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作成:20151008 更新:20170622
この頁には、2015年10月から12月に朝日カルチャーセンター新宿にて開催した「ルーマン解読2」講義における質疑応答などの一部を収録しています。 小山裕さんによる著作紹介、講義当日の応答の再録と、講義後にいただいた質問に対する回答が含まれており、署名のない項目はすべて酒井によるものです。
概要 |
第一回講義(2015.10.09 小山講義) |
第二回講義(2015.11.13) |
第三回講義(2015.12.04) |
一言で言えば「公法学の法律実証主義批判のやり直し」です。特に憲法学のいわゆる人権論を社会学の道具立てを用いて基礎づけ直すという試みが行われています(なお統治機構論におおよそ該当する内容は『手続きを通しての正統化』で扱われています)。「国家学から国法学へ」といういささか単純化された標語で概括されることもあるように、19世紀後半のドイツでは、パウル・ラーバントを中心に、国家は法律学の手法を用いて考察すべきであるという主張がなされ、それが大きな影響力をもちました。これに対して、特に1920年代に入ると、そうした国法学に対する批判が噴出します。『制度としての基本権』は、おおまかにはこの法律実証主義批判の系譜に属しますが、それを憲法学内部からではなく、社会学の枠組みに則って、ある意味で「外在的に」行おうとする点に特徴があります。
尊厳、自由主義自由、所有権、職業選択の自由、選挙権、法の下の平等といった基本的な諸権利は、機能分化という社会構造の成立・維持と不可分の関係にある、ということを示そうと試みました。同時代の議論との関係で興味深い点は、そうした権利の一つとして「コミュニケーションの自由」を非常に重視している点です。ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』は、カール・シュミットの『憲法理論』の批判的継承という側面を強く含みますが、その中で生まれた市民的公共圏との共通性を見出すことができます。
いかに崇高な理念や権利であっても、法律や憲法律に条文として記載さえされれば、あるいは「正しい」解釈や解釈変更が行われさえすれば、直ちに十全に現実化するわけではありません。法律や条例に記載された諸理念は、行為の「正当な根拠」として用いられることで、現実に対して大きく作用しうることは言うまでもありませんが、その一方で有名無実化しているものも数多くあります。同様に、新たな法的規制のしくみを整えれば、よりよい世界が到来すると考えるのも、あまりに素朴にすぎるでしょう。このような現実を前に、どのような社会構造があれば、法律の条文に書かれていることが十全に実現されるのか、と問うルーマンの社会理論は、さまざまな法の実現、権利の行使が、それぞれいかなる社会構造に支えられているのか、という問いに取り組むためのヒントを提供してくれるに違いありません。(小山 裕)
- 基本情報 通時的脈絡
- 共時的脈絡
- ルーマンのシュミット批判
- その後のルーマン
法に関するルーマンのスタンスは「法実証主義」だと考えてよいのでしょうか。
- この本は、最初は「社会は事実としてこのように機能分化しています」という記述的な議論をしていたのかと思ったら、最後には「機能分化を守りましょう」という規範的な議論で終わっているように見えます。また、この議論が後年の「構造的カップリング」の議論へとつながっていくという話がありましたが、そうだとすると「構造的カップリング」とはいえないようなあり方というのにはどういうものがあるのでしょうか。
- シュミットの図式との比較について伺います。「自由主義的法治国家の背後には何があるのか」という問いに対して「政治的決断がある」(シュミット)と答える場合、決断は法治国家に論理的に先行し・その決断の中に価値判断が含まれており・それが実定法を解釈する際の指針となる、ということなのだと思います。それに対して、「機能分化した社会構造がある」と答える場合、社会構造(の記述)自体の中には価値判断は含まれていないように思います。しかし、そうだとすると、「自由主義的法治国家-と-政治的決断」という関係と、「自由主義的法治国家-と-社会学的記述」という関係とは違うタイプのものであるような気がするのですが、その辺りにお考えがあったら効かせだください。
後期の著作を読んでいると、基本的に、「社会の複雑性が増大すると必然的に機能分化社会になっちゃいますよ」と書いてあるように読めるのですが、初期のこの本では、「政治システムが暴走すると全体主義になっちゃうので、それを止めるために基本権を守らなければいけないよ」と述べているように読めます。前期と後期では、この点でスタンスの変化があったのでしょうか。
ルーマンは、シュミットの「憲法制定権力の政治的決断」という議論を批判していたんだ、というお話がありました。これに関連して、シュミットの国家緊急権に関する──憲法では処理できないような突飛な出来事に対しては、政治が決断によって処理するしかないのだ という──議論に対しては、ルーマンはどのように考えていたのかについて教えて下さい。
タイトル | 作業 | |
序 | ||
第1章 | 分化した社会秩序における政治システム | 主題の設定 |
第2章 | 法ヒエラルヒーおよび国家と社会の区別 | [通説的な基本権ドグマーティクのメタ法律学的基礎]
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第3章 | 基本権の自然法的基礎づけと精神科学的基礎づけ | |
第4章 | 自己表出の個人化:尊厳と自由 | 各論 (「自由と平等」について) |
第5章 | 行為態度予期の安定化:コミュニケーションの自由 | |
第6章 | 欲求充足の貨幣換算:所有権と職業 | |
第7章 | 支配の民主化:政治的選挙権 | |
第8章 | 国家的決定の根拠づけ:法の下の平等 | |
第9章 | 社会的分化の理論 | [社会学とドグマーティクの差異と接合]
|
第10章 | 社会学と基本権ドクマーティク |
[¶06] 国家思想は、というオルタナティヴを前にして、いずれの方向に進むべく決断すべきか。… かかる観点の拡大を巡って争われた知的前線は、既に1920年代に成立していたが、… 政治学、政治社会学、組織科学の領域における画期的な研究および理論的試みは、そもそもそれが注目された場合でも、他の(主要には「アメリカ的」)諸学問のテーマとみなされたにすぎず、それゆえ視界から払い除けられてしまったのである。
- ドグマーティッシュな解釈 と 機能的な社会科学
[¶08] 一般的状況がこのようなものであってみれば、近代国家に関する統一的な学問的テーマを貫流し、とを区別している溝を埋めることから始めることは、やりがいのある仕事だというべきであろう。
- 経験 と ドグマーティク
- 行動科学 と 「理解」的意味科学
[¶08] その場合、折衷主義的な手続や方法論的混交主義の外見を呈するいかなるものも厳に避けられなければならない。… このような企図は、その講義ではこの三点を敷衍した箇所を解説しました。が十分に精確に示された場合にのみ、成功をおさめうる。
- 出発点と [←政治システムの社会学]
- 問題設定と [←規範的なものの非規範的分析]
- 概念的準拠枠と [←社会学的「制度」概念]
[¶08] それゆえ我々は包括的な綜合という道を取らない。我々が取るのは、理解可能で吟味可能でありたいと願う例示的分析の道である。これまで、ルーマンのテクストはこのような性格を持つものとしては あまり読まれて来なかったのではないでしょうか。
法思想 | 社会分化論 |
権利の糸口が身分という役割から契約へと転移した。 | 親族的な(=統一的な)社会構造が解体し、機能的に特定化された役割へと移行した。 |
抑圧的なサンクションが復元的なサンクションによって置換された。 | 親族的社会構造とその観念世界が、分化した行為領域に解消した。 |
近代法は、形式的および実質的法原理を並列させつつ保持し、相互に競り合わせなければならない。 | 分化した社会秩序は、利害の調整のためにも・負担の配分のためにも、より確実な予期の基礎と請求の形式とを必要とする。しかも分化が進行すればするほどそうなる。 |
本書序文では、旧来の規範的な学問(法学)と新しく勃興してきた経験科学との関係が問われていました。※参照箇所(序文 []内は段落番号)
- 「行動科学」と「経験科学」はどのように使い分けられる言葉なのでしょうか。
- 本書でルーマンが行動科学の代表例だとしているのは、アーモンドやイーストンなのでしょうか。
[03] 経験的社会科学はある畏怖の念を抱きつつ[法ドグマ]を忌避するのが普通である。… 合理的経営や合理的組織化をめぐる学問と社会学との関係においてもそうである。[法に関する議論において生じていることは]ちょうど「公式組織」という概念を通して古典的な経営学的組織理論の成果が組織社会学へと導入されていったことと同様の事情にある。…
[05] …これに反して、社会学は機能をめぐる問いを投げかけることによってドグマーティッシュな取扱いとは別の可能性に視野を開こうとする。それは神聖なものを可変的なものとして扱い、その現実の意味をそれの代替可能性の条件の中に見出そうとする。それは…認識の確実性を、変容可能性の視野の構造への洞察*を通して求めようとする。
[06] 国家思想は、ドグマーティッシュな解釈と機能的な社会科学というオルタナティヴを前にして、いずれの方向に進むべく決断すべきか。… かかる観点の拡大を巡って争われた知的前線は、既に1920年代に成立していたが、… 政治学、政治社会学、組織科学の領域における画期的な研究および理論的試みは、そもそもそれが注目された場合でも、他の(主要には「アメリカ的」)諸学問のテーマとみなされたにすぎず、それゆえ視界から払い除けられてしまったのである。
[07] … [国家思想は]無知という大きな退避塹壕に守られながら、解釈の自由と方法とに関する討論へのめりこみ、さらに憲法と基本権部分の技術的なドグマーティクの構築へのめりこみ、その中で自らを見失う危険にさらされている。…
[08] 一般的状況がこのようなものであってみれば、近代国家に関する統一的な学問的テーマを貫流し、経験とドグマーティク、行動科学と「理解」的意味科学とを区別している溝を埋めることから始めることは、やりがいのある仕事だというべきであろう。その場合、折衷主義的な手続や方法論的混交主義の外見を呈するいかなるものも厳に避けられなければならない。… このような企図は、その [1] 出発点と [2] 問題設定と [3] 概念的準拠枠とが十分に精確に示された場合にのみ、成功をおさめうる。それゆえ我々は包括的な綜合という道を取らない。我々が取るのは、理解可能で吟味可能でありたいと願う例示的分析の道である。
ハーバーマスの『社会科学の論理によせて』にも「行動科学」の項がある、という紹介がありましたが、これはルーマンが謂う「行動科学」と同じものなのでしょうか。はい。
タイトル | 主に扱われているもの | |
第1部 | 自然科学と精神科学の二元論 | 新カント派(含ウェーバー) |
---|---|---|
第2部 | 社会的行為の一般理論の方法論によせて | 行動主義と行動科学:
|
第3部 | 経験的-分析的な行為科学における意味理解の問題 | 解釈主義:
|
第4部 | 現在に関する理論としての社会学 | 批判理論への展望 |
配布資料で、「研究の前提」として引用されている序12段落を敷衍してください。※参照箇所:「序」第12段落(最終段落) [箇条書きは引用者]
構造的-機能的なシステム理論という手段をもってする基本権分析は 基本権ドグマーティクを豊穣なものとなしうる という我々のテーゼは、このような連関に立脚しているのである。
- 制度は、時間的・社会的に一般化された行為態度予期であり、
- かかるものとして社会的システムの構造を形成している。
- その限りで、そしてその限りでのみ、それは法の実定化の可能的対象となる。
- 同時にそれは、社会秩序の中でのその機能を問う問の構造要素
として置かれている。
- それはそれでまた法が実定化される経過を思考を通してコントロールすることを可能にするのだが
(今井ほか訳 13-14頁)Auf diesem Zusammenhang beruht unsere These, daß eine Grundrechtsanalyse mit den Mitteln der Strukturell-funktionalen Systemtheorie die Grundrechtsdogmatik befruchten könnte.
- Institutionen sind zeitlish, sachlich und sozial generalisierte Verhaltenserwartungen
- und bilden als solche die Struktur sozialer Systeme.
- Insofern ‐ und nur insofern ‐ sind sie möglisher Gegenstand rechtlisher Positivierung.
- Zugleich sind sie als Strukturkomponenten der Frage nach ihrer Funktion in der Sozialordnung ausgesetzt,
- die Ihrerseits eine gedanklich Kontrolle des Vorgangs der Rechts positivierung ermöglicht.
(S. )
スライドに「機能の潜在性:透明性・日常性」という表現がありますが、潜在性・透明性・日常性にはどのような関係があるのでしょうか。透明性と日常性は、潜在性を敷衍するために使った表現です。