- Q01 既存のルーマン研究と本日の報告の関係は
- Q02 「〈社会の理論〉シリーズから三冊」の前に読むべき本は
- Q03 ルーマンが述べているのは事象の研究ではなくて方法論なのか
- Q04 〈社会の理論〉シリーズ以前・以外の論考は、「下準備」の価値しか持たないのか
- Q05「トピックをバリエーションのもとで把握する」とは
- Q06 別の比較もいろいろ可能な中で 特定の比較をする妥当性は何処にあるのか
- Q07 第三部各巻の〈当該領域・対象領域〉とは何のことか
- Q08 ルーマンがやろうとしたことにとって比較は必須なのか。比較のどこがよいのか。
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- Q09 「社会学的DJ」とはどういうことか
- Q10 ルーマンはメディア論を得意としていたのか
- Q11 ある領域をどうしたら機能分化したとみなせるのか
- Q12 ルーマンは私領域を どう扱ったのか。
- Q13 社会の恋愛、社会の友人関係、社会の家族といった本を書く予定はあったのか
- Q14 ルーマンを援用した研究が難しいのはなぜか
- Q15 エスノメソドロジー研究とルーマン理論の間にはどのような関係があるのか
- Q16 ルーマンの社会システム論に固有のゲームとは何か
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Q01 日本でもルーマン研究がたくさんおこなわれてきましたが、それらと本日の報告の関係は どのようなものでしょうか
本日お話したような内容は、あまりにも基本的すぎて ふつうのアカデミックな文献のなかで わざわざ記されることが あまりないのではないかと思います。(その意味で、既存の研究との関係を云々するのは難しいです。)
しかし多くの新規参入者が まさにこうしたところで あっさりと躓き、
姿を消したり読むのを諦めたり(それならまだしも)、あらぬ方向に走りだしてしまったりするのを たくさん見て来ましたので、「市民向け講座」には こうした話題こそが相応しいのだろうと考えて・選んで持ってきた、という次第です。
Q02 「〈社会の理論〉シリーズから三冊」の前に読むべき本は?
今回の講義はルーマンのテキストを読むためのレクチャーでしたが、まだ直接ルーマンのテキストを読むにはハードルが高い層におすすめのサブテキストがありましたら、ご教示ください。長岡ルーマン本かなと思うのですが、こちらも大部ですので…。
リクエストは「ルーマン以外の人が書いたものを」ということですが、ここではルーマン自身の著作を選びます。
[S] 社会的なものの理論 と [G] 全体社会の理論
今回の話題提供では、ルーマンの議論のうち、もっぱら「〈社会の理論〉シリーズ第三部」だけに焦点を絞ってお話しました。話をややこしくしたくなかったので話さなかった、〈[S] 社会的なものの理論/[G] 全体社会の理論〉という区別について、ここで少しだけ追記しておきます。
ルーマンは「社会的システム」に、「
[対面的]相互作用」と「
組織」と「
全体社会」の三つ
1の類型を設定しています。この類型を使って表現すると、
- [S] 社会的なものの理論 とは、上記三類型すべてを含む、社会的なもの全般を含むもの──おおむね通常の社会学の範囲に等しいもの──であり、
- [G] 全体社会の理論 のほうは、[S] の中の一類型である「全体社会」を対象とするものである
という関係にあります。
〈社会の理論〉第三部で扱われる「機能システム」は、この三類型の中の「全体社会」の「下位システム」だということになっています。
ルーマンが自分の使命だと考え・もっとも力を注いだのは [G] であり、〈社会の理論〉は「シリーズ全体としては
2」この集大成であるわけですが、しかしこれはまた、「ルーマン社会学」にとっては「1トピック」にすぎないものでもあるわけです。言い換えると、ルーマンは「[G] のためにも [S] に関わる準備作業が必要だ」(〜社会理論のためには社会学が必要だ)と考えていたわけなのでした。
1 晩年には、ここに「社会運動」という類型を加えて「四つ」としている文献もあります。
2 講義内でも触れたように、〈社会の理論〉は以下の三部からなります:
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出版年 |
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タイトル |
第一部 |
一般理論の要綱 |
1984 |
上図の① |
社会的システムたち |
第二部 |
[全体]社会 |
1997 |
上図の② |
社会の社会 |
第三部 |
主要な機能システムの
モノグラフ |
1988-2002 |
上図の③ |
社会の経済、社会の科学、社会の法、社会の芸術、社会の政治、社会の宗教、社会の教育システム… |
このうち、
- 最も狭い意味での「[G] 全体社会の理論」に当たるのは「第二部:社会の社会」であり、
- 第一部と第三部は、その準備作業の位置にあります。そしてさらに、
- 第一部は([G] だけでなく)[S] も含んだ──という意味でも「一般」的な──議論になっています。
[S]+[G] への入門
さて。
こうした事情も含めて ルーマン理論全体の見通しを得るには、現在では、まずはルーマンの講義録を読むのがもっとも簡便でしょう:
講義録1が [S] を含む〈一般理論〉、講義録2が〈[G] 全体社会の理論〉に当ります。
この二冊を読んでから、あとは
を読んでしまえば、人類の ほとんどの方にとって「おつきあいはこのへんで」ということにしてよいのではないかとは思われるところです。
次に、さらに続けて、特に「ルーマン理論の本丸である〈全体社会の理論〉に相当するものを読んでみたい」という方のために。
特に [G] について
〈社会の理論〉のほうから初期・中期の著作を振り返ってみると、〈社会の理論〉のミニチュア版や準備稿といえるものが幾つかあることに気が付きます。つまり、
- [1] 特定の論題について、社会分化論の観点から論じたもの
- [2] 第三部の各モノグラフのミニチュア
の二つのどちらかに属するものです。
- [1] には、たとえば次のような著作があります:
『エコロジー』は、数ある著作の中でも特に、ルーマンの駄目なところだけを一冊にグッと凝縮したような本です。読んでいると ほんとうに死にたくなります。『基本権』のほうは、読みづらさでいえば「まだまし」なほうでしょう。
- [2] には、たとえば次のような著作があります:
このふたつでは、どちらかといえば『法』のほうが、より強く死にたくなる感じがします。
Q03 ルーマンが述べているのは事象の分析ではなくて方法論なのか
回答2で〈Sozialtheorie/ Gesellschaftstheorie〉という区別を導入したので、この質問には とりあえずは簡単に──「否」と──答えられます。積極的に述べれば:
- 〈社会の理論〉シリーズ(~Gesellschaftstheorie)の研究対象は、「[全体]社会 Gesellschaft」です。
- ルーマン社会学(~Sozialtheorie)の対象は、「Gesellschaft」だけではありません。
・・・と、ルーマン自身は述べているわけですが、それが実際のところどういうことなのかは そんなに判明なことではありません。
Q04 〈社会の理論〉シリーズ以前・以外の論考は、「下準備」の価値しか持たないのか
〈社会の理論〉シリーズ以外の、初期の具体的なテーマを持った著作は、独立の価値を持つのか、それとも〈社会の理論〉シリーズの下準備に過ぎなかったということなのか。比較的薄い初期の著作に取り組むよりも、分厚いけれども〈社会の理論〉シリーズにじっくりと取り組んだ方がよいのか。
30~40年に渡るひとりの研究者の関心が、「たった1つだけ」だというのは考えにくいので、それをもって答えにしてもよいのですが。
また、本を読むときに、著者の関心に即して読まなければならないこともないわけですし。
とはいえ、議論をその関心「たった一つだけ」に絞った場合でも、次のようには言えるでしょう。
上述の この↓事情から出発すると・・・
- ルーマンの最大の関心は、(とある目的1を果たすために)「全体社会の理論」を確立することにあった。
- ルーマンはそのために、「社会的なものの理論」(~社会学)が必要だと考えた。
- そして、自分でも(ちょっとは)取り組んだ。
以上を踏まえると、ご質問には、
- 〈社会の理論〉シリーズ以前・以外の論考は、〈社会の理論〉の下準備だった。
- それらは「下準備」という価値を持つ。
と答えるのがよいように思います。
「初期・中期と後期では、どっちから取り組んだほうがよいのか」はまた別の質問なので、それについてはまた改めて。
Q05 「トピックをバリエーションのもとで把握する」とはどういうことか
Q06 別の比較もいろいろ可能な中で 特定の比較をする妥当性は何処にあるのか。
今回お話するにあたって、「機能分析」についてどれくらい話すか、ということについて随分悩みました。結局、時間の制約を考えて、
- 機能分析についての解説はしない。
- 代わりに、報告全体を機能分析のデモンストレーションとしておこなう。
ということにしたのですが、この講義だけで「機能分析」が何であるかをつかむのは難しかったですよね。
Q05 「トピックをバリエーションのもとで把握する」とはどういうことか
おおまかにいうと、ルーマンが「機能分析」と呼んでいるものの出発点となるのは下の「図解」に記したような手続きです*。
図解: だいたい30秒くらいでわかる「機能分析」
step 0 |
- 与えられた(or 検討したい)或るものT について、
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step 1 |
- それが「どんな課題を解決しているものなのか」を考える。
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step 2 |
- ふつうたいていの問題には複数の解き方があるから、目下の参照問題についても「他にどんなやり方で解けるか」を考える。
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step 3 |
- すると、複数の「問題解決策」を要素とする集合【系列①】を得る。
- 【系列①】の要素それぞれを、「参照問題Πに対する【機能的等価物】」と呼ぶ。
- また 参照問題Πは、機能的等価物の間の比較をする際の「【比較観点】を与えている」と表現できる。
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step 4 |
- ところで、ふつう 或る問題を・或る特定のやり方で解くと、そのやり方に特有の派生問題が生じる。
- そこで、機能的等価物それぞれについて派生問題を考えてやると、
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step 5 |
- 複数の「解決策-派生問題」ペアからなる集合【系列②】を得る。
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で。
配布資料の
「特定のトピックを、特定のバリエーションのもとで把握する」という表現は、この図解でいうと、
- 「特定のトピックT を、特定のバリエーション【系列①】の中で把握する」とか、
- 「特定のトピックT を、特定のバリエーション【系列②】の中で把握する」とか
に相当することを述べようとしたものでした。
* 機能分析そのもののミニマムは「step 3」までですが、ルーマンはここに 特定の前提──「システム理論」──を追加して、step 5 までを一緒に行います。
Q06 別の比較もいろいろ可能な中で 特定の比較をする妥当性は何処にあるのか
まず、上のような「探索」のステップそのものは──なにしろ「探索法」ですから──「妥当性」を云々するような事柄ではありません。
したがって、なにはともあれ質問に簡潔に答えれば、「どこにもない」が答えとなりましょう。
議論が まとも なものかどうかを云々できるのは、特定の対象を選んでこれを実行して得た命題・推論に対してです。
講義で取り上げた例[下表]
──『社会の科学』第8章「進化」VIII──でいうと:
Q1 |
人々は、さまざまな機能領域における やり取りへと どのような仕方で参加するのか? |
A1 |
非対称的で相補的な役割をまとってだ。 |
Q2 |
しかし科学においては参加役割は「非対称的」ではないのではないか? |
A2 |
そうだ。 |
Q3 |
なぜ? |
A3 |
その理由の一つとしては、「真理」というものが(発信者にとってだけでなく)受信者にとってもまた体験可能でなければならないことが挙げられるのではないか。 |
ここで たとえば、
- 一方では、そもそも 表の Q1、Q2、Q3 を提供しているのは、社会学的な議論なのですから、そのまともさは──ふつうに「社会学の問い」として──検討できるものでしょう。
- 他方ではまた、上のような議論で 与えられている表の回答 A1~A3 それぞれについて、またここに見られる推論のすべてのステップについて、その まともさは それぞれ検討できるでしょう。
したがって、おなじ問いに別の仕方で答えると、「社会学的参照問題(のもとにおける比較)のまともさは、社会学的に検討されることができる(し、そうすることしかできないし、そうすべきである)」と答えるのがよいように思います。
Q07 第三部各巻の「当該領域・対象領域」とは何のことか
「領域」というのが何なのかがよくわかりません(誰から見たものなのか)。領域=学問分野のことなのか。社会学から見たときの一般的な対象領域のことなのでしょうか。
「領域」という語は、私が 配布資料の 図2a で使用したものでした(「対象領域の先行研究」)。
ここでは、『社会の経済』にとっての「経済(に関する先行研究)」、『社会の法』にとっての「法(に関する先行研究)」などを指すために使っています。ルーマンの術語ではありません(ただしルーマン自身も使うことはあります)。
機能分化論は、「社会的分業」という表象に乗っかって・それを改訂しようとするものです。つまりそれは、「P:今日の社会では、様々な機能領域による分業体制が成立している」という社会表象から出発しているわけですが、P自体 は、今日では(学問的というよりは むしろ)常識に属する主張でしょう。
これについて、「どのような機能領域にわかれているのか」とか、「どの程度どのような協力体制あるいは依存関係が、あるいはまた自律性があるのか」といった点については、論者によって 見解が分かれるかもしれません。しかし、P について見解が割れることはないでしょう。
そして、図中の「領域」という言葉も、その通念に乗っかるかたちで──したがって、常識的な言葉遣いにおけるそれとして──使っています。
というわけなので、質問に明示的に答えておくと、たとえば『社会の経済』にとっての「対象領域のトピック」というのは、「「経済的な活動」というときに──
常識的*に考えて──そこに含まれる事柄」、「経済活動を話題にする時に、ふつう経済学者が そこに含めるトピック」というほどのことを指します。
ここで私が──ルーマンとは異なり──「システム」という言葉を使わないで議論を始めていることには 強い積極的な理由があるのですが、その議論は「入門編」を超えてしまうので、この回答はここまでにしておきます。
* ここには「各領域にかかわる学問における常識」も含みます。
Q08 ルーマンがやろうとしたことにとって比較は必須なのか。比較のどこがよいのか。
この講義によると、『社会の理論』という著作群が 全体として やっているのは、「人が社会について様々に語る」という活動を、その語る活動が属する もともとの実践の連関(=社会的システム)に差し戻して概念把握する(ことによって相対化する)」という作業だということでした。この作業は、比較しないとできないことなのでしょうか。あるいは比較したほうがよいのだとすれば、それはどういう点なのでしょうか。
ルーマンは 比較は必須だと考えていたのではないかと想像します(なにしろ、彼はそれ以外にやり方を持っていなかったのですから)。
他方、私自身は「比較しないとできない」ことではないと思います。
なにしろ、すでにエスノメソドロジー研究による膨大な研究例を知っていますので。
ここにルーマンの弱点の1つが現れていて、掘り下げると面白い論点ではないかと思っています。(だが掘り下げない。)
Q09 「社会学的DJ」とはどういうことか
ルーマンというのは、
「“この分野では、これが大事な本だよ” と言いながら──その中のトピックは「触り」くらいにしか教えてくれないまま──、次々と大量の書籍を紹介してくれる」という感じの(困った)本を書く人だ、というような意味でした。
DJは ふつう一曲単位で曲を聞かせてくれますが、ルーマンの場合はそんな感じですらない──リフを ほんのちょっとだけ聞かせてくれる程度な──ので、その意味ではあまりよい擬えではないかもしれません。なにしろ私たちは、DJのプレイを聴いていて、ふつうは「困る」ことはないですからね。
Q10 ルーマンはメディア論を得意としたのでしょうか?
ルーマンにはメディア論のテキストもあり、国内外の様々なメディア論の研究者がルーマン理論を用いています。酒井さんからご覧になって、ルーマンはメディア論を得意としたのでしょうか?(「ルーマンは法学部卒だから、法が得意だ」などと同じ文脈において)
ルーマンがメディア論を特別に得意とした とか、マスメディア関係の著作*が 他の著作に比べて特によいところがある とは私は思いません。他方、「国内外の様々なメディア論の研究者がルーマン理論を用いて」いるという話は確かに私も伝え聞いており、気にはなっています。というのは、「他の様々な領域でも それなりにルーマンを参照した研究が多少は行われている」ということが起きているのであればいざしらず、そういうことがない中で、とりわけいくつかの領域に限定的に ルーマンへの参照が起きている ということは、これ自体 分析が必要な事柄であるように思われるからです。
具体的には『マスメディアのリアリティ』(
1995→
2005)のことが念頭に置かれているのでしょう。
ここで少なくとも、次の2つのことは考えてみてよいように思われます。
一方では。
ここには マスメディア研究・メディア論の側に何か特殊な事情があるのかもしれません。つまり、基本的に実学志向の・技術学的な研究領域で、ときに 無駄に抽象的な「理論」が 自分たちの普段の仕事とほとんど関係のないやり方で・部分的かつ形式的に召喚される、というのはよくみられることですが、メディア研究にもそういうことがあるのではないか、・・・というような。(これは、気にはなっているのですが、確かめるまでには至っていません。)
他方では。
後期ルーマンのターミノロジーにおける「メディア」概念の地位上昇ということも、この件に関係しているかもしれません。ある時期以降ルーマンは〈形式/メディア〉という区別を基礎概念として使いはじめるようになりました。これは、〈実現している 要素の結合/結合可能な要素の集合〉というくらいのことを指す ウルトラに抽象的な概念=区別ですが、
- これによってルーマンは、「意味」、「コミュニケーション・メディア」、〈システム/環境〉などなどといった それまで使ってきた様々な・もっとも基本的な術語群を、統一的に関係づけて使うことができるようになりました1。
- このことは、〈メディア/形式〉区別が
術語体系
の最基層に属する──術語の重要性という点では最上位に位置する──ものとなったことを意味します2。
こうした事情があるために、つまり、ルーマンがメディア概念を重用している理論家であるために──したがって、自分たちの研究にも何か新たな洞察を与えてくれるかもしれない、と期待して──メディア研究者の関心を惹いた、ということがあるのかもしれません。ここまでのところは、まぁそれはそれで(どうでも)よいのですが、ただ、こうした「言葉が同じなのでとりあえずアクセスしてみました」的な援用は──最近では、看護学の人が「care を基礎概念にしているハイデガーを参考にしてみました」というようなことをしていて、同様に気になるところですが──、それが知的に洗練されていない印象を与えることはさておくとしても、実際に よろしくない帰結を生じさせることが なくはありません。1つだけ、駄目な研究の例を紹介しておきましょう。
駄目な例
まず基本的なことを確認しておくと。術語体系上の階層関係は、存在者の階層関係を示すわけでもなければ、研究実践上の順序を指定するものでもありません。
そしてまた、ルーマンの場合、〈形式/メディア〉概念と〈システム/環境〉概念の 術語体系上の位置関係がどう変わったとしても、しかし、研究が「システムの作動を記述せよ」という大方針のもとにあることには変わりがありません。いいかえると、研究が、「そこで何が行われているのか/それは如何にして可能か」という問いにドライブされる形で行われるということには、
さらにしつこくパラフレーズすれば、
どんなXについてであれ、それは
- Xが然々であることは、どのような実践(の編み合わされ方)を可能にするのか
- Xは、どのような実践(の編み合わされ方)の中で呼び出され・どのように用いられるのか
というところに差し戻して・その中で検討せよ。
という方針のもとで行われることには、
変わりがありません。そしてこのことは、Xが「コミュニケーション・メディア」の場合であれ、「ヨットハーバー」や「活版印刷物」や「サッカーボール」や「基本権」の場合であれ、やはり変わりはないわけです。
というだけでなく、この方針=限定のもとでこそ、(その都度なんらかの)「メディア」について有意味に論じることが可能であるはずなのですが3。
ところが、この──後期ルーマンにおいて 術語体系における〈形式/メディア〉概念の重要性が著しく大きくなったという──事情を おかしな仕方で取り上げて、あらぬ方向に議論を進めてしまう論者がいます。たとえば次の著作が そうなのですが:
この著作では、
- 上で私が 概念体系上の事柄として捉えている事態を、存在者の規定に関わる・理論構成方針上の矛盾 だと捉えた上で、
- (「システム」ではなく)「メディア」概念のほうを優先する という方針が提示されています。
仮に
56億7千万歩ほど譲って、これが「理論上のオプション選択」に関わる・研究者の自由に任されることだと考えてみたとしましょう。その場合でも、
直前に記したように、ルーマンの場合は、「メディア」(であれ なんであれ、なにか)を研究する際の方針を「システム」概念が与えているわけですが、それと対比してみると、
著者は、「メディア要素を如何にして把握するか」という問いに答えるための、ルーマン──における「システムの作動を記述せよ」に相当する・それ──とは別の方針を与えることができなければならないはずです。が、そのことは、この著作では行われていないのでした。
そして、他の論文でも、他の著作でも、一向に行われる気配がありません。なぜそうなっているかというと──ここから先は私の想像ですが──、一方では、すでにそこにある基本的な研究方針を捨ててしまうことの重大さに気づいておらず、他方では、著者の研究が「現に実際に生じていることを 如何にして概念把握するのか」という問いにドライブされているものではないからなのでしょう4。
1 他にも例えば、『社会の経済』(
1988→
1991)では「組織」が〈形式/メディア〉区別のもとで論じられています。
2 念の為に書き添えておくと、術語体系上のこうした事情は初期にもありました。たとえば、初期ルーマンは〈システム/環境〉を「複雑性(の落差)」で定義しています。ということは──
その限りで──「複雑性」は 「システム」よりも 基礎的な概念として使われている、といえるでしょう。
3 「形式/メディア」概念は、「そのつど話題になっている或るものの メディア要素がなんであるか」に応じて、(意味やシステムやコミュニケーション・メディアや組織など)様々なものに対して用いることができます(その意味で、「システム」概念よりも抽象度の高い概念です)。しかし、「目下検討対象となっているものの メディア要素がなんであるのか」は、「何がどのように使われているのか」──つまりシステムの作動──に注目することによってしか、云々することは できないわけです。
また、事情がこうである以上。上には あっさりと「メディアは後期ルーマンの術語の
最基層=
最上位にある」と記してしましましたが、これには留保が必要です。つまり、「メディア」が基礎概念であることは確かですが、しかし、それは「システム」概念と反照的な規定関係を持つわけなので、言いうるのはせいぜい「メディアは、システムなどを含む最基層の術語
グループに位置する」というくらいのことです。
ついでに述べれば、ルーマンの術語体系において、反照的な規定を免れるような仕方で・単独で 最基層的 な概念は、おそらくないのではないかと思います。「システム」がそうではないことは、既に見たとおりです。
4 ちなみに、「概念体系」と「存在者の階層」を混同しているこの著者が、あろうことかルーマンのことをヘーゲルに重ねあわせて批判している箇所は、この著作の中でも特に
あまりにも おもむきぶかすぎて 口を開けたまま 天を仰ぎたくなるような読みどころだと言えるでしょう。
Q11 ある領域をどうしたら機能分化したとみなせるのか
Q12 ルーマンは、一般に私領域と呼ばれる領域をどう扱ったのか
Q13 社会の恋愛、社会の友人関係、社会の家族といった本を書く予定はあったのか
Q13 社会の恋愛、社会の友人関係、社会の家族といった本を書く予定はあったのか
当日は、Q13 についてのみ「知らない」とお答えしました。
ここでついでに述べておくと、私は ルーマンの「機能分化論」について真面目に考えてみたことがないですし1、これらの質問に対する回答も持っておりません。ただ、「知らない」「分からない」にも様々なあり方・理由があるので、以下では、その幾つかについて記すことで、回答の代わりとさせてください。
Q11 ある領域をどうしたら機能分化したとみなせるのか
ルーマンが「機能システム」について、「定義的」に──必要十分条件を挙げて──云々しているところを見たことが 私にはありません。
確かに たとえば それは象徴的に一般化したコミュニケーション・メディア、バイナリーコード、特定機能への集中などを備えたものであり
云々と述べられることはありますが、そうした主張が出てくるときには たいてい併せてこれらすべては備えていない(or 備えているかどうかあやしい)機能システムもあり
、などと付記されることが多いわけです。ということはつまり「機能システム」は、それらによって「定義」されているわけではない、ということなのだと思いますが、ではなんなのか、といえば──上述のとおり なにしろ考えたことがないですし──分かりません2。
それはそれとして。
Q11~Q13の質問を受けてちょっと心配になったことがあります。Q02 への回答に記したように、この講義では、〈[S] 社会的なものの理論/[G] 全体社会の理論〉という区別を紹介しませんでした(いまは反省しています)。そのせいで、
- 「ルーマン社会学」とは つまり [G] のことであり、
- その具体的な姿はつまり「社会の理論」シリーズである。
といった印象が生じてしまったかもしれません。 ──そして、そうであるが故に、「そこに入るかどうか よくわからないものについて問い尋ねてみなければならない」と質問者は考えたのかもしれません。
もしも 質問Q11~12 が そうした性質のものであったとしたら、それは〈 [S] / [G] 〉について紹介しておきさえすれば、出て来なかったものでありましょう(ということはつまり、ここまで読んでしまったあとでは、質問はすでに「消滅」していることでしょう)。
それはそれとしてしかし。
このように「解消」されれば話が済むかというと、そうでもないのです。したがって、もう少しだけ追記しておくと、
Q12 ルーマンは、一般に私領域と呼ばれる領域をどう扱ったのか
このように問われるときには、ひょっとすると──と、あまり私のほうで想像をたくましくするのもよくないので、その場でこちらからその点を確認すればよかったですが──、次のような推論が働いていたのかもしれません。つまり、
- ルーマンが「社会の理論」シリーズ(の特に第3部)で扱ったのは、「公的領域」に属する事柄だろう。
- それでは、「私的領域」に属する事柄はどうなるのか、云々。
もしも、このような前提があって Q12 が出てきたのだとしたら、まず最初に、
- 〈公/私〉という区別が、まずはなにしろ法-政治(学)的なものであり
- のちには経済(学)的なものであった
ことを想起していただかなければなりません。(それが意味するのは、つまりこの区別は、なにしろ「社会の理論」シリーズの「なかで」扱うべきトピック「でもある」のであって、そうであるからには「社会の理論」シリーズを〈公/私〉区別のどちらか一方だけに位置づけることはできない、ということです
3。)
1 社会学研究一般にとって、この論題がそれほど重要であると思ったことが 私にはないのですが、しかし重大な足枷になりうるとは考えています。
2 というわけで、「定義」を真面目に探したこともないので、「定義はされていない」と自信をもって述べることもできないのですが。
3 そして、この「おなじ」区別を 法学者と政治学者と経済学者が「別様に」用いることを想起していただければ、この区別が──社会学的記述や分析に そのまま使えるものであるというよりは、その前に──それ自体、社会学的分析を要するものであることも直観的にわかるでしょう。
若干の情報提供
それもそれとしまして。
この話題については、さらに次のような論点について考えてみてよいだろうと思います。
- ルーマンは、「機能システムと家族」についてどう述べたか。
- ルーマンは、「家族」について何を書いたか。
- ルーマンは、(60年代)当時の社会学の状況に鑑みて、社会学が何を不得意としており、どんな事柄をこそ(自分が)研究すべきだと考えていたか。
-
以下、これらについて(いつかそのうちに)書いてみることにします。が、質問をいただいて(少しだけ)考えてみたところ、こまったことに、これらの情報を総合しても、もっともらしい「一つの回答」描像が浮かんで来ません。以下はそういうたぐいの「情報提供」です。
Q13a ルーマンは、「機能システムと家族」についてどう述べたか
Q13b ルーマンは、「家族」について何を書いたか
(「家族システム論」のレビュー論文について。)
Q13c ルーマンは、どんな事柄を 他ならぬ自分こそが取り組まなければならないものだと考えていたか
(『法社会学』(1972)の序論から。)
Q14 ルーマンを援用した研究が難しいのはなぜか
この質問への回答は「入門」レベルを超えています。
一方では、この質問への回答を これまでのところ(私も含め)誰も持っていないのではないかと思いますし、他方では、あまり深く考えずに挙げていってよければ 「使えない・使うのが難しい理由」はたくさん挙げていくことができます。前者についていえば、これが、誰かの研究成果物を、他の誰かが【使う】というのは そもそもどういうことでありうるのか1
を考えなければならないような問題であることを意味しているでしょうし、後者についていえば 数限りない「使えない」理由のうちの しかしどれが(どういう意味で)決定的なのかわからないということでしょう。結局この両者は同じ事ところに帰着するのだと思います。
といった事情はありながら、ここでは、講義で触れたことから辿れる範囲内に限定したうえで、事柄をいちおうは「ルーマン側の問題」と「利用者側の問題」に腑分けすることを目指しつつ──まぁしばしば分けられはしないのですが──、思いついたことを思いついた順に いくつか記してみましょう。
利用者側の問題
ルーマン側の問題
1 そしてここには、「ルーマンの議論は、そもそも「使える」ように作られているものなのかどうか」という問いも含まれているでしょう。
Q15 エスノメソドロジー研究とルーマン理論の間にはどのような関係があるのか
この質問も「入門」を超えています1。とりあえずは文献の提示でもってお答えに代えさせてください。とはいえ、ご質問に対する私自身の見解は 次の論文集の「おわりに」に概略を記してあります:
[A] の準備を進める中で・この論文集のために、方法論的な自家了解のために書いた論文がこちらです:
- [B] 酒井泰斗・小宮友根(2007)「社会システムの経験的記述とはいかなることか——意味秩序としての相互行為を例に——」(ソシオロゴス 31)
また、[A] の5章「〈被害〉の経験と〈自由〉の概念のレリヴァンス」 と [B] は、その後 改稿されて次の著作に収録されています:
というわけなので、
- [A](エスノメソドロジーの研究論文集) と [B](研究方法論のための論文)を──そしてまた [C] を──セットで読んでいただいたうえで、
- 講義でいくつか提示した「ルーマンが課題としたもの」・「ルーマンの読者にとって課題となるもの」を、「比較観点」として用いながら、これらとルーマンのテクストを比較していただければ
- つまり、ここでもやはり 似ていないもの比較2 を行っていただければ、
議論の出発点には立っていただくことができるはずです。(また「どんな発想のもとで・具体的には どんなアウトプットがでてくるか」についても把握していただけるでしょう。)
なお、エスノメソドロジーについては、[A] の前に、次の教科書も出版していますので、こちらも参考にしてください:
この教科書の冒頭に付した「エスノメソドロジー概念地図」は、エスノメソドロジー研究が「反照的規定の展開」として──つまり、「すなわち」という関係をたどっていくことによって──遂行されることを示しています3。
1 この回答を理解するためには、ルーマンの議論とエスノメソドロジー研究双方を質問者が知っている必要がありますので。
2 上記「おわりに」に記したように、この論文集は、もとはといえば、出版社からいただいた「ルーマンについての単著を書け」という課題に対する 私からの「代替的回答」でした。
3 そしてこの点は、エスノメソドロジー研究とルーマンのテクストを、その 実際の 具体的な 陳述上・作業上の形式において 比較する際の、抽象度のやや低い比較ポイントとして使えるはずです。
Q16 ルーマンの社会システム論に固有のゲームとは何か
『社会の理論』は、個別領域の具体的な問題に取り組んでいるのではなく、それについて人々がどのように語っているかについての別のゲームをしているという お話がありました。
しかし、「経済」に対する「経済学」や、「法」に対する「法学」はそういうものではないのでしょうか。これら「経済学」「法学」に対する上記「社会学」の固有のゲームとはなんでしょうか?
まず訂正から。
「人々は社会についてどのように語ってきたか」というのは、『社会の理論』全体のテーマではなくて、このシリーズの第二部
(『社会の社会』)のテーマです。
「社会的システム」というのは、「人々がしていること-からなるシステム」のことであり、「語る」こと──そしてまた「語ることによって何かをする」こと──も「する」ことなのですから、社会システムの要素となりうるものです。が、「する」ことのすべてが「語る」ことにであるわけではありませんよね。
Q8における定式化を再利用すると、『社会の理論』は、全体としては、
- [TG] 人々が何かについて様々に行っている活動を、その活動が属する実践の連関(=社会的システム)に差し戻して概念把握する(ことによって相対化する)
という仕事をしており、『社会の社会』は、そのうちの
- [GG] 人々は社会についてどのように語ってきたか
のカタログ的な例示を担当している巻だということです。
ところで、[TG] が、「経済学」や「法学」とは異なるゲームであることは自明だと思いますので、まずはこれが、質問に対する解答になるはずです。
他方、
「個別領域の具体的な問題に取り組んでいるのではなく」
のところは、『社会の法』(1993)第8章「論証」I-II節における、法哲学の実践哲学的論証理論に対置して ルーマンが自らの社会学的な仕事の位置をのべたところ(の酒井による要約)を受けて出てきたものでしょう。ここでは、法哲学的・実践哲学的論証理論が 法的判断・法的論証の「よさ」にコミットするのに対し、「法実践の社会システム論的な記述」がそれにコミットしない、という対比が述べられていました。
これが「違い」としてイメージ出来ないのは、両者の具体的な議論をご存じないからではないかと思うので、そこは両者を勉強していただくしかありません。
ともかくもこれについて大雑把な定式化をするとすれば、
- ルーマンは、個別の局所的な社会秩序について、それぞれに特有な合理性の特徴を把握しようとしている
わけで、こうした関心の持ち方は、それぞれの領域に存在する学の関心・課題とは異なるものでしょう。
ただ、いずれにしても、「特定の領域における実践-に対する学問的反省(、定式化、把握)」と「特定の領域についての社会システム論的記述」を、それだけ取り出して比較していると、違いが把握しにくいだろうな、とは思います。
これは単に、『社会の理論』の第三部の諸著作を、どれか1つだけ取り出して独立のものとして読んでしまうことから生じる問題でしかないので、ふつうにシリーズをシリーズとして読めばクリアされる事柄だと思います。
『社会の理論』の第三部の諸著作を、どれか1つだけ取り出して独立のものとして読んでしまうことをやめれば、そこで得られる描像が、
- 様々な社会的現象の一つ一つは、膨大な数のシステムの共生起の効果である
というものであることに──したがってまた、「システム」という概念が、この複数性と重層性を述べるためにこそ必要とされているということに──気づくはずです。これは「経済-と-社会」とか「社会-と-芸術」のような──あるいはまた「芸術の経済的側面」とか、「科学の政治的側面」といったような──「社会」の把握の仕方とはまったく異なるものです。このこともまた、「ルーマンの社会システム論」に固有のゲームの特徴として挙げてよいものではないかと思います。(もちろん、ただ独りルーマンだけが、こうしたゲームをやってきたなどとはまったく思いませんが。)