『概念分析の社会学─社会的経験と人間の科学』(酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生 編、2016年4月、ナカニシヤ出版)

このページは、エスノメソドロジー研究の論文集、酒井・浦野・前田・中村編『概念分析の社会学』(ナカニシヤ出版・2009年4月刊行)を ご紹介するものです。

 本書は、科学や医療、法などの専門的な知識のただなかにおかれている私たちが 自らの存在・経験・行為を作り上げていく実践の 手続き的記述を目指しています。各章で扱われるトピックは(生物学的人種や遺伝学的知識、ポルノグラフィや化粧など)さまざまですが、どの章も「私たちが自らのあり方や自らの経験や行為を理解するさいに用いている概念の用法を記述しよう」という、一つのはっきりしたねらいをもって書かれています。
 ですから、
  • 現代社会に生きる人々の様々な経験への省察
  • 自文化の人類学 - 同時代の歴史学 としての 社会学研究
  • 社会学的概念分析としてのエスノメソドロジー研究
などとして、お読みいただくことができるでしょう。

 ここには、「立ち読みコンテンツ」として いくつかのセクションの本文も掲載してありますので、購入や教科書採用などを検討する際の参考にしていただければ幸いです。

 なお、本論文集以前に、本書と重なる執筆陣で教科書を刊行しています。あわせてご覧いただければ幸いです: 前田泰樹ほか編『ワードマップ エスノメソドロジー』(新曜社、2007年)

※このページは、校正前の原稿に もとづいて制作しています。引用・参照は 書籍からおねがいします。
※本書表紙に使用させていただいた作品は 宮山香里さんによるものです。プロフィールや他の作品は ウェブサイト Change by Gradation (blog ) をご覧ください。
※追記: 表紙作品を含む作品群 "Parole perdute da salvare" - 救うべき失われた言葉2009年 コロンバ国際芸術賞(ヴェネツィア、イタリア)を受賞しました。宮山さん、おめでとうございます。

※追記2: 2016年4月、本書の続編が刊行されました

※追記3: 紀伊國屋書店にてブックフェアを開催していただきました:

『概念分析の社会学』第六刷
更新情報
2016.04.01
パート2刊行にちなみ、ブックフェアを開催します。開催日は 4/11、場所は紀伊國屋書店新宿本店です:
2016.03.30
第6刷刊行、ならびに「パート2」刊行に合わせてページをリニューアルしました。パート2の情報はこちらから:
『概念分析の社会学』はてなブックマーク数

目次と書誌

概念分析の社会学─社会的経験と人間の科学
酒井泰斗・浦野 茂・
前田泰樹・中村和生 編
2009年 4月
定価: 2,800円
A5判 290頁
ISBN 978-4-7795-0314-6
ナカニシヤ出版
「概念分析」とは規範の分析にほかならない。
多彩なトピックにおいて、各分野で重視される概念の用法を具体的に分析。
そこから社会を成り立たせるシステムの一面をあぶり出した、
エスノメソドロジー研究の新展開。
... したがって必要となるのは概念分析である、こう本書は考えます。あたかも私たちを圧倒するかのような知識に学びながら、そしてとりわけその概念の結びつきをたどりながら、専門的概念と常識的概念との間に現に存在しまた存在しなければならないはずの関係を記述していくこと ―― このような作業こそが、専門的概念やその具現としての高度な科学技術的環境に対する私たちの関係を測るにあたって必要となると本書は考えているのです。 「はじめに」 より)
はじめに 浦野 茂
ナビゲーション1 (前田泰樹)
第1章 類型から集団へ ──人種をめぐる社会と科学── 浦野 茂
第2章 遺伝学的知識と病いの語り ──知識と経験をめぐるメンバーシップ・カテゴリー化── 前田泰樹
ナビゲーション2 (酒井泰斗)
第3章 医療者の〈専門性〉と患者の〈経験〉 安藤太郎
第4章 触法精神障害者の「責任」と「裁判を受ける権利」 ──裁判と処罰を望むのはだれなのか── 喜多加実代
第5章 「被害」の経験と「自由」の概念のレリヴァンス 小宮友根
第6章 化粧と性別 ──〈素肌〉を見るやり方── 上谷香陽
ナビゲーション3 (中村和生)
第7章 優生学の作動形式 ──永井潜の言説について── 石井幸夫
第8章 科学社会学における「社会」概念の変遷 中村和生
おわりに 酒井泰斗

はじめに ──本書の概要

本書は、科学や医療、法などの専門的な知識のただなかにおかれている私たちの存在と経験、行為について、さまざまな具体的トピックを切り口にしながら記述していく試みを収めています。
人間についてのさまざまな専門的知識のもと、私たちの存在と経験、行為のあり様はこれまでにきわめて大きな変容を経てきました。また現在もそのただなかにあります。したがって本書は、このような変容に焦点をあてているとひとまず言うことができます。しかしこのような変容については、すでに数多く研究が積み重ねられてきました。そのため本書を手に取られた皆さんのなかには、なにを今さらとの印象をもたれる方もいるかもしれません。そこで本書の目指すところを明らかにしておく必要があるでしょう。>>続きを読む/閉じる

   本書は、現代の社会と人間に進行しつつあるさまざまな変容めぐる最新レポートを目指しているわけではありません。あるいはまた、このような変容についてこれまで把握されてはこなかった歴史的由来を発見しようというのでもありません。たしかにこのような変容と取り組みながらも、本書の主眼はむしろ、そうした変容を現に生きている私たちのだれもが知っているはずの事柄をあらためて思い起こさせることの方に置かれています。このような本書の目指すところについて、基本的論点のいくつかに立ち返りながら紹介してみましょう。
私たち人間はみずからを記述する能力をもつ動物です(Sacks 1972 36 = 1989 105)。大げさな言い方に聞こえるかもしれませんが、べつにこれは誇張でも何でもありません。私たちは四六時中、さまざまな他者との関係やそのなかでの行為、経験をさまざまに記述しています。あるいはまた生活のそのつどの状況において、声に出さずとも私たちは自分が何者であり何をしているのか、またなぜそうするのかを把握しているはずです。記述することはこのように私たちの社会的経験にとって欠かすことのできない契機となっています。
けれども記述の重要性はこれにとどまりません。そもそも私たちの社会生活の諸相は、それについて私たちが行なう記述ぬきには存在しえないからです。言いかえれば、私たちの社会的経験はすべて、それについて私たちがもっている概念による記述とともにはじめて現にある仕方でありえているのです。たとえば、投票制度という概念を欠いた人々にとっては投票するという行為を行なうことは論理的に不可能であることを考えてみれば、このことはわかるはずです。あるいは、何らかの社会的アイデンティティ概念を欠いた社会に住んでいるだれかについて、それにもかかわらずこの人物がこのアイデンティティの獲得を願っているなどと述べることのナンセンスを考えてみてもよいでしょう。いずれにしても私たちの社会的経験は、私たちがもつ概念を用いた記述を不可欠な構成要素とすることで成立しているのです。そして本書の具体的課題はこの事実から導き出されています。
その紹介かたがた、すこし考えてみましょう。私たちの日々の生活をそのつど意味あるものとして組織している常識的概念と、科学や医療、法などの専門的知識において用いられている概念とは、どのような関係にあるのでしょうか。このように問われて思い浮かぶのは、たとえば「曖昧な常識的概念」と「正確な専門的概念」といった対比かもしれません。しかし、このような対比については注意が必要です。この対比がそもそも意味をなすのは、常識的概念と専門的概念がともに同一の前提のもとに捉えられているかぎりにおいて、言いかえれば両者がともに同じ仕事を行なうものとして捉えられているかぎりにおいてのことです。概念とは独立に存在しかつ同定できる何かがあらかじめ与えられており、そのうえで常識的概念と専門的概念とがともにこれを記述すべく競っている ――こんなイメージがここからは浮かんできます。しかし私たちの社会的経験にかんして、このようなイメージは適切なのでしょうか。
ここで日常言語学派の哲学者 G. ライルのことばに耳を傾けておきましょう。ライルは、「中傷効果」というある混乱の経験について述べています。中傷効果とは、日常的概念と専門的概念との関係についての誤解から生じる混乱の経験のことです(Ryle 1954 72 = 1997 118)。たとえば、私たちがひごろ経験している事柄が科学によると実はそうではないのだなどと聞かされたり、そう思いこんでしまうというような経験はなかったでしょうか。あなたはいま机の上に置かれた書物の文字を読んでいると思っているかもしれない。けれどもそれは、じつは脳神経系のプロセスにすぎない。あなたはきのう椅子から滑り落ちたせいで右肘に痛みを感じているかもしれない。けれどもそれは、じつは神経繊維のひとつであるC繊維の発火にすぎない、などなど。
このように、私たちが実際に経験している事柄がじつはその通りではなくむしろダミーだったのだと考えさせられてしまうことが中傷効果です。ここにあげた例はたしかに机上の経験かもしれません。けれどもこうした机上の経験においてですら、私たちはときに目が眩む思いをしたり、あるいは心を引き裂かれるような思いすらしたりすることがあります。そうだとすれば、高度な科学技術が具現された環境にさらされたときに私たちがもつだろう経験については、もはや言うまでもないでしょう。
さてそのうえで、ライルはこのような経験に対するいわば処方箋として、概念の実際の使用法に注意を喚起していきます。一組の常識的な概念がそれぞれどのように連関しあいながら現実に用いられているのか。専門的概念が意味をなすとすれば常識的概念とどのような関係になければならないのか。内部的に連関しあった専門的概念群の関係についてどのように考えればよいのか。ライルはこのような点をそれぞれ明確にしていきます。
このように、さまざまな概念の実際の用法を記述し、またそうした用法から一連の概念の関係を把握しなおしていく作業のことを、彼は概念分析と呼んでいます。そしてこの概念分析をつうじて明らかになってくることのひとつは、常識的概念と専門的概念との関係は、私たちの手とペンチの関係のようなものであるということです(Ryle 1954 35 = 1997 54)。手はそのままではナットをしっかり固定することはできません。けれども だからといって手をペンチと取り替えてしまえ、などということにはなりません。ペンチによってナットを固定することができるためには、そもそも手を使うことができなければならないからです。手とペンチを競合的する道具として対比させるようなイメージは、専門的な道具じたいが手足の使用に依存していることを見落としてしまっているわけです。
これと同じことは常識的概念と専門的概念の関係についてもあてはまります。そもそも専門的概念を用いることができるためにはまず常識的概念を用いることができなければなりません。またとりわけ人間の存在や経験、行為にかんする専門的概念の場合、専門的概念を用いてなにか意味ある言明を行なうためには、常識的概念を前提とし、またそれとなんらかの仕方で関連づけられていなければなりません。すでに述べたように、私たちの生活の諸相は常識的概念とともにはじめて意味ある形をなして存在しています。したがって常識的概念に依拠しないかぎり、人間についての専門的知識はその対象すら手にすることができないはずなのです。
このようにみてくると、概念分析とは概念の用い方をただ単に記述し整理するだけのものではないことが分かると思います。いやむしろ、そのような記述と整理こそがじつはきわめて重要な意義を担っているということがわかるはずです。
専門的知識のただなかでまたそれとともに暮らしていかざるをえない私たちにとり、専門的概念やその具現としての高度な科学技術的環境に対していかなる関係をとるべきかという問題から逃げることはできません。ときに私たちにも、専門的知識に魅了されるあまり語りすぎてしまうといったことがあるかもしれません。あるいは反対に、専門的知識に圧倒されて自身の経験を語ることに困難を感じることもあるかもしれません。専門的概念に対する関係のとり方の問題は、さまざまな姿をとって私たちに課題を突きつけてくるのです(詳しくは本書の各章を参照してください)。
それでは、このような問題に直面したとき、私たちにとってどのような態度が必要とされるのでしょうか。専門的知識に対して目と耳を閉ざすことができるのであれば、それはそれでよいでしょう。けれどもそれが可能であるとはもはや思えません。あるいは、このような知識に対してなにか外在的な文脈に基づいてこれを批判することが必要なのでしょうか。社会学のなかでも数多くなされてきたそのような作業の意義はたしかに否定できません。けれどもそのような作業において、専門的知識と私たちの生活とのあるはずの関係あるいは専門的概念と常識的概念との間に存在している論理的関係がそのつどの具体的文脈に即して記述されていくことはありません。ということはまた、そもそもの問題の核心をなしている中傷効果(たとえば先ほどの魅了と圧倒)にしても、じつはその内実まで解き明かされているというわけではないのです(以上の論点については、社会構築主義に対する I. ハッキングによる批評がよい参考になります〔1999 = 2006〕)。
したがって必要となるのは概念分析である、こう本書は考えます。あたかも私たちを圧倒するかのような知識に学びながら、そしてとりわけその概念の結びつきをたどりながら、専門的概念と常識的概念との間に現に存在しまた存在しなければならないはずの関係を記述していくこと ―― このような作業こそが、専門的概念やその具現としての高度な科学技術的環境に対する私たちの関係を測るにあたって必要となると本書は考えているのです。
さてこの点を確認したうえで、人間がみずからを記述する能力をもつ動物であるという点に戻りましょう。
すでに述べたようにここから導かれるのは、次の事柄、すなわち私たちの生活の諸相は私たちがもっている概念による記述を不可欠な構成要素として成立しているということでした。私たちがそのつど何者でありえ、どのような経験と行為をもちうるかは、私たちがどのような概念をもちどのような記述をなしうるかという事柄と切り離して考えることはできないということです。そしてだからこそ専門的な知識が、その概念を通じて私たちの存在と経験、行為のあらたな可能性を作り上げ、また裁ち直していくということもありうるのです。
人間と社会についての専門的知識を形づくる概念を自身の存在と経験、行為の概念的前提として用いること、あるいはそのような知識が具現された技術的環境のなかに身を置くこと。さまざまな機会を通じて、専門的な概念は私たちが何者として何をなしうるのか、あるいはさらには何をなしえたのかについての理解をあらためていきます。そしてこのことは再び、そのような人間を捉えるべくあらたな専門的概念の形成へと跳ね返っていくということもあるはずです。このようなプロセスを科学哲学者 I. ハッキングはループ効果と呼びました。そしてこの視点の中心に据えられているのもやはり、人間についての専門的概念がもっている、自己記述する動物である人間にとっての特異な位置づけなのです(Hacking 1996)。
もちろんだからといって、専門的概念だけを追っていけばよいというのでは単純化が過ぎますし、それではそもそもどうして専門的概念が問題だったのか見失われてしまっていると言わざるをえません。
さきほど中傷効果について触れたとき、このように述べました。すなわち、人間についての専門的概念とそれを用いた記述が有意味でありうるのはそれらが常識的概念とそれを用いた記述を前提にしているからである、と。これと同じことが、いまの場合にもあてはまります。人間についての専門的概念がそのものとして人間の存在と経験、行為の概念的前提となりうるとしたら、それはこうした概念を用いてなされる記述がその有意味性を常識的概念に依拠しており、また実際に常識的概念を用いてなされている実践のひとつの構成要素となっているからなのです。専門的概念はそれを用いる実践を通じて、したがって常識的概念の使用のなかへと編み込まれていくことを通じて、私たちの生活の諸相に一定の形を与えていくことになるのです。

 冒頭でも述べましたが、本書の課題は、科学や法などの専門的な知識のただなかにある私たちの存在と経験、行為についてさまざまなトピックを切り口に記述していくというものです。そしてこれまでに述べたことを踏まえるならば、こうした課題は、具体的な実践にもとづきながら、すなわち常識的概念とともに専門的概念が用いられていくそのしかたを記述していくことを通じて、成し遂げられるはずです。したがってこのような記述は現代社会を一望のもとに診断するようなものにはなりようもありません。また、具体的な実践に対する外在的な文脈に依拠しながらこうした実践を裁断してしまうことも避ける必要もあります。むしろこのような具体的な実践とともにあることこそが 今日の私たちの存在と経験、行為の条件についてのただの断言を超えた真摯な検討へと通じていくことになるはずだろう ── 本書はこのように考えています。

(浦野 茂)

文献
Hacking, I.
1996, “The looping effects of human kinds,” in D. Sperber, D. Premack, and A. J. Premack, eds., Causal Cognition: A multi-disciplinary Debate, Oxford University Press, 351-83.
1999, The Social Construction of What?, Harvard University Press. ( = 2006, 出口康夫・久米曉抄訳 『何が社会的に構成されるのか』 岩波書店)
Ryle, G.,
1954, Dilemmas, Cambridge University Press. ( = 1997, 篠澤和久訳 『ジレンマ』 勁草書房)
Sacks, H.,
1972, "An initial investigation of the usability of conversational data for doing sociology," in D. Sudnow, ed., Studies in Social Interaction, Free Press, 31-63. ( = 1989, 北澤 裕・西阪 仰訳「会話データの利用法――会話分析事始め」同編 『日常性の解剖学――知と会話』 マルジュ社, 93-173.)

ナビゲーション

ナビゲーション1 ── 本書の主題と方法

ループ効果

 本書には,さまざまなトピックが登場します。生物学的人種や遺伝学的知識から始まって,ポルノグラフィや化粧にいたるまでの多様なトピックには,一見すると相互に関係がありそうにみえないかもしれません。けれども本書の各章の記述には,一つのはっきりしたねらいがあります。それは,私たちが自らのあり方や自らの経験や行為を理解するさいに用いている概念の,その用法を記述しよう,というものです。だから,本書に登場するトピックの多様さは,私たちが実際に使っている概念の用法が多様であることを示しているのです。>>続きを読む/閉じる

ナビゲーション2 ── 本書の主題

再び,ループ効果について

 ナビ1では,本書の主題(ループ効果)と方法(概念分析)について紹介しました。このナビ2では,本書の主題である「ループ効果」について もう少し議論してみます。もっとも「ループ効果」という言葉自体には難しいところはありません。ナビ1でも紹介したように,これは,

  • 人々の分類・記述に用いることができる専門的な知識や概念や方法が日常生活に提供され,
  • 分類・記述された当の人々によって,それらの分類・記述が,引き受けられたり・拒絶されたり・書き直されたりする

といった現象のことを指す言葉でしたが*,ここまでのところはもう理解していただいているでしょう。大事なのは,この言葉がどんな研究を示唆するのか ということのほうです。この点について1章と2章を振り返りながら考えてみましょう。 >>続きを読む/閉じる

ナビゲーション3 ── 各章の紹介とその意義

「ループ効果」の分節化

 ここまで,様々なトピックにわたる分析が繰り広げられてきました。たしかに,すべてのトピックは多種多様ですが,これらの論文には共通した狙いがありました。一つは概念分析の手法を用いてアプローチしていることです。
この点を前書きやナビ1の説明に沿って理解して頂ければ,いくつかの論文に対して生じやすい誤解もおきなかったことと思います。たとえば,化粧実践と「素肌」について論じた上谷論文は,その「歴史的変遷」を歴史家からみれば大雑把に辿っているというのではなく,「化粧」という概念と,その活動の担い手としての特定の社会集団の概念(「婦人」「女学生」「職業婦人」)との論理的・倫理的結びつきを歴史の中に見いだしているのです。>>続きを読む/閉じる

おわりに ── 各章読解のための2つの補助線と若干の楽屋裏紹介

 本書を手に取って ぱらぱらと読みはじめた読者は,次のような疑問を持つかもしれない。

  • [Q1] 本書は「概念分析の社会学」と題されている。しかし言葉の分析が どうして社会学研究だと言えるのか。

さらに,社会学についての知識を持った読者であれば こんな疑問をもつかもしれない。

  • [Q2] エスノメソドロジーといえば「会話分析」が想起される。しかしこの本には「会話」は登場しないではないか。

この二つの疑問を手がかりに 二つの補助線を引いて、本書を閉じるとしよう(以下,本書「ナビゲーション」を「ナビ」と略す)>>続きを読む/閉じる

 社会学とは「私たちはどのような社会で・どんなふうに暮らしているか」を明らかにしようとする学問である。この問いに何を手がかりにしてどのように取り組むかに応じて,研究が実際にとるかたちは おおきく変わってくるが,この点でのエスノメソドロジー研究の独特の貢献として 二つのことを指摘できるように思う:

  • [P] 社会学が取り組むべき課題を,社会成員たちの規範の運用技能と運用方法の解明というところに設定したこと。
    そしてまた,
  • [E] この課題を,主として 会話というフィールドを取り上げながら* 相互行為におけるトーク(talk in interaction)についての研究として具体的に遂行してみせ,しかも相当の成果**を収めたこと。

本書もまた,こうした基本的方針と先行研究をふまえたうえで・その延長線上で・それをさらに展開するために,企画されたものである。(ここで [Q2] に答えよう: エスノメソドロジー研究の目標は,会話を扱うこと にではなく,[P] のほうにある。)

* これには,少なくとも 二つの重要な理由があっただろう。一つには,私たちが社会生活において,実際に・非常に多くの時間を会話のために費やしている ということ(だから,今後もエスノメソドロジストたちは会話を重要なものとしてあつかい続けるだろう)。もう一つには,こうした研究が始まった1960年代半ばの時期に,安価な民生用録音機材が研究者の手に入るようになっていた,ということ(だから 民生用録画機材が安価になって以降は,多くの研究者がビデオを用いた研究をおこなうようになっている。(山崎・西阪 1997)
** 比較的新しいものから(串田 2007)(西阪 2008)の二つを挙げておく。

 さらに,エスノメソドロジー研究とウィトゲンシュタインや(いわゆる)日常言語学派との関係に注目して,本書にとって重要なことを二つ確認しておく:

  • 【1】初期のエスノメソドロジストたちは,ウィトゲンシュタインや日常言語学派の洞察から得た示唆を (主として会話を中心とする)経験的なマテリアルの中で例証していく という仕方で,この課題[P] に取り組んだ。ここに、「概念の論理文法分析」という着想が登場してくる。……「規範は 実際にはどのように運用されているか」を解明するためには,それが成員たちによってどのように理解されているのかを把握する必要がある。成員たち自身によって規範が理解されている ということは,成員たち自身によって 論理文法にのっとった仕方で概念が用いられている,ということである[→はじめに:v,ナビ1:5]*。だから,こうした事情のもとにある概念の,その論理文法を分析するということは,規範の運用技能・運用方法を狙っておこなわれるのである(それは言葉を分析しようとしているのではない)
     ここで [Q1] に答えよう: 社会的秩序は,そのもとで暮らす人びとが 実際に規範を運用することをつうじて作り上げられているのだから,その運用のあり方を記述することは 社会学的研究なのである**。
* この点については さらに,現在翻訳が進んでいる(Lynch 1993)も参照してほしい。
** 概念分析とエスノメソドロジーと社会学の関係については,本書に先だって出版した(前田・水川・岡田 2007)に まとめられている。さらに深く掘り下げた議論が知りたい読者には,ウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジストの諸論考,たとえば(Coulter 1979 = 1998)(西阪 1997)(前田 2008)などが参考になるはずである。

 しかし多くの読者にとっては,やはりここ──「概念連関」と「規範」との関連性──がもっとも飲み込みにくい論点であるかもしれない。確かに,「概念分析」という言葉は様々な使われかたをされており,また たいていの場合ここに書いたような いみでは使われていない。「曖昧な概念を(しばしば研究に先立って)明確に定義すること」といったような,本書の用法とはかけ離れた作業を指すことすらある。さらにまた「概念分析」という字面から,これが「規範の分析」であることを連想することは難しいだろう。けれども,一方で本書の語用はウィトゲンシュタインや日常言語学派のそれを踏まえたものではあり,また他方で 私たちの分析が,行為や活動や経験における理解可能性を獲得するために 人びとが実際に用いている概念 を手がかりにして行われていることを示すためには,私たちとしては,「概念分析」という言葉を手放すわけにもいかなかったのである*。だからもう一度強調しておきたい。「社会的実践の概念分析」は「規範の運用技能・運用方法 の記述的解明」に照準している。これが本書を読み進める際の,もっとも重要な補助線である。

* もう一点。本書では,「概念連関」と「規範」との関連性について,それだけを取り出して集中的に論じるようなことはしていないのだが,これも一部の読者を困惑させるかもしれない。これにも理由がある。「概念分析」は,理論装置や説明図式を与えるものではない。したがって こうした研究は,まとまった議論を前もって用意しておく というわけにはいかず,たとえば「理論の適用(と検証)」といった形をとることができないのである。
そうではなく,こうした研究においては,示されるべきことは 実際の個別の実践に即した分析のなかで例示される。だから 検討のほうも,各章が「規範の運用方法の適切な例示となっているかどうか,それが適切な記述的解明を受けているかどうか」という観点からおこなわれる必要がある。

 話をもどそう。
 こうした事情を踏まえてさらに研究を進めるには どのような道があるだろうか。これが本書の出発点となった問いである。

  • 【2】「概念分析の社会学的展開」を更に先に進めるための手がかりとして私たちが選んだのは,イアン・ハッキングの諸研究だった。「ハッキング-と-エスノメソドロジー」という取り合わせは一部の読者には奇矯なものに映るかもしれない。しかし,ハッキングは哲学の訓練を受け,科学哲学と科学史の狭間で・フーコーを踏まえて・日常言語学派的概念分析を駆使して 仕事をしてきた人である。だからこれは「日常言語学派の流儀でおこなわれた作業」という観点からの──したがって,そのいみで素直な──選択なのである。この点が,本書読解のための二つ目の補助線となってくれると思う。
    私たちは本書のために十数回にわたる出版準備研究会を持ったが,そのほとんどの時間を,ハッキング(およびフーコー)の仕事とエスノメソドロジー的概念分析との比較検討に費やした*。まず,ハッキングによる概念分析の実際の作法を,エスノメソドロジー的概念分析と対照しながら検討した。ここでは,ハッキングのやり方を学ぶことに加えて,「概念分析が実践の分析であるためにはどのようなことが必要なのか」ということが問題となった**。そしてもう一つ重要だったのが,ハッキングが実際に扱った対象についての検討である。というのも,ハッキングがそれらを扱ったということは,つまり それらが概念分析を必要とする対象であることを いみするからである。私たちが主題として選んだ「ループ効果」や「相互作用類」といった名前は,この場所に登場してくる。それは概念分析の必要性とその課題を指し示すものであるとともに,フーコーが取り組んだ課題を改めて理解させてくれるものでもある[→ナビ1:6]。そしてまた,ハッキングがこうした仕事を「人々を作り上げることの研究」と呼んでいたことを想い出してもらえるなら[→ナビ2:73],私たちのこの選択が,社会学的研究にとって素直なものであることも認めていただけるのではないかと思う。

 概念分析が狙っているのは規範の運用技能・運用方法の解明である。「ループ効果」や「相互作用類」は,概念分析という作業の必要性と課題を指し示している。──この二つの補助線を,本書を読み進める際には ぜひ頭の片隅にいつも置いておいていただければと思う。

* ナビ1でその一部を紹介したが(→次注も参照),私たちにとって幸運だったことに,ハッキングとエスノメソドロジストとの間には,書評やシンポジウム報告などの形での相当数のやりとりがあり,私たちもこれらの検討から出発した。ちなみに,ハッキングとエスノメソドロジストの間には人的なつながりもあるようだ。最初にハッキングに「児童虐待」というテーマに取り組むことを勧めたのは,エスノメソドロジーに近い立場で多くの研究をおこなってきたドロシー・スミスだった とのことである。
** リンチによるこの観点からのハッキング批判は,本書にとっても重要なものである。この点については ナビ1[p.6] でも触れておいたが,さらに出版準備研究会を踏まえて書かれた(浦野 2007)(浦野 2008)も参照していただけるとありがたい。

 編者の一人である酒井あてに この出版のお誘いをいただいたのは,2002年7月のことである*。それからずいぶん時間がたってしまったが,お誘いへのお返事の中で自分が,テーマ候補として「道徳」を挙げ,「社会学と道徳哲学的伝統とのつきあい方を社会学的に再考するような企画ができれば」と書いたことは覚えている。その時に考えていたのは およそこんなことだった ──

社会科学の歴史は倫理学~道徳哲学・道徳科学の解体あるいは変容の歴史である。そしてまた現在においても,社会について語ることは,なんらかの仕方で,規範的・道徳的な含意を帯びざるを得ない(し,しばしばそう求められてもいる。また既存の社会諸科学がまったくそれを避けてきたわけでもない。たとえば20世紀には──前半のメタ倫理の流行のあとで後半には──規範理論の構築が流行しもした)。こうした,社会諸科学史に登場してきた様々なスタンスそれぞれの意義は私にもわかる。しかし,社会科学の 道徳・規範(そして倫理学的主題)との付き合い方は これらとは別様でもありうるのではないか。もっと言えば,社会学ならでは のやり方というのがありうるのではないか....。

 まだ編者も執筆者も決まっていなかった段階での私のこの思いつきが,本書の企画にそのまま反映されたわけではない。しかし数年を経て最終的に集まった原稿は,私の当初のこの希望に 予想外によく 応えてくれるものだった。これには正直なところ驚かされたが,しかし いま改めて考えてみると,あるいみでは当然のことだったかもしれない。エスノメソドロジー研究は,対象への規範的なコミットメントよりも前に,まずは当の対象において用いられている規範とその運用方法の記述を目指す[→はじめに ]。しかし,それは単に,「対象への規範的なコミットメントを避ける」ことを いみするわけではないのである[→ナビ1 p.7]。この点について日頃から・時間をかけてよく考えてきた著者たちだったからこそ,自ずとこうした原稿を提出してくれたのだろう。本書の各論考は,人性論や人間学,あるいは規範理論などなどとは異なったあり方での,あるいはまた,あらかじめ隠し持った規範的基準で 現実を裁断するようなやりかたではない仕方での対象へのコミットメントを それぞれなりにおこなっているように思う。本書各章でおこなわれている規範運用方法の実践学的解明が,こうした観点からも検討していただけることを──さらに,できることならば,現実に規範的なコミットメントを求められている人たちにとっての なんらかの参考になることを──,編者の一人として願っている。

* 最初にいただいたのは「そろそろルーマンについて考えをまとめてみては?」というお誘いだった。この点について──紙幅の制約のために憶言的にはなってしまうが──すこし釈明しておく。私は,ルーマン研究の現状の水準に鑑みて 本書のような研究論文集を編むことは不可能だと判断した。しかしまた私は,いただいたリクエストには──固有名や流儀流派ではなく──準拠問題(への取り組み)という観点からいうなら,本論文集でもって応えたつもりでいる。
一方で。ルーマンが30年をかけて取り組んだ課題を私なりに要約するなら
  • 行為と意味理解についての伝統的な社会学的見解を捉え直し,
  • 局所的な社会秩序の統一性を 個々のその作り上げられ方に即して把握すること。
  • それによって行為論と知識社会学に分断された社会学を設え直すこと。

ということになるが,本書が取り組んだのは まさにこうした課題なのである。ルーマン自身は,この課題に対して

  • 社会秩序それぞれを、自己構成するシステムとして把握すること。
  • 〈システム研究-と-ゼマンティク研究〉という研究プログラムペア。

でもって応えようとしたわけだが,本書の「社会的経験の概念分析」というプロジェクトは,その水準でも比較検討の材料を与えることができているはずである。

これが「リクエストには応えた」という理由。

他方で。ルーマン自身の研究プログラムは 未だなお画餅のままに留まっている。それは,ルーマンとその後継者たちが,ルーマンの様々な着想を 経験的なマテリアルのなかでどのように展開していくのか という問いに正面から取り組んではこなかったからだろう。そのせいで,研究のなかで天下り的に繰り出されてくる諸「テーゼ」たち
曰く「現代社会はオートポイエティックに機能分化した諸システムからなり」
曰く「法システムは合法/不法をコミュニケーション・コードとしており」
曰く「経済システムと法システムは所有によって構造的に連結されており」 などなど
が どのような身分をもつものなのか も,そもそもこうした「テーゼ」を どのように検討したらよいのかすらも 不明なまま,なのである。
これが現時点ではエスノメソドロジー論文集出版のほうを優先すべきだと判断した理由。なおこの点については,出版準備研究会を進めるなかで考察したことの一端を(酒井・小宮 2007)に まとめておいた。
今後,エスノメソドロジー とルーマンの双方を視野にいれて──そしてできれば本書をも叩き台にして──研究を進める若い研究者たちが現れることを期待したい。

[後略]

(酒井泰斗)

文献
Coulter J.
1979, The Social Construction of Mind., Macmillan. (= 1998, 西阪 仰 訳 『心の社会的構成─ヴィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの視点』 新曜社)
串田秀也
2006, 『相互行為秩序と会話分析─「話し手」と「共‐成員性」をめぐる参加の組織化』 世界思想社
Lynch M.
1993, Scientific Practice and Ordinary Action: Ethnomethodology and Social Studies of Science, Cambridge U.P. (=水川喜文・中村和生 ほか訳 『科学と日常的行為(仮題)』勁草書房(近刊)
前田泰樹・水川喜文・岡田光弘 編
2007, 『ワードマップ エスノメソドロジー─人びとの実践から学ぶ』 新曜社
前田泰樹
2008, 『心の文法─医療実践の社会学』 新曜社
西阪 仰
1997, 『相互行為分析という視点─文化と心の社会学的記述』 金子書房
2008, 『分散する身体─エスノメソドロジー的相互行為分析の展開』 勁草書房
酒井泰斗・小宮友根
2007, 「社会システムの経験的記述とはいかなることか─意味秩序としての相互行為を例に─」『ソシオロゴス』31号, ソシオロゴス編集委員会, p.62-84
浦野 茂
2007, 「記憶の科学─イアン・ハッキングの「歴史的存在論」を手がかりに」『哲学』第117集, 慶應義塾大学三田哲学会, p.245-266
2008, 「社会学の課題としての概念分析─「構築主義批判・以後」によせて」『三田社会学』第13号, 慶應義塾大学三田社会学会, 47-59.
山崎敬一・西阪 仰 編
1997, 『語る身体・見る身体』ハーベスト社

執筆者紹介

※執筆順。記載の情報は刊行時のものです。 >>開く/閉じる

浦野 茂*うらのしげる

慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。社会学専攻。青森大学准教授。>>業績

前田泰樹*まえだひろき

一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。社会学専攻。東海大学准教授。 >>業績

酒井泰斗*さかいたいと

大阪大学大学院理学研究科物理学専攻修士課程中退。音楽制作会社を経て現在は金融系企業のシステム部に所属。ルーマン・フォーラム管理人(socio-logic.jp)。 >>業績

安藤太郎あんどうたろう

喜多加実代きたかみよ

小宮友根こみやともね

上谷香陽うえたにかよ

中村和生*なかむらかずお

石井幸夫いしいゆきお

続報

反響

書評

ブックフェア

合評会

2010-01-11 STS Network Japan 関西定例研究会

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注などでの参照

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第五刷

    備考
はじめに
page. iii (Ryle 1954: 35=1997: 54) (Ryle 1954: 35=1997: 57)  

第四刷まで

    備考
ナビゲーション1
p.5 Coulter 1989b Coulter 1989  
p.6 P. サルトル J.-P. サルトル  
p.8 Coulter, J., 1989b Coulter, J., 1989  
ナビゲーション2
p.71 基づく もとづく 5行目
p.73 反事仮想 反実仮想
第3章「医療者の〈専門性〉と患者の〈経験〉」
p.81 行うわけではないでない。 行うわけではない。 2段落7行目
第4章「触法精神障害者の「責任」と「裁判を受ける権利」」
p.109 第2節 3-2 4-1。1行目
p.120 加わっている) 加わっているが) 8行目
p.128 犯罪と精神医学 犯罪と司法精神医学 読書案内の7行目。2冊目書名
第5章「「被害」の経験と「自由」の概念のレリヴァンス」
p.138 発話内行為 発語内行為 l.22
第7章「優生学の作動形式」
p.218 [漢字「遑」のふりがなが
ズレている]
  4行目。
p.229 石井(2009) 石井(2009a) 6行目。本文中の参考文献挙示において、石井(2009a) と石井 (2009b) が区別されていない。
p.229 石井(2009) 石井(2009b) 11行目。同上。
p.229 石井(2009) 石井(2009a) 下から5行目。同上。
おわりに
p.262 (主として会話を (主として会話データを 【1】2行目。
p.265 お返事の中で私は、 お返事の中で自分が、 一行あき後3行目。
p.266 この課題に対して〈システム研究とゼマンティク研究〉という研究プログラムペアでもって この課題に対して「社会秩序それぞれを自己構成するシステムとして把握すること」と「システム研究+ゼマンティク研究という研究プログラムペア」とでもって 注記二段落目。
p.267 現れることを願っている。 現れることを期待したい。 注記最後の文

索引項目一覧

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人名索引

秋元波留夫、浅田和茂、アッピア(Appiah, K. A.)、アンダーソン(Anderson, H.)、池原毅和、石本静枝、市野川容孝、井上哲次郎、ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein , L.)、ウィンシップ(Winship, A.)、ウェクスラー(Wexler, A.)、ウールガー(Woolger, S.)、江口聡、エドワーズ(Edwards, A. W. F.)、大澤謙二、大野萌子、オースティン(Austin, J. L.)
ガーゲン(Gergen, K.)、樫田美雄、カステル(Castel, R.)、金森修、ガネット(Gannett, L.)、ガーフィンケル(Garfinkel, H)、キャヴァリ=スフォルツァ(Cavalli-Sforza, L. L.)、グッドマン,A.(Goodman, A.)、グッドマン,N.(Goodman, N.)、クーパー(Cooper, D.)、クライマン(Kleinman, A.)、グーリッシャン(Goolishian, H.)、クレーペリン(Kraepelin, E.)、クルター(Coulter, J.)、グールド(Gould, S. J.)、クーン,C.S.(Coon, C. S.)、クーン,T.(Kuhn, T.)、ケヴルズ(Kevles, D.)、小林傳司、ゴフマン(Goffman, E.)、駒井卓、コリンズ(Collins, H.)、ゴルトン(Galton, F.)、コント(Comte, A.)、コンラッド(Conrad, P.)
サックス(Sacks, H.)、サットン(Sutton, W.)、佐藤直樹、サルトル(Sartre, J. P.)、サンスティン(Sunstein, C. R.)、ジェームズ(James, W.)、シュナイダー(Schneider, J. W.)、ショーウォーター(Showalter, E.)、鈴木智之、スティーヴンス(Stevens, N.)、ストロッセン(Strossen, N.)、スピヴァク(Spivak, G. C.)、スペンサー(Spencer, H.)、芹沢一也、ソーカル(Sokal, A.)
ダーウィン(Darwin, C.)、タウシッグ(Taussig, K.)、竹沢泰子、ダッグデール(Dugdale, R.)、立石謙輔、ドゥウォーキン(Dworkin, R.)、トゥームズ(Toombs, S. K.)、ドブジャンスキー(Dobzhansky, Th.)、外山亀太郎
永井潜、中里見博、中島秀人、中條献、中谷陽二、長野英子、中村和生、西田幾多郎、額賀淑郎、野口裕二
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事項索引

アクターネットワーク理論、池田小学校事件、一元論的思考、一元論的並行説、遺伝学的アイデンティティ(genetic identity)、遺伝学的検査、遺伝学的シティズンシップ(genetic citizenship)、遺伝/環境、医療化 脱医療化、インスクリプション、エスノメソドロジー、エスノメソドロジスト
懐疑(的)、介入、概念 概念の用法(「概念の使用法」「概念の用い方」なども含む) 概念の論理文法(分析) 概念分析、会話分析、科学(的)/ 社会(的)、確率論的病因論、語り(narrative) 語りの譲り渡し 探求の語り、メンバーシップ・カテゴリー(成員カテゴリー) カテゴリー集合 自己執行カテゴリー、可能性、関連性(レリヴァンス)、機械的、機械論(的)、記述 再記述 自己記述、帰属、機能主義、規範(的)、規範命題、議論空間、ケアの倫理、経験、刑法39条、化粧、言説実践、言説戦略、言説の分散、言説空間、権力、国民優生法、個人
サイエンス・ウォーズ、再記述、産児調節(運動)、自己記述、自己帰属(的人工)類(self-ascription kinds)、自然類(natural kinds)、疾患(disease)/ 病い(illness)、島田事件、市民、社会学、社会構築主義(社会構成主義)、社会的構築(社会構築物)、社会的条件、集団、メンデル集団、繁殖集団、証言、常識的、常染色体優性遺伝、女性 女性の沈黙、女性/個人、素人、進化、人工類(human kinds)、人種 人種分類 人種主義 神話としての人種(「社会的神話」「神話」)、二重の概念としての人種(「人種概念の二重性」) 類型としての人種 / 集団としての人種、親密性のシティズンシップ(intimate citizenship)、素肌、精神鑑定、生物学的 / 社会的、生物学的 / 精神的、生物学化された類(biologized kinds)、生物学的決定論、セクシュアル・ハラスメント、接近不可能な類(inaccessible kinds)、専門家、専門科学者/素人、専門性、専門的、相互作用、相互作用類(interactive kinds)
多発性嚢胞腎(Polycystic kidney disease:PKD)、単一遺伝性疾患、断種(法)、中傷効果、中性一元論、当事者、道徳的、解釈のドキュメンタリー的方法
ナラティブ・セラピー、ナラティブ・ベイスド・メディスン(narrative-based medicine:NBM)、日常的、日常言語学派、日常生活、日本民族衛生学会(日本民族衛生協会)、人間の科学(「人間を対象とする科学」「人間に関わる科学」)
発話行為、ハーディ・ワインベルグの法則、反精神医学、ハンチントン(氏舞踏)病、反ポルノグラフィ条例、人々を作り上げる(人々の制作)、表現/行為、表現の自由、分類、保安処分、北陽病院(事件)、ポルノグラフィ
物語(story) 第二の物語、唯物論的一元論、有意類(relevant kinds)、優生学、ユネスコ
理解可能性、リスク/危険、ループ効果(looping effect)、論理的