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2011-10-03 掲載

『社会の科学』合評会

ルーマン『社会の科学』 このコーナーには、2011年08月07日に早稲田大学にておこなった二クラス・ルーマン『社会の科学』(邦訳: 合評会における配布資料を収録しています。
この頁には関谷 翔さんの配布資料を掲載しています。

このコーナーの収録物一覧 評者 川山竜二さん
  評者 関谷 翔さん
  司会 酒井泰斗さん

科学システムや科学システムに組み込まれる組織の作用について(第9章を中心に)
関谷 翔(東京大学大学院 大学院総合文化研究科広域科学専攻相関基礎科学系)

1. 『社会の科学』を何についての書物として読むか
2. 問題設定
3. 全体社会システム・機能システム・組織システム・相互作用システム
4. 機能・作用・反省
5. 機能システムの作用の前提条件:事象・社会・時間次元
6. 科学システムが他の機能システム(政治システム)と触れるとき
7. ある組織が2つ以上の機能システムに属するということ
8. 複数の機能システムをまたぐ組織によって対応する現状への処方箋(?)

1.『社会の科学』を何についての書物として読むか

『社会の科学』をどのような書物として読むかについては,ある程度の自由度があるように思われる.すぐに思いつくだけでも,
(1)意識ではなくコミュニケーションをその基本的作動とするオートポイエティックなシステム論を基礎として科学論・知識社会学を構成しなおす書物として,
(2)社会システム理論という概論のなかの科学システムという各論を扱った書物として,
(3)科学が現実にどのような状況にあり,どのような問題・課題に直面せざるを得ないのかを社会学的に啓蒙する書物として,
(4)科学が科学を扱うという反省を体現する書物として
読むことができるし,もちろん,私が思いついていないだけで別様の書物として読むこともできるだろう.また,読み進めていくうちにこれらのあいだを行ったり来たりすることができる.本稿では(3)科学が現実にどのような状況にあり,どのような問題・課題に直面せざるを得ないのかを社会学的に啓蒙する書物として『社会の科学』を捉える.

2. 問題設定

 ルーマンの社会システム理論においては,各機能システム間の関係について割かれている紙幅が相当に少ないという印象を受ける.しかしながら,こんにちの科学システムが置かれている状況に鑑みるに(外的状況,すなわち科学システムの環境を見るのだから当たり前ではあるのだが),科学システムが他の機能システムと取り結んでいる関係こそが大きく問われている.ルーマンの言葉を借りるのなら,機能や反省と同じかそれ以上に,作用の観点から科学システムを再検討する必要があると思われる.
幸いにも,『社会の科学』では特に第9章「科学と社会」において,一定程度の紙幅を割いて科学システムと他の機能システム(主に政治システム)との関係(科学システムが政治システムに及ぼす作用と政治システムが科学システムに及ぼす作用)について考察されている.
そこで,このあたりのルーマンの記述を足がかりとし,科学システムが政治システムに及ぼす作用や政治システムが科学システムに及ぼす作用にかんしてルーマンがどのようなことを念頭に置いていたのかを(できたら)理解していくとともに,そうした作用の存在下でともかくも作動する科学システムや政治システム(もしかしたら機能システムの次元ではなく組織の次元かもしれないが)に対する処方箋がどのようなものになるか,朧気ながらもその輪郭を提示していきたい. こうした問題関心・目的のもとに,以下の2節を充てて,必要となる区別についてまず確認していく.

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3. 全体社会システム・機能システム・組織システム・相互作用システム

 ルーマンがシステムについて語るとき,別段の断りがない限り,それは全体社会システムあるいは機能システムのことである.システムには他にも組織システムや相互作用システムがある.特に,機能システムと組織システムとを混同することを避けなくてはならない.

組織は,そこに居るひとびとのたんなる相互行為によって形成されるのでもなければ,社会ないしその下位システム──つまり全コミュニケーションないしその一側面を分出させるシステム──でもない.[708]
(以下,[ ]内は邦訳ページ数,傍点強調は省略)
各機能システムの内包は,同じ二値コードを用いていることである.科学システムであれば真/非真,政治システムであれば与党/野党,法システムであれば合法/違法である1. よって,どのような組織に属しているどのような人によるコミュニケーションであっても,真/非真のコードで作動するのであれば,それは科学的コミュニケーションである.
知識獲得にかんして,真/非真のコードのもとで作動するものは,何であれ科学である──たとえそれが修道院の中庭や企業の実験室で行われようと.[674]
1 各機能システムがどのコードに因っているのかはどのように観察されるのか.科学システムのコードが真/非真なのは直感的には理解しやすいが,政治システムのコードが与党/野党であると言われてもあまりピンとこない.
一方,組織システムにおいては誰がその組織に属し,誰が属さないのかというメンバーシップが第一義的に問題となる[708].また,組織システムだけが持つ特質として,内部で生じた結果を外部にコミュニケートできることが挙げられる[707].各機能システムどうしは,その内部で用いられるコードが異なるため,この意味ではコミュニケートすることができない.機能システムに可能なのは,自機能システムが他機能システムにとっての環境となること,すなわち構造的カップリングによって,他機能システムの内部に刺激をもたらすことである.ある機能システムが文字通り外側から刺激を受け取ることはできない.この点は作用について考えるうえで,機能システムと組織システムとが決定的に異なる点の1つである.この差異について換言すれば,それは
作動上閉鎖した自己言及的な機能システムどうしの厳密な分離は,組織のレベルで,とりわけ組織間関係の網の目のなかで妨害される[711]
ということになる.つまり,機能システムのレベルでAシステムかつBシステム(A,Bは互いに異なる機能システム)ということはあり得ないが,組織システムのレベルではAシステムかつBシステムに属するということがあり得る(たとえば,後述の大学のなど).
さらに,
組織は,期間設定すなわち時間の限定されたプロジェクトの設定……を可能にする[708]
最後に,
組織は,メンパーシップの維持に条件をつけることによって,動機を調達する.その結果,真/非真のコード値は,動機としては広く排除されることになる[711]
『社会の科学』第9章においては,説明の分かりやすさを追求するあまり,機能システムと組織システムとを一定程度まぜこぜにした形で提示されているのではないだろうか?[島津氏]
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4. 機能・作用・反省

機能・作用・反省については1つの引用を確認するだけで足りるだろう.
単一体としての社会に対する機能システムの関係,すなわち社会に対する方向づけを機能とよび,社会内部の環境とりわけ他の機能システムに対する関係,すなわち社会の中での方向づけを作用,そして自己自身に対する関係を,すでに知っているように反省と呼ぶことにする.[674]
特に機能システムの作用については,
システムは自己のオートポイエーシスの継続という条件のもとでのみ作動でき,どんな作動的・構造的カップリングも,たかだかシステムが作動のためにいかなる具体的な構造,予期,テーマを活性化するかということに,影響を与えうるだけである.[677]
ルーマン自身の記述ではそうなっていないが,本稿においては組織システムについても同じように機能・作用・反省を用いることにする.

5. 機能システムの作用の前提条件:事象・社会・時間次元

 本節ではある機能システムが他の機能システムに作用を及ぼすための前提条件について確認しておきたい.特に,科学システムが他の機能システムに作用を及ぼすことを念頭に置く.ルーマン自身もしばしば用いる社会次元(Sozialdimmension),時間次元(Zeitdimmension),事象次元(Sachdimmension)という区別にそってそれぞれ見ていくことにする.
社会次元における前提条件は簡明である.複数の作動上閉鎖した機能システムが存在することが作用の前提条件となる.ルーマンによれば,

各機能システムは,他の機能システムがそれぞれの機能を充足すること,それも発展に適した水準で充足することに依存している[675]
あるいは,
各機能システムは他の機能システムと連動してはじめて成立する[696]
のだから,この前提は必ず満たされることになる.この次元においてもうひとつ特筆すべき点は,複数の機能システムが存在することによってリスク/危険という区別(あるいは決定システムと巻き込まれるシステムという区別)が成立することである.リスクは自システムに帰属される何らかの損失,危険は自システムに帰属できず環境(他システム)に帰属される何らかの損失である.すなわち,自システムのリスクが他システムにとっての危険であり,その逆も然りという状態である.これは構造的なものであり,より良い意思決定によって克服できるものではない[697-98].
時間次元における前提条件は,それぞれの機能システムにおける各固有時間が同期化されることであると考えられる.それぞれの固有時間がかけ離れていれば作用は及ばない.科学はそれ自身としては,新たな知識の獲得のためにどれほど長い時間がかかっても構わない.
何か説明できないことがあっても,それは「まだできない」だけであり,披露できる業績だけでなく,まさにこの「まだできないこと」も,科学の機能を正統化する[664]
のであるから.しかし,いま現在はまだ定かではないにもかかわらず意思決定をいま行わなくてはならないという形で,現在という時間を通じて同期化が行われる.しかもこうした同期化はすべての機能システムにおいて行われている2
いまや未来の不透明性は,現在における現在の問題,現時点で進行する意思決定過程の問題となった.それもすべての機能領域において.[699]
2 ルーマンの時間論については理解困難なところが多く,自分の理解に自信が持てないので是非この機会に質問したいところだが,本稿に含めてしまうといささか不格好になるし,『社会の科学』以外のテキストに多く依拠することになるので,別の機会にでも……などと思っていますが,もし良いテキスト等があったらご教示ください.
事象次元における前提条件は,特に科学システムにおいては,それが機能し新たな知識を生産していくことである.そうした新たな知識に対して他の機能システムから需要があるか否かに関わらずに,作用がもたらされる[689].
科学は他のシステムの中に不均衡を生み出す.……新しい知識は,生産と販売のチャンス,戦争や医療におけるチャンスを変化させ,それ相応の不均等な結果をともないながら専門教育期間を延長し,もちろん科学的研究そのものに対しても不均等をもたらすようなかたちではたらく.[719-20]
以上の考察から分かることは,作動上閉鎖した各機能システムが分出し,時間構造の変化が起こることの当然の帰結として各機能システムどうしの作用がもたらされるということである.それ以上の別段の前提条件の必要なしに,科学システムの作用がもたらされることを確認した.

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6. 科学システムが他の機能システム(政治システム)と触れるとき

 本節ではさらに具体的に,科学システムと他の機能システム(特に政治システム)との接触についての記述を確認していきたい.本節において機能システムレベルの議論を確認したあと,次節にて組織システムレベルでの議論を検討することとする.
まずルーマンは,政治的意思決定の基礎として科学の重要性が高まっていることを指摘する.

目標のあるテクノロジー開発の領域,リスク評価の問題,エコロジー的帰結の予測において,科学の意義が政治的意思決定の基礎として非常に大きくなってきたために,科学そのものの権威がますます問われるようになる.[678]
しかしながら,科学システムがそうした政治システムの要求に応えようとすると,科学システムは自らの体面を傷つけることになる.
科学はリスク計算やリスク低減の問題について助言を依頼され,科学そのものの不確実性や科学として主張される意見の不整合性を露呈せざるをえなくなる.[700]
こうした状況は,環境がシステム内部の構造と対応していないという明らかな事実によってより一層強化される.
環境,社会的日常,他の機能システムは,通常のその問題や問い合わせを個々の専門分野にあわせて表現するわけではない.科学の環境は,科学システムの内部分化にあらかじめすでに対応しているわけではない.したがって科学の作用は,典型的には学際的にもたらされなければならず,応用にかかわる研究は,じっさいにそのつど求められる専門分野の共同研究をもたらす誘因の1つでもある.だが超領域的な分野の観点から見れば,複数の専門分野が理論的に統合されているわけではないから,この形態の共同研究は理論的水準の低下を余儀なくされ,すくなくとも研究のさらなる発展にとっては,プロジェクトという形態でエピソードにとどまる.[679]
この状況を科学システムの外部から(政治システムの側から)見れば,次のような印象を受けることになる.
機能システムどうしの特定の接触においては,科学システム内部のコミュニケーションや科学がまだ知らないという状態により合致した,まったく別の印象が形成される.それはまるでクリスマス前の飾りつけをしたデパートにいるようなもので,陳列品の豊富さと輝きは印象深いが,何か特定の品を探すと見付からず,しつこく尋ねてみると,当店ではそのような品は扱わない,という決定を下した計算にいきあたる.[679]
「当店ではそのような品は扱わない」では困る.他にそのような品を扱っていそうな店は見当がつかない.是非この店で扱って欲しい,無いなら作って欲しいという欲求が顧客にはある.
科学は他の機能システムによって代替できない.保証された知識の他の割当先は存在しない.だがまさにその代償として,科学は,増大した(だが反省された,そして懐疑主義的でも主観主義的でもない)不確実性,多次元性,複雑で分権化した観察状況を引き受けなければならない.科学はもはや質問に答えられない.科学とはそういうものなのである! したがって科学は,もはや単純に進歩の代表者の顔もできない.科学は,正しいもの,理性的なものの名において,その知識が受容され利用されるように要求できない.そして科学は,それにもかかわらず機能的独占を維持するのである.[672-73]
科学はあいかわらず,確実な知識を供給できると期待されており,その期待に応えるモデルとして有用な技術が役立っている.だがそうだとすると,科学者が未来予測,安全性評価,あるいは法的に意味のある問題に対する純然たる専門家の判断を提供すべきときに生じる違背は,双方の側にとってますます苦痛になる.[679]
そして,こうした苦痛的状況にあって,科学システムに残された可能性は自らの作動的閉鎖性を維持することであるとの診断を下す3
科学に残された可能性は,自己のオートポイエーシス,自己の機能,自己のコード化とプログラム化に引きこもること,つまり自己を機能特化したシステムとして正統化することだけである.[700]
3 政治システムに残された可能性も同様のものだろうか? おそらくそうなのだろう.
機能システムのレベルではおそらくそうなのだろう.ここでなされている診断は,機能システムは機能システムであり続けるしかないとしか言っていない.2つの異なる機能システムが融合して1つの別種の機能システムになるなどということは言語道断である.科学システムは科学システムであり続け,政治システムは政治システムであり続ける.
たとえば政府/野党という政治的文脈は,真/非真の区別の棄却となる.その意味するところは(注意深く読まれたし!),他の文脈の値ないし指示が認知されないということではなく,自己の作動が他の文脈の区別を持ち出さないということである──たとえば政治はもちろん,科学が真ないし非真であると探り当てた結果を受け取るが(受け取らないとしたら政治的にお粗末な助言を受けたのだろう),みずからその2つの値のあいだの選択を行うわけではない.[701-02]
しかしながら,科学システムも政治システムもともに組織システムを利用することが可能である.その点については節を改めて論じることとするが,そのための準備としてさらに2点触れておきたい.
まず,科学システムと政治システムの境界についての以下のような指摘である.
意思決定の審級は,たとえば意思決定の提案よりもデータの方に関心がある.データと統計に精通していることと意思決定をすることの境目が,科学と政治を分かつもののように見える(もっとも,結婚相談や家族療法などについては,まったく別の事情を想定しなければならないだろう).[683]
この見かけ上の境目は妥当だろうか.政治は科学の提供するデータに関心があるのだろうか.Krückenの研究によれば,政治システムは科学的知見を備えているとされる専門家や製薬会社のメンバーを意思決定に参入させ,結果として政治システム自らのリスクを減らす(責任を希釈する).このリスク変換と名づけられたものを素直に理解すれば,意思決定を提案してもらった方がよいと考えられるが,上記の記述とはどのように関連づけることができるだろうか.ひとつあり得るのは,上記で念頭に置かれているのが選挙予測のようなものであるという可能性である.どうすれば次期の選挙で与党となることができるか,より多くの議席を獲得するために何をするかといった意思決定においては,やはり意思決定の提案よりもデータの方に関心があると言えるかもしれない.もともと政治システムにとってリスクであるものは上記引用が当てはまりやすく,もともとは政治システムにとって危険であるもの(政治的意思決定によってリスクになるもの)はリスク変換が当てはまりやすいということだろうか4.ここでは,機能システムと組織システムという2つのレベルが錯綜しているように思われる5.政治システムが薬理学者やステークホールダーを意思決定に参入させる場合には,何からの組織が編成される必要がある.リスク変換は機能システムレベルではなく,組織システムレベルでの話であるから,機能システムレベルの話である上記引用においては,埒外であるということなのかもしれない.
4 Kruckenの論文では,新薬承認の事例が取りあげられている.
5 私が錯綜させているだけ? 私が混乱しているだけ?

 もう1点は次のような指摘である.

環境,社会的日常,他の機能システムは,通常のその問題や問い合わせを個々の専門分野にあわせて表現するわけではない.科学の環境は,科学システムの内部分化にあらかじめすでに対応しているわけではない.したがって科学の作用は,典型的には学際的にもたらされなければならず,応用にかかわる研究は,じっさいにそのつど求められる専門分野の共同研究をもたらす誘因の1つでもある.だが超領域的な分野の観点から見れば,複数の専門分野が理論的に統合されているわけではないから,この形態の共同研究は理論的水準の低下を余儀なくされ,すくなくとも研究のさらなる発展にとっては,プロジェクトという形態でエピソードにとどまる.[679]
ギボンズのモード論を連想させるような記述であるが,この記述から類推して,次のように述べることは可能だろうか.すなわち,個々に分出した機能システムにあわせて,それらの機能システムの環境やさらには全体社会システムの環境はみずからを表現するわけではない.だから,複数の機能システムを横断するかたちで,プロジェクトという形態で,エピソードとして,組織システムのレベルで対応しているとは言えないだろうか.おそらく急いで付言しなくてはならないことは,機能システムレベルではまた別にテーマ化が起こるということである.各機能システムは自らが問題化できるようにしか問題化できないし,自らが問題化できるように問題化する.しかし,それとは別に組織システムのレベルではいくつかの機能システムをまたぐようなかたちでプロジェクトが成立するのではないだろうか6
6 このあたりが本稿のキモなのだが,同時にアキレス腱にもなっている.
政治と科学との界面においては,(ホンネとタテマエという二枚舌も巧みに用いながら)責任境界はコミュニケーションのなかでおのずと決められるのではないだろうか? 科学的データの誤りの責任は科学者に,意思決定の誤りは政治家にというように[酒井氏]
科学者も政治家もともに,「責任回避の技術」とでも呼ぶべきものを持っている(命名:ずり下がり方式)[出口氏]
システムの構造的要素と構造そのものとを分けて議論しなくてはならない[酒井氏]
事象としては単一のコミュニケーションであっても,それがどのように次のコミュニケーションを産み出し接続していくかが重要であり,また,複数のシステム内にコミュニケーションを産み出し接続していくことが可能である[徳安氏]
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7. ある組織が2つ以上の機能システムに属するということ

 前節の議論は主に機能システムのレベルのものであったが,本節においては組織レベルについて議論を進めていきたい.
機能システムのレベルでは同時にAシステムでありかつBシステム(A,Bは互いに異なる機能システム)であるということは不可能であるが,組織システムにおいては可能である.ある組織が2つ以上の機能システムに属するということはどういうことか.端的に言えば,異なる複数のコードを用いたコミュニケーションが単一の組織において観察できるということだろう7.ルーマンはそのような組織の例として大学を挙げ,以下のような見通しを披露している.

近代社会の組織の多くは,特定の機能システムに組み込まれている.大学が研究と同時に教育にも貢献しなければならない,というのはむしろ異常なことである.教育と研究を直接的に連結するとしたら,まじめに考えれば,どちらの領域でも相当な能率低下を招くだろう.とりわけ注意すべきは,指数関数的な知識成長の段階が,人員と予算にかんしては,いつか(すでにこんにちではないにせよ)終了する,という点である.それは,人員や予算の点で(知識そのものの点ではないにせよ)ほぼ停滞した状態にいきつかざるをえない,ということである.またそれは,極めて実践的にいえば,ひとりの科学者は一生のあいだに少数の後継者しか育てられない,ということである.そうなると大学は,要求度の高い資格が得られる学校にならなければならず,学問上の後継世代の選択は状況に左右されるかたちでしか行えない.そうなると,とくに学問上の後継のための教育を行うことは,もはや意味がなくなる.教育と科学的研究の分化は,このようなかたちで大学でも貫徹することになるだろう.[712-13]
7 組織におけるコミュニケーション自体は1つのコードに基づいているが,その組織のメンバーシップの条件については別のコードに基づいているというような場合についても複数の機能システムに組み込まれていると言えるだろうか.たとえば,組織内では純粋に真/非真のコードに基づいてコミュニケーションがなされるが,その組織のメンバーは政治的に選ばれるような委員会など.
近年では,大学はさらに経済システムにも組み込まれていると言えるだろう(経営赤字による土地の売却等).ここでルーマンは複数の機能システムに属していることを歴史的な遺産のように描き,やがては教育と科学との分化が起こるだろうと予言しているが,果たして本当にそうなのだろうか.例えば,1970年代以降に増えているIRB(組織内倫理委員会),SAB(科学諮問委員会),食品安全委員会や生命倫理委員会などのような各種委員会・審議会等はどのように捉えることができるのだろうか 8.少なくとも歴史的な遺産ではないことは明らかである.
8 そもそもこれらの組織が複数の機能システムに組み込まれていると言えるかどうかが不安ではある.
ここでいま一度思い出したいのは,次の指摘である.
作動上閉鎖した自己言及的な機能システムどうしの厳密な分離は,組織のレベルで,とりわけ組織間関係の網の目のなかで妨害される[711]
「妨害」というネガティブな言葉が用いられているが,次のようにポジティブにも表現されている.
組織によってはじめて開かれる他の可能性がさらに加わり,こう定式化してよければ,研究に対する科学の影響力を低減させる.とりわけ,組織は選択的に助成することを可能にし,したがって選択的に助成しないことも可能にし,その基準となる意思決定を,たとえば政治的影響力のようなシステム外部の影響力の手が届くものにする.[710-11]
組織が固有に持つ,ここで指摘されている性質を積極的に利用するために複数の機能システムに組み込まれるような組織が多く編成されていると解釈することは十分に可能である.機能システムのレベルであれば,科学システムが何をテーマ化するかは科学システムのオートポイエーシスによって決まるが,組織のレベルであればその限りではない.特定の問題について科学システム以外のものが方向づけることが可能になる.逆に言えば,組織化以外の方法によっては,そのような可能性を開くことができない.文脈は異なるが,次のような指摘にも通ずる.
すべての進歩はつねにエピソードを組織化するほかない,ということを意味する.そうすれば科学は,研究のなかにある社会的リスクについても知りうるし,事情(政治的圧力,世論,法などを含む)によってはプロジェクトの優先順位をその事情に応じて選べる.[705]
組織システム内で複数の機能システムの並存があるということはいわゆる「作動上のカップリング」とどれほど異なった現象を名指しているのか?[小宮氏]
組織システムは各機能システムの環境なのだろうか?[瀧川氏]
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8. 複数の機能システムをまたぐ組織によって対応する現状への処方箋(?)

 ルーマンであれば,そのような複数の機能システムをまたぐ組織(以下,システム横断的組織)による対応は能率低下が避けられないから,機能システムの分化が遅かれ早かれ貫徹されるだろうと言うかもしれない.しかし,本節ではあえてその路線はとらずに,システム横断的組織の存在を前提としながら,そうした状況への処方箋としてどのようなものが考えられるか,すべてを網羅することはできないが,考察することにしたい.
第1に,多くの組織が特定の機能システムに組み込まれていることに馴れてしまってはいるが,そうではなく複数の機能システムにまたがるシステム横断的組織も存在しているということに自覚的になる必要があるだろう.大学のように比較的長い歴史を持つものについては比較的よく認知されているだろうが,歴史の浅いものについてはそうでないことが多い.実際には複数の機能システムをまたいでいながら,単一の機能システムに組み込まれた組織だと誤認することによって無用の混乱を生み出すことがある.これは,その組織のメンバー自身にも当てはまるし,メンバーでない人にも当てはまる9

9 とは言え,普段,多くの時間を過ごしている組織とそれが組み込まれている機能システムに順応するのは当たり前なので,それ以外の組織や機能システムとのあいだで起こす不具合をいかに低減するかという指向性が重要だろう.
 第2に,リスク/危険の問題である.システム横断的組織はその目的から言って,非常に重要な意思決定を行うことがしばしばである.その意思決定の重さ(責任の重さ)に比べ,その組織が背負うことができる責任は,組織という形態の観点からも,メンバー数の観点からも,小さくならざるを得ない.また,組織レベルであるため,システム横断的組織が自ら行った意思決定は,ダイレクトに他の組織へ入力される.その段階にあっては,もはやシステム横断的組織の意思決定は自らのリスクではなく,当該の意思決定がどのように利用されるか分からないという危険になっている.しかも,受け取る側の組織が単一の機能システムに組み込まれている場合には,さらに不透明になる.
 第3に,サンクションの利用可能性の問題である.これはシステム横断的組織に限った話ではない.科学者が証人として裁判所に呼ばれる,あるいは科学者が参考人として国会に呼ばれる等の場合,つまり科学システムとは別の機能システムで何らかの貢献を行う場合,別の機能システムでなされた貢献に応じた評価・名声などのサンクションを,科学システム内で活用することはできない.この問題に対しては,科学者の社会的責任や呼応責任といった倫理的側面からのアプローチがあるが,それ以外の方策(特に組織レベルでの方策)も考えられるだろう.
第3の点について,発表者はどのようなビジョンを持っているのか?[立花氏]
第3の点について,急に個々で個人レベルでの話になってしまっているが,ここも組織システムなり機能システムのレベルで考えることが重要ではないか?[田中氏]
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9. おわりに

 『社会の科学』におけるルーマンの記述の重心は,組織システムではなく機能システム,作用よりも機能にある.にもかかわらず本稿のように組織システムや作用に焦点を当てるのは先祖返りなのかもしれない10

10 ルーマンの処女作は『公式組織の機能とその派生的問題』という題である.
だが,以下の引用からも覗えるように,機能システムと組織システムとはある意味で相互依存的なものである.
科学はこんにち,他の機能システムと同様に単位として単一の組織ではあり得ないが,組織に依存している.このことはいくら強調してもしすぎることはない.メディア(真理,権力,貨幣など)の統一態は,絶対に組織の統一態ではない.メディアは,非蓋然的であるにもかかわらず受容可能なコミュニケーションの象徴化の,緩やかにカップリングされた可能性を供給するのに対して,組織は(様式は異なるがメディアに固有のプログラム──ここでは理論と方法──と同様),開放性が回復されない範囲でメディアを結合し消費する,緊密なカップリングの形式の1つである.この結合と消費という側面は,メディアが総体として統一的に組織されるのを排除する.なぜなら,そのような組織化が起こると,メディアの流通が妨げられ,メディアの開放性が組織内部の可塑性に縮減されるからである.それを予防するために,機能システムにおいてはつねに複数の組織が認められる……[710]
この引用は何となく分かるようで分からない.ハイダーの形式/メディアについての理解が不足しているか?

ゆえに,機能システムだけを指向するのでも組織システムだけを指向するのでもなく,両者に視線を注ぎながら,理論と現実とが互いに他の理解・改善に役立つ仕方で自らの研究を進めていけたらと妄想している.

特定の具体例に即した実証的な研究を行ってはどうか? 知識の作動と組織について,権威論とも絡めながら,「応用ルーマン論」としての道があると思う[出口氏]
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