ルーマンの社会理論馬場靖雄 著
2001年6月発行 勁草書房 四六判 222頁 2800円 ISBN4-326-65255-1 |勁草書房サイトの著者コメント| |→アマゾン| |
本書の目的は、先年物故したドイツの社会学者ニクラス・ルーマン(1927-1998)の社会(システム)理論の核心部を提示することにある(「システム」を括弧に入れた理由については後述)。もちろん「核心部」というのは筆者から見ての話である。つまり本書がめざしているのはあくまで、筆者がルーマンの議論をフォローするなかで最も知的刺激を受けたいくつかの論点を選択的に再構成・敷衍することのみであって、ルーマン理論の全体像を体系的に解明しようとするものではない。後者を目的とする著作も、すでにかなりの点数出版されている。邦訳されてもいるクニール/ナセヒの著作(Kneer / Nassehi [1993=1995])は、そのうちでも最も優れたものに数えてよいだろう。しかし筆者はこの種の概説本を読むたびに、隔靴掻痒の思いを強くしてきた。それらの本ではルーマンの議論のうちで最も魅力的であり、かつ論じにくい部分を切り捨てて、この理論を「通常科学」化=凡庸化してしまっているのではないか、と。ルーマンが用いている諸概念の内容が体系的に整理・紹介されるほど、「そういった議論なら他の理論家・思想家のなかにも見いだされうる。別にルーマンのような難解な言い回しで表現しなくてもいいのではないか」との疑念が生じてきてしまう(馬場 [1997]を参照)。その種の整理・紹介は、ルーマンを無害化して神棚に祭り上げてしまう結果にしかならないのではないか。
そもそも考えてみればこの理論社会学の大家ほど、「敬して遠ざけられる」という表現にふさわしい人物はいなかったのではなかろうか。事実ルーマンは、かつての論敵ハーバーマスをはじめとして誰もが認める理論的生産力を誇りながら、少なくとも社会学の分野においては、確固たる「ルーマン学派」を形成することなく終わってしまったように見える。日本でもルーマンは一時期大いに注目されたことがあり、「今後の社会学理論の展開はルーマン抜きにはありえない」とすらいわれていたものだ(佐藤/他[1993:475])。だが現在では「社会理論のフロンティア」を形成しているのはむしろ、ブルデューやカルチュラル・スタディーズなどであろう。
これはある意味で無理からぬことである。ルーマンの著作に親しんだことのある者は多かれ少なかれ、めまいといらだちの感覚を味わったことがあるはずだ。「オートポイエーシス」に代表されるように、広範な学的諸分野から次から次へと新しい用語を取り入れて議論の範囲を拡大していく、そのスピード感からくるめまいの感覚。その一方で、むしろ明快かつ単純な文章で議論が展開されているにもかかわらず、いったい議論全体がどこに向かっているのかが、まったく理解できないといういらだち。特に後者はルーマンを読むうえで大きな障害になるはずだ。ルーマン何のためにはこの箇所にこんな論述を差し挟んだのか。この節の結論は何なのか。このような議論を展開する動機はいったい何なのか。要するに、ルーマンは結局のところ何がいいたいのか。これらが明らかにならないまま活字のみを追尾していっても、残るのは徒労感だけ、ということになりかねない。
しかしこれは必ずしも欠点ないし欠陥を意味するわけではない。われわれは通常社会学理論というものを、使用目的が明記されているマニュアル付きの道具のごときものとして理解している。使用目的、すなわち理論家がその理論を構築した意図・動機を導きの糸として一通り道具=理論のはたらきを理解したら、今度は自分なりの関心に沿ってその道具を別の分野に適用してみる。その際、道具本体のほうを適宜修正することも必要になってくる。というよりも、そのような修正を伴う適用なしには、理論を修得する意味などないのだ、云々。
ルーマンの社会システム理論は、この種の理論観とは、少なくとも完全には一致しない。
というのはこの理論のうちには、「理論とは何か」というテーマをも自己の対象の一部として扱っている部分が含まれているからだ。である以上、論述の「意図」や「動機」を探りながらルーマンを読むという態度を取るのは、もちろん可能だとしてもそれがすべてではない、ということになる。むしろ理論と関心の関係を、あるいは「読む」という出来事そのものを、ルーマン理論の側から再検討する必要が出てくるのである。しかもその再検討の試みが、いわゆる「方法論」や「メタ理論」としてではなく理論内容と同じレベルにおいて、すなわち実質的な現代社会論の一部として扱われているのが、ルーマン理論の新しさのひとつであろう。
だからといって、ルーマンによって、従来の社会学理論とはまったく異なる新たな理論地平が開かれるはずだなどとは期待しないでいただきたい。そのような「パラダイム転換」のイメージは、むしろ旧来の「理論=道具」観を前提として初めて成り立つものだろう。ルーマンが行ってきたのはもっとささやかなこと、つまりは「違いを創り出す」ということであろう。スペンサー=ブラウン流にいえば、それはすなわち「区別する」(draw a distinction )ということだし、さらにまた「違い」をグレゴリー・ベイトソンにならって「違いを生む違い」(a difference which makes a difference)と敷衍すれば(Bateson [1972=1990:602])、それはすなわち「情報」の定義であり、ルーマンが行っているのは要するに「情報を発信する」ことであるという、平凡きわまりない結論にもなる。
いずれにせよ保証できるのは、ルーマンを読むことによって読者のなかに何らかの「違い」が生じててくるだろう、ということだけである。その違いがいかなる意味をもつかは、当の違いそのものに即して検討されねばならない。少なくともその違いを、あらかじめ存在している自己同一的な基準(例えば、「よりよい分析枠組」、「新しい社会像」など)によって回収しようとするべきではないだろう。ルーマン自身、自分の立場を「差異理論的アプローチ(ein differenztheoretischer Ansatz)」と呼んだうえで、こう指摘している。「学がめざすのは……差異を差異へと変換することであり、したがって統一性は差異が誤認されたものとしてのみ扱われるべきである」(Luhmann [1987d:319=1993:120])。
さらに述べておくならば、ルーマンは随所で、情報はシステムに対して外から挿入されるものではなく、あくまでシステムの内部において構成されるということを強調している。したがって、情報の「送り手」(不正確な言い方だが)があらかじめ情報の意味内容を、ましてやそれが及ぼす効果を、すなわちどんな「違い」を生ぜしめるかを、確定しておくことはできないのである。思い起こしてみればルーマンはシンポジウムの席などで、時には冷徹とも思えるほどの沈着な態度を崩さなかった。相手がどんなに意気込んで論争を仕掛けてきても、終始一貫マイペースで、自己の議論を展開し続けたのである。このような姿勢はしばしば「官僚的」などと揶揄されてきた。その態度を、実際に官僚出身であるという彼のキャリアと結びつけて論じる論者すら見受けられた。しかし彼のこの姿勢は、キャリアよりもむしろ理論の内容そのものに由来するものであったように思われる。
以前あるフランス系の哲学者が、こんな発言をしていたのを読んだ記憶がある。解釈学やハーバーマスが想定しているような「他者」は、しょせん解釈共同体内部の存在でしかない。その他者の他者性とはせいぜい、「あなたの本はこんな読み方もできますね」と、「意外な」解釈を提起してくる可能性をもつ、ということである。本をまったく読まずにばらばらにちぎったり燃やしてしまったりするような相手は、ハーバーマスらにとっては有意味な他者ではありえないはずだ。あるいはそのような相手は理性的な他者ではなく、「理性の他者」である、と。一方、例えばドゥルーズのように他者性を真に尊重する哲学者であれば、自分の本を燃やす相手に大喜びして、どんどんやってくれと促すはずである、云々。
ルーマンなら、自分の主著である『社会システム』(Luhmann [1994])を燃やしてしまうような相手にどう接しただろうか。まさか大喜びはしなかっただろうが、そのかわり眉ひとつ動かさずに、「なぜ社会学者の著作は、社会のなかでそのような反応を引き起こす(反応しか引き起こさない)のか」について、もう一本論文を書いたのではないだろうか。
そして同じことは、本書についてもいえる。本書ではルーマンの最初の公刊論文(Luhmann [1958])以来40年にわたって展開されてきた議論のうちで、筆者が特に刺激的だと感じたいくつかの論点を取り上げて論じていくことになる。筆者のもくろみ通りにいけば、それらをフォローすることによって、ルーマン理論全体を貫く基本的な発想とでも呼べるものが浮き彫りにされてくるだろう。そしてそれを通して、本書では取り上げなかったルーマン理論の他の部分(例えば、コミュニケーション・メディア論や社会進化論、ゼマンティークSemantik論等)を理解するうえでも役立つ基本的な視角が確立できるはずである。しかしこれは、ルーマン理論のアウトラインの解説や要約をめざしているということを必ずしも意味しない。筆者がめざしているのもやはり「差異を差異へと変換する」こと、あるいは「違いを産む」ことだけである。もちろんそんなことはあらためて「めざす」ようなものではないのかもしれない。本書はすでに読者に対して、「読む/読まない」という違いを強いているからだ。ただ筆者としては、その違いからできるだけ豊かな違いが派生してくるように願うばかりである。とはいっても、筆者の側でそのような成果が生じるか否かを、というよりもそもそも何が「豊か」で何がそうでないのかを、確定しておくことはできないのであるが。
しかし残念なことに筆者はルーマンほど達観できていない。やはり本書が、焚き付けとしてよりは社会学の著作として扱われることを希望してはいる。