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ここには、2024年04月28日に東京大学にて開催した 社会学研究互助会アネックス第3回研究会「佐藤裕『ルールの科学』合評会」配布資料などを掲載しています。
このページには、合評会前に参加者に配布された、五十嵐素子さんによるリプライを掲載しています。
このコーナーの収録物 | 佐藤裕さん (三つの質問への回答) | |
佐藤裕さん (小宮書評への回答)(討議) | ||
中河伸俊さん (資料)(討議) | ||
小宮友根さん (資料)(討議) | ||
森一平さん 事前配布資料(資料) | ||
五十嵐素子さん 事前配布資料(資料) | ←このページ |
本書(佐藤2023、以下略)において、数あるエスノメソドロジー研究のなかでも、『概念分析の社会学2』の拙稿9章(「『教示』と結びついた『学習の達成』:行為の基準の視点から」)の議論を引用してくださり、さらなる貢献可能性をもたらすよう助言していただいたことに心よりお礼を申し上げます。
「わかりにくい/何の役に立つのかわからない」(佐藤2023:194)と述べているように、拙稿の知見の位置づけや意義については、当方の力不足に加え、紙幅の都合上十分に説明できているとはいえない部分があり、まずはこの点について申し訳なく思っております。
しかしながら、このような、当方の責任において生じているわかりにくさは措くとして、それでもなお本書の議論と拙稿の議論がかみ合わないと感じられる部分がありました。
本来でしたら拙稿への批判点についてのみ、素直にリプライしたいところですが、残念ながら、本書における拙稿の位置づけからみて、そのような議論の立て方は難しそうです。
ここで、拙稿の位置づけを確認させてください。拙稿は本書の8章「エスノメソドロジーとルールの科学:方法の探求としてのエスノメソドロジー」で引用されています。佐藤氏(以下氏と略記)は1節の末尾で、氏の立場とエスノメソドロジーとの相違について述べています。
本書の立場は、自然言語を重視するという点ではエスノメソドロジーと同じだが、自然言語のはたらきとしての「記述」についての考え方は異なる。それはエスノメソドロジーとルールの科学の言語観の違いに起因している。そこで、本章ではエスノメソドロジーにとっての記述の意味を考察するところから始めたい。
(佐藤2023:189)
そして「違い」については、8章2節(「『記述』の方法への特化」)において述べるとし、拙稿は、エスノメソドロジーとルールの科学の言語観の違いを示す例として位置づけられています。
しかしながら、後述するように、氏の拙稿をめぐる議論は、当方からみると、違和感を覚えました。単に拙稿の分析や知見を批判しているのではなく、氏がエスノメソドロジーの言語観、記述観を異なって理解しているために、本来の拙稿の内容とは異なるもののように解説していると思われたからです。となると、話はちょっと複雑になってきます。
氏は、この8章でエスノメソドロジーとその「考え方の『根っこ』部分は共有している」(p184)と述べており(共有している「根っこ」の1つは方法の探求であり、もう1つは自然言語の重視です)、氏の考えが「『枝分かれ』したことを示す」(p184)としています。
このため、その大切な分岐点の部分で、そもそも氏のエスノメソドロジーに関する誤解があるとしたら、氏の立場とエスノメソドロジーは「枝分かれ」していない=同じ立場である、あるいは、そもそも「根っこ」が同じではなかった=もともと立場が異なる、という可能性がでてきます。
いずれにせよ、氏が拙稿をどのように理解しているのかという点は、氏の立場を理解するうえでは重要なポイントになるわけです。ここまで話を膨らませておいて恐縮ですが---そのような大事な部分について述べるのであれば、本書全体の氏の「言語」「記述」観と照らして、あるいは、エスノメソドロジーの他の基本的文献にさかのぼって、エスノメソドロジーや拙稿に対する誤解について議論すべきところでしょう。しかしさすがにそれは当方の手に余る難題です。そこで以下では、拙稿が引用された前後の氏の議論を検討することで、氏のエスノメソドロジーに対する理解についてだけでも、なるべく明確にしたいと考えております。
まずは「氏の考えるエスノメソドロジーの言語観」の当方の解釈を示し(Ⅱ、Ⅲ)、その後、当方の考える「エスノメソドロジーの言語観」を示しつつ(Ⅳ)、拙稿へのコメントへ応答する(Ⅴ、Ⅵ)ことで、氏へのリプライとし、今後の氏の議論の発展に向けて、氏の立場とエスノメソドロジーとの関係を再度問うことに貢献できればと思います。
氏は「エスノメソドロジーと言語(特に記述)との関係を考えるため」に「概念分析の社会学2」の「はじめに」(浦野茂氏執筆部分)を取り上げ、以下の引用をしています(佐藤2023:190)。
この引用部分で、浦野氏が明確に述べているのは「概念」≠「言語、語」であり、「物事を捉え、成し遂げる仕方のこと」という点です。
概念と言われると言語のこと 、語のことが思い浮かんでくるかもしれません。概念とはすなわち語のことである、というように。しかし両者のこうした等置は不正確です。ここで概念と呼んでいるのは、物事を捉え、成し遂げる仕方のことだからです。
(浦野2016ⅲ-v)
そしてこの引用後に氏は「なぜ、『概念』が『物事を捉え、成し遂げる仕方なのか』」と続け、さらに「謝罪」を例とした浦野氏の説明も引用します(p190)。
そして氏はその引用内容に対して、「確かに先の引用は方法についての知識を表現しているといえなくもないが、ただその知識だけで謝罪ができるとは思えない」(p191)と批判しつつも、「概念」が「方法についての知識を表現している」という点については一定の理解を示しているようにも受け取れます。
ここまではエスノメソドロジーの概念観と同じ立場にあるようにも読めます(ただしこの部分の氏の理解については小宮氏の書評で解説が詳しくなされています。本稿では議論の進行上触れずに進みます)。
さて、拙稿が引用される次の第2項では、氏の(考える)「エスノメソドロジーの考え方」と「氏の考え方」との違いが表明されます。
エスノメソドロジーでは『謝罪』という概念を構成するのは、まず第一に、どのような場合に謝罪であると見なせるか(記述可能か)についての知識だと考える。つまり、「謝罪」という概念の核心を記述というはたらきに求めている。そして謝罪という行為はその記述に関する知識に基づいておこなわれると考えられている。だからこそ、『どのような振る舞いが謝罪とみなされるのか』についての知識に基づいて謝罪という行為が可能であると考えるのだろう。
本書では、このように記述を特権化するような考え方をとらないことは、すでに説明してきたことからわかると思うが、その点についての説明は後回しにして、エスノメソドロジーの考え方についてさらに詳しくみていきたい。
(佐藤2023:191-2)
ここにきて、先に示された氏の理解(「概念が方法についての知識を表現している」)が、本来のエスノメソドロジーの考えとは全く異なる前提に基づく言明である可能性が出てきます。
上記の引用では、氏の理解するエスノメソドロジーでは、ある概念は当該の概念がどのような場合にそれとしてみなせるか/記述可能かについての知識から構成されているとし、だからこそ人々はその記述可能性についての知識に基づいて行為をすることができると考えられていると言うのです。ここで氏によって述べられている、ある概念の核心としての「記述」とは、まるでその概念についてあらかじめ備わった知識であり、人々はこの知識に従って行為していると捉えているように聞こえます。
こう考えると、氏が前項で浦野氏の謝罪概念の説明の引用に対して行った批判「ただその知識だけで謝罪ができるとは思えない」は、こうした、「氏が考えるエスノメソドロジーの記述、知識観」を前提としたものであり、エスノメソドロジーが知見として示している、謝罪概念を構成している「方法についての知識の表現」は(内容的に不足しているために)実際の謝罪行為を導くものとして十分ではないと考え、エスノメソドロジーの理論の内在的問題を指摘しようとしたと考えられます。
このように考えているからこそ、氏の考えるエスノメソドロジーの記述観においては、概念の「記述」が人々の行為に先立っており、行為を導くために存在するという意味で、「特権化」(p192)されていることになるわけです。
しかし実際には、「概念分析の社会学2」の「はじめに」では、そのような概念観や記述観は述べられていません。実は、氏が引用した浦野氏の文言のすぐ後には、以下のように「概念」と「概念分析」の説明がなされていました。
このように概念ということで呼び指しているのは、そのつどの状況において語や振る舞いを一定の仕方で結びつけながら表現を作ることによって行為を成し遂げる仕方、すなわち実践を組織する方法のことであり、語そのもののことではありません。したがって概念分析の焦点となるのは、このような実践を組織する方法なのです(本書の副題である『実践の社会的論理』とは、この方法のことを指しています)。
(浦野2016 iv)
残念ながら氏はこの部分を引用していないのですが、ここで書かれているように、「概念分析」の「概念」とは、「一定の仕方で結びつけながら表現を作ることによって行為を成し遂げる仕方、すなわち実践を組織する方法」を指します。
また、この「はじめに」全体で「記述」という語があるのは、ライルの議論を引き受ける文脈で、「であればこそ、概念の用い方をそのつどの実践の中に見出し、記述する作業が必要になるでしょう」(浦野2016ⅱ)という部分においてです。つまり、この「概念」=「行為を成し遂げる仕方、実践を組織する方法」を「記述」するのが概念分析だとされているのです。
こうした考えのもとでは、行為や実践の前に「概念の分析」はありえませんから、エスノメソドロジー、すくなくとも概念分析では、氏の言うように「記述」を特権化しているわけではなく、むしろ「人々の行為や実践の組織の仕方」を優先しているわけです。
こうした考え方に基づく以上、エスノメソドロジーでは、氏の想定とは異なり、実践と切り離された形で、ある概念が「どのような場合に記述可能かについての知識から構成されている」という考え方をすることはありません。
例えば、概念分析の社会学2の鶴田幸恵論文では、人々が、医療や法制度における扱いに応じて、「性同一性障害」をどのようなものとして位置づけ、そのカテゴリーが生き方を参照するカテゴリーとして利用されたのか/されなかったのかということ等々が示されています。つまり、ある概念の記述可能性についての知識よりも先に、人々による実践が先にあり、その実践の変化において、その概念の記述可能性(ここではその概念の参照先や他の概念との結びつき)が変化していることを論じているわけです。 これは氏の考えるエスノメソドロジーの概念、記述観とは異なるものではないでしょうか。
以上(Ⅲ)の解釈に基づいて、以下では氏の拙稿へのコメントを検討してみたいと思います。最も相違があると感じられたのは、研究目的と研究対象について述べている部分でした。
先に、当方が考える氏の理解をまとめておきましょう。Ⅲでも述べたように、氏はエスノメソドロジーの考える概念の核心には「記述」があるとし、ある概念は当該の概念がどのような場合にそれとしてみなせるか/記述可能かについての知識から構成されているとしていました。エスノメソドロジーは、この知識に従って行為している人々の方法の分析を行っていると考えているようでした。
さらに後述する氏の見解を踏まえると、その方法の分析とは、「その言葉が用いられている活動」を記述することによってなされると考えているようです。拙稿に沿って言えば、教師や児童が、ある行為が「できた」/「マル」としていたのは確認テストの場面であり、そのように当事者によって記述できていたのであるから、氏は、拙稿の研究は、学習の達成がテストによって作り出されたことを示す研究であった、と考えたと思われます。
氏は拙稿の研究目的を以下のようにまとめています。
この研究が明らかにしようとするのは、「学習の過程」ではなく、「学習の達成」である。これはエスノメソドロジーという考え方を理解するうえでの「肝」なので、少し紙幅を割いて説明したい。本書をここまで読んだ読者には、(佐藤2023:192-3)※付番改行下線傍点五十嵐
- (1)構築主義の延長にエスノメソドロジーがあるといえばおそらくわかりやすいのではないかと思う。[…] 例えばある児童が何らかの行為を初めておこなったとしても、それだけでは「学習がなされた」と見なすことはできない。例えば、質問に当てずっぽうで答えたらたまたま正解だったという場合は、「学習の達成」とはとはみなされないだろう。そのため、質問を繰り返して一定以上の正解率が得られた場合に「学習がなされた」と見なす、という手続きが必要になる。つまり何らかの「テスト」、あるいはそれに類するものがなければ、「学習の達成」は生じないのだ。(中略)テストによって(あらかじめ存在している)「学習の達成」という事態が「作りだされている」と考えるのだ。
- (2)これは、「社会問題」という言葉(とその言葉を用いた活動)がなければ社会問題は存在しない、という考え方と同じこととして理解できると思う。ある状況を社会問題であると記述できることが、社会問題が存在することと同義であるのと同様に、エスノメソドロジーにとっては、「学習が達成された」という事実は、「学習の達成」を記述できることと同義なのだ。そしてそのような記述の方法を、そのまま「学習の達成」の方法だと考えるのだ。この論文では、学習をそのように捉えたうえで、教示と学習の関係を明らかにしようとする。つまり、「教えられたことができた」ことがどのように達成されるのか(達成の方法=達成の記述の方法)が探求課題なのだ。
まずは下線(1)についてです。実のところ、拙稿で上記のような文言及び内容について言及した部分はありません。拙稿の事例は確かにテストの場面が2回あります。拙稿では、まず教師が最初のテストにおいて生徒がなすべき行為を教えているさま(つまり教示の方法)を分析しています。そこでは、教師が、児童がなすべき行為の基準とその前提となる測定のシステムの使い方を児童に示していることを指摘しました(五十嵐2017:183)。そしてその後に、児童がそれの基準と測定のシステムを使って、ほかの児童同士で練習している過程(つまり「学習の方法」)についても分析しています(五十嵐2017:185-7)。そのうえで、練習の後の「確認テスト」場面において、いかにその児童が、「教師が教えた基準と測定のシステム」を行為に組み込みながら、なすべき行為を成し遂げているのかを考察しました(五十嵐2017:189)。そしてそうした行為を成し遂げている児童の方法こそが、(教師が教示した行為の)学習を達成したという理解/記述可能性を支えているということを論じたつもりです。ここでは氏の言うようなテストという手続きによって、学習の達成という事態が作り出されている、などということは一つも論じていないのです。
ではなぜ氏が拙稿についてこのように述べたのでしょうか。二つ理由があると考えられます。
一つの理由は、氏は、エスノメソドロジーを、氏の理解するところの社会問題の構築主義と連続するものとして位置づけていることにあります。氏は、構築主義を、質問・応答のゲームに特化した理論だと結論づけ、「○○かどうか」を問うゲームだとしています(佐藤2023:179)。これに引きつけて、「学習の達成」という事態を、テストから開始される質問-応答のゲームにおける「学習の達成をしたのかどうか」という問いによって生み出されるものである(はずだ、あるいは、そう説明すれば読者にわかりやすい)としているのだと考えられます。二つ目の理由は後述したいと思います。
次の傍点部(2)の後半は、一見するとエスノメソドロジーにおなじみの言明によって拙稿が説明されているように見えます。しかし氏は、これも下線部(1)と同様に、その前半で氏の考える構築主義の考え方を敷衍するものとして述べているのです。
その敷衍に沿って整理すれば、氏の理解では、「学習の達成」という言葉(とその言葉を用いた活動)があることで、「学習の達成」を記述できると考えているようです。それがすなわち「学習の達成」が存在することや、「学習が達成された」という事実になる、と考えているようです。
しかしエスノメソドロジーは、ある事象に存在に関わる言葉の存在やその言葉を用いた活動があることと、その事象が社会的事実であることが同義だと考えているわけではありません。そうした言葉が用いられた活動があるから、その存在を記述でき、ひいては、それが人々の方法だと考えているだと考えているわけでもありません。たしかに拙稿の先行研究への言及では、学習が達成するという現象が、ある行為を「学習したこと」が当の行為者へ帰属されることを伴うものであるとしていますが、同時に一定の要件が求められるものであることも述べています(五十嵐2017:181)。また、言説を資料とした場合とは異なり、相互行為を資料とした分析においては、「言葉の使用」をなるべく避けた形で相互理解や確認がなされる様子がみられます(北村・五十嵐・真鍋2016における、管制官のペアワークなど)。大事なのはある社会的事実の記述可能性以前に、人々がその現象を理解可能にする何らかの行為や実践の方法を示しているということであって、ある言葉を活動で用いたかどうかなのではないのです。
拙稿の事例でいえば、教師はすでに初回のテストの段階で、児童が潜ることが「できた」と述べていますが、合格を留保して練習させています。児童はその後、単に潜るという行為を行おうとするのでもなく、教師によって教えられた行為との同一性が示されるように、測定のシステムと基準を用いて、自分の行為や資源を組み替えて練習していました(五十嵐2017:185-7)。ここでの教師と児童は、テスト場面における「できた」という語が言われるかどうか、合格の意味を示す「マル」がもらえるかどうかに志向しているのではなく、ここで教えた/教えられた潜るという行為のやり方を学ばせること/学ぶことに志向しているのです。
しかし氏のエスノメソドロジー理解では、テスト場面によって「できた」あるいは「マル(合格)」という言葉が引き出されているということが「学習の達成」という概念の記述であると考えているため、テストという手続きによって、学習の達成という事態が作り出されている、と考えたと思われます。これが、氏が下線(1)のように述べている、二つ目の理由と考えられます。
さてこうした氏のエスノメソドロジー理解ですが、氏の考える構築主義の研究手続きに沿って理解しようとしていることで、事例における実際の人々の志向を無視した理解となっているといわざるをえません。
さてここで、拙稿の知見がどのような意味で概念の分析であるということについて、もう少し説明しておいたほうがいいかもしれません。拙稿は、事例自体はわかりやすいと思いますが、拙稿の検討対象や知見が先行研究と連続しているという点が十分に伝わらなかったために、氏のような理解が生まれた可能性も否定できないからです。
氏も理解されるように「学習」という語(「わかった」「できた」を含めても結構です)自体は、文脈のなかで様々な概念を指し示しうるものです。このため、拙稿が検討する「学習」という語が指す概念が何であるのかについては、少なくとも分析を示す前に、人々の実践のありようととともにある程度、位置付けておく必要があります。このため、拙稿の冒頭では、先行研究(西阪2008)における学習概念の整理(学習の過程、学習の達成)に基づき、後者を対象として扱うものであるとしました。そしてさらに、この「学習の達成」のなかでも、「教示と結びついた」ものを扱うとして、より学習概念の置かれた文脈を限定し、対象を明確にして考察したつもりです。つまり、拙稿は、学習概念をより文脈上で分節化、特定化し、それがある一定の教師の「教示の方法」と児童の「学習の方法」を前提として成り立っていることを事例を通じて示したという意味で、人々の方法を明らかにしつつ、同時に、学習概念の分析も行っている研究だと考えています。
さて、ここまで拙稿を題材として、氏の考えるエスノメソドロジーの「言語観」「記述観」を明らかにしてきたつもりです。しかしそれと同じ根っこを持ち、かつ枝分かれしたという氏の言語観とはどのようなものなのでしょうか。以下の拙稿へのコメントにヒントがあります。
「学習」という言葉は、 命令・行為のゲームでも、命令として用いられる言葉だ。つまり、(3)「学習」しろという命令によって学習という行為を作り出すはたらきをもっている。この意味で、「学習」という概念は「社会問題」とは異なる。
筆者は「学習」という概念について考えるのであれば、 やはり(4)行為としての学習を中心にするべきであり、そのためには命令としての「学習」概念を分析しなくてはならないと思う。
(佐藤2023:195)※付番下線五十嵐)
この下線(3)にあるような、氏が重視するという自然言語の働きは、あらかじめ言葉にそれが引き起こすべき実践の内実が実装されているように聞こえます。こうした氏の言語観は、氏の考えるエスノメソドロジーの概念についての考え方(人々の行為を導く知識としての概念)との間に共通点(「根っこ」)を見出していた可能性があります。
しかし、下線(4)における氏の考えでは、拙稿が、氏のいうところの質問―応答のゲームに位置する現象を扱ったものでしかない点、命令―行為のゲームとしての学習概念の分析がなされていない点に不満を述べています。これは、もともと氏が、エスノメソドロジーの研究手続きを構築主義の延長に置いているという前提から述べていると考えられます。つまり氏はエスノメソドロジーが、構築主義と同じアプローチで、質問ー応答のゲームの側面しか分析するだけでは不十分であるとし、命令―行為のゲームの側面における概念を明らかにしなければ、人々の行為を導く知識を十分に説明したことにはならないと考えているように思われます。そしてこれが、氏の立場がエスノメソドロジーから枝分かれしている部分だと考えられます。
さて、ここでの氏のコメントに対して拙稿の立場から反論を試みたいと思います。繰り返しになりますが、拙稿では知見の焦点ではないものの、教師が児童になすべき行為を教えており、また、児童がその後自分で練習をして、過程としての学習をし、達成としての学習も成し遂げていた点で、氏が述べるところの命令―行為のゲーム下での学習概念の分析といえる内容が含まれていたと思います。しかしそれは、氏のいうような「『学習』という言葉は、『学習』しろという命令によって学習という行為を作り出すはたらきをもっている。」などという内容ではありませんでした。そこである行為を学ぶべきことについて規範的な期待が投機されたとしても、それが実現されるにあたっては、人々が示し合い、提供し合うことで利用可能になる様々な資源が必要であり、学習者はそれを使いながら行為を形作る作業が必要になります。こうしたことの内実は、わかってしまえば当たり前のことのようですが、その作業自体は極めて多様であり、しばしば想像を超えるものがあります。
氏のエスノメソドロジー理解では、拙稿についてそのように感じられなかったかもしれませんが、氏の立場がアプローチしようとする対象(命令―行為のゲーム)を含んだエスノメソドロジーの研究例もすでにあると思われます。そうした研究では、人々の社会的諸活動の具体的な組み立てられ方が示されており、さらにこれを、ある立場から評価していることもあるかもしれません。
氏の立場である、ゲームの内側から当該のゲームを理解し、評価するという構想に照らしたときに、こうしたエスノメソドロジー知見や成果は、それほど相反しないのではないかと考えますが、いかがでしょうか。