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作成 20190624|更新 20190729

佐藤俊樹『社会科学と因果分析』読書会
佐藤俊樹『社会科学と因果分析』

読書会配布資料集:第一章「社会科学とは何か」

 この頁には、佐藤俊樹『社会科学と因果分析:ウェーバーの方法論から知の現在へ』読書会(2019年3月~8月) における担当者の配布資料を掲載しています。
 読書会第一回の開催日は2019年3月17日(日)、会場は東京大学本郷キャンパス、担当者は 三羽恵梨子さん(生命倫理学・医療倫理学)、川野英二さん(社会学)の二名でした。

このページ:第一章「社会科学とは何か」
[第一回] 社会科学は何をする?
[第二回] 人文学と自然科学の間で
【コラム1】 ウェーバーの方法論の研究史
※全資料
第一章 社会科学とは何か
第二章 百年の螺旋
第三章 適合的因果の方法
第四章 歴史と比較
第五章 社会の観察と因果分析
講 演:清水雄也「Johannes von Kriesの適合的因果論」
コメント:小野裕亮「「文化科学」論文の参照指示について」
論考:清水雄也・小林佑太「Kriesの適合的因果論をめぐる誤解」
読書会案内

[第一回]社会科学は何をする?
担当:三羽恵梨子(生命倫理学・医療倫理学)

一. (pp.2-3)

二. (pp.3-5)

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三. (pp.5-7)

四. (pp.8-10)

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五. (pp.10-11)

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[第二回]人文学と自然科学の間で
担当:三羽恵梨子(生命倫理学・医療倫理学)

一. (pp.14-15)

二. (pp.15-17)

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三. (pp.18-19)

四. (pp.20-22)

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五. (pp.22-24)

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【コラム1】ウェーバーの方法論の研究史
担当:川野英二(社会学)

あるいは、日本語圏の「ガラパゴス」的状況はいかにつくられたのか? v.クリースの忘却への道

ポイント

※日本語圏のウェーバー研究は「ガラパゴス」的状況である

(ただしガラパゴスという形容はガラパゴスの動植物には失礼である)

※田中・金子論文のここがおかしい

1. (p.27~)

ここで参照文献

「行為者自身にとっていかに明証的な思念された意味であっても,外的な行為連関のくぐりぬけという手続をふまない限り「動機」としての資格をもつことはできない。こうした動機帰属という方法は,行為者の自明視された世界を流動化するのに貢献する。研究者は,行為連関を所与としてそのままうけとるのでなく,空間的・時間的・虚構的(論理的)連関との比較対照により,その自明性にゆさぶりをかけ,それを徹頭徹尾可能なものの1つの世界と見なそうと努力する。研究者の帰属する動機は行為者の盲点をつく場合が多い」。
「「動機は行為者にとって明証的なものである」という神話の破壊は,動機は思念する意味の全領域をカバーしはしないという自己限定によってはじめて可能になる」

2. (p.29~)

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3. (p.30~)

※ 田中論文の問題点

「仮定法過去完了の部分」=反実仮想を、具体的な事例で「代置」できるかどうかは、その事象の性格による →b.をより正確に

※ 金子論文の誤読

4. (p.34~)

ウェーバー『宗教社会学論集1』の「儒教と道教」

5 p.38〜

6 p.41〜

7 p.43~

8 p.46~

9 p.48~

付録:盛山の反論

「マイヤー論文におけるヴェーバーの科学方法論について―佐藤俊樹「『社会学の方法的立場』をめぐる方法論的考察」 (『理論と方法』2014, 29(2):361-370) へのリプライ)」
理論と方法 (Sociological Theory and Methods) 2015, Vol.30, No.1:135-139

 佐藤氏は「『マイヤー』論文では,考えていく枠組みが v. Kriesの議論にそって組み換えられた」(佐藤 2014:364) という言い方をしている.これは,意味としては,「マイヤー論文と客観性論文で,ヴェーバーの主張に基本的な違いはないが,v. Kries という生理学者の議論を新しく利用している点において〈枠組み〉には変化がある」ということになる.しかし,「枠組みには変化がある」という主張も疑わしいのである。
 じつは,v. Kries の議論がヴェーバーの科学方法論の背景にあることは,正直,恥ずかしながら今回初めて知ることとなったので,それについていろいろと調べて見た中に宇都宮京子氏 の論文(宇都宮 2013)がある.そして,その論文にも指摘してあるのだが,v. Kries とそれを 批判的に検討した法哲学者ラートブルフの議論との影響は,すでに『客観性論文』にも見られるのである.具体的には,v. Kries の概念である「客観的可能性」の語と,ラートブルフに由来 する「因果的適合性」の概念は,『客観性論文』にも見かけられる.たとえば「すべてのいわゆる 『経済』法則においても,例外なく問題となるのは,…規則の形式で表される適合的な因果連関 であり,ここでは立ち入って分析するわけにはいかないが,『客観的可能性』という範疇(カテゴリー)の適用である」(Weber 1904: 訳 90)というような記述があるのである.ここでは v.Kries の名前もラートブルフの名前も挙がってはいないが,明らかに彼らの議論を踏まえている.したがって,『客観性論文』においてすでに彼らの議論はヴェーバーの念頭にあり,それを援用しながら自分の議論を展開していったと見た方がいい.決して,マイヤー論文になってはじめて v. Kries の枠組みが用いられるようになったというわけではない.
 それでは,佐藤氏が強調している「法則論的/存在論的」の二分法はどうか.それは,マイ ヤー論文と『客観性論文』との違いを意味するものと言えるだろうか.むろんこの二分法は v. Kries に由来する.しかし,じつは「法則的知識」という言葉はすでに『客観性論文』でも現れている(Weber 1904: 訳 89).「存在論的」という語の使用は確認できないが,たとえば「社会的諸法則の認識は,社会的実在の認識ではなく」(訳 92)というような二分法は見られる.逆に, マイヤー論文の方を見れば,「法則論的/存在論的」という二分法が現れる箇所(Weber 1906: 訳 192)での論点は,「一つの"具体的事実" の歴史的"意義"についての最も単純な歴史的判断でさえ,…我々が豊富な我々の"法則論的"経験知を"与えられた"現実性にあてはめることによってのみ,事実的にも妥当性を与えられるものである」(訳 193)ということである.この主張の構図は,『客観性論文』でのものとまったく同一である.
 このように,「『マイヤー』論文では,考えていく枠組みが v. Kries の議論にそって組み換えられた」というのは当てはまらないと見るのが妥当だろう。(盛山 137-138)
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