日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
2016.12.29 公開 2016.12.30 更新

社会学研究互助会09 - ピーター・ウィンチ『社会科学の理念』と 概念分析の社会学 エスノメソドロジー

この頁には、2014年03月01日 ならびに 2016年12月25日に開催した 社会学研究互助会例会(第8&9回)の告知文と配布資料を掲載しています。

  ギルバート・ライルの現象学 ピーターウィンチの『理念』  
  研究会概要と趣旨
  小宮友根「エスノメソドロジーにおけるライル」 浦野 茂「エスノメソドロジーにおける『理念』」  
  植村玄輝「ライルと現象学」 山田圭一「アプリオリな概念分析とはどのようなものか?」
  村井忠康「ライルとアスペクト」 笠木雅史「分析哲学の伝統における概念分析」 «

「分析哲学の伝統における概念分析―ウィンチとその時代」
笠木雅史

笠木報告
0. 本発表の目的:2つの質問
1. WinchのIdeaとその時代:なぜ社会学なのか?
2. 概念分析と言語分析:なぜ概念分析なのか?
3. 附論:Russell, Moore, Ryleの言語分析
引用集
参考文献
討議
質疑応答

0. 本発表の目的:2つの質問

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1. WinchのIdeaとその時代:なぜ社会学なのか?

(1)の質問への回答:
社会科学の哲学のイギリスでの衰退は、実証的社会学の台頭と、Russell, Moore, Wittgenstein, 論理実証主義、日常言語学派による言語的哲学にあるという認識が当時のイギリス哲学界には存在した。これに反対し、政治哲学を復興させようという運動が50年台中期に勃興する。Winchは、(a) 社会学を哲学として刷新することでこの上下関係を反転させ、同時に(b) 哲学が「人間的」、「現実的」事柄を扱うこともできると示すことで、この運動に加わり、社会科学の哲学を復興させようとした3
  1. Gellnerは哲学者として出発したが、社会人類学で著名な存在となる。Winchとは生涯で何度も論争することになり、その最初の批判としてIdeaの書評も執筆している。Gellner (1959/2005)の日常言語学派批判の1つは、言語の使用を調査する研究は、哲学ではなく、実証的調査を行う社会学であるべきであるというものであった。WinchのIdeaは、社会学もアプリオリな哲学であると主張する点で、この批判への返答にも見える(Gellnerの批判の一部は、1957年に、BCのラジオ放送Third ProgrammeでD. Pears、G. Warnockを討論者として話され、同年に雑誌Listenerにも収録されており、Winchが意識していた可能性がある)。
  2. イギリス政治哲学におけるPhilosophy, Politics and Societyの重要性は、Wolf (2013)を参照のこと。
  3. なお、WinchはWinch (1956)ですでに、Paretoの批判や、Collngwoodへの賛意を示しつつ社会学についてIdeaと同じアイデアを展開しているが、それと哲学を関連付けることはしていない。
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2. 概念分析と言語分析:なぜ概念分析なのか?

  1. 「言語に属すとはどのようなことか」を哲学は探求するというRheesの言葉を、Winchは「世界に属すとはどのようなことか」と置き換えている(Idea: 15)。
  2. Dinneen (1962: fn. 7, 118)は、Ayer (1932)と他の文献を引きつつ、Ayerについて、「Ayerはほとんどの分析家とこの点で異なっている。というのも、哲学は命題と現実の関係について語ることを許されるべきだと、彼は感じているからである」と述べている。
  3. Winchは、「認識論」という言葉を、(a) 世界と言語、心の関係の解明と (b) 学問論 という異なる意味で使用している。ある学問が(a)の認識論的含意を持つと論じること自体が、(b)の意味での認識論となるため、両者を明確に区別することは学問論の文脈では難しくなる。Laslettの批判に現れる「認識論」は、このように(a)、(b)の合わさった意味であると思われる。

Winchの考える概念分析の形而上学的・認識論的意義:

(2)の質問への回答:
日常言語学派の方法である概念分析は、従来の言語分析とその形而上学的含意によって区別されると認識されていた。これは、方法そのものの相違というより、その意味付けの相違(実際、Urmson (1956)の挙げるRyle (1932)はRussellの論理形式の分析方法を踏襲している)。ただし、日常言語学派の方法そのものは、論理形式の分析から、様々な言語行為の規則の分析へと移行し、後期Wittgensteinと類似することになる。Winchはこのような認識に対し、日常言語学派の方法が、形而上学的・認識論的含意を持つことを、後期Wittgensteinの自分の理解に即して示そうとした。
  1. Winchの語るところによれば、「the Tractatus Logico-Philosophicus (1922)とthe Philosophical Investigations (1953) を勉強したことがなければ、それが哲学に重要な限りで、言語分析(linguistic analysis)の要点とはどのようなものなのか、少しでも理解したいと誰も望むことはできない」(Winch 1955: 24)。Winchは続けて、A. J. Ayer (1936) Language, Truth and Logicも賞賛するが、重要性ではWittgensteinの2冊とは比較できないと述べる。
  2. 日常言語学派という名称は当時は使われておらず、「Oxford Analysis」という名称が存在した。この名称は1930年台に台頭したRussell, Mooreと前期、中期Wittgensteinの影響を受けたCambridgeの言語的哲学者の名称である「Cambridge Analysis」と対比される。この立場は、言語的な分析でなく、言語を介した形而上学的分析の重要性を強調した。Cambridge Analysisについては、Chapman (2013, ch. 5)を参照のこと。
  3. Dinneen (1962)は、日常言語学派まで続く言語的哲学の発展と限界を、形而上学への関係から解説し、今後形而上学の復興が始まるのではないかと推測している。
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3. 附論:Russell, Moore, Ryleの言語分析

Russell:

Moore:

Ryle:

  1. 論理形式が文が表す命題が持つ形式なのか、文が文法形式に加えて持つ形式なのかは、Russell解釈でも見解が別れる点である。ここでは前者の解釈を採用している。
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引用集

Ayer:
哲学的言明の証明は、数学的言明の証明のようなものではないし、そうであることがあるにしても極めて少ない。哲学の言明の証明は、いかなる記述的科学における言明の証明のようなものでもない。哲学的理論は観察によってテストされない。それは、特定の事実に対して中立なのである。これは、哲学者が事実に関心を持っていないと言っているのではない。彼らは、自分たちの問題に関連するあらゆる証拠がすでに利用可能であるという奇妙な立場にいる。物質世界が実在(real)なのか、対象は観察されないときも存在し続けるのか…などの哲学的問題を解決するのに必要なのは、さらなる科学的情報ではないのである。これらは実験によって決着しうる問題ではない。なぜなら、それらが答えられる方法自体が、実験の結果がどのように解釈されるべきかを決定するからである。(Ayer 1956: 7)
Laslett:
社会学者こそが[政治哲学の衰退]を招いたと言うだろう人々が存在する。そして、その社会学者の筆頭はマルクス主義者であり、社会学的記述と決定論が哲学的分析(philosophical analysis)の機能を果たすことになる体系を彼らは構築した。…学術的な社会学者たちは、やや似たインパクトを持っていた。ポストマルクス主義、ポストフロイト主義にはその傾向があるのだが、以下の2つの態度の間を揺れ動いているように見える。政治哲学は不可能であると宣言する態度と、彼らに支持を与えその結論を理解するような新しい政治哲学を切迫に懇願するという態度の間をである。この最初の態度は、最も極端な形で、Karl Mannheimの知識社会学に見ることができる。それによれば、政治活動と政治的思考が社会的に決定されていると示されるだけでなく、あらゆる知識とあらゆる思考もそうなのである。そのような相対主義は、何であれ「より高次」の新たな総合を目的とする、ドグマへの降伏、あるいは誰であれ「思想家」へのアピールになりうるだけだろうし、実際にそうなったのである。他方、社会科学者は自然科学者の子供であるか、あるいはそれになろうとして、自然科学との継続的なエディプス的関係を維持している。ときには、自分を完全に科学的態度と同化させ、Radcliffe-Brownと共に、自分たちの唯一の対象は社会の自然科学であると宣言する。そしたまた他のときには、自分たちの活動はその哲学と哲学者を持たなければならない人文学的活動であると、社会学者は主張するのである。今日の自然科学の巨大な名声を鑑みれば、この二義的態度は驚くことではない。また、哲学者や歴史学者といった人文学者自身が、どのように社会学者を扱うのか不確かであるはずなのも驚くことではない。社会学の身分とその結果の妥当性についての我が国での学術的議論は、まだ未解決なのである。このような状況下で、社会・政治哲学者は妨げられていると感じるはずであるのも全く自然である。社会・政治哲学者の分野は社会学者によって占領されたのである。彼らはこの分野で何か行っているようには見えないし、いずれにせよ、哲学的に興味深いことは何も行っていない。(Laslett 1956a: vii-viii)
Moore:
しかし、私が一度でも、分析が哲学の唯一の固有の仕事だと言った、考えた、あるいは示唆したということは正しくない。分析を実行することで、それは哲学固有の仕事の1つだと私は示唆したかもしれない。しかし、私はそれ以上のことは確かに示唆していない。そして、実際に、分析は決して私が試みた唯一のことではない。(Moore 1942: 675-6)
哲学の唯一の方法だと記述しうるものはないように私には思われる(Moore 1966: 191)
ある語が何を意味するかという問いへの答えは、語の意味についてではない問いへの答えよりも少しでも興味深いということはありえない(ibid.: 165)
私の考えでは、日常生活や科学における混乱した論証や推論は一般に、語や表現が用いられる様々な意味を区別しないことから帰結する。そして、それはときにはこの意味で使用されると知ることは、同様にときには他の意味で使用されるということを知らない限り助けにならない。様々な意味を区別することは哲学者が行うことだが、ある一つの意味の分析と混合されるべきではない。(ibid.: 168)
Pears:
A. Q:近年ある種の無視を被ってきた学術的哲学のもう一つの伝統的分野は、政治の哲学的研究です。イギリスヘーゲル主義の最も広範に影響のあった側面が、この哲学のやり方の一般的な崩壊において、制圧されてしまったように見えるのです。私はそれが古い形態で復活するのを見たいということではありません。…政治制度の常識的記述と比較という姿で、政治の科学的探求は、歴史学の穏健で何も付け加えない付属物より多少多くのことをするようになりました。…この理由で、人間社会の科学的探求によって提起された哲学的な諸問題により多くの注意が向けられるのを見たいということなのです。この主題の複雑さ、観察者が観察するものの部分であるという事実、そして観察者の理論は参照している領域に影響を与えるという事実、人間が巻き込まれている諸状況の唯一だと想定される特殊性、実験的、計量的方法の人間社会への限定的な適用可能性などによって提起された諸問題です。人間社会という主題は、悪名をえてしまいましたが、思弁的ではない批判的な歴史哲学、つまり、歴史家の手続きについての哲学的研究への最近の関心は、人間的な事柄のを研究するためのより確立されていない方法への同様のアプローチを促進するかもしれません。…法や歴史、社会科学で生じる概念的あるいは方法論的性質の諸問題についてすでに行われた研究と、そう望むのですが、今後現れる研究は、我々の関心がトリビアル、学術的、あるいは現実味がないという批判に何らかの回答を与えるように、私には思われます。(Pears 1957: 161-2)
Rhees:
私は正しいと考えるが、哲学の諸問題は言語に根ざしていると言われてきた。しかし、この点は誤解されやすい。どのようにしてそれらが言語に根ざしているのかを理解するのは難しいのである。そして、我々がそれらの諸問題を理解しようと自分で試みるまで、この点を理解し始めることはできないのである。ほとんどの「言語的混乱」は哲学的問題ではない、そしてそれらの研究は哲学ではない。哲学の諸問題は、どのようにして言葉が使用されるのかについての問題だと言うことも正しくない。こう言うことは、哲学の諸問題を経験的な問題にしてしまう、正しい回答と誤った回答を持つ、辞書編集者の問題のように。いずれにせよ、時間とは何か理解できると望む人は、あるいは物質と精神の相違を理解できると望む人は、何らかの仕方で言葉が使用されるかどうかを気にしているのではない。時間が何であれ、それは言葉ではない。もちろん、哲学者は、とりわけ、どのように「時間」という言葉が使用されるのかを考察しようとする。しかし、それは元々の問題ではない。…「どのようにして言葉が使用されるのか」という問いは曖昧である、そしてもし我々はこの問いを様々な用法のリストを与えることで解決しようとするなら、我々は遠くへは行けないだろう。…どのようにして[特定の]表現が言語にそもそも属しているのかを理解することがより重要なのである。つまり、どのようにしてそれが何かを意味しているのかということを理解することが。…哲学的諸問題は、「言語的混乱」というより、むしろ言語についての混乱に根ざしているのである。…我々は哲学の諸問題を言語について反省し終わるまで理解できないのである。単にどのように言語が使用されるかだけではなく、言語を使用するとはどのようなことかも反省する必要がある。この点には、単一の回答は存在しない、そして我々は回答を例によって、あるいは類比によって(「言語ゲーム」)によって学ばなければならない。しかし、これらは言語の例である、そしてそれらが示すのは、様々な用法のリストからは我々が学ぶことができないであろう何かである。それらが実際に示すことは、言語に属すとはどのようなことかを我々が理解するのを助けるだろう。つまり、理解可能とはどのようなことかを理解するのを。(Rhees 1966: 133-4)
Russell:
ある文を理解するために、その形式の構成要素と特定例の両方についての知識を持つことが必要である。というのも、ある既知の対象がある既知の形式に従って関係しているということを文は告げるからである。したがって、ほとんどの人には明確ではないにせよ、論理形式についてのある種の知識が言説のあらゆる理解には含まれているのである。哲学的論理学の仕事は、この知識を具体的な表面から引き出し、それを明確かつ純粋に表現することである。(Russell 1914/2009, 35)
語を理解することは、その辞書的定義を知ることや、それが適用される対象を特定できることで成り立つのではない。後者のような理解は辞書編纂者や学習者が持つものかもしれないが、日常生活の中で普通の人々が持つものではない。言語理解はもっと、クリケットを理解するようなものである。それは自分が習得し、他者が正しく想定する、習慣の問題である。語が意味を持つと言うことは、語を正しく使用する人が、その意味が何かを今まで考え抜いたことがあると言うことではない。語の使用が先にあるのであり、その意味は観察と分析によって、使用から抽出されるべきなのである。(Russell 1921: 197)
Ryle:
引用1:
もし私がこの点で正しいとすれば、これらの形而上学的哲学者は、自分たちが何か重要なことを語っているかのように、「現実」、「存在」を彼らの命題の主語にし、あるいは「現実的」を述語にしてしまう最大の罪人であるという、私が受け入れる結論が導かれる。なぜなら、彼らが語ることは、良くても一貫して誤解を招くもの(systematically misleading)であり、それは哲学者の命題がそうあるべきではないものの1つである。そして、悪ければ、彼らが語ることは無意味である。(Ryle 1932: 48)
引用2:
…哲学的探求とは概念的探求である。概念とは、輝かしい孤立の中で結晶化するものではない。それらは一体的に語られ、一体的に思考されるものの弁別可能な特徴であるが、分離可能な原子ではないのである。それらは適格な文の統一的な意味の分離可能な部分ではなく、それへの区別可能な貢献である。概念を検討することは、我々が実際に語ることの活力(living force)を検討することである。それは、概念を引退状態のときに検討することではなく、共同作業を行っているときに検討することである。(Ryle 1962: 192)
Urmson:
したがって、しばらくの間、Russellは、自分の論理分析を基礎的な現実(basic realities)へと至ることを可能とする形而上学的に強力な武器であると考えることができたが、実際には、それは彼が正しくも基礎的な現実と認めることをためらったものをそうだと認めることに対する特定の論理的アーギュメントの誤りを理解することを可能にするに過ぎない。…したがって、Russellのこの問題へのオリジナルな寄与は、もし原子論が支持されうるとすれば必要となる、2種類の分析を明確にするよりもむしろ曖昧にしてしまった。我々の言明の形式を改良する論理的なタイプの分析と、何らかの形で、少なくとも基礎的事実へと遡行することを始め、それらと他の事実を区別することを可能にするより形而上学的なタイプの分析である。(Urmson 1956: 31)
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参考文献

Ayer, A. J. (1937). “Does Philosophy Analyse Common Sense?” Supplementary. Proceedings of the Aristotelian Society XVI: 162-76.
Ayer, A. J. (1947) “The Claims of Philosophy.” Polemic 7: 18-33.
Ayer, A, J. (1956). Problems of Knowledge. London: MacMillan.
Baldwin, T. (1990). G. E. Moore. London: Routledge.
Chapman, S. (2013). Susan Stebbing and the Language of Common Sense. New York: Palgrave Macmillan.
Dinneen, J. D. (1962). “Linguistic Analysis and Metaphysics as a Problem.” Laval théologique et philosophique, 18 (1): 112-140.
Flew, A. G. N. (ed.) (1956) Essays in Conceptual Analysis. London: Macmillan.
Gellner, E. (1959/2005). Words and Things: A Critical Account of Linguistic Philosophy and a Study in Ideology. Routledge.
Grice, P. (1958/1989). “Postwar Oxford Philosophy.” In his Studies in the Way of Words. Cambridge, MA: Harvard University Press.
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Laslett, P. (ed.) (1956b). Philosophy, Politics and Society, First Series. Oxford: Basil Blackwell.
Laslett, P. & Runciman, W. G. (1962). “Introduction” in P. Laslett & W. G. Runciman (eds.), Philosophy, Politics and Society, Second Series. Oxford: Basil Blackwell: vii-x.
Moore, G. E. (1942) “A Reply to My Critics” in P. A. Schilpp (ed.), The Philosophy of G. E. Moore. La Salle: Open Court.
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Wolf, J. (2013). “Analytic Political Philosophy.” In M. Berney (ed.): The Oxford Handbook of The History of Analytic Philosophy. Oxford: Oxford University Press.
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