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作成:20160421
更新:20170523
この頁には、2016年04月から06月に朝日カルチャーセンター新宿にて開催している「ルーマン解読3」講義における質疑応答などの一部を収録しています。 三谷武司さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。
概要 |
第一回講義(2016.04.20) |
第二回講義(2016.06.29) |
第三回講義(2016.07.20) |
1968年に刊行された本書では、ハーバート・サイモンの組織モデルをなぞる形で組織合理性の検討が行われています。しかし、どうしてこうした作業を行わなければならなかったのか判明には書かれていないため、この点に戸惑った読者は少なくないかもしれません。
晩年の著作シリーズ『社会の理論』の方から振り返って考えてみると、ここには、 ひとことで言えば目的合理性の正当化です。目的合理性に正当化が必要になったという判断が、その背景的前提です。目的合理性とは、特定目的の達成に対する手段選択としての適切さが行為の合理性の基準であるという考え方ですが、これは当該目的を実現すべきであるという判断の正しさが自明であれば合理性の基準としても自明です。しかしもはやそれが自明ではなく、かつそれが正しいことを学問的真理として「発見」するのも不可能であるというのがルーマンの出発点(より遥か手前の前提)です。目的設定の恣意性を前提とした上で、なおも目的合理的な決定様式を支持すべき学問的論拠を提供すること、そしてそのための前提を解明することが本書の課題です。
この目的を達成するための手段として(!)ルーマンが採用したのが機能分析です。機能分析による正当化は、対象を「本質」ではなく「働き」の面で特徴づけ、一旦その「働き」に関する代替可能性に道を開いた上で、現状における代替可能性の調達困難さをもって対象の正当化とするタイプの議論です。したがって、機能分析で得られる正当化は相対的、限定的、経験的なものとならざるを得ず、演繹的真理に到達することはありません。いずれにせよ、目的設定の(そして目的合理的判断の)機能分析を行うことが本書の操作的課題にあたります。
対象を「働き」の面で捉えるとは、対象を一定の問題に対する(複数ありうる中の)一個の解決として捉えるということです。このためには、その問題が生じ、複数の可能な解決の中から一個が選択される「場」を指示する概念が必要となりますが、その種の概念としてルーマンが提出するのが「行為システム」(社会的システム)です。目的設定の機能分析のためには、目的設定や目的概念に依拠しない形でこの「場」を用意してやる必要がありますから、この行為システムは(したがって行為概念は)目的概念に依拠しない形で定式化される必要があります。また目的合理性を相対化するためのメタ的な合理性基準を整備する必要もあります。このような意味で、行為システム概念の刷新と、それに適合するシステム合理性概念の定式化が、本書の課題を達成するための予備課題としての位置づけを得ます。
ルーマンはシステムの存立とそれを脅かす問題を複雑性概念(=可能性の過剰)によって捉えます。これにより、行為システムは膨大な行為可能性の中から秩序立った仕方で行為選択すなわち決定を産出し続けることで存立を維持するシステムと捉えられます。システム合理性も、このように捉えられたシステム存立への貢献を基準として抽象的に導入されます。
要するに、やみくもにどれか一つの可能性に飛びつくというのではなく、一定の秩序立った仕方で決定がなされうる程度に複雑性が縮減されることが重要なわけです。ルーマンは機能分析の対象としての目的設定を、目的合理的な行為選択基準=決定規則としての「目的プログラミング」として捉えた上で、過剰な複雑性の縮減を達成するという点で機能的に等価な「戦略」として、主観化、制度化、環境分化、システムの内的分化、構造の不定性の五つを特に挙げ、この全部を同時に可能にすることが目的プログラミングの機能だと言います。
原理的には機能の指摘によって機能的等価物との代替可能性が開かれますが、「五つを同時に」という条件がなかなか厳しく、機能的等価物はそうそう見つかりません。この代替困難さが目的プログラミングの機能的正当化を導くわけです。
他方、前述のとおり機能的正当化はあくまで相対的、限定的、経験的なものであって絶対ではなく、この条件を満たす機能的等価物も結局は見つかります。それが「条件プログラミング」です。両者の違いはシステム内での決定過程をアウトプット側で制御するのか(=目的)、インプット側で制御するのか(=条件)の違いです。機能分析の実力は、等価物同士の比較においてこそ真に発揮されるというのがルーマンの立場で、本書でも特に第四章末尾から第五章にかけて、この比較に基づいた目的プログラミングの特徴づけが詳細に展開されています。
この時期(1960年代)のルーマンの仕事には、かつては栄華を誇ったがいまや下克上でやられ気味、といった感じの概念に対して、まあまあそれなりの助け舟を出してやるという態度が明瞭に見てとれます。『公式組織の機能とその派生的問題』(1964年)の公式組織や、『制度としての基本権』(1965年)の基本権がまさにそうでしたが、本書(1968年)ではそれと同じ態度を目的合理性に対してとったわけです。いわば、「○○は絶対じゃない!」という批判に対して、「でも相対的にはそれなりにいいよね!」という支持を与える議論です。等価機能主義として再定式化された機能分析がこの「助け舟」の役割を果たしうるという発想が通底しています。
また基礎理論的な面では、行為システム概念を目的概念よりも先行させることで、特にタルコット・パーソンズが構築した、目的手段図式を基礎とする行為理論の枠組みからの脱却が図られています。
しかし最も大事なのは、終章で簡単に論じられている経験的研究と(実践寄りの)規範的研究の関係の問題です。ルーマンは両者の分立を歴史的前提とした上で、両者の断絶を経験的研究の側から架橋しようとしています。特定問題に枠付けられる機能分析の成果は、経験科学の知見であると同時に、参照問題の恣意的、一面的であるがゆえに実践の側に引き渡し可能であるという点で、実践的にとって有意義な複雑性の増大となりうる――これが、ルーマンに機能分析を採用させた最大の理由であり、彼が提唱する「社会学的啓蒙」とはこのことに他なりません。
1. 「システム合理性」の地位
2. 「システム合理性」の基準(定義)
3. 「システムの存立」の意義
4. 前史
4-1. 機能分析(等価機能主義)
4-2. 合理性論
4-3. 経験科学/規範科学の分断
5. 本書の構成(主なもの)
6. 「システム合理性」の観点で本書を読む際の注意点
7. その後の展開との関係
というお話がありました。配布資料だと、「4.前史」の「4-3.経験科学/規範科学の分断」の
- ルーマンは、経験科学/規範科学の分断状況を問題としてとらえ、それを システム理論と決定工学(決定理論)の連携というかたちで架橋しようという方向性を打ち出そうとした
というところです。
- システム理論による「解決不可能な問題」(システムの存立問題)の提供と、決定工学による「解決可能な問題」への変換および解決のプログラミング
しかし、たとえば邦訳の 238頁などをみると、システム理論の方には留保がないのに、決定理論の方には留保がついているように見えます。だとすると、先ほどのようなスッキリした話にはならないのではないでしょうか。
※参照箇所(ナンバリングは引用者)
[01] われわれはここで、[プログラミングの]分業による問題縮小の過程についてより詳しく論じておくことにしたい。そのための鍵となるのは、恒常的な問題と解決されうる問題との区別である。目的プログラミングによって制御される問題縮小が持つ意味は、二段階あるいはそれ以上の段階にわたって、恒常的な問題を解決されうる問題へと作り変えることにある。もちろんそうしたところで、システムの存続という恒常的なプロブレマティクが不要になるわけではない。だが代わりとなる問題を継続的に解決し続けることによって、存続をより広く考慮することが可能となるのである。
[02] 通常の場合、人間の行為の組織化に取り組む学は、記述的(経験的で説明を事とする)分野と、規制的(規範的、合理的)な分野とに分かれている。
[03] 経験的な分野、例えば社会学は、システム理論の立場に立つ限り、恒常的な問題という観念に依拠して作業を進める。システムが複雑な世界のなかで存続しようと試みる限り、その問題が課されることになる、とされるわけだ。存続が確保されるか否かは不確かであり、それゆえに常に問題として登場し続ける。システムがこの問題を一時的に克服しうる場合でも、問題自体が消滅するわけではない。というのは、問題の根源は存在と時間との緊張のうちにあるからだ。それゆえに、システム問題を最終的に片付けることができるのは、時間の流れだけである。時間の経過によってシステム問題が過去に属するものとなり、もはや取り扱うことができなくるのだから。
[04] これに対して規制的分野は一見したところ、決定理論へと向かっており、問題を解決するための計算をモデル化しようとしているように見える。だがこの分野における語彙のなかには、本当の問題というものが見当たらない。「問題解決」についてますます頻繁に語られるようになっているとしても、事態はおなじである。というのは、問題を解決する可能性が存在しているということが、あらかじめ想定されているからだ。それゆえにそれらの問題を同時に問題的なものとして(解決されえないものとして)も扱うことはできない。そうしようとすれば自己矛盾に陥らざるをえないだろう。結局のところこの分野においては、時間というものが考慮されていない。時間があらゆる問題を最終的に解決するということを無視しているからである。
[05] システム理論と決定理論における問題の概念は、それぞれ異なっている。だが二つを平行して展開することもできるし、併置しておくことも可能である。事実 現在、記述的アプローチと規制的アプローチという形で そのような事態が生じているのだ。確かにこのかたちを取れば、二つの問題概念が統一不可能だということに躓かなくてもすむ。しかし決定をくださねばならないシステムを扱う学にとっては、この解決策ではきわめて不十分である。というのは、対象を二つの統一され得ない相へと分割してしまうことになるからだ。だからこそ とりわけ組織科学は、解決され得ない問題を解決可能な問題へと変換しようと努めているのである。 (訳 237-239頁)
規範科学と経験科学が断絶していると何が問題だとルーマンは考えていたのでしょうか。
というお話がありました。しかしそうだとすると、この本の独自の論点というのは何なのでしょうか。
- 本書にはシステム合理性の基準が書かれておらず、それは他の著作に書かれている
- 「経験科学と規範科学の架橋」は60年代のルーマンの著作に共通に見られる課題である
この時期(1960年代)のルーマンの仕事には、かつては栄華を誇ったがいまや下克上でやられ気味、といった感じの概念に対して、まあまあそれなりの助け舟を出してやるという態度が明瞭に見てとれます。この、「それなりの擁護」という姿勢は、晩年まで含めたルーマンの基本姿勢であるように思います。たとえば『目的概念』と同じ年に刊行された『信頼』においても、
配布資料「7.その後の展開との関係」の三点目に、とあります。システム合理性というのはどういう対象について語りうるものなのでしょうか。 たとえば「ルーマン解読」をやっているこの教室で、三谷さんはマイクを持って こちら側を見て喋っていますが、これもこの講義を成り立たせる上で合理的に働いていると思います。こういうものもシステム合理性という言葉で語れるのでしょうか。
- 本書「日本語版序文」(1990)には「合理的なシステムとは、システムと環境の差異をシステムのうちに再導入するシステムである」と明確な規定がある(『社会的システム』(1984)にも同様の規定あり)。これに、本書の「合理化」論をすべて回収できるか。
「システム合理性」について語るためには、そのシステムがどのようなものであるのか分かっていないといけない、ということだとすると、「システム合理性」という概念は、「どこにシステムがあり、それはどのようなものなのか」を明らかにしようとする研究には使えない、ということでしょうか。そうだとすると経験的研究には非常に使いにくい、ということになりそうですが。
〈システム/環境〉と言われると、「環境はシステムの外部にある」というイメージを描いてしまうのですが、他方、配布資料の「3.「システムの存立」の定義」に、次のように言われています。しかし、心理学のモデルだと、「システムの内部にあるものも システム存立を脅かす源泉になる」といったものもあります。〈システム/環境〉についてイメージしづらいのですが、どのように考えればよいのでしょうか。
- 環境(外部)とシステム(内部)の複雑性(=とりうる状態の数)の差が維持されること(なんでも起こりうる/起こりうることが一定の範囲内に限定)
- 環境=システム存立を脅かす問題の絶えざる源泉
- 存立維持=そのような問題の絶えざる解決
本書の議論の前提となっている背景的知識と、本書の核となる4章の結論内容について確認しました。
[185] 以上の考察から導かれる根本的立場は、目的手段概念における伝統的思考と比べると、また解釈をこととする学の規範概念と比べても、大きく変化していることがわかるはずだ。われわれは今では、この変化を明確にし記述できるだけの素材を手元にもっている。この変化は、プログラム概念のうちに位置している。より正確にいうなら、プログラム概念を規範概念および目的概念の上に置くことのうちに、である。
伝統的観念においては | ルーマンの提案では | |
---|---|---|
価値・目的・規範は、 | 根本概念である。 | 決定プログラムの一種である。 |
行為の正しさに関わる。 | コミュニケーションの流れにも関わる。 | |
無時間的である。 | 情報を時間的に秩序化する。 (=コミュニケーションの流れにおける情報内容の変化過程を制御する構造プログラム) |
- まず第一章は、個別行為の水準での行為解釈が主題である。行為とは何らかの結果を引き起こす原因であるという解釈と、その解釈に基づいて、行為を目的合理的に制御するという発想が、どれほどの影響力をもってきたのかを確認する。それによって、批判対象の輪郭がはっきりしたところで、
- 第二章では、古典的組織論で目的概念がどう扱われてきたかを確認し、
- 第三章では、その克服をめざす様々なアプローチのうち、最も重要なものをいくつかとりあげる。
- この作業をとおして、目的設定をシステム理論のなかで扱うべきだという理由が、十分に諒解されるだろう。
- 他方で、基本的な考え方は確立していても、それに見合う理論がきちんと完成していないのも事実である。そこで、以上の議論を批判対象の紹介とみなすなら、ここまでは序盤であって、ここからが本番だ。
- 続く二つの章では、目的思想を行為理論からシステム理論へと移行する作業にとりかかる。
- なかでも、第四章は本書で最も重要な章である。この章では、社会的システム、その特殊事例としての組織において、目的指向というものが、
- どんな機能を担っているのか、
- 目的指向がその機能を担うために、システムの環境においてはどのような前提条件が必要なのか、
- 目的指向が引き起こす派生問題にはどんなものがあるのか、
- 目的指向を代替するような他の選択肢には何があるのか、といったことを、細かく論じていくことになる。
- 最後に、第五章では、そこまでで得られた知見を補強するために、組織が目的プログラムを備えた場合に生じる問題をいくつか扱うことにする。[三谷武司 訳]
- (1) 我々の出発点となっているシステム理論的アプローチを最小限の範囲で明らかにしなければならない。
- (2) それから、第一章の議論をシステム理論へと翻訳してみたい。
- 第一章では単独行為のレベルに狙いを定めて、行為の因果的解釈と目的/手段図式を取り扱ってきた。それをシステム理論に移すことによって、次の問への答えをも探ってみることにしよう。すなわり、行為が結果の実現として、あるいは目的に対する手段として解釈されるとき、それはシステムにとってどんな機能を担っているのだろうか。
- (3) 次の節では、この解釈の前提となる、環境及びシステム内部での一定条件(分化と一般化)を明らかにしたい。 その際、目的ですら定量として存在するものとはみなされえないことが明らかになる。目的は機能的パースペクティヴの中で、達成される必要があるものとしてとらえられる。つまりそれは目的「変数」なのである。
- (4) 目的は、さまざまな様式と方法で実現されうる。規定された形式を取ることもあるし、無規定なかたちになることもある。
- (5) そしてそこから生じる帰結については、多かれ少なかれ矛盾した判断がくだされるのだ。
- これと関連する問題を解明するために、続く二節が必要とされる。社会システムを目的プログラムにつなぎとめておくためには、いくつかの先行条件が必要である。またそこから独特の一面性と、一定の問題が派生してくることがわかる。4,5節ではこれらの点を明らかにしてみたい。
- 特定の問題解決に伴うこのような条件依存性と「逆機能的な結果」を解明してこそ、その解決と機能的等価物とを有意義に比較することができるのだ。
- (6) 最後の節ではこの比較が行われる。
- 言うまでもなく、比較によって地平が拡張される。そのなかで、次の問への答えを探し求めることが可能になるだろう。目的設定のオルターナティヴは存在するのだろうか。必要な場合に同じ機能を満たしうる他の装置としては、どんなものがあるのだろうか。[118頁]
節 | 頁数 | タイトル | |
0 | 5 | ||
1 | 6 | システム/環境理論 | |
2 | 17 | 目的機能 | 目的概念の機能に関する 組織システム論的な検討の開始 |
3 | 10 | 目的の特殊化、 環境分化、 問題解決の一般化されたメディア |
|
4 | 12 | 目的設定の規定度 |
4&5で問題の掘り起こし。 (例が出てくる節) |
5 | 6 | 目的設定の矛盾 | |
6 | 16 | 機能的等価物 | それをつかって6で比較。 |
「目的」概念の機能については 本日の講義で理解できましたが、それと「システム」との関係はどうなっているのでしょうか。一つの話としてうまく理解できません。また、それが分からないと、そもそも目的概念の機能を分析することの意義が分かりません。本日紹介した本書の中核的テーゼは、
「目的が縮減戦略を調整する」というのが具体的にはどういうことなのか イメージができませんでした。ルーマンが第四章で挙げた縮減戦略には、「a 主観化、b 制度化、c 環境分化、d 内部分化、e 構造の未規定性確保」の五つがありました。一方では、これらは互いに、
a 主観化 | 目的とは、未来の結果についての主観的な観念である。主観的だというのは、事実の経過についての予期だという意味だけではない。システム自身の力をどれくらい投入する価値があるのかを見定めるという点でも、主観的なのである。 |
---|---|
b 制度化 | 目的は行為の基礎として、あるいはその結果としても、制度化されうる。つまり、環境の側で直接的な当事者以外によって、承認され支持されうる。 |
c 環境分化 | 環境分化に適合するように目的を特殊化することができる。… |
d 内部分化 | 目的は内的分化の原理としてはたらく。[古典的組織学説] |
e 構造の未規定性確保 | 目的がもつ規定性の程度は可変的である。…。目的は、システムと環境のあいだのコンセンサスを特殊化するのに役立つ。 |
〈目的-手段〉図式と〈問題-解決〉図式の関係は?これは「目的による一般化 vs. 機会主義」のディレンマに関わって使った表現でした。
〈組織システム〉と〈機能システム〉の関係が分かりません。本書では両者の区別は為されているのでしょうか。為されているのだとすれば、もっとはっきり区別して論じるべきなのではないかと思うのですが。たとえば、「コミュニケーション・メディア」は機能システムに関わる論題であるのに対し、「目的」は組織に関わるものではないでしょうか。それが一緒くたに論じられてしまっているように思います。そうではありません。
たとえば 邦訳156頁には「政治システム、なかでも国家官僚制」とか「国家行政」といった言葉が出てきますし、邦訳157頁には「国家官僚制の外側で、しかし広い意味での政治システムの内部で」とか、「権力と世論を形成する政治過程」といった表現が見られます。これらはどういう関係にあるのでしょうか。言葉の使い方の約束としては、こうなっています*:
形式的な議論はこんなところですが、一つだけ例も挙げておきましょう。
- 「システム」は、「要素」と「要素のつながり方を制限するもの」(=構造)によって規定される。
- ルーマンは、社会システムの「要素」は、行為やコミュニケーションであると考えている。またそれは「出来事」からなるものだとされている。
- ルーマンは、社会システムの「構造」は、「意味」的な制限であると考えている。またそれは「出来事」ではない。(「予期」だと言われている。)
- そこで、行為やコミュニケーションの素材となる「出来事」について、
という事情が成り立つが、これはつまり、
- ある一つの出来事に対して、構造は複数成立しうる*
といったことを意味する
- 或る実空間における一つの出来事に対して、複数の社会システムが同時に成り立ちうる。
- 或る実空間内における 複数の出来事が 物理的に隣接・連接しているように(特定の観察者からは)見えるからといって、それらが一つの同じシステムに属するとは限らない。
* ここには、この制約が物理的なものではない(意味的なものである)ということが効いています。
これらはすべてごく常識的な事柄であって、驚くような内容は何も含まれていません(したがって、「理論的」に検討を要するような事柄も、ほぼ含まれていません)。 つまり、「一つの出来事の上に複数の社会システムがなりたつ」とか、「特定の実空間において複数のシステム過程が交錯しながら同時に進行する」というのは ごくノーマルかつ常識的な事柄を述べていて、当然ながら、ルーマンのテクストも そのようなものとして読めばよいのですが(というだけでなく、そう読まないと意味が取れないでしょうが)、そのように読まれていない例が余りにも沢山ありすぎて泣けてきます。などなど。
- 「審理」の中で生じる出来事には、
などなどがある。
- 「裁判所」にも「法システム」にも属するもの、
- 「法システム」には属するが、「裁判所」には属さないもの、
- 「裁判所」には属するが、「法システム」に属さないもの、
- 「裁判所」にも「法システム」にも属さないもの
- 「裁判所」では「裁判」だけをやっているわけではないし、「裁判所」という組織に属する全ての出来事が「法システム」に属するわけでもない。
- (裁判所で行われるソフトボール大会は、裁判所職員の親睦にとって──したがって、裁判所の円滑な活動にとって──非常に重要であるにも関わらず、法的活動ではない。)
- 「裁判所」に属する出来事には、また「法システム」と「経済システム」にも同時に属するものがある。
- したがって、「審理」や「裁判所」が「法システムの下位システムだ」と言うのは、簡略的な表現である。(つまりたとえば、『社会の法』で、「審理」や「裁判所」が取り上げられる時、そこでは、あくまで「審理」や「裁判所」のうちの、法システムに関わる側面だけが取り上げられている、ということ(あたりまえ)。)
なぜルーマンは、「目的」概念を取り上げたのでしょうか。動機や背景について教えて下さい。「講義のねらい」と「著作紹介」をご覧ください。
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