本書で取り組んだ課題は、「ジェンダー」という概念で指し示される現象を研究するための、ひとつの視点を設定することです。
この課題は大きく分けて以下のふたつの問いに答えることを目指すことで取り組まれています。
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A1-1: 性現象の「社会」性をめぐる問い
「ジェンダー」という概念は、私たち人間が「性別」という属性を持つ存在であること(このことに関わる現象をまとめて本書では性現象と読んでいます)の「社会的」な側面に光を当てるために用いられてきました。
では、このときの「社会的」とはいったいどういう意味なのでしょうか。また、どのような意味で理解されるべきなのでしょうか。
A1-2: 性現象の「不当」性をめぐる問い
A1-1 の問いは、実はジェンダー概念をめぐるもう一つの問いと密接に関わっています。
すなわち、性現象の評価についての問いです。フェミニズムが性現象の「社会」性が主張してきたのは、
その現象の中に「女性の抑圧」という「不当な」要素が含まれているという評価(価値判断)があってのことでした。
では、A1-1 の問いに答えることは、この「評価」をめぐる問いに対して、どのように関わることになるのでしょうか。
A2-1
A1-1 に示した問いに対して、ジェンダー概念のオーソドックスな理解のもとでは、性現象を形づくる原因に「社会的」な要素があるのだ、という答えが与えられます。そこでは「社会的」ということの意味は「後天的」ということとあまり変わりがありません。それに対して本書では、そもそも因果説明の対象となる性現象の同定には、人間の行為やアイデンティティについての理解が含まれるということの重要性を強調しました。人間の行為やアイデンティティには無数の記述可能性があり、それらをどう理解するかということは、それ自体法的・政治的・道徳的実践の中で決まり、争われるものであるという意味で「社会」的な特徴を持っています。それゆえ、性現象の「社会」性は、その因果説明の水準だけでなく、理解可能性の水準で捉えることもできるのです。
行為の理解について上記の点が端的に書かれているのは
1章の p. 29 です。ちなみに
2章 と
3章 は、その視点がそれなりに社会学方法論に根ざしたものであることを示す作業にあてられています。そして、上のような意味での性現象の「社会」性は、社会成員の携わるさまざまな実践を記述することによってしか光を当てることができません。本書の
II部 では、行為の理解だけでなくアイデンティティや意思の理解について、そうした実践を記述する試みになっています。
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A2-2
A2-1 は、性現象の成り立ちについての事実的な主張です。それゆえ、そこから性現象の「不当」性について、何か積極的な規範的主張が出てくるわけではありません。けれど、性現象の理解可能性を明らかにすることは、それが「なぜ」悪いと言われてきたのかというその「理由」を詳らかにするために役立ちます。「不当」性の経験もまた、行為やアイデンティティの理解と結びついて生じているものだからです。とりわけ、フェミニズムが(自由や平等といった)リベラリズムの語彙を用いつつリベラリズムを批判してきた歴史を考えるとき、このことは重要になります。本書では、フェミニズムが「不当」だと訴えてきた現象が、「性的自由」「表現の自由」といったリベラルな諸概念のもとで生じる様子を記述しました。
「性的自由」については 5章 p. 212、6章 p. 240、「表現の自由」については 7章pp. 278-280 に結論的記述があります。
「ジェンダー」概念の難しさ
「ジェンダー」という概念には独特の込み入った事情があります。一方でそれは「セックス」と対になる概念として
- (1)性現象には(生物学的ではない)「社会的」な側面があるのだ
という主張のために使われてきました。一般に「社会的・文化的性差」と言われるときの用法がその典型です。そこでは性差の「原因」が議論の焦点になります。
他方でそれは
- (2)この社会で女性が置かれている状況は「悪い」ものであり、それは「社会的」であるがゆえに変えられるものなのだ
という主張のためにも使われてきました。この場合、議論の焦点は女性が置かれている「悪い」状況とその変革です。
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けれど(1)と(2)の関係はそれほど単純ではありません。当たり前のことですが、性差に「社会的・文化的原因」があるとして、そのこと自体は当該の性差が「悪い」ものであることを意味しません。だから本当のことを言えば、(1)の意味でジェンダー概念を使うことによっては、この社会で女性と男性が異なった状況に置かれていることの「悪さ」を考察することはできないし、それゆえその状況を「変革すべき」という主張を導くこともできないのです。
にもかかわらずジェンダー概念が(1)と(2)の両方の側面を含みながら使われてきたのは、「女は/男は生物学的に○○なのだから、××すべきだ(××してよい)」という主張に対抗しなければならない位置にフェミニズムが置かれてきたという事情によります。だから(1)と(2)が上手く繋がらないままにジェンダー概念が使われてきたことの責任がすべてその概念を使ってきた側にあるわけではないのですが、それでも(1)と(2)の間に距離があるままにジェンダー概念が使われてきたことは確かなことです。
「セックスもジェンダー」?
こうした事情は、90年代以降ポストモダン・フェミニズムと呼ばれる潮流によってジェンダー概念が少し異なった意味で使われるようになってからも、基本的にはあまり変わっていません。「セックスはつねにすでにジェンダーなのである」というJ. バトラーの有名な言葉が端的に示しているように、そこでは「ジェンダー」は「セックス」と対になる(1)の意味では用いられていません。
ではどういう意味で用いられているのか、というのはなかなか理解するのが難しいですが、ひどく単純化して言えば、生物学的知識を含む、性別にかかわる知識のありようが、歴史的・文化的な制約のもとで成立している、というような事態を指して用いられることが多いように思います。
けれど、性別にかかわる知識がこのような意味で「社会的」であると言ったからといって、それが間違ったものになるわけでもなければ、「悪い」ものになるわけでもないという点は変わりありません。何よりこのような、およそあらゆる知識にあてはまるような意味で「社会的」という言葉を使っても、それは当たり前すぎて、少なくともそのままでは、個々の現象を分析するための役には立たないでしょう。
では結局のところ、性現象の「社会」性について考えることは、フェミニズムが訴えてきた女性の状況の「悪さ」を考察することにとって必要のないことであり、そうした規範的考察とは独立に進められるべきものなのでしょうか。
実践の記述:本書の視点
本書は、A2 に示したような視点から、上の問いに否定的に答えようとしています。本書の中心にあるのは、エスノメソドロジー/会話分析でいうところの「レリヴァンス(関連性)の問題」、あるいはルーマンシステム論でいうところの「システム準拠」という考えです。
第一に、私たちが男性として/女性として生活しているのは、当然ですが、この社会の中でのことです。そしてその社会生活の中で私たちが帯びるアイデンティティは、「性別」だけではありません。つまり、私たちはつねに男性として/女性として行為しているわけではありません。では、いつどのようなときに、どのような仕方で、私たちは「男性として/女性として」行為したり経験したりするのでしょうか。行為の理解やアイデンティティの帰属にかかわるこの問いは、何よりもまず、社会成員自身にとっての問いです。
第二に、フェミニズムがその不当性を訴えてきた「女性の抑圧」という経験もまた、この社会の中で女性たちが経験してきたものです。そしてその経験は、ほかならぬ「女性として」の経験でもあるでしょう。
そうであるならば、ある現象がいかなる意味で「不当」なものとして経験されているのかを、その経験に即して詳らかにするということは、その現象においていかなる仕方で人びとが「男性として/女性として」行為したり経験したりしているのかをあきらかにすることでもあるはずではないでしょうか。
私たちが「男性として/女性として」生活していることと、そこで「女性の抑圧」という経験が生じていることは、いずれも人びとの実践の産物です。本書はその実践を描くことで、性別の「社会」性についての考察と、フェミニズムが訴えてきた事柄の「悪さ」の考察とを((1)と(2)の関係とは異なった仕方で)あらためて結びつけようとする試みです。もちろん決して十分なものとは言えませんが、「ジェンダー」という概念の持つ難しさにこうした視点から光が当たり、それを解きほぐす手がかりとなるなら、それは本書の意義となるでしょう。