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ここには、2024年04月28日に東京大学にて開催した 社会学研究互助会アネックス第3回研究会「佐藤裕『ルールの科学』合評会」配布資料などを掲載しています。
このページには、合評会前に参加者に配布された、森一平さんによるリプライを掲載しています。
このコーナーの収録物 | 佐藤裕さん (三つの質問への回答) | |
佐藤裕さん (小宮書評への回答)(討議) | ||
中河伸俊さん (資料)(討議) | ||
小宮友根さん (資料)(討議) | ||
森一平さん 事前配布資料(資料) | ←このページ | |
五十嵐素子さん 事前配布資料(資料) |
まず,『概念分析の社会学2』における拙稿(第10章)を大きく取り上げていたことに深く感謝申し上げます.大変光栄に思う一方で,そこでいただいた論評は私の立場や拙稿で書いた(書こうとした)ことと大きくずれるものだと感じています.
そこで本資料では,拙稿を取り上げていただいた『ルールの科学』第8章3節の論評を引用しながら,それらに対して感じる「ずれ」を逐一具体的に言語化するかたちで,リプライをさせていただきたいと思います.(したがって本資料が検討対象とするのは原則として第8章3節のみとなります.ご了承ください.)
結論から述べれば,以下のリプライは以下の点を趣旨とするものです.
以下,これらの点についてそれぞれ詳述します.
まず取り上げたいのは,(順番は前後しますが)p.203以降の部分です.そこでは,拙稿の結論部における以下の箇所を引用したうえで,
子どもたちを「学級」というまとまりのもとで扱うことは単に秩序や効率性のために行われるだけでもない.確かに本章がとりあげたのは,授業の目的を滞りなく果たすために学級の状態を整える実践だった.しかしそこでは,叱責を通して子どもたちの道徳性を育むということもまた同時に行われていたはずだ.そしてそのとき「学級」概念の運用は,一部の児童たちの振る舞いをきっかけにその道徳的効果を学級全体へと波及させ,かつその効果を個への強い責任帰属を避けるようなかたちで実現可能にしていた.このことは秩序や効率性を超えた意義を持ちうるものであるだろう.
(森 2016: 210)
次のように述べられています.
筆者がこの部分を引用したのは,これは評価なのではないかと問題提起したいからだ.「学級」概念の運用が,「秩序性や効率性を超えた意義を持ちうる」と書かれていることから,これは評価であると解釈されても仕方がないものだろう.
しかし,筆者は著者がはじめから方法の評価を意図していたとは思えない.それはエスノメソドロジーの流儀ではないし,論文のなかでの著者自身の説明も「いくつかの技法を明らかにする」「「学級」概念のありようを明らかにする」(196ページ)というもので,「評価」やそれに類する言葉は使われていないからだ.にもかかわらず,評価と受け止めざるをえない表現が使われてしまうのは,著者がこのデータ,特に教師の意図を,理解しようとしていたからではないだろうか.
(佐藤 2023: 203)
このように述べられたうえで,その後私の論考は「暗黙の肯定的評価」を行ってしまっている――おそらく他のEMCA研究そうしてしまっていることの証拠となる――事例として位置づけられています.
この点についてまず大前提として述べておかなければならないのは,私が「暗黙」にではなく意識的に評価を行っているということです.『概念分析の社会学2』の論考では,児童たちを「学級」というまとまりとして,あるいは「不特定な誰か」として扱うことに対して向けられてきた一面的にネガティブな評価に対抗するように,そうした評価からは漏れ出るような意義を分析成果から事後的に見出し提示しました.これはおっしゃるとおり評価に該当するでしょう.ただしこのことは私自身,執筆当時から自覚していたことです(さらに最近ではいっそう意識的に評価をおこなうようになってきています).
そのうえで,この点について述べておかなければならないことが2点あります.
第1に,こうした評価をおこなうスタンスが,私個人(の研究対象と所属しているアカデミックな文脈)の事情によるものだということです.私が対象としている「授業(とくに一斉授業)」という実践は,当事者たちからも研究者からも,評価のまなざしを他の実践よりもいっそう顕著に向けられる対象です.例えば(不)平等に資するか否か(教育社会学)というまなざしや,子どもの主体性や個性が活かされているか(教育方法学)というまなざしです.そしてそうした実践を扱う私の研究に対しては常に,私自身の立場や評価が問われ続けてきました.だからこそ私は,研究において意識的に評価をおこなうスタンスで研究をすすめている(し,そうすることが望ましいと思っている)わけです.したがって私が研究において評価をおこなっているのはあくまで特殊な個人的事情に由来するものであって,EMCA研究全体にあてはまるものでも,それを代表するものでも断じてありません.
この点に関説して述べれば,EMCA研究はそれによって明らかになった方法を「評価」などしなくとも,それ自体で意義のあるものです.『ルールの科学』p.197では,「その方法はすでに人々(当事者)が知っていることであり,なおかつ実際におこなっていることだ.それをわざわざ『こんな方法がおこなわれている』と指摘したところで,何の意味があるのだろうか」と述べられていますが,「実際におこなっていること(その意味で知っていること)」は,それを(体系的に)言語化して他者に説明できることや,意識的におこなえることを帰結しません.実際私は,研究協力者の方に研究成果をフィードバックすると「こんなふうにやっていたんですね」という言葉をいただくことが頻繁にあります.あるいは,ある人には当たり前にできることが他のひとにはできないということもたくさんあります.そうであるなら,EMCAによる詳細な方法の記述は,それによってはじめて切り拓かれる,実践を改善したり学び取ったりするための機会を提供することができます.これは果たして意味のないことなのでしょうか.私には全くそうは思えません.
第2に,EMCA研究における評価の「居場所」についてです.上述の通り私は研究において積極的に「評価」をおこなう立場ですが,それを行うのはあくまで分析の「事前(このように評価できる対象なので取り上げた,と説明する)」か「事後(分析によって明らかになった方法が持ちうる意義について述べる)」に限っています.他方,データの記述・分析にさいしては,「評価」が入り込まないように細心の注意を払っています(=エスノメソドロジー的無関心1).これは,研究者の評価(関心)が成員たち自身の志向2にそくした記述(成員たちが実際におこなっていることの精確な記述)を妨げてしまうからで,そうなってしまうと上述のようなEMCA研究の意義が失われてしまうのみならず,研究成果から意義を見出すことも難しくしてしまいます(意義を見出す当のものが精確に記述されなくなってしまうわけですから).逆説的ですが,方法の適切な評価をおこなうためにこそ,分析には評価を持ち込まないのです.この点は以下のⅡともかかわってきます.
ここまでをまとめるなら,拙稿は暗黙の肯定的評価をおこなった事例でもなければ,EMCA研究を代表するものでもありません.それは意識的に評価をおこなった――ただし「エスノメソドロジーの流儀」とは矛盾しない――一特殊事例なのであり,したがって『ルールの科学』における拙稿の位置づけは誤っていると考えます.
次に取り上げたいのは,p.202における拙稿の分析に対する論評です.そこでは以下の断片4とその分析が引用されたうえで,
[断片4] 24 T: ゜だまって立ちましょう.゜ 25 Ss: ((立ちあがりはじめる)) 26 A: ( かな:.)= 27 T: >はいしゃべった:[座る.< 28 A: =[(あの-) 29 Ss: ((座りはじめる)) 30 T: 残↑念.だれかがしゃべった >聞こえちゃった: 座る.< 31 T: 誰でしょう. 32 B: このひと. ←((Aを指さす)) 33 T: みんなに迷惑[かけてる<よ>? みんなを待たせてる<よ>? 34 B: [((Aをはじめ4人の児童を順に指さしていく)) 35 T: (3) ちゃんと約束まもらないと. (0.5)ね? 36 みんなでやるときは.31行目で教師は「誰でしょう」という問いを発しているものの、これはおそらく誰がしゃべったかを特定しようとして発したものではない。この問いかけに応えるように32・34行目で行われた児童Bによるおしゃべりをした者の特定に教師はお礼も評価も返していないし(これは児童Bの応答が求めざるものであったことを意味している)、映像を確認すると教師はそもそもAのいる列後方に視線を向けており、誰がしゃべったかを把握した上であえてこの問いかけを発しているように思われるからだ。そうであるならこの教師による「誰でしょう」の問いかけは、断片2における「(Xすることにより)Yしたいひとがいる」という発言同様、「学級のなかの不特定な誰か」を浮上させることを通して責任の帰属先を曖昧にしたままおしゃべりの当事者に振る舞いをたださせる効果をねらったものであるように思われる。
(森 2016: 208)
次のように述べられています.
読者はこの論文の主張に納得できただろうか.
筆者は納得できなかった.特に断片4の解釈はかなり強引だと感じた.仮に教師の意図が著者がいうとおりに「特定しないこと」だったとしても,児童Bの「この人」という発言は,意図どおりの結果になることを阻んでいると思う.著者は教師がBの発言に対して「お礼も評価も返していない」と指摘するが,逆にいえば,Bに対して反論やその効果を打ち消そうとする行為もしていないようにみえる.そのため,教師はBの発言を暗黙のうちに肯定しているように,児童たちに受け止められないだろうか.さらに,Bが4人の児童を指さしたあとに,(それを否定せずに)「ちゃんと約束まもらないと」と発言したのなら,それはBが指さした児童に向けたものだと,児童たちに解釈されないだろうか.
(佐藤 2023: 202)
この引用部で「ずれ」を感じたのは何よりも,「逆にいえば,Bに対して反論やその効果を打ち消そうとする行為もしていないようにみえる.そのため,教師はBの発言を暗黙のうちに肯定しているように,児童たちに受け止められないだろうか」という箇所です.この「ずれ」を言語化するためには,授業という相互行為の背景的特徴から説明する必要があると思いますので,まずはその説明から述べたいと思います.
授業において児童の発話は,教師によって許可された場所で発せられてはじめて,授業の一部を構成する公的な発言として位置づけられ,その発言を踏まえてそれ以降のやりとりが展開していきます3.「発問」後の「応答」のスロットなどがその典型ですが,そうして公的なものとして認められた発言に対しては,ほぼ必ず――なんらかの事情でそれができないケースを除いて――「評価」その他の何らかの「フィードバック」が返されます.それが教師にとっての規範的な要請事項だからです4.
そのうえで断片4の32行目における児童Bの「このひと」という発話に対して教師は,それが十分に可能な状況であるにもかかわらず「お礼も評価も返していない」わけで,以上の背景的特徴を踏まえるとこれは児童Bの発話を公的なラインに乗るものとして認めていない振る舞いであると理解可能です5.ゆえにこの教師の振る舞いは十分に,Bの発話「の効果を打ち消そうとする行為」(というよりもBの発話を公的にはそもそも発効させない振る舞い)であったといえるのではないでしょうか6.結果として断片4では,あくまで公的には「誰がしゃべったか」が特定されずにやりとりが進行していっていると,そのように私は理解したわけです7.
さて,上記引用部の直後には,
筆者は,以上のような自分の解釈が正しいと主張したいわけではない.筆者はあくまでも論文に記載された情報だけで判断しているのに対して,おそらく著者はそれ以上の情報,例えばほかの児童の様子や教師のちょっとした表情なども踏まえたうえで,そのように判断しているのだろう.しかし,少なくとも論文の記載からは,筆者の解釈も十分に成り立つように思える.にもかかわらず,論文がこのように書かれたことには理由があるのではないかと思う.
(佐藤 2023: 202)
と述べられていますが,以上から私は,複数のありうる「解釈」のなかから結論部で述べた「評価」に引きずられるように,「強引」に拙稿に記したバージョンを選んだわけではありません.あくまで,データに示されている成員の志向に忠実に,もっとも妥当だと思われる記述をおこなったまでです.(にもかかわらず別の「解釈」が成り立つように読めてしまったとしたら,それはひとえに私の力不足が招いてしまったことでしょう.)
ところでここで問題にしている論評は,拙稿のデータに対する記述を「教師の意図」に立脚した(偏った)記述としてとらえている点に支えられているように思います.この「とらえ」に基づき,「児童の受け止め」に基づく別の「解釈」を対置することで,あえてそうではない「解釈」を選択したという点で拙稿の記述が「強引」だと論評されているように読めるからです8.それに対して,私がめざしたのはあくまで成員の(「意図」ではなく)「志向」に立脚した記述であり,ここでいう「志向」とは注2で述べた通り基本的に意図とは独立である(もちろん意図されていることもあるでしょうが)とともに,発話や行為の配列によって客観的に理解可能なしかたで示されるものです.したがって,拙稿の分析はどの成員の「意図」に立脚するかで複数の「解釈」が成り立つような地点をめざしたものではなく,突き詰めれば1つに収斂するはずの客観的な(理解可能性に立脚した)記述をめざしたつもりです.にもかかわらず拙稿が特定の成員の「意図」に立脚した記述と読まれてしまったのは,これもやはり私の力不足(うかつな言葉遣い)のゆえでしょう.
以上,Ⅱで述べたことをまとめます.拙稿の分析は結論部で述べた「評価」に引きずられた(かつ,教師の意図に偏った)「強引」な「解釈」ではありません.たとえ「強引」なものであったとしても,それは単に私の力量不足に由来するものであって,「評価」に引きずられたものではありません.その点で,『ルールの科学』における拙稿の論評は誤りであると考えています.
私からのリプライは以上です.