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社会学のおしえ

社会学のおしえ

馬場 靖雄 著
1997年4月発行
ナカニシヤ出版
239頁 2300円
ISBN4-88848-351-5

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はじめに
第1章 社会的動物としての人間
第2章 行為と社会関係
第3章 人間と集団
第4章 (付論)社会システムとその環境
第5章 宗教の誘惑
あとがき

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はじめに

 本書の性格を一言でいえば、社会学の入門書・教科書であるということになる。入門書・教科書の目的は、ふつう次の二点であると考えられている。第一に、読者に「社会学とは何か」を理解してもらい、社会学を学んでみようかという興味・意欲をもってもらうこと。第二に、この先社会学をより深く学んでいくための基礎を固めるべく、社会学の基礎的概念・理論を体系的に紹介することである。しかしこの二つを両立させるのは、本来無理がある。そもそも本書の読者のうちで、最初から社会学を体系的に学ぼうなどと考えている人はごく少数だろう。そんな人には、「何か辛いことでもあったんですか?」と聞きたくなってしまうところだ。あるいは、「お体の調子はだいじょうぶですか」のほうがいいかもしれない。ちょっと社会学を覗いてみようという人にとっては、基礎概念の体系的叙述など無用の長物というものだろう。というよりも、その種の叙述はどうしても無味乾燥になるから、社会学への興味をかえって削いでしまうことになるはずだ。──というわけで、本書では第二の目的に関しては、完全に放棄している。本書がめざしているのは、社会学的なものの見方に触れてもらうこと、社会学に興味をもってもらうことのほうだけである。したがって、面白さ、読みやすさを何よりも重視した結果、体系性と厳密性を多少犠牲にした部分が含まれているかもしれない。その点についてはあらかじめご容赦をお願いしておく。もっとも、読者もご存じのように、本でも演芸でも、最初から「面白さ」を意図した作品に面白いものがあったためしはない。最高の喜劇俳優は、チヤツプリンではなく、決して笑わないクソ真面目な顔で通したバスター・キートンのほうであろう。──ということで、そちらのほうもあまり期待しないでいただきたい。これまたご存じのように、「本書の内容はまだまだ不十分だが」とか「本書のような拙い作品を手にとっていただいた読者に感謝します」などという謙虚な姿勢を示している本の内容は、たいていそのとおりなのである。

 それとの関連で、もうひとつお断りを。本書ではところどころで(大半は、注のかたちで)趣味的なというか、いわゆる「オタッキー」な話題を取り上げている。これほ読者へのサービスというよりも、むしろ筆者本人のためのもの、言わば本書を書き上げるための、「鼻先のニンジン」であったと考えていただきたい。そもそも文章を書くということ自体が、かなり恥ずかしい行為である。入門書となれはなおさらだ。できるだけわかりやすくと心がけて書いているうちに、「易しく説明してあげてるんですよ」という思い上がった態度を取っている自分の姿に気がついて、嫌悪感にとらわれたりする。あるいは、「ここではこういうふうに簡単に説明してありますけど、本当はもっと奥が深いんですよ」などと匂わせているが、実は自分もこれ以上のことは何も理解していないのではないか‥‥‥などという疑念が湧いてくることもある。そういった時になおも書き続けるためには、気晴らしが必要だった、というわけだ。おたく関係の話題には不快感を覚える読者は、注は無視して読まれるほうが賢明かもしれない。注も楽しんでいただけれは、もちろんそれに越したことはない。──もっとも、その種の話題に過度に興味を覚えるような読者とは、あきりお友だちになりたくないような気もする。したがって、筆者がもっともお友だちになりたくない人間とは、他ならぬ筆者自身である、ということになる。

 前置きはこれくらいにして、さっそく本論に入っていきたいが、その前にしつこいようだがもう一点だけ。通常の社会学入門書ではまず、「社会学とは何か」「なぜ社会学を学ぶのか(社会学を学ぶことには、どんな意味があるのか)」との問いに何らかの答を与えることから話を始めているようだ。しかしそれらの問いのうちにはすでに、社会の一部分としての学術・大学・出版といった制度(社会学はそれらの制度の内部において営まれる)と社会全体(ないし日常生活)との関係についての問いが含まれているはずである。社会について考えることなしに、「社会学が何の役に立つのか」を論じることはできない。そもそも、われわれ一人一人にとって何が役に立つのかを判断するためには、各人が直面している社会状況を考慮に入れる必要があるのだから。すなわち、「なぜ社会学なのか」と問うことは、すでに間接的に社会について問うているということであり、したがってそれに答えるためにこそ社会学を学ばねばならないのである。逆に言えば、「なぜ社会学なのか」と問うこと自体が、社会学の実践なのだ。──ちょうど、「いかに生きるべきか」と問うこと自体が、「そのようなことは考えない」という生き方を排除しており、その意味ですでに一定の生き方の選択を示しているのと同様に、である。

 だからまずは社会学を体系的に学ぶ必要がある‥‥ などと言うつもりはない。逆である。「なぜ社会学か」と問うことを含めて、われわれが何をし、何を考えようと、それが社会のなかで生じている以上、そういった行為や思考はすでに社会学の対象であると同時に社会学の実践でもある、ということになる。したがって社会学とは要するに、何をやってもいいのである、と。

 これを自由と言うべきか、それともヤケクソと言うべきか。いずれにしても、社会学が置かれた一種独特のこの立場を確認したところで、第1章へと進んでいくことにしよう†。

† ここで本書全体の構成を示しておこう。
 以下の第1章から第4章までは基礎編・理論編。社会学で用いられている基礎的な用語や理論などを紹介していく。4章ではフロンとして、やや抽象度の高い議論を展開しておいた。第5章はより具体的なテーマを扱う応用編、ということになる。
 注については、ちょうど今したように、†で当該箇所を示したうえで、その段落の後に挿入する。

 なお、本書のタイトルについて一言。これは作曲家・ピアニストの高橋悠治のエッセイ集『音楽のおしえ』(晶文社)から拝借したつもりである。何だかお説教くさいタイトルだと感じられた向きもあるかもしれない。しかし第1章でも述べるように、「社会学のおしえ」とは結局のところ、社会学が教えてくれることなど何もないということに他ならないのである。あるいは、社会学が教えるのは、「いかに生きるべきか」「社会はどうあるべきか」といったテーマに関して、安心して依拠できるようないかなる「おしえ」もなしにやっていかねばならないということである‥‥‥と言ってもいいかもしれない。

 『音楽のおしえ』もまた、音楽から何らかの人生観や審美的態度、「〜主義」などを引き出そうとする姿勢(例えば、小林秀雄の「モオツァルト」のように)を徹底的に拒否するために書かれているように思われる。「音楽は他の何ものにも還元できない、固有の価値をもつ」という、「音楽至上主義」をも含めて、である。

 筆者が同書に負っているのは、タイトルだけに留まらないような気がする。

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