
  1. 先行する社会の理論: 特定の特徴を根本的なものとして扱い、全域的な記述・説明を行おうと試みる諸理論。
  2. 社会科学の標準的な実証研究: 一般的な研究調査手法を特定の事象に適用するタイプの研究。
  • これらと別のやり方で社会学を遂行し、特に1に対するオルタナティブを提出すること。

3: 結論

身も蓋もありません。

  問い 答え
3-1 [Q1] ルーマンのテクストにはどんな欠点があるのか。
  • トピックが配置されているだけで分析がない。
    • [社会学的]機能分析の素材となるのは[社会学的]記述である。したがって、或る論題の導入が適切な再記述を伴っていないことは──単に、ルーマンの著作を読みにくくしている、というだけでなく──「機能分析のための素材が碌でもない」ということを意味する。
3-2 [Q2] ルーマンを読むことに どんなメリットがあるのか。
  • 各領域においてよく知られているトピックの、しかし 独特な・系統的な配置 が、系統だった仕方での構造的な-比較可能性を与えている。
    • それは、さまざまな著作においてその都度提示されている 特定のトピックを、特定のバリエーションのもとで把握できる ようになっている、ということを意味する。[Q5 への解答において敷衍しました。]
3-3 [Q3] ルーマンのテクストと どのように付き合えばよいのか。
  1. シリーズのうち、最低でも3つは読む。
    • 2つだけでは「バリエーション」に見えないから。
  2. 各領域について、その領域における標準的・教科書的な書物を数冊ずつは読む。
    • 何を読めばいいのかは、当該分野を専攻している人に推薦してもらうのがよい。
  3. ルーマンが注で挙げている参照文献を可能な限り読む。
    • それらの多くは当該分野の(やや古い)基本文献である。

4 ついでにもう一歩: 様々な比較可能性の概観とデモ

4-1 様々な比較可能性の概観

4-1a 1 各領域における通説との比較 1a 各領域の通説と異なる配置
4-1b 1b 各領域の通説と重なる配置 [→2へ]
4-2 2 〈社会の理論〉内での比較 複数領域間の比較

4-2 デモ:『社会の科学』と『社会の芸術』を例に

略。
次の箇所を取り上げた。

【引用1】 『社会の科学』(1990)第5章「システムとしての科学」XII

(邦訳 上 320頁)

【引用2】 『社会の芸術』(1995)第5章「自己組織化──コード化とプログラム化」II「芸術システムのプログラム」

(略)

5 付録

(略)

配布資料: ニクラス・ルーマンの主な著作

* © 三谷武司

質疑応答

  • Q01 既存のルーマン研究と本日の報告の関係は
  • Q02 「〈社会の理論〉シリーズから三冊」の前に読むべき本は
  • Q03 ルーマンが述べているのは事象の研究ではなくて方法論なのか
  • Q04 〈社会の理論〉シリーズ以前・以外の論考は、「下準備」の価値しか持たないのか
  • Q05「トピックをバリエーションのもとで把握する」とは
  • Q06 別の比較もいろいろ可能な中で 特定の比較をする妥当性は何処にあるのか
  • Q07 第三部各巻の〈当該領域・対象領域〉とは何のことか
  • Q08 ルーマンがやろうとしたことにとって比較は必須なのか。比較のどこがよいのか。
  • Q09 「社会学的DJ」とはどういうことか
  • Q10 ルーマンはメディア論を得意としていたのか
  • Q11 ある領域をどうしたら機能分化したとみなせるのか
  • Q12 ルーマンは私領域を どう扱ったのか。
  • Q13 社会の恋愛、社会の友人関係、社会の家族といった本を書く予定はあったのか
  • Q14 ルーマンを援用した研究が難しいのはなぜか
  • Q15 エスノメソドロジー研究とルーマン理論の間にはどのような関係があるのか
  • Q16 ルーマンの社会システム論に固有のゲームとは何か

Q01 日本でもルーマン研究がたくさんおこなわれてきましたが、それらと本日の報告の関係は どのようなものでしょうか

本日お話したような内容は、あまりにも基本的すぎて ふつうのアカデミックな文献のなかで わざわざ記されることが あまりないのではないかと思います。(その意味で、既存の研究との関係を云々するのは難しいです。)
しかし多くの新規参入者が まさにこうしたところで あっさりと躓き、姿を消したり読むのを諦めたり(それならまだしも)、あらぬ方向に走りだしてしまったりするのを たくさん見て来ましたので、「市民向け講座」には こうした話題こそが相応しいのだろうと考えて・選んで持ってきた、という次第です。
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Q02 「〈社会の理論〉シリーズから三冊」の前に読むべき本は?

今回の講義はルーマンのテキストを読むためのレクチャーでしたが、まだ直接ルーマンのテキストを読むにはハードルが高い層におすすめのサブテキストがありましたら、ご教示ください。長岡ルーマン本かなと思うのですが、こちらも大部ですので…。

リクエストは「ルーマン以外の人が書いたものを」ということですが、ここではルーマン自身の著作を選びます。

[S] 社会的なものの理論 と [G] 全体社会の理論

社会的なものの理論と社会理論  今回の話題提供では、ルーマンの議論のうち、もっぱら「〈社会の理論〉シリーズ第三部」だけに焦点を絞ってお話しました。話をややこしくしたくなかったので話さなかった、〈[S] 社会的なものの理論/[G] 全体社会の理論〉という区別について、ここで少しだけ追記しておきます。

ルーマンは「社会的システム」に、「[対面的]相互作用」と「組織」と「全体社会」の三つ1の類型を設定しています。この類型を使って表現すると、 という関係にあります。
〈社会の理論〉第三部で扱われる「機能システム」は、この三類型の中の「全体社会」の「下位システム」だということになっています。

ルーマンが自分の使命だと考え・もっとも力を注いだのは [G] であり、〈社会の理論〉は「シリーズ全体としては2」この集大成であるわけですが、しかしこれはまた、「ルーマン社会学」にとっては「1トピック」にすぎないものでもあるわけです。言い換えると、ルーマンは「[G] のためにも [S] に関わる準備作業が必要だ」(〜社会理論のためには社会学が必要だ)と考えていたわけなのでした。
1 晩年には、ここに「社会運動」という類型を加えて「四つ」としている文献もあります。
2 講義内でも触れたように、〈社会の理論〉は以下の三部からなります:
    出版年   タイトル
第一部 一般理論の要綱 1984 上図の 社会的システムたち
第二部 [全体]社会 1997 上図の 社会の社会
第三部 主要な機能システムの
モノグラフ
1988-2002 上図の 社会の経済、社会の科学、社会の法、社会の芸術、社会の政治、社会の宗教、社会の教育システム…
このうち、

[S]+[G] への入門

さて。
こうした事情も含めて ルーマン理論全体の見通しを得るには、現在では、まずはルーマンの講義録を読むのがもっとも簡便でしょう: 講義録1が [S] を含む〈一般理論〉、講義録2が〈[G] 全体社会の理論〉に当ります。
この二冊を読んでから、あとは を読んでしまえば、人類の ほとんどの方にとって「おつきあいはこのへんで」ということにしてよいのではないかとは思われるところです。


次に、さらに続けて、特に「ルーマン理論の本丸である〈全体社会の理論〉に相当するものを読んでみたい」という方のために。

特に [G] について

〈社会の理論〉のほうから初期・中期の著作を振り返ってみると、〈社会の理論〉のミニチュア版や準備稿といえるものが幾つかあることに気が付きます。つまり、 の二つのどちらかに属するものです。

Q03 ルーマンが述べているのは事象の分析ではなくて方法論なのか

回答2で〈Sozialtheorie/ Gesellschaftstheorie〉という区別を導入したので、この質問には とりあえずは簡単に──「否」と──答えられます。積極的に述べれば:
・・・と、ルーマン自身は述べているわけですが、それが実際のところどういうことなのかは そんなに判明なことではありません。

Q04 〈社会の理論〉シリーズ以前・以外の論考は、「下準備」の価値しか持たないのか

社会的なものの理論と社会理論
〈社会の理論〉シリーズ以外の、初期の具体的なテーマを持った著作は、独立の価値を持つのか、それとも〈社会の理論〉シリーズの下準備に過ぎなかったということなのか。比較的薄い初期の著作に取り組むよりも、分厚いけれども〈社会の理論〉シリーズにじっくりと取り組んだ方がよいのか。

30~40年に渡るひとりの研究者の関心が、「たった1つだけ」だというのは考えにくいので、それをもって答えにしてもよいのですが。

また、本を読むときに、著者の関心に即して読まなければならないこともないわけですし。

とはいえ、議論をその関心「たった一つだけ」に絞った場合でも、次のようには言えるでしょう。 上述の この↓事情から出発すると・・・

  1. ルーマンの最大の関心は、(とある目的1を果たすために)「全体社会の理論」を確立することにあった。
  2. ルーマンはそのために、「社会的なものの理論」(~社会学)が必要だと考えた。
  3. そして、自分でも(ちょっとは)取り組んだ。

以上を踏まえると、ご質問には、 と答えるのがよいように思います。

「初期・中期と後期では、どっちから取り組んだほうがよいのか」はまた別の質問なので、それについてはまた改めて。

1  この事情については、 を参照のこと。

Q05 「トピックをバリエーションのもとで把握する」とはどういうことか
Q06 別の比較もいろいろ可能な中で 特定の比較をする妥当性は何処にあるのか。

今回お話するにあたって、「機能分析」についてどれくらい話すか、ということについて随分悩みました。結局、時間の制約を考えて、 ということにしたのですが、この講義だけで「機能分析」が何であるかをつかむのは難しかったですよね。

Q05 「トピックをバリエーションのもとで把握する」とはどういうことか

おおまかにいうと、ルーマンが「機能分析」と呼んでいるものの出発点となるのは下の「図解」に記したような手続きです*。

図解: だいたい30秒くらいでわかる「機能分析」
step 0
  • 与えられた(or 検討したい)或るものT について、
step 1
step 1
  • それが「どんな課題を解決しているものなのか」を考える。
    • この課題=問題のことを【参照問題】と呼ぶ。
step 2
step 2
  • ふつうたいていの問題には複数の解き方があるから、目下の参照問題についても「他にどんなやり方で解けるか」を考える。
step 3
  • すると、複数の「問題解決策」を要素とする集合【系列①】を得る。
    • 【系列①】の要素それぞれを、「参照問題Πに対する【機能的等価物】」と呼ぶ。
    • また 参照問題Πは、機能的等価物の間の比較をする際の「【比較観点】を与えている」と表現できる。
step 4
  • ところで、ふつう 或る問題を・或る特定のやり方で解くと、そのやり方に特有の派生問題が生じる。
  • そこで、機能的等価物それぞれについて派生問題を考えてやると、
step 5
  • 複数の「解決策-派生問題」ペアからなる集合【系列②】を得る。
で。
配布資料の 「特定のトピックを、特定のバリエーションのもとで把握する」という表現は、この図解でいうと、 に相当することを述べようとしたものでした。
* 機能分析そのもののミニマムは「step 3」までですが、ルーマンはここに 特定の前提──「システム理論」──を追加して、step 5 までを一緒に行います。

Q06 別の比較もいろいろ可能な中で 特定の比較をする妥当性は何処にあるのか

まず、上のような「探索」のステップそのものは──なにしろ「探索法」ですから──「妥当性」を云々するような事柄ではありません。
したがって、なにはともあれ質問に簡潔に答えれば、「どこにもない」が答えとなりましょう。
議論が まとも なものかどうかを云々できるのは、特定の対象を選んでこれを実行して得た命題・推論に対してです。 講義で取り上げた例[下表]──『社会の科学』第8章「進化」VIII──でいうと:
Q1 人々は、さまざまな機能領域における やり取りへと どのような仕方で参加するのか?
A1 非対称的で相補的な役割をまとってだ。
Q2 しかし科学においては参加役割は「非対称的」ではないのではないか?
A2 そうだ。
Q3 なぜ?
A3 その理由の一つとしては、「真理」というものが(発信者にとってだけでなく)受信者にとってもまた体験可能でなければならないことが挙げられるのではないか。

ここで たとえば、

したがって、おなじ問いに別の仕方で答えると、「社会学的参照問題(のもとにおける比較)のまともさは、社会学的に検討されることができる(し、そうすることしかできないし、そうすべきである)」と答えるのがよいように思います。

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Q07 第三部各巻の「当該領域・対象領域」とは何のことか

「領域」というのが何なのかがよくわかりません(誰から見たものなのか)。領域=学問分野のことなのか。社会学から見たときの一般的な対象領域のことなのでしょうか。
図

「領域」という語は、私が 配布資料の 図2a で使用したものでした(「対象領域の先行研究」)。 ここでは、『社会の経済』にとっての「経済(に関する先行研究)」、『社会の法』にとっての「法(に関する先行研究)」などを指すために使っています。ルーマンの術語ではありません(ただしルーマン自身も使うことはあります)。

機能分化論は、「社会的分業」という表象に乗っかって・それを改訂しようとするものです。つまりそれは、「P:今日の社会では、様々な機能領域による分業体制が成立している」という社会表象から出発しているわけですが、P自体 は、今日では(学問的というよりは むしろ)常識に属する主張でしょう。
これについて、「どのような機能領域にわかれているのか」とか、「どの程度どのような協力体制あるいは依存関係が、あるいはまた自律性があるのか」といった点については、論者によって 見解が分かれるかもしれません。しかし、P について見解が割れることはないでしょう。
そして、図中の「領域」という言葉も、その通念に乗っかるかたちで──したがって、常識的な言葉遣いにおけるそれとして──使っています。
というわけなので、質問に明示的に答えておくと、たとえば『社会の経済』にとっての「対象領域のトピック」というのは、「「経済的な活動」というときに──常識的*に考えて──そこに含まれる事柄」、「経済活動を話題にする時に、ふつう経済学者が そこに含めるトピック」というほどのことを指します。
ここで私が──ルーマンとは異なり──「システム」という言葉を使わないで議論を始めていることには 強い積極的な理由があるのですが、その議論は「入門編」を超えてしまうので、この回答はここまでにしておきます。
* ここには「各領域にかかわる学問における常識」も含みます。
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Q08 ルーマンがやろうとしたことにとって比較は必須なのか。比較のどこがよいのか。

この講義によると、『社会の理論』という著作群が 全体として やっているのは、「人が社会について様々に語る」という活動を、その語る活動が属する もともとの実践の連関(=社会的システム)に差し戻して概念把握する(ことによって相対化する)」という作業だということでした。この作業は、比較しないとできないことなのでしょうか。あるいは比較したほうがよいのだとすれば、それはどういう点なのでしょうか。

ルーマンは 比較は必須だと考えていたのではないかと想像します(なにしろ、彼はそれ以外にやり方を持っていなかったのですから)。
他方、私自身は「比較しないとできない」ことではないと思います。

なにしろ、すでにエスノメソドロジー研究による膨大な研究例を知っていますので。
ここにルーマンの弱点の1つが現れていて、掘り下げると面白い論点ではないかと思っています。(だが掘り下げない。)

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Q09 「社会学的DJ」とはどういうことか

ルーマンというのは、「“この分野では、これが大事な本だよ” と言いながら──その中のトピックは「触り」くらいにしか教えてくれないまま──、次々と大量の書籍を紹介してくれる」という感じの(困った)本を書く人だ、というような意味でした。
DJは ふつう一曲単位で曲を聞かせてくれますが、ルーマンの場合はそんな感じですらない──リフを ほんのちょっとだけ聞かせてくれる程度な──ので、その意味ではあまりよい擬えではないかもしれません。なにしろ私たちは、DJのプレイを聴いていて、ふつうは「困る」ことはないですからね。
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Q10 ルーマンはメディア論を得意としたのでしょうか?

ルーマンにはメディア論のテキストもあり、国内外の様々なメディア論の研究者がルーマン理論を用いています。酒井さんからご覧になって、ルーマンはメディア論を得意としたのでしょうか?(「ルーマンは法学部卒だから、法が得意だ」などと同じ文脈において)

ルーマンがメディア論を特別に得意とした とか、マスメディア関係の著作*が 他の著作に比べて特によいところがある とは私は思いません。他方、「国内外の様々なメディア論の研究者がルーマン理論を用いて」いるという話は確かに私も伝え聞いており、気にはなっています。というのは、「他の様々な領域でも それなりにルーマンを参照した研究が多少は行われている」ということが起きているのであればいざしらず、そういうことがない中で、とりわけいくつかの領域に限定的に ルーマンへの参照が起きている ということは、これ自体 分析が必要な事柄であるように思われるからです。

具体的には『マスメディアのリアリティ』(19952005)のことが念頭に置かれているのでしょう。

ここで少なくとも、次の2つのことは考えてみてよいように思われます。

一方では。
ここには マスメディア研究・メディア論の側に何か特殊な事情があるのかもしれません。つまり、基本的に実学志向の・技術学的な研究領域で、ときに 無駄に抽象的な「理論」が 自分たちの普段の仕事とほとんど関係のないやり方で・部分的かつ形式的に召喚される、というのはよくみられることですが、メディア研究にもそういうことがあるのではないか、・・・というような。(これは、気にはなっているのですが、確かめるまでには至っていません。)

他方では。
後期ルーマンのターミノロジーにおける「メディア」概念の地位上昇ということも、この件に関係しているかもしれません。ある時期以降ルーマンは〈形式/メディア〉という区別を基礎概念として使いはじめるようになりました。これは、〈実現している 要素の結合/結合可能な要素の集合〉というくらいのことを指す ウルトラに抽象的な概念=区別ですが、

 こうした事情があるために、つまり、ルーマンがメディア概念を重用している理論家であるために──したがって、自分たちの研究にも何か新たな洞察を与えてくれるかもしれない、と期待して──メディア研究者の関心を惹いた、ということがあるのかもしれません。ここまでのところは、まぁそれはそれで(どうでも)よいのですが、ただ、こうした「言葉が同じなのでとりあえずアクセスしてみました」的な援用は──最近では、看護学の人が「care を基礎概念にしているハイデガーを参考にしてみました」というようなことをしていて、同様に気になるところですが──、それが知的に洗練されていない印象を与えることはさておくとしても、実際に よろしくない帰結を生じさせることが なくはありません。1つだけ、駄目な研究の例を紹介しておきましょう。

駄目な例

まず基本的なことを確認しておくと。術語体系上の階層関係は、存在者の階層関係を示すわけでもなければ、研究実践上の順序を指定するものでもありません。
そしてまた、ルーマンの場合、〈形式/メディア〉概念と〈システム/環境〉概念の 術語体系上の位置関係がどう変わったとしても、しかし、研究が「システムの作動を記述せよ」という大方針のもとにあることには変わりがありません。いいかえると、研究が、「そこで何が行われているのか/それは如何にして可能か」という問いにドライブされる形で行われるということには、

さらにしつこくパラフレーズすれば、 という方針のもとで行われることには、
変わりがありません。そしてこのことは、Xが「コミュニケーション・メディア」の場合であれ、「ヨットハーバー」や「活版印刷物」や「サッカーボール」や「基本権」の場合であれ、やはり変わりはないわけです。
というだけでなく、この方針=限定のもとでこそ、(その都度なんらかの)「メディア」について有意味に論じることが可能であるはずなのですが3

 ところが、この──後期ルーマンにおいて 術語体系における〈形式/メディア〉概念の重要性が著しく大きくなったという──事情を おかしな仕方で取り上げて、あらぬ方向に議論を進めてしまう論者がいます。たとえば次の著作が そうなのですが:

この著作では、 仮に56億7千万歩ほど譲って、これが「理論上のオプション選択」に関わる・研究者の自由に任されることだと考えてみたとしましょう。その場合でも、
直前に記したように、ルーマンの場合は、「メディア」(であれ なんであれ、なにか)を研究する際の方針を「システム」概念が与えているわけですが、それと対比してみると、
著者は、「メディア要素を如何にして把握するか」という問いに答えるための、ルーマン──における「システムの作動を記述せよ」に相当する・それ──とは別の方針を与えることができなければならないはずです。が、そのことは、この著作では行われていないのでした。
そして、他の論文でも、他の著作でも、一向に行われる気配がありません。なぜそうなっているかというと──ここから先は私の想像ですが──、一方では、すでにそこにある基本的な研究方針を捨ててしまうことの重大さに気づいておらず、他方では、著者の研究が「現に実際に生じていることを 如何にして概念把握するのか」という問いにドライブされているものではないからなのでしょう4

1 他にも例えば、『社会の経済』(19881991)では「組織」が〈形式/メディア〉区別のもとで論じられています。
2 念の為に書き添えておくと、術語体系上のこうした事情は初期にもありました。たとえば、初期ルーマンは〈システム/環境〉を「複雑性(の落差)」で定義しています。ということは──その限りで──「複雑性」は 「システム」よりも 基礎的な概念として使われている、といえるでしょう。
3 「形式/メディア」概念は、「そのつど話題になっている或るものの メディア要素がなんであるか」に応じて、(意味やシステムやコミュニケーション・メディアや組織など)様々なものに対して用いることができます(その意味で、「システム」概念よりも抽象度の高い概念です)。しかし、「目下検討対象となっているものの メディア要素がなんであるのか」は、「何がどのように使われているのか」──つまりシステムの作動──に注目することによってしか、云々することは できないわけです。
また、事情がこうである以上。上には あっさりと「メディアは後期ルーマンの術語の基層=上位にある」と記してしましましたが、これには留保が必要です。つまり、「メディア」が基礎概念であることは確かですが、しかし、それは「システム」概念と反照的な規定関係を持つわけなので、言いうるのはせいぜい「メディアは、システムなどを含む最基層の術語グループに位置する」というくらいのことです。
ついでに述べれば、ルーマンの術語体系において、反照的な規定を免れるような仕方で・単独で 最基層的 な概念は、おそらくないのではないかと思います。「システム」がそうではないことは、既に見たとおりです。
4 ちなみに、「概念体系」と「存在者の階層」を混同しているこの著者が、あろうことかルーマンのことをヘーゲルに重ねあわせて批判している箇所は、この著作の中でも特に あまりにも おもむきぶかすぎて 口を開けたまま 天を仰ぎたくなるような読みどころだと言えるでしょう。

Q11 ある領域をどうしたら機能分化したとみなせるのか
Q12 ルーマンは、一般に私領域と呼ばれる領域をどう扱ったのか
Q13 社会の恋愛、社会の友人関係、社会の家族といった本を書く予定はあったのか

Q13 社会の恋愛、社会の友人関係、社会の家族といった本を書く予定はあったのか

当日は、Q13 についてのみ「知らない」とお答えしました。
ここでついでに述べておくと、私は ルーマンの「機能分化論」について真面目に考えてみたことがないですし1、これらの質問に対する回答も持っておりません。ただ、「知らない」「分からない」にも様々なあり方・理由があるので、以下では、その幾つかについて記すことで、回答の代わりとさせてください。

Q11 ある領域をどうしたら機能分化したとみなせるのか

ルーマンが「機能システム」について、「定義的」に──必要十分条件を挙げて──云々しているところを見たことが 私にはありません。

確かに たとえば それは象徴的に一般化したコミュニケーション・メディア、バイナリーコード、特定機能への集中などを備えたものであり 云々と述べられることはありますが、そうした主張が出てくるときには たいてい併せてこれらすべては備えていない(or 備えているかどうかあやしい)機能システムもあり、などと付記されることが多いわけです。ということはつまり「機能システム」は、それらによって「定義」されているわけではない、ということなのだと思いますが、ではなんなのか、といえば──上述のとおり なにしろ考えたことがないですし──分かりません2

それはそれとして。
Q11~Q13の質問を受けてちょっと心配になったことがあります。Q02 への回答に記したように、この講義では、〈[S] 社会的なものの理論/[G] 全体社会の理論〉という区別を紹介しませんでした(いまは反省しています)。そのせいで、

といった印象が生じてしまったかもしれません。 ──そして、そうであるが故に、「そこに入るかどうか よくわからないものについて問い尋ねてみなければならない」と質問者は考えたのかもしれません。 もしも 質問Q11~12 が そうした性質のものであったとしたら、それは〈 [S] / [G] 〉について紹介しておきさえすれば、出て来なかったものでありましょう(ということはつまり、ここまで読んでしまったあとでは、質問はすでに「消滅」していることでしょう)。

それはそれとしてしかし。
このように「解消」されれば話が済むかというと、そうでもないのです。したがって、もう少しだけ追記しておくと、

Q12 ルーマンは、一般に私領域と呼ばれる領域をどう扱ったのか

このように問われるときには、ひょっとすると──と、あまり私のほうで想像をたくましくするのもよくないので、その場でこちらからその点を確認すればよかったですが──、次のような推論が働いていたのかもしれません。つまり、

もしも、このような前提があって Q12 が出てきたのだとしたら、まず最初に、

ことを想起していただかなければなりません。(それが意味するのは、つまりこの区別は、なにしろ「社会の理論」シリーズの「なかで」扱うべきトピック「でもある」のであって、そうであるからには「社会の理論」シリーズを〈公/私〉区別のどちらか一方だけに位置づけることはできない、ということです3。)

1 社会学研究一般にとって、この論題がそれほど重要であると思ったことが 私にはないのですが、しかし重大な足枷になりうるとは考えています。
2 というわけで、「定義」を真面目に探したこともないので、「定義はされていない」と自信をもって述べることもできないのですが。
3 そして、この「おなじ」区別を 法学者と政治学者と経済学者が「別様に」用いることを想起していただければ、この区別が──社会学的記述や分析に そのまま使えるものであるというよりは、その前に──それ自体、社会学的分析を要するものであることも直観的にわかるでしょう。

若干の情報提供

それもそれとしまして。
この話題については、さらに次のような論点について考えてみてよいだろうと思います。

以下、これらについて(いつかそのうちに)書いてみることにします。が、質問をいただいて(少しだけ)考えてみたところ、こまったことに、これらの情報を総合しても、もっともらしい「一つの回答」描像が浮かんで来ません。以下はそういうたぐいの「情報提供」です。

Q13a ルーマンは、「機能システムと家族」についてどう述べたか

Q13b ルーマンは、「家族」について何を書いたか

(「家族システム論」のレビュー論文について。)

Q13c ルーマンは、どんな事柄を 他ならぬ自分こそが取り組まなければならないものだと考えていたか

(『法社会学』(1972)の序論から。)

Q14 ルーマンを援用した研究が難しいのはなぜか

この質問への回答は「入門」レベルを超えています。
一方では、この質問への回答を これまでのところ(私も含め)誰も持っていないのではないかと思いますし、他方では、あまり深く考えずに挙げていってよければ 「使えない・使うのが難しい理由」はたくさん挙げていくことができます。前者についていえば、これが、誰かの研究成果物を、他の誰かが【使う】というのは そもそもどういうことでありうるのか1を考えなければならないような問題であることを意味しているでしょうし、後者についていえば 数限りない「使えない」理由のうちの しかしどれが(どういう意味で)決定的なのかわからないということでしょう。結局この両者は同じ事ところに帰着するのだと思います。

といった事情はありながら、ここでは、講義で触れたことから辿れる範囲内に限定したうえで、事柄をいちおうは「ルーマン側の問題」と「利用者側の問題」に腑分けすることを目指しつつ──まぁしばしば分けられはしないのですが──、思いついたことを思いついた順に いくつか記してみましょう。

利用者側の問題


ルーマン側の問題


1 そしてここには、「ルーマンの議論は、そもそも「使える」ように作られているものなのかどうか」という問いも含まれているでしょう。

Q15 エスノメソドロジー研究とルーマン理論の間にはどのような関係があるのか

この質問も「入門」を超えています1。とりあえずは文献の提示でもってお答えに代えさせてください。とはいえ、ご質問に対する私自身の見解は 次の論文集の「おわりに」に概略を記してあります:

[A] の準備を進める中で・この論文集のために、方法論的な自家了解のために書いた論文がこちらです:

また、[A] の5章「〈被害〉の経験と〈自由〉の概念のレリヴァンス」 と [B] は、その後 改稿されて次の著作に収録されています:

というわけなので、 議論の出発点には立っていただくことができるはずです。(また「どんな発想のもとで・具体的には どんなアウトプットがでてくるか」についても把握していただけるでしょう。)

なお、エスノメソドロジーについては、[A] の前に、次の教科書も出版していますので、こちらも参考にしてください:

この教科書の冒頭に付した「エスノメソドロジー概念地図」は、エスノメソドロジー研究が「反照的規定の展開」として──つまり、「すなわち」という関係をたどっていくことによって──遂行されることを示しています3

1 この回答を理解するためには、ルーマンの議論とエスノメソドロジー研究双方を質問者が知っている必要がありますので。
2 上記「おわりに」に記したように、この論文集は、もとはといえば、出版社からいただいた「ルーマンについての単著を書け」という課題に対する 私からの「代替的回答」でした。
3 そしてこの点は、エスノメソドロジー研究とルーマンのテクストを、その 実際の 具体的な 陳述上・作業上の形式において 比較する際の、抽象度のやや低い比較ポイントとして使えるはずです。

Q16 ルーマンの社会システム論に固有のゲームとは何か

『社会の理論』は、個別領域の具体的な問題に取り組んでいるのではなく、それについて人々がどのように語っているかについての別のゲームをしているという お話がありました。
しかし、「経済」に対する「経済学」や、「法」に対する「法学」はそういうものではないのでしょうか。これら「経済学」「法学」に対する上記「社会学」の固有のゲームとはなんでしょうか?
まず訂正から。
「人々は社会についてどのように語ってきたか」というのは、『社会の理論』全体のテーマではなくて、このシリーズの第二部(『社会の社会』)のテーマです。
「社会的システム」というのは、「人々がしていること-からなるシステム」のことであり、「語る」こと──そしてまた「語ることによって何かをする」こと──も「する」ことなのですから、社会システムの要素となりうるものです。が、「する」ことのすべてが「語る」ことにであるわけではありませんよね。
Q8における定式化を再利用すると、『社会の理論』は、全体としては、 という仕事をしており、『社会の社会』は、そのうちの のカタログ的な例示を担当している巻だということです。
ところで、[TG] が、「経済学」や「法学」とは異なるゲームであることは自明だと思いますので、まずはこれが、質問に対する解答になるはずです。

他方、「個別領域の具体的な問題に取り組んでいるのではなく」のところは、『社会の法』(1993)第8章「論証」I-II節における、法哲学の実践哲学的論証理論に対置して ルーマンが自らの社会学的な仕事の位置をのべたところ(の酒井による要約)を受けて出てきたものでしょう。ここでは、法哲学的・実践哲学的論証理論が 法的判断・法的論証の「よさ」にコミットするのに対し、「法実践の社会システム論的な記述」がそれにコミットしない、という対比が述べられていました。
これが「違い」としてイメージ出来ないのは、両者の具体的な議論をご存じないからではないかと思うので、そこは両者を勉強していただくしかありません。
ともかくもこれについて大雑把な定式化をするとすれば、 わけで、こうした関心の持ち方は、それぞれの領域に存在する学の関心・課題とは異なるものでしょう。
ただ、いずれにしても、「特定の領域における実践-に対する学問的反省(、定式化、把握)」と「特定の領域についての社会システム論的記述」を、それだけ取り出して比較していると、違いが把握しにくいだろうな、とは思います。
これは単に、『社会の理論』の第三部の諸著作を、どれか1つだけ取り出して独立のものとして読んでしまうことから生じる問題でしかないので、ふつうにシリーズをシリーズとして読めばクリアされる事柄だと思います。

『社会の理論』の第三部の諸著作を、どれか1つだけ取り出して独立のものとして読んでしまうことをやめれば、そこで得られる描像が、 というものであることに──したがってまた、「システム」という概念が、この複数性と重層性を述べるためにこそ必要とされているということに──気づくはずです。これは「経済-と-社会」とか「社会-と-芸術」のような──あるいはまた「芸術の経済的側面」とか、「科学の政治的側面」といったような──「社会」の把握の仕方とはまったく異なるものです。このこともまた、「ルーマンの社会システム論」に固有のゲームの特徴として挙げてよいものではないかと思います。(もちろん、ただ独りルーマンだけが、こうしたゲームをやってきたなどとはまったく思いませんが。)