日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere
作成:2015年10月13日
更新:2015年10月13日

ニクラス・ルーマン『社会の道徳』合評会

このコーナーの収録物   告知文  
  訳者 馬場靖雄(社会学、大東文化大学 教員)  
  評者 加藤哲理さん(名古屋大学/政治思想史) (←このページ)
  評者 奥田太郎さん(南山大学/倫理学)  
  記録 当日のディスカッションの一部  

このコーナーには、2015年10月12日に大東文化会館にて開催した、ニクラス・ルーマン『社会の道徳』合評会 の配布資料や議論の模様を掲載しています。

盲点を観ること――ニクラス・ルーマン『社会の道徳』書評
加藤哲理(名古屋大学)

1. ルーマンの道徳理論の特質と意義

道徳の奇妙な位置づけ――それは一つの機能システムを形成せずに偏在している

道徳コードは次の点で、機能システムの普遍的な二分コードから区別される。すなわち道徳コードは、二分コードのもとでのみ作動し自身の作動をその点によって認識するような、特定のシステムを参照するわけではない。近代社会において典型的に見られる、普遍主義と限定性の組み合わせは成り立たない。〔…〕。それに対して道徳は、限定なしの普遍主義を提示する。〔…〕。したがってこう問われねばならない。道徳はいかにして、限定なしの普遍主義としてやっていくのだろうか、と。
196頁

社会学者はモラリストであってはいけない――社会学と倫理学の峻別

以上に述べた注意事項は、道徳や倫理学の分野に社会学者としてアプローチしようとするときには、特に当てはまる。この分野にはすでに決まった専門用語が無数にあり、これらは社会学の制御を受けていない。けれども、この分野の対象をあつかおうとすれば、そうした用語によって規定されることになる。それゆえ、対象を見失ってしまうことなく、社会学が自らの概念定義権を行使することは可能なのか、またどの程度までそれが可能であるかに注意していなければならない。また、この対象は感染力が強いので、これをあつかう時にはをし、できるだけ滅菌した器具を使うべきである。さもなければ、自分自身が道徳に感染してしまい、科学的探究に着手したつもりが、いつの間にか道徳の手先になってしまうということになる。例えばデュルケームは…。
『社会構造とゼマンティク3』、322頁
こうしてデュルケームはたいていの場合、連帯と道徳とに肯定的に評価された意味を付与する。〔…〕。社会学はもともと、モラリストがその原理から導きだすものを超えようと欲していた。その社会学が結局は自らモラリストとなってしまうのである。
8頁

「ヨーロッパ旧来の」倫理学=アリストテレス的な実践哲学をはじめ、あらゆる普遍主義的な人間学を基礎づけとする道徳理論への批判

全体社会は人間より成るとの過程から出発すれば、全体社会の理論を人間学的に根拠づけるしかなくなる。人間の自然=本性および人間の存在の条件に関する言明がまずなければならず、そこから全体社会に関する言明が導き出される、というように。そうなると、人間と全体社会とを結びつけるこの言明連関のうちに、道徳的判断も、あるいは少なくともその判断に対応する〔記述/評価という〕二重構成も、また全体社会そのものの構造の正当化も、組みこまれることになる。ヨーロッパ旧来の伝統は基本的な態度としては、〔人間に〕肯定的な評価を下しつつ、人間はその本性にもとづく目的からして、全体社会の中で生活するように定められているということから出発していた。〔…〕。そこでは政治の機能的優越が中枢的な位置価を持つものと見なされていた。というよりも全体社会そのものがほかならぬ政治的全体社会として定義されていたのである。この分化形式は人間学的に基礎づけられていた。
83頁
《全人類に対して》構想される倫理学や道徳は存在する。しかし、すべての普遍主義は、特定の条件に基づく普遍主義であり、その条件を特定することができる。理論をはじめ、なんらかの世界観が普遍性要求を伴って提示されているときには、それが提示されているという事実を、そのために使われている限定へと結びつけることがつねに可能である。その場合、観察者には、普遍主義を唱える者の世界観が、その普遍主義を可能にするニッチとして現れる
『社会構造とゼマンティク3』、333-4頁

道徳の「機能」を記述する――社会システム理論による道徳へのアプローチ

目下のところは地歩を、いわば社会学という要塞の前面が草刈りされた状態を、確保しておけばそれでよい。道徳を通して、モラリストがいかに振る舞うか、どのような隊列を組んで進軍していくのかを、妨げられることなく観察できればよいのである。そうすることには、モラリストの倫理的尊厳とは無関係に洞察できるような理由があるかもしれないのだから。
180頁

「尊敬/軽蔑」という区別に基づくコミュニケーションとしての道徳の機能

私は道徳ということで、尊敬ないし軽蔑を示唆しつつ営まれる特別な種類のコミュニケーションを理解しています。そこで問題となるのは、特殊な観点における、たとえば宇宙飛行士としての、音楽家としての、研究者としての、サッカー選手としての、良いあるいは劣った業績ではありません。問題とされるのはコミュニケーションの関与者として評価されるかぎりでの人格全体なのです。通常の場合、尊敬ないし軽蔑は、特殊な条件下でのみ付与されます。
266頁
道徳が現実と関連する概念であるためには、コミュニケーションを経由するしかない。つまり、論じるべきなのは常に、特定の仕方で道徳的と認定されるコミュニケーションであり、さらにもちろん、そのような認定が心的システムや社会システムに及ぼす影響なのである。あるコミュニケーションが道徳的な性質を持つのは、人間としての尊敬や軽蔑が表現されるときであり、そのときに限られる。〔…〕。つまり道徳は、どんな見解、どんな行為が尊敬や軽蔑に値するかを定める条件が示されることで表現されることが多いのである。
『社会構造とゼマンティク3』、324-5頁

2. 偶発性と複雑性の存在論――ニヒリズムの時代の社会学?

むしろわれわれの問題の根底には、全く別の種類の複雑性があるのではないか。その複雑性のゆえに、われわれがいまだ駆使したことのない、観察し記述する別の道具立てが必要となるのである。
167頁

道徳の根源性の拒絶――「良い/劣る」「善い/悪い」の区別の偶然性

《良い》と《劣る》の二元化は、どんな全体社会システムにおいても、限られた射程を有するにすぎない。それが一種の超二元となって、他のあらゆる二元を構造化し、その結果、あらゆる対立において結局のところ問題となるのは、《良い》対《劣る》の変種に過ぎないというわけには、いかないのである。道徳は問題に特化しつつ展開されるのであり、そうであり続ける。どんな全体社会でも、道徳一つだけでなく、より多くの根本問題が解かれねばならない。道徳的シンボルをどんなに一般化しても、この限界を超えることはできない。あらゆる状況が道徳的に評価されうるとしても、当の状況が道徳的にのみ評価されうるということにならないのである。
115頁

「パラドックス」――道徳の基礎づけの不可能性と根拠の不在

われわれは次の点から出発しなければならない。善く、あるいは少なくとも悪くなく(=意識的に劣るかたちで)なく行為すべきだということの、反論の余地なく良い根拠などみいだしえなかったのである。〔…〕。絶対的に悪いものは、絶対的に善いものから、どのみち区別されえないのである。〔…〕。というのは、善いと悪いの区別を用いて観察しようとするなら、〈この区別の一方の側、すなわち善きものが同時に区別そのものをも正統化する〉などと前提にするわけにはいかないからだ。そこには他ならぬ悪しきものも含まれるのだから。この差異そのものが善いということ――それは伝統にとっては明白な事柄だった。〔…〕。しかしこの差異を良いものとして指し示そうとすれば、論理学を侵犯することになる。論理学は区別されるものを当の区別そのものと同一視することをパラドックスとして扱うだろうからだ。
179頁

ルーマンの時代認識――機能分化した全体社会としての近代社会――ルーマンが自分の生きている「現在」としてなしている「区別」――現代社会においてそれぞれの機能システムは「非道徳的に」機能しうる

多数の個別機能が分出した後では、全体社会の状況も変化しているのだから、この種の構想を維持していくことはできなくなる。政治、経済、法、宗教、教育、家庭生活、科学、公衆衛生制度が相対的に高度な要求を掲げつつすでに分出しており、それぞれ特殊な遂行〔=他の諸システムへの関係〕をともないつつも独立しているのであれば、古典的なスタイルでの具象化は根拠づけられないものとして現われてくる。
86頁
まず最初に、どの機能システムも道徳を通して全体システムへと組み入れられうるわけではないという点を、認めておかねばなりません。機能システムはその自律性をそれぞれ異なる機能に、また同時に特別な二分コードにも負っています。例えば科学システムの場合なら〈真の〉と〈非真の〉の区別に、民主的政治システムにおいては政府と野党の区別に、というようにです。これらのどの場合でも、当該コードの二つの値が道徳コードの二つの値と収斂するように設定されている、などということはありえません。政府が構造上良く、野党は構造上劣っている、ましてや悪であるなどと宣明するようなところまでいってはならないのです。それは民主制にとっては死の宣告に等しいでしょう。同じことが、〈真の/非真の〉という事例に関しても確認できます。良い成績か劣った成績か、支払いをするかそれとも差し控えるか、他の誰かではなくこの相手を愛すると決めることについても、同様です。機能コードは、より高度な非道徳性の水準において備えつけられていなければなりません。〔…〕。したがって諸機能システムに分化した全体社会は、道徳的統合を放棄しなければなりません。しかしその社会においても、人間を尊敬と軽蔑の条件づけを通して人格全体として判定するという、コミュニケーション上の実践が保持されもします。つまり道徳的包摂は維持されますが、全体社会システムの道徳的統合をもたらしはしないのです。
269-70頁

根拠が不在であったとしても生成するシステムが存在するかぎり規範はある、問題はそれを観察し記述を続けることである!システムは機能している、それで「根拠」は十分?

規範の放棄不可能性――それはシステムのオートポイエーシスなのである
255頁
規範の放棄不可能性が問題とされる様式と流儀を変化させることになる。現実的にみるならば、問題なのは、一つの規範組成のための、最終定式でもないし、原理でも、すべてを包括し超え出る最高価値でもない。
261頁
そこから《決断主義》、相対主義、あるいは《何でもあり(anything goes)》の根本的な恣意性を導き出すのは、もちろん性急に過ぎる。それらの低い評価は、旧い世界が備えていた定位の確実さを放棄したくない場合に、生じてこざるを得ないのだろう。逆に次の事態を予期しなければならない。すなわちこの種の回帰的な、ハイアラーキカルにではなくヘテラルキカルに秩序づけられた、偶発的な諸作動の構造からも、《固有値》が、また《不可侵のレヴェル》が投企されるのであり、それらはそれなりのタイプの秩序でありうる、と。問われるのは、どんな形式においてか、ということだけである。
249頁

3. オートポイエーシスから無根拠の倫理へもう一つの道

ニヒリズムから新たな倫理へ――フランシスコ・ヴァレラ『身体化された心』の例――オートポイエーシスを観察するのではなく、自らがオートポイエーシスで「在る」―ルーマンが拒否した旧来のヨーロッパ的な存在論よりも根源的な「存在=無」の次元への定位

三昧/覚の伝統の倫理と、三昧/覚の伝統そのものが現代世界にとって大変重要であるとわれわれが考える理由をおさらいしよう。われわれの文化、自然科学、人文科学、社会と不確実な日常生活には無根拠性という深遠な発見がある。これは、生活に必死に意味を見出そうとする普通の人々に対し時代の預言者から伝えられた、概して否定的なものとしてみられる。否定や喪失として無根拠性をとらえれば、疎外、絶望、落胆、そしてニヒリズムに襲われるのは必定である。われわれの文化で概して支持されている治療法は、新しい根拠を見つけること(または、昔の根拠に回帰することである)。三昧/覚の伝統は、まったく異なる解決策を指摘する。仏教には、無根拠性が受容され、その究極の結論へ導かれるとき、自発的な慈悲として世界に顕現する本来の善性という無条件の感覚が生まれるというケース・スタディがあるのだ。したがって、われわれの文化におけるニヒリズムの疎外感を解決するための処方箋は、新しい根拠を見つけようとすることではなく、無根拠を追究し、無根拠へさらに踏み込む、鍛えられた真実の手段をみつけることである、とわれわれは考える。われわれの文化にあって傑出した地位を占めている科学も、この探究に力を貸さねばならない
『身体化された心』、354-5頁

「喫茶去」――ルーマンは茶道の作動を理解することができたのか?――現象即実在(実体即即機能)、超越即内在、永遠即瞬間、有限即無限、経験即規範の次元の存在――久松真一『茶道の哲学』――「無分別の分別(鈴木大拙)」――区別以前からなされる区別の創造

しかし茶道というものをよく考察してみますると、これは非常に広汎なものであります。日常生活の掃除とか食事とかいうような、ごく普通の、何でもない日常些事といわれるような事柄から、人間生活としましては一番深い高いものであるといってもよいと思われまするいわば非日常的な宗教というようなものに至りますまで、全体を包括しているのであります。だから芸術の方面もありますし、あるいは道徳の方面もある。そしてそういうものが一つの体系をなしている。
『茶道の哲学』、11-2頁
仏教の日常生活化。これは茶道の大きな功績だと思う。普通、仏教は寺院だけにあるもの、日常生活から離れた何か特別なものと考えられがちであるが、茶道はこれを、たとえばわれわれが毎日食事をするというようなところにまで浸透させ、仏教を日常生活においてあるいは在家において禅を行じることになる。茶を本当にやっていれば、著衣喫飯、行住坐臥の中に仏教が生きてくる。禅が生きてくる
『茶道の哲学』247-8頁
かように名人とか達人とかは、それぞれのわざの根源を体得した人、あるいはむしろ、その根源になった人であるから、そのわざにおいて自在を得たということができる。この場合、自在を得るというのは、ただかこの法則に受動的に従うことができるという意味のことではなくて、個々の法則がそこから成立してくる根源の法則、いわば法則をたてる法則を体得するということである。そのような法則の法則は、さまざまな法則を生みだしてくる創造的法則で、われわれの外にあって、われわれがそれに従ってゆくというような法則ではない
『茶道の哲学』、212頁

4. なぜルーマンは倫理的問いを回避してしまったのか?

ルーマンは本当に世界の内部にいるのか?――だとすれば観察の観察という作動がいかなる倫理的な生き方を要求するのかを問わねばならないのではないか

世界からの逃走はありえない。外部に立つこともありえない。選択肢としてありうるのは、区別を用いて世界を観察し、観察の作動それ自体が世界へと関与するその様をその区別を通して表現することだけである。
『社会構造とゼマンティク3』、386頁
作動的、構成主義的な論理学へのアプローチ、観察するシステムを観察するサイバネティクス理論…これらすべては、ある種の倫理に有意でありうるかもしれない。この種の認知的用具を領有する倫理そのものが、それでもなお道徳的によいと感じられうるか否か、この点については疑ってみることもできようおそらくこの疑いによって、その種の倫理においては、倫理という古典的明証を導いてきた権利が失われてしまうことになるだろう。たとえそうであっても、政治の中で道徳がいかに扱われるのかを観察する時にセカンド・オーダーの観察者の目に入ってくるのは何なのかを、記述しようと試みることはできる。その時われわれは良いものと劣るものを自分で選り分けることには、あまり関心を持たなくなることだろう
169頁

「倫理的なものについては沈黙しなければならない」?――区別以前に存在している生きられた自己を語りえないもの、認識し得ないものとして学問的反省の外部におき、区別以後から学問を始める

われわれはまだ常に、しかしおそらくは無駄に、決定と原理の連関に、救済をもたらす最終的式に、カント的な意味での体系に、あるいは普遍的な、アプリオリに妥当する法則に、期待し続けている。しかしあらゆる決定の最終的根拠はおそらくは原理のうちにではなく、パラドックスのうちに存しているのである。
239頁
宗教的な世界設定から出発していた全体社会とは異なって、われわれ現代人はもはや、二重化に依拠するこのリアリティ諸記述を一つの超越的原理のうちに取りまとめることなど、できなくなっている。超越論的主体も、この点では(そして他の点でも)役に立たない。われわれの全体社会は、自分自身を《多次元的に》記述する。これはすなわち、区別の複数性を用いて、ということである。そこでは、或る観察者が対象を指し示すために用いるその区別は、同時に観察者自身を対象から区別するために、つまり観察者を一つの《マークされない空間》へと移すために、役立ちもする。この空間から観察者は何かを観察しうるのだが、ただし自身が観察しているということだけは別である
242頁

「盲点を観ること」――区別以前で「在る」ことの究明としての倫理――神を「観察」することはできなくても、神を直観することはできる――ニコラウス・クザーヌスをルーマンは理解したか?

神の観察様式は、たとえばニコラウス・クザーヌスにおいて述べられているように、区別によるものではない。いわく、神は〈異ナル者スベテニ先立ツ(ante omnia quae differunt)〉。このテーゼに関しては数多くの議論がなされてきた。神は起源でも非‐起源でもない。存在でも非‐存在でもない。異なるものであることも、異なるものでないこともない。神は善くも悪くもない、神は道徳に対しても無関心である――しかしどこにおいてそうなるかを、私は知らないのである〔知っているならば、そうならない場合を考えることができ、したがって神を区別に服させることになるから〕
213頁
指し示すことが区別することに依存しているというこの点こそが、セカンド・オーダーの観察の方向へのヨーロッパ的展開を規定した問題であるように思われる。このように定式化することによって、極東の神秘主義(このヨーロッパ的な言葉が適切だとしての話だが)は別の反応を示したということも明らかになる。すなわちこの神秘主義は区別することを拒否したのである。禅宗の公案というコミュニカティヴな実践においては、以下のように、それが特に劇的な形式を帯びることになる。すなわちある問いのなかで特定の回答が予期されている。ところがその解答は何かを指し示すが故に、一つの区別を実現してしまう。それゆえに他の側を伴わざるをえず、〔これが唯一正しい答えであるはずだという〕予期としては破壊される結果となる――口頭においてであれ、〔警策の一撃という〕腕力によってであれ。これはパラドックスには向かわない。ここでいうパラドックスとは、出口のないあちらとこちら〔すなわち、区別の一方の側と他方の側とのあいだの無限の振動〕という特殊な形式なのである。〔…〕。これに対して公案の体験は違いの無さへと直接関係づけられており、したがってファースト・オーダーのパースペクティヴにおいて生じている。このような流儀によって何が得られるにせよ、それがめざしているのは差異を精錬することではなく、区別しなければならないという事態からの解放なのである
『近代の観察』 60-1頁

科学と道徳、経験と規範の峻別への固執――自らの観察も一つの作動であるといってはいるが、結局のところ科学的な価値中立性とは異なった仕方で距離をとって世界を外から眺める立場にとどまっている――眺められる世界が統一された世界ではなく多元的な世界であるという点は異なるが、やはり眺めている!

社会学的な全体社会の理論を、かつて何らかの倫理学が占めていた地位に就かせることなど、できないのです。それは社会学自身にとっても受け入れがたいでしょう。倫理学が道徳の反省理論であり、またそうであり続けなければならないとすれば、倫理学は自分自身を道徳のコードに結びつけておかねばなりません。つまり自身を、良いと劣るという二分図式に服させねばならないのです。〔…〕。しかし社会学にとって肝心なのは、言明の真理性ないし非真理性なのです。人間の行動すべてと同様に社会学もまた、道徳的に判定されうる――この点に関しては反論の余地はありません。しかし社会学の研究プログラムは、科学を実行しようと欲する限り、道徳コードではなく真理コードのもとに置かれるのです。そうしてこそ初めて倫理学の社会学が、倫理学的ゼマンティクの歴史的‐社会的分析が、可能になりもします。そうして初めて、倫理学の全体社会的な適合性の社会学的な批判がなされうる。〔…〕。カントの時代、フランス革命の時代にもまして今日では、この全体社会構成体の諸帰結を観察し、記述することができます。そしてそれこそが、社会学がこの世紀の終わりにおいて自らに課すべき課題なのです。
275頁
善/悪という道徳のコードは、真/偽という科学のコードと同様に、普遍的な適用可能性を持つ。しかし、両者の適用範囲がどれほど広かったとしても、それらを用いた判断を管轄するのは道徳であり、科学である。つまり、それぞれの領域の外に出ることはないのである。しかし重複する領域はある――例えば(蛇にそそのかされて?)倫理学が、判断の審議を問題としうる科学たらんと自ら求める場合である。しかしその場合でも、観察や記述が主として道徳コードと真理コードのどちらに思考しているか区別が可能である
『社会構造とゼマンティク3』、323頁
おなじように、認識とアクションの同一性を無視すること、〈知ること〉は〈おこなうこと〉だということを理解しないこと、人間のあらゆる行為は〈言語すること〉の中で起こり、そのようなものとして(社会的行為として)倫理的意味をもつ――なぜならそれは必然的に〈人間的であること〉をともなっているから――のだと理解しないことは、とりもなおさず人間を生きた実体として見ていないということになる。それは――〈ぼくらはいかにして知るのか〉を知っているいまとなっては――自己欺瞞の証拠にほかならないだろう。〔…〕。それこそ、僕らがこの本でののべてきたことが、ただ科学的探究の源泉であるばかりか、僕らが人間であることについての理解の源泉にもなるという理由だ。もはや単なる仮定だとはいえない、人間であることの基本的な存在論的特性を強調するような社会的ダイナミクスについて、ぼくらは調べてきた。その特性とはすなわち、ぼくらはただほかの人々とともに生起させる世界だけをもつのであり、それを生起させることを助けてくれるのは愛だけだ、ということだ
『知恵の樹』、300-1頁

ルーマンの社会学における「現存在忘却(ハイデガー)」――区別以前の語りえぬもの=観察するもの自身の「現」の世界におけるあり方を究明していく回路(倫理と宗教が本来問題とする領域)がルーマンの学問にはない――ある存在論的な前提に立脚をしたまま、それを問いなおすことなく観察と記述だけが積み重ねられていく?!

今日では、きわめて多様できわめて遠隔の文化圏や現存在形態について、おびただしい知識を駆使することができるので、〔自然的な世界概念の理念を明らかにするという〕この課題を有効に手がけるには有望であるようにみえる。しかし、それはみかけだけである。このように過剰な知識は、根本においては、本来の問題を見失われる誘惑なのである。見境なしにすべてを比較分類しても、真の本質認識が自然に出てくるわけではない。雑多なものを一覧表に収めてみても、そのなかに配列されているものが本当に理解されているわけではない。配列の原理が真価のあるものならば、それはすでに固有の事象的実質を含んでいるはずである。そして、この実質は配列作業を通じて発見されるようなものではなく、そこですでに前提にされているはずなのである。
『存在と時間(上)』、127-8頁
⇒現象学(フッサール)から現象学的社会学(シュッツなど)を経由してルーマンへという道と、現象学から存在論(ハイデガー/ガーダマー)へという道は、その目指すところにおいて根本的に異なっている。が、それをただの関心の相違としておくことはできるのか?ハイデガー的な問いかけの根源性に対してルーマンはどう答えるのか?結局はハイデガーもまた存在論という旧来のヨーロッパ的な区別の呪縛――彼が「形而上学」と呼んだもの――に捉われていたのだの一言で問いを回避できているのか?

参考文献

マルティン・ハイデガー『存在と時間(上)』、細谷貞雄訳、筑摩書房、1994年。
久松真一『茶道の哲学』、講談社、1987年。
ニクラス・ルーマン『近代の観察』、馬場靖雄訳、法政大学出版局、2003年。
――『社会構造とゼマンティク3』、高橋徹他訳、法政大学出版局、2013年。
――『社会の道徳』、馬場靖雄訳、勁草書房、2015年。
ウンベルト・マトゥラーナ/フランシスコ・バレーラ『知恵の樹――生きている世界はどのようにして生まれるのか』、管啓次郎訳、筑摩書房、1997年。
フランシスコ・ヴァレラ/エヴァン・トンプソン/エレノア・ロッシュ『身体化された心――仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』、田中靖夫訳、工作舎。
頁先頭↑|馬場靖雄 資料|加藤哲理 評奥田太郎 評