- 1.まず素朴な感想――ルーマン門外漢の一法哲学学徒から
- 2.
- 2A. [毛利1995]「福祉国家における法化現象の分析枠組み」について
- 2B. [毛利1997]「法的実践と理性の社会的条件:L.の法的議論理論批判を機縁に」について
- 3. 素朴質問
1. まず素朴な感想――ルーマン門外漢の一法哲学学徒から
- 主題の一貫性、パラダイム期的とポストパラダイム期的の同時遂行
- 「システム間関係」という厄介な主題を[1995]から[2007]まで一貫して追究、
- しかも理論研究と事例研究との同時遂行というかたちで追究しようと尽力。
- Lexikon 片手にでないと読めないなあ
- 一貫して「後期」に依拠、と毛利自身は全論文で言明。
でもそれにしても難解、
以下、Krause, Luhman-Lexikon (2.Aufl.) 片手にしての、いささか心もとないコメント。
2A. [毛利1995]「福祉国家における法化現象の分析枠組み」について
- [0] 政治システムと法システムの関係
- [1] Habermas, Teubner 法化論の落とし穴を指摘し、その穴埋めをルーマン回帰で示す[補完テーゼ]
- [2] でも補完の前提たる「理論間の整合/比較可能性地平の確保」がうまくいっているか
eg.とくに Habermas との間 [1995:22f,33ff] cf. [1997:48,56 fn8]
→実在的\分析的の認識論的区分から、再びポスト形而上学性(の程度差)問題へ
antholopologisch tief vs. radikale Ent-teleologisierung
2B. [毛利1997]「法的実践と理性の社会的条件:Luhman の法的議論理論批判を機縁に」について
- [0] 法・法システムと全体社会(生活世界)との関係、実践哲学(一部の法哲学)と社会学・社会理論との関係
- [1] 実践哲学からの法的議論理論は法的議論の社会現象としての側面を等閑視 [一面化批判テーゼ]
- =法的議論において実践哲学的研究が独走するならば、かえって法的議論において実践理性が作動する社会的条件 [[1][2] 99-2~-4]が奪われかねない。[:45,47] [97] [99]
- [2] 実践哲学(一部の法哲学)からも同種の警告はある
eg ケルゼン――シュミット――アレクシー cf 歴史的例 : 7C東ローマ――18C仏
- →問い わざわざルーマンさんからの警告は要るか
- 逆問 目的論性の徹去したルーマン型社会理論は実践哲学/正義論 [id:100f] と\規範的観点を [2007:121fn5] 協働・摂取できるか。単なる社会現象性を 超/越えん とする何らの目的論性も残さずただ「自らも社会現象であること」に徹するだけの実践哲学が果して協働・摂取パートナーとなりうるか? ルーマンの協働観 [101] と毛利のそれ [1997] は別とみていいのか?
3. 素朴質問
今後ルーマン派はどう 規範性Normativität 問題にとりくんでゆくのだろうか?