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作成:20180403 更新:20180611
この頁には、2018年4月から6月に朝日カルチャーセンター新宿にて開催した「ルーマン解読7」講義における質疑応答などの一部を収録しています(「ルーマン解読」講座全シリーズの紹介)。 長岡克行さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。
概要 |
第一回講義(2018.4.2) |
第二回講義(2018.5.7) |
第三回講義(2018.6.4) |
1975年に刊行された『権力』は、〈シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア(SGCM)〉論をある程度まとまったかたちで提出したという点で、ルーマン理論の形成史において一つの画期をなす著作だといえます。これによって、「機能分化した現代社会の成立を人類史的なタイムスパンにおける社会進化として描く」という構想に コミュニケーション理論からアプローチする、というルーマンのプロジェクトの最小限の道具立て(システム分化論+社会進化論+SGCM論)が いちおう揃ったことになるからです。
他方でこの著作は、70年代初頭に
ハーバーマスとの論争によって一躍悪名を轟かせることになったルーマンからの、ハーバーマスへの返答でもあります。数あるSGCMの中でも特に「権力」が選ばれたのは、「社会システム論には、対立や闘争の側面よりも現存支配体制の維持安定と効率とを重視するテクノクラート主義的な傾向があり、支配の諸関係や権力現象についてのリアリスティックな分析が欠けている」といった批判への応答でもあっただろうからです。
※講義では邦訳テクスト(長岡克行 訳、勁草書房、1986年)を使用します。お持ちでない方はお近くの公共図書館に購入リクエストを出してみてください。
ルーマンは、社会を社会システムとして捉える立場を選びとって社会の理論の刷新をめざしていたのだが、しかし、システム理論を援用する社会の研究には、次のような批判が寄せられていた。すなわち、システム理論的な社会の研究には、対立や闘争の側面よりも現存支配体制の維持安定と効率とを重視するテクノクラート主義的な傾向があり、支配の諸関係や権力現象についてのリアリスティックな分析が欠けている、と。あるいはまた、社会システム理論において権力が扱われている場合には、それは合法的な権力だけに限られている、と。そしてルーマン自身も、こうした批判は、過去の経験に照らすかぎり、必ずしも不当ではないと考えていた。本書は、そのルーマンが書いた権力論であり、権力の因果的な捉え方に対する批判と、権力へのコミュニケーション理論からの接近、という点に新しさがあった。
ルーマンは、権力は、ある人が「否定的なサンクション」を設定することができ、それによって脅しをかけることができる場合に存在しているとしていた。たとえば、圧倒的な物理的暴力をそなえていて、要求や命令に従わなければいつでも相手に危害を与えることができる場合が、それにあたる。ただしかし、ここで実際に暴力が行使されると、権力は破壊されてしまう。それゆえ、権力をコミュニケーション・メディアとして使用するには、要求者は暴力の行使とか雇用関係の解消といったこと(権力資源)を背景にして、要求者も被要求者も回避したがっているのだが、被要求者の方がもっと避けたがるような回避選択肢を構成できなければならない。そして、ここで被要求者から見て、要求への服従と彼が要求者よりももっと避けたがっている回避選択肢(要求者による暴力の行使とか、解雇されること)との差(回避したい程度の差)が、被要求者に要求提案を受容するように動機づける働きをするのである。ルーマンによれば、権力という社会的な〈力〉の由来は、ここにある2。
酒井 | 長岡講義 |
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ジンメルに依拠した「社会分化論」の構想をはじめて提出したもの。
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講義では、といったこと、大枠のこと・全体的な方向性について、持論を自由に
- この本の面白さ
- こうした議論をすることの意義
- それらと絡んで、この本を翻訳しようと考えた理由
第一に、システム論的思考が一般にそうであるように、それは広く知られながらも従来の概念図式では理解できなかった現象を新しく理解できるようにすることに成功することを目指すよりは、以前からすでに知られていたことを別の言葉で表現し直すことにとどまっている。= 参加者への宿題②:この批判は適切か?
(盛山和夫 『権力』 東京大学出版会、2000年、117−118頁)
政治的権力と法、民主主義の関係についても従来の正当性論やリベラルな立憲主義とは異なる・・・洞察を提起
(井口 暁 「ルーマン権力論の構図―権力概念と政治権力論を中心に―」、『社会システム研究』第23号、2011年9月)
38,39,41,49頁 | 「様態変化 Modalisierung」 | → | 「様相化」 |
40頁 | 「様態による一般化 modale Generalisierung」 | → | 「様相的一般化」(「様相による一般化」?) |
第7章表題、122頁ほか | 権力の「危険(リスク)」(Risiko) | → | 「リスク」 |
第8章表題ほか | 「権力の社会的な関連 Relevanz」 | → | 「権力の社会的なレリヴァンス」 |
171頁 | 「要素水準 Anspuruchsniveau」 | → | 「要求水準」 |
Alle Steigerungsmöglichkeiten knüpfen an das an, was der Differenzierung von Code und Prozeß zu Grunde liegt : an die Generalisierung von Symbolen. Unter Generalisierung ist zu verstehen eine Verallgemeinerung von Sinnorientierungen, die es ermöglicht, identischen Sinn gegenüber verschiedenen Partnern in verschiedenen Situationen festzuhalten, ...
( Macht, S.31. 強調は原文。 訳書、48頁)
このメディア(象徴的に一般化したコミュニケーション・メディア)は、選択に動機づけ価値を[略]与えるようなシンボルの発見と流通化に成功するところではつねに発生するのだが、かかるシンボルのひとつが貨幣なのである。
(『社会の経済』訳書 242頁)
・・・。この自己確定が〔生じていると〕示唆されるのは、対応するシンボルが用いられていることによってである。シンボルによって、メディアが用いられているということが立証され、そのようにして、コミュニケーションが受け入れられるという見込みが高まるわけだ。例えば真理に依拠する場合[Man beruft sich zum Beispiel auf Wahrheit.]。あるいは、優越しており自己貫徹能力を備えた権力が可視化されるような仕方で、支配シンボル(今日では主として、権力そのものが法に服属しているということ)を操作するような場合のように、である。
(『社会の社会』 訳書 362頁)
普通は心理的現象に使われる「予期・期待(expectation)」や「動機づけ(motivation)」といった言葉を、ルーマンは社会システムにも使います。 そこで、ルーマンの著作を読んでいると、その都度、意識の話をしているのかコミュニケーションの話をしているのか、しばしば分からなくなります。
「予期」や「動機づけ」がコミュニケーションに対して使われるとき、それはどのような意味なのでしょうか。意識と社会の切り分けはどうなっているのでしょうか。
2-4-3 「SGCMは言語を補足する装置だ」について。
「言語的コミュニケーションが否定・拒絶で終わる蓋然性の高いところでSGCMが受容を動機づける」ということと、「言語メディアもSGCMも、〈肯定/否定〉の二値コードを使って コミュニケーションの水路づけをおこなう」ということとはどういう関係にあるのでしょうか。
2-7に「非合法的権力と政治以外の権力を視野に収める」とありますが、「非合法的権力」と「政治以外の権力」とはどんなものでしょうか。幾つか例示をお願いします。
なにかを「ありそうにない」とみなす視点はどこから生じるのでしょうか。また「ありそうだ/ありそうにな」という判断を下す基準はなんでしょうか。
2-6-2 「権力は…回避選択肢を構成できなければならない」について。
私は、権力というものは選択肢を無くしてしまうものだと思っていたのですが、ルーマンが言っているのは「権力は選択肢を作るものだ・提供するものだ」ということなのでしょうか。
「資料4」のパーソンズ、ハーバーマスの図とルーマンの機能分化論はどう違うのでしょうか。
後期の著作を読んで、SGCMと機能システムは一対一対応している という印象を持っていたのですが、『権力』を読んでみると政治システムの外で働く権力も描かれています。個々のSGCMと個々の機能システムは、どの程度関連・対応しているのでしょうか。
「3つの質問」のA1に、「システム理論的な社会の研究には、…、支配の諸関係や権力現象についてのリアリスティックな分析が欠けている」とあります。ここでいう「リアリスティック」とはどのような意味でしょうか。
「実際に暴力が行使されると権力は破壊されてしまう」というのは興味深い視点ですが、「みせしめ」を用いた恐怖政治のような場合はどうなるのでしょうか。
「シンボルによって一般化された」というときの「シンボル」とは、権力の場合だと具体的にはどのようなものですか。あるいはまた「シンボルでないもの」はどんなものでしょうか。
意味の自己準拠的な処理は、シンボル的一般化を必要不可欠としている。…シンボルないしシンボル的という概念は、しかるべき統一体を形成するメディアを言い表し、一般化という概念は、なんらかの多数のことがらを効果的に取り扱う機能を指し示している。非常に大まかにいうと、なんらかの多数のものがしかるべき統一体に組み入れられ、そのことによって多くのものが象徴的に表現されるということがここで問題となっている。そうしたシンボル的一般化によって、オペレーション(あるいは過程)の水準とシンボルの水準との差異が成立しており、そうした差異によって自己準拠的なオペレーションがそもそもはじめて可能とされる。シンボル的一般化という概念を形成するきっかけも、また「一般化」の用語も、心理学的研究に由来している。その出発点は、刺激/反応-図式が心理システム理論によって解体させられたことであった。というのも、環境の状態ないし環境の出来事がシステム内部では概括的に捉えられ、したがって一般化されたものとして表象されなければならないことが見抜かれたからである。
《象徴的に一般化された》という表現は、パーソンズとの関連でよく知られている定式化を踏まえたものである。ただし、その定式化はあらゆる点で満足すべきものだとは言えないのだが。パーソンズが《象徴的に》という場合に焦点が当てられているのは自我と他者の差異、すなわち社会次元である。一方、《一般化された》のほうが狙いを定めているのは状況の違い、つまり そのつどプロセシングされる意味が持つ事象(=内容)の次元なのである。そこでは(ウィトゲンシュタインにおける規則の概念の場合と同様に)次のように想定されている。社会的な一致が達成されうるためには、踏まえられている共通性がひとつ以上の状況にわたって存続していなければならないはずである、と。ここまではわれわれも同意できる。しかしそれ以上の点では、本書で提示される象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの理論は、パーソンズ流の相互作用メディア(あるいは相互交換メディア)の理論と接点を持ってはいない。後者は、AGIL図式という理論構成法に拘束されているからである220。われわれはそれに代えて、次の仮定から出発することにしよう。コミュニケーションが成功することは低い蓋然性しか持たない。言語のコード化によっては この一般的問題が構造化されるだけで、解決されるわけではない。むしろこのコード化のもとでは受け入れと拒否とが明確に対置されることになるから、問題はさらに先鋭化するのである、と。コミュニケーション・メディアという一般的概念は、この場合に対しても適用可能である。象徴的に一般化されたメディアも、やはりメディアである。というのは、そこではルースなカップリングとタイトなカップリングとの差異が前提とされており、ルースにカップリングされたメディア基体に基いて形式形成が可能になるからである。ただし今や問題となっているのは特殊な言語でも流布メディアでもなく、別種のタイプのメディアである。別の形式、別種の区別、別用のコードが登場してくる。したがって細部に立ち入る前に、どこが違うのかを明らかにしておかねばならない。
《象徴、象徴的な》という概念は、特に19世紀以降、きわめて一般的で焦点の定まらない意味において用いられてきた。《記号》とほとんど同義のものとして扱われることも しばしばだった。しかしそれでは《象徴》概念そのものが余計なものだという話になってしまうだろう。精確な意味を回復するために、ここではそれを、記号が自身の機能を指し示す場合、つまり再帰的になる場合へと限定しておくこととしよう。「自身の機能」とはすなわち、指し示すものと指し示されるものとの統一性を描出するということである。それゆえに「象徴化」によって表現され、また表現されることによってコミュニケーションとして取り扱えるようになるのは、以下の事態なのである。差異のうちに統一性が存していること。分かたれたものが同じものに属していること。かくして、指し示すものを、指し示されたものの代理として(単に、指し示されたものを示唆することとしてではなく)用いうることになる──大いなる伝統において、聖なるものの代理として用いられてきたように、である。
したがって、 《象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア》の概念という文脈において《象徴的》ということで考えられているのは(この点ではパーソンズも同様なのだが)、このメディアが差異を架橋し、コミュニケーションが受け入れられるチャンスをもたらすことなのである。これらのメディアは、言語の場合とは異なって高度に複雑な条件が整えられている中で、そのつど初めて選択されたコミュニケーションであっても十分な理解が保証されるということで満足するわけにはいかない。理解が保証されるという点は、このメディアにとっても前提となる。しかし多くの場合、他ならぬその理解が今度は、コミュニケーションが受け入れられるのをきわめて困難にするのである。例えば蓋然性の低い主張がなされる場合、譲渡を要求する場合、こう行動せよという司令が恣意的に発せられる場合を考えてみればよい。ここにおいて当てにできるのが言語だけだとすれば、失敗するのは目に見えている。したがってそのようなコミュニケーションはなされないという結果になるはずである。言い換えれば言語そのものは、それ自体だけからでは、言語的に可能なもののごく一部しか実現しえないのである。別類の追加装置がなければ、それ以外のすべては失望効果を被ることになるだろう。象徴的に一般化されたメディアは、ノーのほうの蓋然性が高いことを、イエスのほうの蓋然性が高いことへと、驚嘆すべき仕方で変換する。例えば、手元に置いておきたいと考えられている財やサービスに対して、支払いを申し出ることを可能にすることによってである。このメディアは、コミュニケーションを用いて、それ自体としては蓋然性が低いが適切なものと確立するという点ではシンボリック(象徴的)である。しかし同時に、その適切なものを達成する中で新たな差異を生み出すという点ではディアボリック(悪魔的)である。この独特のコミュニケーション問題は、統一性と差異とを新たに配置し直すことで解決される。支払える者は望みのものを得られるが、支払えない者は得られない、というようにである。
別の言葉でもう一度述べておこう。象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは複数の、ただちには結合され得ないはずの選択を整えて並べる。それらの選択は、さしあたりはその点で、ルースにカップリングされた一群の要素として与えられるのである。それら一群の要素とはすなわち、情報の選択、伝達の選択、理解内容の選択である。これらの選択は、それぞれのメディアに対応する特殊な形式によってのみ、タイトなカップリングへと至る。例えば理論、愛の告白、法律、価格などの形式によって、である。またこのメディアは、象徴的に機能するのみならず、 (いま挙げた例からもわかるように)一般化されてもいる。というのは、それぞれに対応する予期が、以後続くオートポイエーシスを先取りしつつ形成されうるのは、形式が相異なる多数の状況にまたがる場合に限られるからである。愛の告白ですら、通用するのはその直後の瞬間だけだというわけではない──もっとも、常に同じ形式でしめされるなら、まったく通用しなくなってしむだろうが。結局のところ常に問題となるのは、受け入れのチャンスを追加することでコミュニケーションを通気付けるという点なのであり、さらにはそうすることで、自然のままなら不毛であるがゆえ耕されずに終わっただろう領土を、全体社会のために獲得してやることなのである。
そたがってこれらのメディアの働きを、またそこに典型的に見られる形式の働きを、 選択と動機づけという蓋然性のきわめて低い組み合わせを継続的に可能にしていくこととして記述できる。ただしここでは、これらの概念が指し示しているのは心的状態ではなく(支払う者が貨幣を手放すときに何を感じるかは、コミュニケーションの成功にとっては無関係である)、社会的な構築物である。
本日の講義では、ルーマンは、権力は政治という場以外でも作動すると捉えていたことが紹介されました。また以前の『制度としての基本権』の講義でも、政治が他の部分社会に介入しすぎないような全体社会のあり方が重視されていたと思います。そうするとルーマンは、権力というメディアの特別な力・危険性みたいなものを意識しているように感じました。
ブルデューの場合は、数ある場の中で、権力場を上位に位置づけます。これと同様にルーマンにも、権力を政治というサブシステムにとどまらない位置づけを与える視点はあるのでしょうか。また政治というサブシステムを、他とは異なるある種の特権的な位置にあるものとして見なすでしょうか。
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【引用1】 I「システム理論と権力」
権力、しかも特殊政治的権力は、評判がよくない。多くの観察者の目には、政治は、汚れた仕事に見える。権力に有効に抵抗できない事態は、〔最近では〕否定的に判断されるべきものへと変化しているように思われる。権力が恣意的に行使されているとする見方から、権力が腐敗しているという見方まで、〔権力にまつわる〕嘆きは数多い。政治的権力は自らを正統化しなければならないという主張は、これらの非難の中でもまだ一番無害だが、しかし、政治が自らを正統化しようとすると、幾たびとなく「ポピュリズムだ」という非難が繰り返される。政治的権力に関する観察へのこうした直接的反応は、包括的な理論構築のなかに取り込まなくてはならない。このような〔政治への〕反作用それ自体は、まだ十分な政治的概念を提供するものではない。いささか否定的なこれらの経験的判断は、秩序を維持するには政治的権力が必要だという見解と、関連づけなければならない。
【引用2】 2000『社会の政治』第2章「権力というメディア」IX「出来事としての作動と構造」[77-78頁]
権力というメディアにおけるすべての構造形成は(…)定義され得ない神秘的な契機をも備えている。メディアの統一性が、また〔権力の〕ルースなカップリングとタイトなカップリングとの統一性が、なかなか明確なかたちで指し示されないのはこのためである。それゆえ権力が、実際に維持されているのかどうか、権力の実際の姿が表面的に目に見えているものと同じなのかどうか、あるいは、突然崩壊してしまうかもしれない過剰なシンボル化が施されているものであるのかどうかという、それ以外の不確かさも依然として保持されている。だから恣意性という契機を《主権》についての記述から排除できずにいるのである。…
【引用3】 1975『権力』第1章「コミュニケーション・メディアとしての権力」 [14-15頁]
以上の簡単な考察からからすでに明らかなように、具体的な権力を関係を明確に規定し、操作化し、測定するという仕事は、きわめて複雑で込み入ったものとなる。権力関係においては、その両方の側が(権力連鎖が形成されている場合には、すべての関与者が)それぞれ諸可能性の中から一つの行為を選び出すことができる。したがって、権力関係の規定や測定のためには、まずは、これらすべての可能性の複雑性に関する多次元的な物差しがなければならないだろう。権力保持者がその権力の行使にあたって、多様なより多くの選択肢から選択をすることができるならば、彼の権力はそれだけ大きなものになる。しかも、多様な多くの選択肢を持っているパートナーに対してなおかつそうすることができるとすれば、彼の権力はいっそう大きいことになる。権力は、両方の側での自由と比例しあって増大するのであり、たとえば、ある社会の生み出す選択肢が増加していく場合、その社会における権力も、それにともなって増大していく。いま述べたことは、しかしながら、科学とその方法の問題だけに関係しているのではない。むしろ権力測定にまつわるこのような複雑さから、社会自身にとっては、次のような帰結が生まれてくるのである。すなわち、社会は権力状況を正確に比較するための代用物を作り出さなければならず、しかも、このような代用物それ自体が権力要因になる、という帰結である。そのような代用物の役目を果たすものとしては、…。
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(略)
(略)
以上を踏まえて再度、「著作概要」のこの箇所の意味について考えてみると:
本書は、そのルーマンが書いた権力論であり、権力の因果的な捉え方に対する批判と、権力へのコミュニケーション理論からの接近、という点に新しさがあった。
(略)
[選択がシステムに帰属されるときに「行為」、環境に帰属されるときに「体験」と呼ぼう。行為帰属の際に生じるのは]行為の事実を前提してそれに説明を与える類別化、すなわち自己の行為や他者の行為の体験の仕方を秩序づける類別化である。… [自由意志や動機は]第一次的な事実ではなく、ましてや行為の 原因でもない。そうではなくて、それらは、行為についての社会的に一致した体験を可能にする 帰属認定のあり方なのである。動機は、行為するにあたって必要なものではないが、行為を理解しつつ体験するためには必要なものである。この理由から、社会的秩序は、行為そのものの水準においてよりも動機認定の水準において、はるかに強く統合化されることになろう。だからこそ動機の理解は、そもそも そこに行為が存在しているのかどうかということについて、遡及的に認識するための助けとなるのである。[31-32頁]
「4. 帰属による縮減:行為とコミュニケーション」に出てくる「帰属」とはなんでしょうか。「帰属」は社会心理学の術語です。ルーマンはこれを、自分の理論のなかで、非常に多様な論題において使っていますので、この講義シリーズでも繰り返し取りあげてきました。なかでも一番詳しく解説したのは、最初に取り上げた『リスクの社会学』のときですので、その時の質疑応答にリンクを貼っておきます。
『リスクの社会学』講義で──〈リスク/危険〉区別の解説のために──使った図も自家引用しておきましょう。いま必要なのは「図1b」の箇所だけです。「帰属」という言葉の使い方は次のとおり:
「4. 帰属による縮減:行為とコミュニケーション」で、「ルーマンは行為とコミュニケーションをセットで扱っている」というお話がありました。
社会学の中では両者をセットで扱っていない議論もあるのでしょうか。また、ルーマンの〈情報|発信|理解〉モデルと、「行為とコミュニケーションはセット」ということとは、どういう関係にあったのでしょうか。
ルーマンのように「行為とコミュニケーション」をセットで扱う論者というのは、むしろ少数派ではないかと思います。たとえばハーバーマスは違いますね。ハーバーマスにとって「コミュニケーション」は、複数ある行為類型のうちの一つ──「コミュニケーション的行為」──です。そして、社会学では、こちらの方が一般的な使い方ではないでしょうか。
それはさておき、「行為/コミュニケーション」関係については、『信頼』講義の初回(2017.10.18)質疑応答5「行為の連鎖」で述べましたので、ここでもその箇所を自家引用しておきましょう。
「行為」は、特に20世紀アメリカの社会学では基礎語であり、ルーマンもずっとそのように使ってきた言葉です。 ところがルーマンは「コミュニケーション」という術語も基本語として使うわけです。では両者の関係はどうなっているのか。[…] 1984年の『一般理論要綱』 の中で提示されているのは、ごく簡単に述べれば次のようなヴィジョンです:今回、ルーマンの「〈情報|発信|理解〉の綜合」というモデルを解説する際に、この点を引き合いに出したのは、ルーマンの議論の中に「行為への分節化」に関する議論が極めて乏しい──困惑するほど乏しい──理由も、ここにあるのだと思います。つまり、その分節化は理論家の仕事ではない(=コミュニケーション参加者たち自身の仕事である)から──したがってルーマンは、それが自分の仕事だとは考えていないから──なのでしょう。
- 社会システムの構成要素は「コミュニケーション」であり、「行為」はコミュニケーションが抽象(=分節化、縮減)されたものである。
- 一方で、この抽象は──学的観察者ではなく──コミュニケーションの参加者たち自身が、〈意図・目的・動機・理由・原因 といったものを、動詞の主語 や 行為者カテゴリー といったものに 帰属 する〉という道具立てを使って 相互に行い合っていること(=帰属による行為の構成)であり、
- 他方で、そうした 要所要所での行為への抽象によってコミュニケーションは「流れる」。
4-a でルーマンのコミュニケーション・モデルを批判した際に、「理解は公的にアクセス可能なかたちで示される」と述べていましたが、この点についてもう少し敷衍してください。この議論は、エスノメソドロジーのテクストでは「公的な理解可能性」というタイトルで出てきます。たとえば次の教科書を読んでみてください。
「4-b 行為の構成と動機の語彙」でこう述べられています。ここでいう「抽象」とはどういう意味でしょうか。「抽象的」といわれると、観念的なものや理論的なものを思い浮かべますが、それとは違う意味があるのでしょうか。
- コミュニケーションを「帰属」という働きで特徴づけるのは、社会学的観察者が勝手におこなった抽象ではない。帰属というこの抽象は、コミュニケーション参与者たち自身が行っているものである。
- そして、まさにこの点を考慮したかたちで議論を進めているときに、ルーマンは、エスノメソドロジーに もっとも接近することになる。
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図3-1:『制度としての基本権』 |
図3-2a:『信頼』 |
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〈人格的個人/機能分化〉 | 〈生活世界/〈人格的個人/機能分化〉〉 |
図3-2b:『信頼』 | 図3-3:『権力』以後 |
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〈生活世界/〈人格的個人/機能分化〉〉 | 〈生活世界/〈人格的個人/技術〉〉 |
- 人間の共同生活は生活世界的な土台の上で生じる[2]。人間の情報処理能力は限られているから、生活世界的条件は廃棄できない[3]。
- 各種のコミュニケーション・メディアは生活世界における「影響力」の一部がそれぞれ特殊に進化したもの[1]である。そうしたことが起こるためには生活世界的な制約の突破が必要だった。
- 人間の能力の有限性に鑑みれば、この突破(=社会進化)は、単純に、「〈意識されなかったもの〉がどんどん〈意識されたもの〉へと変わる」とか、「〈素朴なもの〉が〈合理的なもの〉に取り換えられる」といった過程だと考えることはできない[3]。
- そうではなく、〈定式化されざる意味前提〉と〈定式化された意味前提〉の双方、〈問題化される意味前提〉と〈問題化されない意味前提〉の双方が ともに増大する過程だと捉えなければならない[3]。
- フッサールは実証的な諸科学がもたらす負担の軽減を──「生活世界」と対比して──「技術」と呼んだが[4]、この議論は、フッサールが論じた「科学と真理」についてだけではなく、他の機能システムと諸コミュニケーション・メディアにも当てはまる。
- つまり、コミュニケーション・メディアの自立化は技術の現象形態なのであって[7]、コミュニケーション・メディアの発達は複雑なシステム構築を加速する[8]。そうしたかたちで、社会の技術化は機能領域と直接の関係をもつのである[6]。
- こうした技術化は〈二項的コード化+可能性のシンボル化〉を介した[7]、抽象化、理想化、図式化によって生じる[9]。
- したがって、権力論は、「生活世界と技術、そして、両者の関係の発展条件」という大きな研究課題の下位課題の一つとして扱える[9]。
- こう考えることによって、「経済と所有」とか「政治と権力」との関係を論じる際にも、フッサールが「科学と真理」についておこなった議論を参考にし、それらを相互に比較するかたちで検討を進めることができるようになる。
- またそうした比較を経由することで逆に、その際に──フッサールとは異なり──これらの論題のうち「科学と真理」こそが最も重要で特別なものだと考える必要はなくなる。
ここであわせて、技術に関する後年の議論をみておこう。
[108] 「技術」概念の内側 | [108] 「技術」概念の外側 |
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技術についての以上の記述それ自体は、何ら意外なことは含まれていないし、疑問の余地などはほとんどないと思われる。だが、この形式の他方の側面も考慮されるときにはじめて、新しい見方が評価できるようになる。すなわち、
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[109-110] 技術と市場 | [111] 「技術」の形式とその綻び |
[技術と合理性を結び付けて考える古いヨーロッパのスタイルを採用する]代わりに、機能作用する単純化という技術の領域にますます多くの複雑性が添加されていく場合に、つまり、〔単純化された因果関係としての技術という〕タイトなカップリングが増大すると同時にそれによって固定されていた領域を外部から密封するのにますます失敗するようになる場合に、いったい何が起こるのか、に関心を移してみることにしたい。これまでは、この種の効果は経済によって阻止されていた。少なくともそのように思われていた。
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そこで技術の形式が問題となる。
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[080-09] 社会学者によって、近代社会に関するいくつもの記述が育まれてきた。そのなかでも突出した地位を締めてきたのは、カール・マルクスを引き合いに出しつつ推し進められてきた、資本主義経済システムへの批判である。[…] 例えば《疎外》を取りあげてみよう。〔人間疎外の克服とか人間疎外からの回復といった〕人間学的アプローチではなく社会学的アプローチを採用するなら、そこで問題となるのは経営経済および政治経済における貨幣技術であることがわかる。すなわちまず 資材コスト、信用コスト、労働コストを差引勘定する。さらにそれを踏まえつつ、企業および国家レベルでの計算手段を用いて、どの企業が収益をあげうるか、どれがそうでないかを明らかにすることなのである。この議論において用いられているのは、機能を考える上で必要な《~を度外視して》という観点そものではないか。フッサールによる《ガリレオ的》科学への批判も、同じ意味において理解されねばならない12。こちらの場合も議論の核心となるのは、〔近代科学においては〕個人主体に対する意味を具体的に創出する意識の働きが度外視されていることである。つまりフッサールが論じているのは技術と人間の個体生との間に損するパースペクティヴの食い違いに他ならないのである。
言うまでもなくそこでは、資材と人間が《働く》のは、それぞれまったく異なる意味においてであるという点が度外視されている。さらに、働く者自身にとって労働がどんな意義を持つかも無視されているのは明らかである。最後に次の点もまた明白だろう。そもそも労働が貨幣によって、あるいはその他の経済的に重視される製品によって支払われる以上、つまり働く者が家計を消費して生活していく以上、経済計算を別の方法で行うことはできないのである。
マルクス/フッサールの平行性に思い至るためには、技術をより抽象的な概念として踏まえておかねばならない。[…] 技術とは、包括的な意味において考えるならば、機能する単純化にほかならない。すなわちそれは複雑性を縮減する形式であり、それが生じるための舞台となる社会と世界を知らなくても構成され実現されうるのである。[…] 個人の開放は──非理性的な個人を含めての話であることに留意しておこう──の技術化から不可避的に生じる副次的効果なのである。
[…]
技術と個人性の二輪車で、未来という霧のなかへ乗り入れていく。これがわれわれが置かれた状況であることを強調しておこう。 …
「コード(化)」の意味を教えてください。
第三章(訳 51-52頁)の記載によれば次のとおりです:
非常に基本的な意味、あるいは相互行為的な意味で、権力は常に一つのコードである。すなわち、権力は、このように、「或る選択肢を、それに相補的な別の選択肢とセットにする」ことが、〈コード化〉と呼ばれています。を一対一の対応で付属させ、そうすることで考慮に入れられる諸可能性を二重化するという限りで、コードである。[…]
- 伝達しようとしている行為選択のそれぞれ-に-回避選択肢
が並列させられるのであるが、このことはコードに典型的なこの二重化によって可能とされるのである。
- 権力保持者が欲すること-に-権力服従者が欲しないこと
大学進学を望んでいた者は、召集令状によって──しかも召集令状によってはじめて──入隊を望んでいなかった人になるのであり、こうして彼は、権力の文脈のなかで決定可能なの相補性のなかに連れ込まれる。自発的な目標追求活動がおこなわれる社会生活のなかで、権力は、このようにして特殊独自的な諸操作の条件として、欲することと欲しないこととの〈非自然的〉な配分をつくりだす。
- 〈欲すること〉-と-〈欲しないこと〉
コドン(英: codon)とは、核酸の塩基配列が、タンパク質を構成するアミノ酸配列へと生体内で翻訳されるときの、各アミノ酸に対応する3つの塩基配列のことで、特に、mRNAの塩基配列を指す。DNAの配列において、ヌクレオチド3個の塩基の組み合わせであるトリプレットが、1個のアミノ酸を指定する対応関係が存在する。この関係は、遺伝暗号、遺伝コード(genetic code)等と呼ばれる。
フッサールの「生活世界」論に関する基本書、お勧めできる本があれば教えてください。なにはともあれ、まずはネタ元である『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を読んでいただくのがよいと思いますが、少し量が多いですね(文庫本で553頁)。まるごと一冊『危機』書を解説した本というのも幾つかあり、たとえば
ハーバーマスとルーマンの著作には、どちらにも「生活世界・技術・コミュニケーション」といった同じ言葉が出てきますが、意味も関係も ずいぶん違うようです。それぞれの関係はどうなっているのでしょうか。
「生活世界」をめぐるハーバーマスとルーマンの見解は、狙っているものが違いすぎるために、比較するのが非常に難しい、という話がありました。またハーバーマスは、ニューヨークでアルフレート・シュッツやその弟子たちに「生活世界」概念を教えてもらったという紹介がありました。実際、ハーバーマスの「生活世界」概念はシュッツからの影響が大きいように思います。しかしルーマンの書いたものを見ると、たとえば「レリヴァンス」の概念など、シュッツからの影響が伺えるようにも思いますが、その点どうなのでしょうか。
ルーマンがシュッツを比較的丁寧に読んでいた、というのは間違いないことです。が、こと「生活世界」論に関していえば、ルーマンにとってのシュッツは、ルーマンが参照した──フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティをはじめする──多くの現象学者のうちの一人であって、特別な重みは持たないようには思います。
とりとめもなく挙げていくのでよければ、シュッツ+ハバーマスとルーマンの生活世界論の違いということで指摘できることはたくさんありますが(難しいのは、それらを整理して提示し、トータルに見てどのような違いだと言えるのかを語ることです1)、私としては 、両者を隔てる顕著な特徴として、まず最初に、この点での両者の違いは明白なのですが、その違いの意味の方は はっきりしません。そして、特に社会学方面では「生活世界」という語は、シュッツやハーバーマスに関連付けて語られることが多く、そしてシュッツやハーバーマスに依拠する論者は──当然ながら──この点を取りあげない傾向があります。
なお、次の論文は、「生活世界と技術」をめぐるハーバーマスとルーマンのコントラストについて考えるときにも示唆的です。この論題に関心のある方には一読をお勧めします。ルーマンはフッサールをどういう経緯で読んでいたのでしょうか。ルーマンの著作に現象学がはっきりと登場するのは いつ頃からですか。
タイトル | 扱われているもの | |
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第一部 | 自然科学と精神科学の二元論 | 新カント派とウェーバー |
第二部 | 社会的行為の一般理論の方法論によせて | 行動主義と行動科学 (アーペル、チョムスキー、スキナー、パーソンズ&マートンなど) |
第三部 | 経験的-分析的な行為科学における意味理解の問題 | 解釈主義 (現象学的社会学とエスノメソドロジー、ウィトゲンシュタインとピーター・ウィンチ、ガダマー) |
第四部 | 現在に関する理論としての社会学 | 批判理論 |
「権力連鎖」とはどういうものでしょうか。
権力は政治システムの外でも働くものだ(=社会的権力)というお話がありましたが、だとすると、「政治システムにおいて・政治システムにとって権力はどのように働くものなのか」という議論とは別に、「各システムにとって権力はどのような機能を持つのか」という問いを問いを立てることができそうです。
「経済における権力」、「法における権力」、「教育における権力」といったものを比較する研究はできるでしょうか。