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毛利康俊論文集 出版前検討会
ディスカッション

このコーナーの収録物一覧 著者 毛利康俊さん(序章構想)
  評者 小宮友根さん阿部信行さん大森貴弘さん
  司会 酒井泰斗さん
  記録 当日のディスカッションの一部

このコーナーには、2009年08月10日に青山学院大学院大学にておこなった【毛利康俊論文集 出版前検討会】における配布資料を収録しています。
この頁には当日のディスカッションの一部を掲載しています。

  1. 毛利康俊(2002)「社会システム論における法‐政治関係論の一動向」からの引用
  2. 毛利康俊と小宮友根のディスカッション
  3. 酒井泰斗によるディスカッションへのコメント: 論点1論点2
  4. 毛利康俊から酒井泰斗へのリプライ

毛利康俊(2002)「社会システム論における法‐政治関係論の一動向 ─ ルーマン派の分裂と今後の課題」* からの引用

* 西南学院大学法學論集 35(1/2) [PDF]

(ニ) 法への期待、法理論への期待

 こうして、我々が日常の法的政治的実践において、ひとかたまりの事実 として経験し理解している出来事に対して、構造的カップリングは、別の形で 経験しなおす ように促す。構造的カップリングの見方によれば、一塊の出来事 は、実は、個々の行為主体に対して広狭さまざまな範囲の行為と経験の可能性の地平を聞く複数の社会システムが、同時に関与して生じている錯綜した事態である。
 ルーマンの理論は、このように我々のものの見方、むしろ経験の仕方を変更することに求めている。このことによって、ルーマンは我々に何を期待しているのだろうか。[p.178-179]

毛利・小宮 ディスカッション(20090810 青山学院大学)

小宮報告の 3-2. 質問1 に対する毛利さんからのリプライの途中でのやりとり。

41'05'' 毛利a法概念論には、法の実質的定義 v.s 法の名目的定義、という対立がある。これに引き付けていえば、私の立場は「実質的」。
b ただし、私たちがおおまかに「法現象」と観念しているぼんやりとした まとまり があるが、そのまとまりがそのまま「法システム」なのではない。
c それはいろんなものがごちゃまぜになって「ぼんやり」とまとまっている統一であって、それを出発点として議論を進める点では「実質的」と呼ばれる伝統に近いが、それはひとつの定義を与えることによって規定できるようなものではなく、そこに含まれている複数のシステムを見出していって、その複合的な効果として現象をみていくほうがいいのではないかと考えている。
dで、それは何をすることなのかというと....
43'05'' 酒井それに行く前に、小宮レジュメ4頁の「私たちはひとかたまりの事実を経験しているのか」というところが、いまの話に関係していると思うので、そこを敷衍してほしい。>小宮さん
43'34'' 小宮aいま毛利さんが言ったのは、「漠然と ひとかたまり に感じられているかもしれないけど、よく見てみれば、そこにはいろんなシステムが含まれているんだ」ということでしたよね。
bレジュメのほうで僕がいったのは、そこで「漠然と ひとかたまり」と言われているときにはすでに、それは自然な感覚ではなくて、法律家や法理論家が「法とは何か」と考えたときに感じている「まとまり」なのかではないか、ということ。
c「[観察者が]実際に見てみればいろんなものがある」というけれども、実際にコミュニケーションが行われているときにも 複数の水準でコミュニケーションが行われていて、そこで私たちは、はっきりと意識はしていなくても その複数のコミュニケーション[水準]に けっこう敏感にやりとりを組み立てていたりする。それは会話分析の研究をみてみればわかること。
dそう考えると、我々が「ひとまとまりの事実-を-違ったふうに-経験している」というふうにといったときには、すでにそれは「分析的」な単位なのではないか、と。
e[現象を] 「システムの重なりとしてみていく」ということは、あらたな経験をすることではなくて、経験に近づいていくことなのではないか。
45'17'' 毛利a「複数の水準のコミュニケーションがあって、わりと我々は、それに平気に対応しちゃってる」ということですよね。あ、そっか、というふうに思ったんですけど.... 
bここで私が「ひとかたまり」というのは、──これはルーマン解釈としてはあまり同意を得られないかもしれないですが──複数のシステムが重なるところがあって、個々の具体的な事実というのは、いくつものシステムの競合して、そこに・そのときそのときに成立するものだ、ということ。
cだから、「我々は 複数のシステムをいったりきたりしながら生きている」というのはそのとおりだと思います。それをもし「あたりまえ」というのであれば、そうかもしれない。
dただ、「自分が何を経験しているのか」を言おう・考えよう・コミュニケーションしようとすると、特定の文脈でしかなかなか言えない、ということがある。[...]
e複数のコミュニケーション・複数のシステムが重なり合って、事実が成立しており、それぞれシステムごとに文脈が設定されるのだとすると、成立している事態自体が多文脈的で、それに対してなにか「こういう経験をしたんだ」というふうに、さらにあとのコミュニケーションで確認していったり、あるいは自分の中でそれを考えようとしたりすると、すでにそれぞれのシステムの文脈のなかで捉えていることになるので、事後的で・しかも・文脈特定的にしか確定されないものになる。
fたぶん、日常的にはそれで済んじゃっているんだと思う。その事後的に確定しちゃったときに、それをそのまま「事実」だと思いなしているような気がするんだけど、ほんとうはそれ自体が多文脈的だった、というふうには、あまり普通は考えていないような気がする。
gまた、事後的に意味を確定していくときに、別の文脈・意味の確定の仕方があったはずなのに、そういうのを忘れながら生きているような気がする。
hそれを「忘れてないか?」という形でもう一回経験しなおすというのは、そういうのとは別の形での経験ではないか、と。
48'56'' 小宮a経験の再述と経験そのものは違うでしょう。
b「ひとまとまりの事実として経験して理解している」と毛利さんが書いているのは、いま聞いた話では、経験の再述のこと。
c多文脈的な経験・多文脈的なコミュニケーションを生きているんだけど、それを何か言おうとすると「ひとまとまり」の輪郭を得てしまう、という....
49'25'' 毛利aいや、「ひとまとまり」が「多文脈的」で、なんとなく・ぼやっとはわかっていると思うんですよ。
49'35'' 小宮a多文脈的なものを、多文脈的に経験しているんじゃないでしょうか。
bなので、それを構造的カップリングとして記述していくことは、新たな経験ではなくて、はっきりと意識はしていなかったかもしれないけれども、確かに多文脈的に経験している私たちの現実を明確にしていくことだ、というほうがしっくりくるんですが。
50'25''[...]
50'30'' 酒井「社会システムをどうやって記述できるのか」という基本的な問題にかかわる論点だと思ってちょっとこだわってみたんですが、意見の違うところは、二人それぞれの側ではクリアになってますか? 私は振り落とされそうなんですが。
51'00'' 小宮「経験」という言葉の使い方が違うのか、少しずれているのかもしれない、という気がしています。
[...]
52'45'' 小宮a 「ひとかたまり」というのが「複数のシステムを分節して経験していない」という意味なら、それはおそらく違うだろう、というのが言いたいこと。
b 「分節して経験されているもの」を「ひとかたまり」と呼んでいるのならば、たぶんそんなには違っていないはず。
[...]
53'05'' 酒井毛利さんは、ここで 同時性Gleichzeitichkeit)のことを言おうとしてるわけですよね。
54'20'' 毛利そうですね。
[...]
55'20'' 酒井「社会システムとはなんであり、それをいかにして記述しうるのか」という論点に対して、いまの話は非常に重要だったと思います。ルーマンは「構造的カップリング」のほかに「作動的カップリング」という言葉も用意していますが、今の話は、そっちのほうの話ではあったかもしれません。覚えておいて、あとで戻ることが出来れば また議論しましょう。
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酒井泰斗による ディスカッションへのコメント(20090812)

論点1

経験のし直し? ある社会現象を観察者が分節化し・記述すること。これは、その現象の参与者たちの経験を「しなおす」ことではない。その限りで──小宮さんの指摘のとおり──毛利さんの言葉遣いはおかしいようにおもわれる。
したがって、以下ではこの言葉遣いを捨てて先に進みたいが、それはそれとして、もしも「経験」という言葉へのこだわりが、さらに なにかあるのであれば、あらためてその点を敷衍していただきたいところ。>毛利さん
「ひとかたまり」「ぼんやり」
とはどういうことか
「たいていの社会現象は、複数のシステムの重なりによって生じている」という点では、見解の相違はない。
また、ほとんどの場合、社会現象の参与者たちが、それを「明確な仕方で・適切に・言語化しうる」という状況にはない、という点についても見解の相違はない(これはまぁ「常識的に考えて」そうだろう)。 毛利さんの「ぼんやりとした」「ひとかたまり」という表現が このことを指すのであれば、この点について 私には異論はない。
「分節化」はどこに生じるか さて、小宮さんが引用した箇所の毛利さんの言葉遣いだと、あたかも「現象の分節化」を学的観察者がおこなうかのように読めてしまう(そして、おそらく目下の論点においてもっともまずいのはこの点だろう)。
しかし議論の結果、「社会現象は、その現象の側で分節化されている」という点についても、見解の一致が見られたと思う。そして、もっとも重要なのはこの論点であるように思われる。
つまり、「現象の分節化は──観察者が勝手に行ってよいものではなくて──現象の側ですでに生じていることであり、学的観察者の記述は すでに行われているその分節化のありかたを辿りなおすことである」といえるのであれば、そのさいの「分節化の記述」は、「社会的諸システムの記述」の(少なくとも端緒の)ことである、といってよいだろうから。
非分析的「システム」概念
の根拠
「分節化は現象の側で生じている」ということは、「非-分析的なシステム概念」を用いることができるための条件=根拠(の少なくとも一部)である。そしてこのことによって逆に、「諸システムの記述」のやり方への手がかりも与えられるはずである。
(そしてこれが、私が毛利さんの発言を遮ってまでディスカッションへと移行した理由なのだった。)
確認 すると問題は、なにをさておきまずは、
  1. 私たちは、社会生活における多くの場合、自分たちがやっていることを「明確な仕方で・適切に・言語化しうる」ような状態にはないが、しかし、
  2. 分節化を行いながら暮らしている
という(常識的直感にも適う)この事情に、適切な表現を与えてやることだろう。
提案私は、2. に位置するのが「意味処理(~理解可能性)」なのだと考える。
 すなわち、意識されているか・意図されているか・言語化しうるかどうかにかかわらず、私たちはたいていの場合・たいていのことを「わかって」やっており、そしてまた私たちが「複数の社会秩序」に参加していることを「わかって」やっているのである。(→「特定コンテクスト内の分節化」と「異なる水準の諸コンテクストの分節化」)
 「社会システムの記述」は、その「わかる=分節化する」という線に沿って──すなわち、現象=対象の側で生じている理解可能性に即して──進むべきである。(そしてまたそうであるからこそ、「意味(~理解可能性)」は「社会学の根本概念」なのである。)
付録 毛利さんには、酒井・小宮(2007)論文を お渡ししたときに、次のようなコメントをいただいていた:
「現実のコミュニケーションは、君たちが示したようには きれいに整除されてはおらず もっと漠然とした仕方で生じていて、それが折に触れてパンクチュエートされるような仕方で 進んでいっているのではないか。(大意:記憶に基づく再構成)
@2007年06月2日(日)石戸『リスクとしての教育』合評会懇親会。この発言には、居合わせた今井さん・石戸さんも激しく同意されていた。
この疑問=批判は、まさに目下の論点に大いに関わっているのではないかと想像する。つまりこの疑問は、──私としては毛利さんに次のように反問してみたいのだが──、酒井・小宮論文が進んでいる「理解可能性」の水準を、「考える・語る・意図する・言語化する」などなどの水準と混同しているのではないか、ということ。
ちなみに「現象が分節化されている」ことは、そこに「混乱がある」とか「あいまいさがある」ということと矛盾しない=両立する。「混乱」が「混乱」として、「あいまいさ」が「あいまいさ」として生きられているなら、それはそのようなものとして理解可能性をもつ。だからそれは、そのようなものとして分析可能だろう。
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論点2

「ひとかたまり」
という表現の意義
私自身は、毛利さんの用いた「ひとかたまり」という表現には、また別の重要な意義があると思う。これは、
  • 常識的に「それ」として指し示されるような「現象領域」は、それがそのままシステムであるのではない
ということを述べるために用いられているのである。そしてその系が、
  • ルーマンは、法学者たちが「法秩序」「法現象」だと考えるすべてのことを「法システム」と呼んでいるわけではない
    =ルーマンの謂う「法システム」からは、法学者が「法秩序「法現象」と呼ぶもの少なからぬものが零れ落ちている。
なのであった。そして、
  1. 一方ではこのことが、ルーマンに対する(誤解にもとづく)FAQ的批判を与えるものとなっており、
  2. 他方では同じことが、(法哲学者として・法秩序論のためにルーマンを利用しようとする)毛利さんが、ルーマンの「法システム」論以外のテクストへの参照を必要とする理由となっている。
ルーマンに対する
よくある不当な批判
法学者の不満は、探し物を探す場所を間違えていることによる。法学者が「法現象」と呼ぶものが、(ルーマンが「法システム」と呼ぶものを含む)複数の社会秩序の複合体として成立しているのだとすれば、ルーマンの「法システム論」だけを探しても、「部分的なもの」しか見当たらないのは当然である。
逆に、佐藤俊樹は、「機能システム論は、(原理的にはともかく)経験的研究をある程度うまくガイドしうる」(大意)と述べているが、この主張も同じ理由で誤っていると私は思う。
同じことが、「システム」だけでなく、「正義」や「権力」や「所有」などといった ゼマンティクにも妥当する(そして実際、そのような批判がなされてきた)。「法のレリヴァンスのもとでの正義」は、正義という概念使用のすべてではない。政治の(あるいは組織の)レリヴァンスのもとでの権力」は、権力という概念使用のすべてをカバーしない。こうした批判は、ある概念を システムのレリヴァンスごとに分節化して把握しようとする試みを誤解したところから出てきたものだが、そのそもそもの出所は、「現象がまるごとシステムであるわけではない」ということを見逃している ことであるに違いない。
ルーマンに対する批判 ところで、同じ批判をルーマンに対して行うことができる。
たとえば「システム三類型(or 四類型)」なるものは、同じ事情で登場するものだと考えられるのである(この点は、酒井・小宮(2007)で指摘した)。つまり、
  • 社会(科)学者が常識的に「相互作用」と呼んでいるところのものを、まるごとそのまま「システム」としてとらえようとすること
  • 社会(科)学者が常識的に「組織」と呼んでいるところのものを、まるごとそのまま「システム」としてとらえようとすること
  • 社会(科)学者が常識的に「国家と社会」と観念しているところのもの(の統一)を、まるごとそのまま「システム」としてとらえようとすること
  • 社会(科)学者が常識的に「社会運動」と観念しているところのものを、まるごとそのまま「システム」としてとらえようとすること
 これは、まったく誤った議論の進め方である。ちょうど、「法秩序」まるごとをそのまま「法システム」だと考えてしまうことがまったく誤っているのと同様に。そしてまたそれだけでなく、「社会システムの把握と記述」という課題を見失わせるものでもある。
たとえば「組織の統一性・境界」は、しばしば組織成員たち自身にとって関心がもたれているおり、組織成員たちにとっての問題でありうる(ex. 「会社は誰のものか」)。そして、「組織はシステムである」とか「組織はどのようなシステムなのか」というテーゼ(や問いの立て方)は、このような、組織成員たち自身がおこなっている分節化・組織成員たち自身が取り組んでいる問題などなどを丸無視することによってしか提起することが出来ないものである。
 問われるべきは、「組織はどのようなシステムか」ではない。「組織として常識的に観念されている現象は、コミュニケーションにおいてどのように分節化されているのか」「その現象において どのようなシステムたちが生じているのか」というものであるはずである。そしてこのように問いを立てるのであれば、システム類型は必要がない。
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毛利康俊から 酒井泰斗へのリプライ(20090812)

  • Date: Wed, Aug 12, 2009 at 12:24
  • from 毛利康俊 to 酒井泰斗 cc 小宮友根
  • [...]

    私は、ルーマンの(とくに構造的カップリングの)議論が成り立つためには、複数のシステムからなにかが同一化的に(あっちのシステムからも同じものとして認知されているものとして)指示されており、かつそのように指示されていることが、関連システムの間で了解されていなければならない、と考えていました。しかも、ルーマンの理論の全体構想からすれば、指示される同一的なものは、関係システムの作動から独立して存在するものではなく、逆にそれらの同一化的指示の総合によって生み出されるといういみで、むしろ派生的なものでなければならない(複数システムの基底に同一的なものが先に与えられているのであれば、それに還元して説明するなり基礎づけるなりすればよいわけですが、ルーマンはそういう考え方を拒否するはずです)。

    (おそらくこの論点は、小宮さんがおしまいの方に指摘された、コミュニケーションの中で構成される「人格」というものにも関係しているでしょう)

    もしこういう条件が必要であれば、おそらくルーマン自身はそれについて詳しくは論じていないので、独自に展開しなければならないでしょうからかなりやっかいそうです。この問題はなんども書こうとして頓挫しているところでして、わたしは即座にはなにかを言えそうもありません。ルーマンの文脈では同期化ということに関係しているわけですから、当然ここで「時間」の観点が出てきます。しかしルーマンの時間論というのはよくわからないので・・・

    また合評会の後から同一化的指示ということについてさらに考えてみまして、構造的カップリングにはつねに同一化的指示が伴うとは言えないような気がしてきました。法システムと経済システムでは、あまり注目されていませんが簿記技術か重要な役割を果たしています。法システムにおけるあの売買契約と経済システムにおけるこの取引と同一性を、簿記は記録し続けており、何らかの事情でその同一性の回顧しなければならない事情が生じてきた場合、どちらのシステムにおいても簿記を手がかりに同一性を再認できます。これは、同一化的指示がある場合かと思います。

    しかし、立法における法システムと政治システムの構造的カップリングの場合はどうか。あの政策選択とこの立法が同一のものであるということは官僚や政治家にとっては重要な事かもしれないが、機能システムとしての法システムや政治システムに関係があるのか?

    教育システムと経済システムの構造的カップリングはさらに問題です。ここでは「人」を介した機能システムの構造的カップリングということになります。こういうところだと同一化的指示はされていないか、あまり意味を持たないように思います(卒業証書の発行とかに限れば多少あるかもしれません)。

    というわけで、構造的カップリングと一言で済ませていますが、本来はその機構が異なるものをごたまぜに詰め込んでいる感があります。構造的カップリングとされるものをいくつか個別的に取り上げて、実際にそれがどのように行われているのがを丁寧に見ていかないと話が先に進まないように思います。それでルーマンの理論のどこかとバッティングするところが出てこないかどうか、これはやってみないとわかりません。

    私には即座に回答を出す準備がありませんが、皆様の議論に学ばせていただければと思います。私自身ももう少し考えてみます。

    [...]

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