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作成:20160421
更新:20170523

酒井泰斗「ルーマン解読3:組織合理性の社会学─三谷武司さんと『目的概念とシステム合理性』を読む」
(2016年07月22日・06月29日・7月20日、朝日カルチャーセンター新宿)

この頁には、2016年04月から06月に朝日カルチャーセンター新宿にて開催している「ルーマン解読3」講義における質疑応答などの一部を収録しています。 三谷武司さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。

概要
第一回講義(2016.04.20)
  • Q1 規範科学の決定工学への移行
  • Q2 規範科学と経験科学の断絶
  • Q3 本書の独自の課題
  • Q4 システム合理性概念の適用対象
  • Q5 経験的研究への含意
  • Q6 環境とは
第二回講義(2016.06.29)
第三回講義(2016.07.20)
  • 講義概要
  • Q1 目的概念とシステム
  • Q2 目的と縮減戦略
  • Q3 目的-手段と問題-解決
  • Q4 組織と社会
  • Q5 目的を取り上げる意義

概要

「組織合理性の社会学」講義のねらい

  1968年に刊行された本書では、ハーバート・サイモンの組織モデルをなぞる形で組織合理性の検討が行われています。しかし、どうしてこうした作業を行わなければならなかったのか判明には書かれていないため、この点に戸惑った読者は少なくないかもしれません。

  晩年の著作シリーズ『社会の理論』の方から振り返って考えてみると、ここには、 という二つの事情があっただろうことが見えてきます。そこで本講義では、 という順序で、社会理論にとっての「合理性」概念の意義をルーマンがどのように捉えようとしていたのか考えてみたいと思います。

※講義では邦訳テクスト馬場靖雄・上村隆広 訳、1990年、勁草書房を使用します。お持ちでない方はお近くの公共図書館に購入リクエストを出してみてください。
ゲスト講師紹介
三谷武司(東京大学大学院情報学環准教授、翻訳家)
東京大学大学院人文社会系研究科単位取得満期退学。専門はルーマン研究。主な論文として
  • 「システム合理性の公共社会学――ルーマン理論の規範性」(盛山和夫・上野千鶴子・武川正吾(編),『公共社会学1 リスク・市民社会・公共性』,東京大学出版会,71-86頁,2012年)
  • 「システムが存立するとはいかなることか――ルーマン・システム理論の超越論的解釈に向けて」『思想』970,岩波書店,113-129頁,2005年)
など。主な訳書として など。

(三谷武司)
『目的概念とシステム合理性』紹介

Q0a1. 本書で ニクラス・ルーマンが 取り組んだのはどのような課題ですか。

  ひとことで言えば目的合理性の正当化です。目的合理性に正当化が必要になったという判断が、その背景的前提です。目的合理性とは、特定目的の達成に対する手段選択としての適切さが行為の合理性の基準であるという考え方ですが、これは当該目的を実現すべきであるという判断の正しさが自明であれば合理性の基準としても自明です。しかしもはやそれが自明ではなく、かつそれが正しいことを学問的真理として「発見」するのも不可能であるというのがルーマンの出発点(より遥か手前の前提)です。目的設定の恣意性を前提とした上で、なおも目的合理的な決定様式を支持すべき学問的論拠を提供すること、そしてそのための前提を解明することが本書の課題です。
  この目的を達成するための手段として(!)ルーマンが採用したのが機能分析です。機能分析による正当化は、対象を「本質」ではなく「働き」の面で特徴づけ、一旦その「働き」に関する代替可能性に道を開いた上で、現状における代替可能性の調達困難さをもって対象の正当化とするタイプの議論です。したがって、機能分析で得られる正当化は相対的、限定的、経験的なものとならざるを得ず、演繹的真理に到達することはありません。いずれにせよ、目的設定の(そして目的合理的判断の)機能分析を行うことが本書の操作的課題にあたります。
  対象を「働き」の面で捉えるとは、対象を一定の問題に対する(複数ありうる中の)一個の解決として捉えるということです。このためには、その問題が生じ、複数の可能な解決の中から一個が選択される「場」を指示する概念が必要となりますが、その種の概念としてルーマンが提出するのが「行為システム」(社会的システム)です。目的設定の機能分析のためには、目的設定や目的概念に依拠しない形でこの「場」を用意してやる必要がありますから、この行為システムは(したがって行為概念は)目的概念に依拠しない形で定式化される必要があります。また目的合理性を相対化するためのメタ的な合理性基準を整備する必要もあります。このような意味で、行為システム概念の刷新と、それに適合するシステム合理性概念の定式化が、本書の課題を達成するための予備課題としての位置づけを得ます。

Q0a2. それぞれの課題に対して、ルーマンが与えた回答はどのようなものですか。

 ルーマンはシステムの存立とそれを脅かす問題を複雑性概念(=可能性の過剰)によって捉えます。これにより、行為システムは膨大な行為可能性の中から秩序立った仕方で行為選択すなわち決定を産出し続けることで存立を維持するシステムと捉えられます。システム合理性も、このように捉えられたシステム存立への貢献を基準として抽象的に導入されます。
  要するに、やみくもにどれか一つの可能性に飛びつくというのではなく、一定の秩序立った仕方で決定がなされうる程度に複雑性が縮減されることが重要なわけです。ルーマンは機能分析の対象としての目的設定を、目的合理的な行為選択基準=決定規則としての「目的プログラミング」として捉えた上で、過剰な複雑性の縮減を達成するという点で機能的に等価な「戦略」として、主観化、制度化、環境分化、システムの内的分化、構造の不定性の五つを特に挙げ、この全部を同時に可能にすることが目的プログラミングの機能だと言います。
  原理的には機能の指摘によって機能的等価物との代替可能性が開かれますが、「五つを同時に」という条件がなかなか厳しく、機能的等価物はそうそう見つかりません。この代替困難さが目的プログラミングの機能的正当化を導くわけです。
  他方、前述のとおり機能的正当化はあくまで相対的、限定的、経験的なものであって絶対ではなく、この条件を満たす機能的等価物も結局は見つかります。それが「条件プログラミング」です。両者の違いはシステム内での決定過程をアウトプット側で制御するのか(=目的)、インプット側で制御するのか(=条件)の違いです。機能分析の実力は、等価物同士の比較においてこそ真に発揮されるというのがルーマンの立場で、本書でも特に第四章末尾から第五章にかけて、この比較に基づいた目的プログラミングの特徴づけが詳細に展開されています。

Q0a3. こうした課題に取り組むことにはどのような意義がありますか。

 この時期(1960年代)のルーマンの仕事には、かつては栄華を誇ったがいまや下克上でやられ気味、といった感じの概念に対して、まあまあそれなりの助け舟を出してやるという態度が明瞭に見てとれます。『公式組織の機能とその派生的問題』(1964年)の公式組織や、『制度としての基本権』(1965年)の基本権がまさにそうでしたが、本書(1968年)ではそれと同じ態度を目的合理性に対してとったわけです。いわば、「○○は絶対じゃない!」という批判に対して、「でも相対的にはそれなりにいいよね!」という支持を与える議論です。等価機能主義として再定式化された機能分析がこの「助け舟」の役割を果たしうるという発想が通底しています。
  また基礎理論的な面では、行為システム概念を目的概念よりも先行させることで、特にタルコット・パーソンズが構築した、目的手段図式を基礎とする行為理論の枠組みからの脱却が図られています。
  しかし最も大事なのは、終章で簡単に論じられている経験的研究と(実践寄りの)規範的研究の関係の問題です。ルーマンは両者の分立を歴史的前提とした上で、両者の断絶を経験的研究の側から架橋しようとしています。特定問題に枠付けられる機能分析の成果は、経験科学の知見であると同時に、参照問題の恣意的、一面的であるがゆえに実践の側に引き渡し可能であるという点で、実践的にとって有意義な複雑性の増大となりうる――これが、ルーマンに機能分析を採用させた最大の理由であり、彼が提唱する「社会学的啓蒙」とはこのことに他なりません。

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第一回講義(2016.04.20)

三谷講義 配布資料見出し

1. 「システム合理性」の地位
2. 「システム合理性」の基準(定義)
3. 「システムの存立」の意義
4. 前史
 4-1. 機能分析(等価機能主義)
 4-2. 合理性論
 4-3. 経験科学/規範科学の分断
5. 本書の構成(主なもの)
6. 「システム合理性」の観点で本書を読む際の注意点
7. その後の展開との関係

質疑応答.

Q1a01 規範科学の決定工学への移行?

というお話がありました。配布資料だと、「4.前史」の「4-3.経験科学/規範科学の分断」の というところです。
 しかし、たとえば邦訳の 238頁などをみると、システム理論の方には留保がないのに、決定理論の方には留保がついているように見えます。だとすると、先ほどのようなスッキリした話にはならないのではないでしょうか。

※参照箇所(ナンバリングは引用者)

[01] われわれはここで、[プログラミングの]分業による問題縮小の過程についてより詳しく論じておくことにしたい。そのための鍵となるのは、恒常的な問題と解決されうる問題との区別である。目的プログラミングによって制御される問題縮小が持つ意味は、二段階あるいはそれ以上の段階にわたって、恒常的な問題を解決されうる問題へと作り変えることにある。もちろんそうしたところで、システムの存続という恒常的なプロブレマティクが不要になるわけではない。だが代わりとなる問題を継続的に解決し続けることによって、存続をより広く考慮することが可能となるのである。
[02] 通常の場合、人間の行為の組織化に取り組む学は、記述的(経験的で説明を事とする)分野と、規制的(規範的、合理的)な分野とに分かれている。
[03] 経験的な分野、例えば社会学は、システム理論の立場に立つ限り、恒常的な問題という観念に依拠して作業を進める。システムが複雑な世界のなかで存続しようと試みる限り、その問題が課されることになる、とされるわけだ。存続が確保されるか否かは不確かであり、それゆえに常に問題として登場し続ける。システムがこの問題を一時的に克服しうる場合でも、問題自体が消滅するわけではない。というのは、問題の根源は存在と時間との緊張のうちにあるからだ。それゆえに、システム問題を最終的に片付けることができるのは、時間の流れだけである。時間の経過によってシステム問題が過去に属するものとなり、もはや取り扱うことができなくるのだから。
[04] これに対して規制的分野は一見したところ、決定理論へと向かっており、問題を解決するための計算をモデル化しようとしているように見える。だがこの分野における語彙のなかには、本当の問題というものが見当たらない。「問題解決」についてますます頻繁に語られるようになっているとしても、事態はおなじである。というのは、問題を解決する可能性が存在しているということが、あらかじめ想定されているからだ。それゆえにそれらの問題を同時に問題的なものとして(解決されえないものとして)も扱うことはできない。そうしようとすれば自己矛盾に陥らざるをえないだろう。結局のところこの分野においては、時間というものが考慮されていない。時間があらゆる問題を最終的に解決するということを無視しているからである。
[05] システム理論と決定理論における問題の概念は、それぞれ異なっている。だが二つを平行して展開することもできるし、併置しておくことも可能である。事実 現在、記述的アプローチと規制的アプローチという形で そのような事態が生じているのだ。確かにこのかたちを取れば、二つの問題概念が統一不可能だということに躓かなくてもすむ。しかし決定をくださねばならないシステムを扱う学にとっては、この解決策ではきわめて不十分である。というのは、対象を二つの統一され得ない相へと分割してしまうことになるからだ。だからこそ とりわけ組織科学は、解決され得ない問題を解決可能な問題へと変換しようと努めているのである。 (訳 237-239頁)
三谷
気になっているのは、「だがこの分野における語彙のなかには、本当の問題というものが見当たらない。」というところでしょうか。
質問者
はい。
三谷
ここは「問題」というものに関するルーマンの発想──「解決可能な問題・解き方の分かっている問題は、本当には問題ではない」という発想──がよく現れている箇所だと思います。そして引用文にある、決定工学には「本当の問題は見当たらない」というのは、むしろまさにルーマンの「システム論と決定工学の連携論」において想定された事態について述べています。つまり、連携論というのは、
  • 決定工学は解決可能な問題について、どうやったら解決できるかを教える。
  • 経験科学としてのシステム理論は、解けない問題を発見する。
  • システム理論は 発見した問題を決定工学に渡し、決定工学はそれを解決可能な問題へと変換して解く。
と想定しているので、「決定工学には本当の問題はない」と言われているわけです。
酒井
だからこの部分は、別に 決定工学に留保をつけているわけではない、ということですよね。ルーマンには、
  • 経験科学はシステム論へ、規範科学は決定工学へと変わっていっている、という社会科学全体の趨勢がある。
  • それを前提にして・その延長線上で、両者の連携を考えるのがよいだろう。
という発想があったわけですが、この箇所は、まさにそのヴィジョンを述べた箇所である、と。
三谷
60年代当時はそう思えた、という話ですが。
酒井
まだシステム論や社会学というものに夢と希望が持てた時代であった、と。
その後、実際には、社会科学は ルーマンが想定していたようには動かなかったわけですので、ここには、晩年にまでにわたるルーマン理論全体に関わる根本問題があると思います。つまり、1970年代が経過していくなかで、「規範科学は決定工学へ、経験科学はシステム理論へと それぞれ収斂する」というふうには社会科学は動かない、ということが判明してくるわけですが、それが分かった時にルーマンはその事態にどう対処したのか、という問題です。この点について、三谷さんはなにか見解を持っていますか。
三谷
その後のルーマンですか?
酒井
その後のルーマンです。
三谷
一方では、その後のルーマンは、こういう問題を扱わなくなっていきますよね。それがどういうことなのか よく分かりません。
他方で、「合理性」の概念については晩年に至るまで、その都度あらたな形に定式化し直そうとしています。しかも、1990年に書かれた 本書の日本語版序文では、後年のそうした議論が、68年当時のこの本の議論に直接つながっているかのような書き方をしているわけです。
ということは、この本に記されている「経験科学と規範科学の架橋」という課題の方も そうした議論につながっている「はず」なんですけれども、敷衍されていないので どう繋がるのか よく分からない。
酒井
つまり、
  • 「システム合理性」に関する議論が前期〜後期で首尾一貫しているとルーマンは述べているが、ほんとうにそうなのか・どういう意味でそうなのかよく分からない
  • 「経験科学と規範科学の連携」という60年代の課題が どの後どうなってしまったのか分からない
という二つの点でよく分からない、ということですね。この問題については、いま現在の研究水準を鑑みるに、誰も答えられないのではないですか?
三谷
そうでしょうね。むしろ誰も気にしていないように見えます。

Q1a02 「規範科学と経験科学の断絶」とは

規範科学と経験科学が断絶していると何が問題だとルーマンは考えていたのでしょうか。
三谷

Q1a03 本書の独自の課題は

というお話がありました。しかしそうだとすると、この本の独自の論点というのは何なのでしょうか。
三谷
  • 目的概念というものを──基礎概念として見なすことを拒否したうえで──正当化する。
というのが本書の独自の課題です。この課題に対して、
  • 目的プログラムが合理的に働くための条件は 社会システムの側にも備わっていなければならず、
  • その条件を満たせるのは「組織」というタイプの社会システムだけである
という回答を与えている──その意味で「組織論」になっている──のも、本書の独自の特徴だといえるでしょう。
酒井
「目的プログラムが合理的に働くことができるのは組織だけだ」という主張の裏側には、「社会 Gesellschaft はそうではない・社会についてそんな風に考えることは出来ない」という主張があるわけですよね。その意味で、これもまたルーマン理論全体に関わる論点だと思います。
もう一点。三谷さんには、講義に先立って著作紹介の小文を書いていただきましたが、いまの話は、この Q0c にも関わります。
この時期(1960年代)のルーマンの仕事には、かつては栄華を誇ったがいまや下克上でやられ気味、といった感じの概念に対して、まあまあそれなりの助け舟を出してやるという態度が明瞭に見てとれます。
この、「それなりの擁護」という姿勢は、晩年まで含めたルーマンの基本姿勢であるように思います。たとえば『目的概念』と同じ年に刊行された『信頼』においても、
  • 信頼は、「合理的計算」に取り替えることができる
  • 信頼は、社会生活を支える根本的な基盤だ
というどちらの主張にも反対しつつ、「信頼」の相対的な擁護をしています。
前者は経済学や合理主義的行政学、後者は 現象学(的社会学)のテーゼです。したがって、『信頼』という著作は──それらに学びながら──それらを批判・相対化するものだ、と特徴づけることができます。
晩年の『社会の理論』シリーズ全体も同様です。というのも、このシリーズ第三部の諸著作は、社会的分業を担う各種の機能システムについて、「それらのうちの どれがもっとも重要で根本的なのか」という問いを立てることを拒否しつつ(~各機能を相対化したうえで)、それぞれの重要性について それぞれなりの(~相対的な)擁護を行っているわけなので。

Q1a04 「システム合理性」概念の適用対象とは

配布資料「7.その後の展開との関係」の三点目に、 とあります。システム合理性というのはどういう対象について語りうるものなのでしょうか。 たとえば「ルーマン解読」をやっているこの教室で、三谷さんはマイクを持って こちら側を見て喋っていますが、これもこの講義を成り立たせる上で合理的に働いていると思います。こういうものもシステム合理性という言葉で語れるのでしょうか。
三谷
「システム合理性」という概念は「システムの存続」に関わるものでした。そして、語りたいものがどのシステムで、それが どういう特徴を持ったものであるのかをまず決めてからでないと、「それが存続する」というのがどういうことなのかを言えません。
たとえば、「この講義」が対象なのだとすると、
  • 講師が前に座り、講師だけがマイクを持っている
ということによって、誰に発言の優先権があるのかがシンボライズされて示されており、それによって「勝手に喋っていいのは誰か」といったことが誰の目にも分かるようになっています。──そう考えるならば、それによって講義というこの場が成り立つのに貢献している、という意味で、「システム合理的である」と言えるだろうと思います。

Q1a05 経験的研究との関係は

「システム合理性」について語るためには、そのシステムがどのようなものであるのか分かっていないといけない、ということだとすると、「システム合理性」という概念は、「どこにシステムがあり、それはどのようなものなのか」を明らかにしようとする研究には使えない、ということでしょうか。そうだとすると経験的研究には非常に使いにくい、ということになりそうですが。
三谷

Q1a06 環境とは

〈システム/環境〉と言われると、「環境はシステムの外部にある」というイメージを描いてしまうのですが、他方、配布資料の「3.「システムの存立」の定義」に、次のように言われています。 しかし、心理学のモデルだと、「システムの内部にあるものも システム存立を脅かす源泉になる」といったものもあります。〈システム/環境〉についてイメージしづらいのですが、どのように考えればよいのでしょうか。
三谷
「何が環境であるか」という点については、ルーマンは この時期にはまだそれほど詳しく説明しておらず、後期になればなるほど より詳しく特定していくようになります。つまり、「何が環境ではないか」といえば「コミュニケーションだけだ」と述べるようになります。
 ただし、たとえば「組織構成員の「やる気」は 組織の内部にあるのか外部にあるのか」という点について言えば──どちらの定式化の可能性も あるのだろうと思いますが──、ルーマンは この時期から、環境に属する問題だと考えています。
酒井
この論点に関してまず最初に述べるべきことは、「〈システム/環境〉区別(~内部/外部)というものを、空間的に表象してはならない」ということです。システムの概念的規定と空間的表象とを混ぜて使用すれば、いともたやすく混乱が生じます。ルーマンは「社会システムは意味のシステムだ」と述べているわけですから、〈システム/環境〉という区別についても、意味的な区別として考えなければいけません。
もしも「組織成員のモチベーションは組織の環境に属する」というテーゼが混乱しているように見えるとしたら、それは「内部/外部」という区別を空間的に考えようとしてしまっているからでしょう。
この点について言えば、そもそも「内部/外部」という言葉を使うのをやめたほうがよいのではないか、と私は思いますが。
以上のように考えることで事柄が「イメージ」がしやすくなるかといえば まったくなりませんし、むしろますます「イメージ」しがたくなるでしょうが、「イメージしがたい」というクレームに対しては、「イメージに頼ると混乱するからイメージに頼らず考えたほうがよいですよ」と答えるのが筋だと思います。

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第二回講義(2016.06.29)

講義概要

本書の議論の前提となっている背景的知識と、本書の核となる4章の結論内容について確認しました。

2-1. 前提について:

2-2. 本書の結論について:

※文献

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第三回講義(2016.07.20)

講義概要

本書全体の構想

第4章の構成

頁数 タイトル  
0 5    
1 6 システム/環境理論  
2 17 目的機能 目的概念の機能に関する 組織システム論的な検討の開始
3 10 目的の特殊化、
環境分化、
問題解決の一般化されたメディア
 
4 12 目的設定の規定度 4&5で問題の掘り起こし。
(例が出てくる節)
5 6 目的設定の矛盾
6 16 機能的等価物 それをつかって6で比較。
第4章のストーリー

質疑応答

Q3a01 目的概念とシステムとの関係は

「目的」概念の機能については 本日の講義で理解できましたが、それと「システム」との関係はどうなっているのでしょうか。一つの話としてうまく理解できません。また、それが分からないと、そもそも目的概念の機能を分析することの意義が分かりません。
本日紹介した本書の中核的テーゼは、 というものでした(「調整する-一般化」テーゼ)。このテーゼは、 組織概念に関わっています。目的概念の規定内容の方ではなく、「組織における縮減戦略」の方に注目して読むと、「システム」──ここでは組織──との関係が見えやすくなるでしょう。

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Q3a02 目的と縮減戦略の関係は

「目的が縮減戦略を調整する」というのが具体的にはどういうことなのか イメージができませんでした。
ルーマンが第四章で挙げた縮減戦略には、「a 主観化、b 制度化、c 環境分化、d 内部分化、e 構造の未規定性確保」の五つがありました。一方では、これらは互いに、 します。だから調整が可能・必要であるわけです。
たとえば、 「調整」というのは、こういったことを指すのだと思います(が、この点について 具体例を挙げた充分な解説がないために、イメージを得難いことになっています)
 他方で、それぞれの戦略は、「目的」と次のように関係づけることができるのでした。(スライド15、訳書 128-131頁)
a 主観化 目的とは、未来の結果についての主観的な観念である。主観的だというのは、事実の経過についての予期だという意味だけではない。システム自身の力をどれくらい投入する価値があるのかを見定めるという点でも、主観的なのである。
b 制度化 目的は行為の基礎として、あるいはその結果としても、制度化されうる。つまり、環境の側で直接的な当事者以外によって、承認され支持されうる。
c 環境分化 環境分化に適合するように目的を特殊化することができる。…
d 内部分化 目的は内的分化の原理としてはたらく。[古典的組織学説]
e 構造の未規定性確保 目的がもつ規定性の程度は可変的である。…。目的は、システムと環境のあいだのコンセンサスを特殊化するのに役立つ。
このように、「どの戦略も目的概念と関係づけることができるので、目的概念に立ち返ると 一方の戦略と他方の戦略の橋渡しをすることができる」ということが言われていたのでした。

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Q3a03 〈目的-手段〉と〈問題-解決〉

〈目的-手段〉図式と〈問題-解決〉図式の関係は?
これは「目的による一般化 vs. 機会主義」のディレンマに関わって使った表現でした。
このディレンマは、 という仕方で生じるもののことでした。
そこでは私は両者を区別せずに「似たようなもの」としてお話しましたが、両者を区別すべきコンテクストもあると思います。
少なくとも通念に従えば──もしくは日常的な語用では──、「目的」は「目指すべきよいもの」を、「問題」の方は「避けるべき・解消すべきよくないもの」を含意しはするでしょうし。

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Q3a04 〈組織〉と〈社会〉

〈組織システム〉と〈機能システム〉の関係が分かりません。本書では両者の区別は為されているのでしょうか。為されているのだとすれば、もっとはっきり区別して論じるべきなのではないかと思うのですが。たとえば、「コミュニケーション・メディア」は機能システムに関わる論題であるのに対し、「目的」は組織に関わるものではないでしょうか。それが一緒くたに論じられてしまっているように思います。
そうではありません。
 ルーマンは、社会システムについて、「対面的相互行為|組織|全体社会(の下位システム)」という三つの類型を設定していますが、これらは、 という関係にあります(この点については、次の項で解説します)。そして、 という事情を超えることは、本書にも記されていません。
 「目的」は、組織の中で・組織自身が設定するものです。それに対し、「コミュニケーション・メディア」の方は、組織にとっては という位置にあるものでしょう。しかしまた「コミュニケーション・メディア」は、機能システムの方から見れば という位置にあるものです。なので──ここからが質問に対する答えとなりますが──、本書で描かれているのは [a] の側面であって [b] の側面ではない、というだけであって、ここに混乱はないし、本来なら区別すべきものを区別していない、ということもありません。(←答えました)
参照システムに「組織」や「相互行為」を選べば議論はこうなります。逆に、参照システムに「全体社会」を選べば、[b] の線で議論は展開されます(『社会の理論』シリーズがそうなっています)
* 以下で、「実空間」という語は、「観察者から見た空間」という意味で使います。(ルーマンの術語ではありません。)
たとえば 邦訳156頁には「政治システム、なかでも国家官僚制」とか「国家行政」といった言葉が出てきますし、邦訳157頁には「国家官僚制の外側で、しかし広い意味での政治システムの内部で」とか、「権力と世論を形成する政治過程」といった表現が見られます。これらはどういう関係にあるのでしょうか。
言葉の使い方の約束としては、こうなっています*:
* 「政治システムのパーツはなにか。パーツ間の関係はどうなっているか」という点については、ルーマン政治論の展開過程の中でかなり見解に変化が見られます。この点については大森貴弘さんが、一連の論文の中で追跡し、まとめてくれていますので参照してください: なお、大森諸論考の骨子ととなる図解は、こちらでも閲覧することができます:

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:補遺

「社会システムは、特定の実空間において同時に複数成立しうる」というテーゼについては、ごく少ない理論的前提を使って明確なイメージが容易に描けるので──にもかかわらず、多くの解説書にはこうした議論が含まれていないのですが──、簡単に記しておきましょう:
* ここには、この制約が物理的なものではない(意味的なものである)ということが効いています。
形式的な議論はこんなところですが、一つだけ例も挙げておきましょう。
たとえば、「法廷における審理」は〈対面的相互行為〉であり、「裁判所」は〈組織〉です。これらと「法システム」は、実空間において重なり合いながら生じます。それらの間には──ごく常識的に考えて──、次のような関係があるでしょう:
などなど。
 これらはすべてごく常識的な事柄であって、驚くような内容は何も含まれていません(したがって、「理論的」に検討を要するような事柄も、ほぼ含まれていません)。 つまり、「一つの出来事の上に複数の社会システムがなりたつ」とか、「特定の実空間において複数のシステム過程が交錯しながら同時に進行する」というのは ごくノーマルかつ常識的な事柄を述べていて、当然ながら、ルーマンのテクストも そのようなものとして読めばよいのですが(というだけでなく、そう読まないと意味が取れないでしょうが)、そのように読まれていない例が余りにも沢山ありすぎて泣けてきます。

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Q3a05 「目的」を取り上げる意義

なぜルーマンは、「目的」概念を取り上げたのでしょうか。動機や背景について教えて下さい。
「講義のねらい」「著作紹介」をご覧ください。

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