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石戸教嗣 著『リスクとしての教育 システム論的接近』合評会
評者 小松丈晃(北海道教育大学釧路校)

ルーマン/社会の理論の革命 2007年6月2日(日)に青山学院大学にておこなわれた、石戸教嗣 著『リスクとしての教育──システム論的接近』合評会 の配布資料です。 評者は 小松丈晃さん毛利康俊さんのお二人でした。 この頁には小松丈晃さんの配布資料を掲載しています。 [MS Word: 55k]
構成と内容
(1)例外事例からリスクやリスク社会を語ることの禁欲
(2)リスク回避を無前提に追求することの禁欲
(3)「リスクから守られるべき存在としての子ども」というイメージへの挑戦
論点
(1)「リスク」の概念の中身に関する点
(2)上記(1)で述べたこととのかかわりで
(3)教育的な営みとはそもそもリスクを冒す行為だという観点について
(4)転移/逆転移-関係と、教師不信の問題との関係について
(5)発達障害をめぐる議論に関して
(6)その他、細かい点

構成と内容

・大きく、二部構成

第一部 第1章~第3章 リスクの概念、リスク社会論、ルーマンのリスク論の位置 *第2章:ギデンズ/フーコー派/デュルケム派のリスク論と、ルーマンのリスク論との相違、ルーマンのリスク論について
第二部 第4章~第8章 教育システム内部のリスク、各教育問題との関わりで議論 学級崩壊、教師への不信問題、リスクある子ども、発達障害

「教育システムはそのそもそもの作動において、つねにすでに(各種の)「リスク」に満ちている」という一貫した観点から、学級崩壊、教師と生徒との感情的なもつれ、あるいは教師への信頼、犯罪-を犯す/-にさらされる子ども、「リスクある子ども」概念の検討、そして発達障害、といった今日の教育をめぐる諸問題にアプローチ、そのそれぞれの現象がなぜ生じているいるのか、こういった数々の、現場の教師を悩ませる問題からの脱出口はどこに求められるべきなのか、という教育実践上の課題に対しても、やはり一貫して、この「リスクとしての教育」という観点から独自の見解を提示

(1)例外事例からリスクやリスク社会を語ることの禁欲

・教育とリスク――通例は・・・ 学校をめぐる数々の事件への対処、子どもを対象にした犯罪、安全教育
cf.)文科省「生きる力をはぐくむ学校での安全教育」(2001)
  学校での「危機管理マニュアル」(2003)
   [1] 生活安全、[2] 交通安全、[3] 災害の安全、[4] 防犯教育、の4領域
 
教育の企てそのものが、そもそも「リスク」に満ちている  
「単に近年において教育システムにおけるリスクが高まっているという短期的な見通しにおいてではなく、教育には本来的にリスクがはらまれているという原点に立ち返って、教育をとらえ直したい」(1頁)
「巨大化する技術が抱える不安」「異常な事態」にのみ目を向けるのではなく、「われわれの日常生活に潜む『ありうるかもしれない』ことの集積として存在」するリスク(45頁)、「日常不安」(同)に目を向ける必要性
→例外的な事例を針小棒大に語る各種の「リスク社会」論とは対照的
 *C.ペローの認識
従来の「教育」において支配的なイメージ、「神話性」を解体 "現実"をまずは直視してそれを出発点としながら、教育実践での取組への視点  

(2)リスク回避を無前提に追求することの禁欲

・「リスク回避」よりも、リスクをポジティブなかたちで捉え直し
[1] リスクがチャンスを裏腹であるという当然のことをしっかり認識している点
[2]「子どもの安全」を名目にした安全・安心のまちづくりに孕まれる問題とのかかわり=リスク回避が、とくに「子どもの安全」という名目で、さまざまなかたちでの「排除」につながりうる、等の問題に鑑みると、「リスクとつきあう」という石戸氏のスタンスは評価しうるものに思える
「子どもの可能性に賭けることをその営みの本質とする教育がそもそもリスクある行為」70頁
「転移/逆転移が、非教育的関係に陥るリスクを孕みつつも、じつは教育にとって有効なもの」ものだ(第4章)
*石戸氏は本書では明示化していないが・・・

(3)「リスクから守られるべき存在としての子ども」というイメージへの挑戦

・とりわけ、第7章「リスクある子ども」
 「リスクから守られるべき」「保護されるべき」未熟な存在としての子ども ⇔ 「リスク主体」としての子ども

cf.)「個人化」&「脱-伝統化」→ いま・ここでの行為・決定の、将来に対して有する「責任」が、当該個人により重くのしかかる(決定の、個人への帰属)
ベック&ベック-ゲルンスハイム(1990
→子どもの成長=親の現在の行為次第という表象。親自身の(人生設計上の)成功として観念
「私の子どもたちは、自分よりもよい人生を生きてほしい」と語る親は、たいていの場合、子どものためを思ってというより、自分自身のためを思ってそう語る」(Beck & Beck-Gernsheim 1990
将来的に考えうるかぎりのありとあらゆるリスクから遠ざけるべく、子どもの安全のために多大な(時間的、金銭的な)「投資」をする親  
リスクから子どもを遠ざけること=「子どもらしさ」の保持 ⇔ リスキーな子ども:子ども/非-子どもという区別の「向こう側」へ
Jackson & Scott 1999, "Risk anxiety and the social construction of childhood" in: Lupton,D.,ed.,1999 :86-107

このイメージへの挑戦:石戸氏は、子どもを、二側面から捉える
[1] リスクから保護されるべき存在という側面
[2] リスクを冒す主体である子ども
「みずから判断を下すリスク主体」
「一面的に子どもに帰責されるのではなく、また一面的に環境(家庭や学校)に帰責されるものでもない」(157頁)


・近年の、各種安全教育との関わりという意味でも示唆的(に思える)

――防災教育(矢守「防災教育の新しいアプローチ」『教育と医学』2005/07,No.625)
阪神淡路大震災を契機に、児童・生徒が救援する側にたつ「能動的」な はたらきかけ=「災害現場で自分たちで何ができるかを考えさせ」、「助 けられる」だけでなく「助ける」ことも同時に重視した防災教育へと、 シフト(「ボランティア教育」、「市民教育」)
――交通安全教育:被害者にならない教育から加害者にならない教育へ
――防犯教育:犯罪の被害者にならない教育だけでなく、将来危険性のあるもの を予見しそれを回避する能力(「予防安全」)を育てる教育も重視
cf.) ただし、本書の記述では、石戸氏自身がこうした「帰属」をおこなっているが、むしろ、当事者自身がすでに子どもをこうした存在として記述しているという視点も必要かと思われる

論点

(1)「リスク」の概念の中身に関する点

・石戸氏の「リスク」の概念

・一方で、「帰属」に則した叙述がある
・他方で――
  「能動的なかかわり」、「みずからの選択」、「心理的」な「構え」

・教育は「冒険」であり「賭け」であるところが重要(16頁)
・主体的・積極的な構えという意味で「リスク」概念を取り上げている部分(23頁など)
・「リスクを冒すということを可能性に賭ける主体の選択行為と見なす」(70頁)
↓しかし
cf.) ルーマンのリスクの概念: 帰属という操作に徹底して執着

→ある「損害」の可能性を、「リスク」としてフレーミングするのか「危険」としてフレーミングするのか が、重要な争点となる

↓だから
・「帰属」としてのリスクという観点が、一貫されていないような印象?

「みずからの主体的選択」というかたちで教育のリスクを構成してしまうと、結果的に、「教師への心構え」や「リスクは避けられないものと"観念"すべきだ」 という「心構え」を説くという構図になりがち

あるいは、むしろ、石戸氏には――
・リスク概念を、帰属概念との結びつきを、もう少し緩やかなものにする、さらには積極的に切り離していったほうが、教育現象をリスクで語るという文脈では適切、という判断がある?

(2)上記(1)で述べたこととのかかわりで

・第1章の第7節(28-29頁)「教育がリスクとして語られる」

→とはいえ:教師不信や発達障害や学級崩壊、というより、むしろやはり主には 「学校の安全」、「防犯」(いわゆる「安全・安心」のための教育)の脈絡で、語られているのでは?
cf.)リスクの概念:学的研究者だけが使用しているものではなく、研究の対象領域でも同時に多様にすでに使用されてしまっているもの
→まずは「教育がリスクとしていかに語られているか(そしていかに処理されているか)」を視野に入れたかたちでの記述


安全教育と石戸氏の「教育の日常的な営みそのものがリスクに満ちている」という観点との関わりは、どうなっているのだろうか?

研究計画の予定/見通し

(3)教育的な営みとはそもそもリスクを冒す行為だという観点について

教育的に意味ある意味のない、と、リスクを冒す冒さない、という区別の重なり (→本書全体において、ある程度一貫した認識[に思える])

「ハラハラ、ドキドキするのが教育の楽しみでもある。そのようなスリルを楽しめないなら、教師は務まらないだろう」(16頁))
リスクを冒さない教育、つまり「何の挑戦性もない『安全』をとりにいく教育実践」(同)は、「生徒に生気のない反応をもたら」し、「すでに失敗」である
転移/逆転移関係について記述するなかでも、(教育上リスキーな)転移が生ずる関係こそが真の意味で教育的関係であり、「おとなしく、目立たない子ども」は、教師との関係という点では「深さがない」(第4章)

リスクを冒すことをむしろポジティブに捉えるという観点との関わり
↓ただ、他方で――
 
「教育システムの"日常の"作動はつねにすでにリスクに満ちたものだ」という観点をもっと徹底して一貫させるべきではないか

↓その上で
・ルーティンとして「安全をとりにいく」教育をしてしまうこと
・転移関係が生じず「教育的共生」がおこなわれないこと
  →これらもまたやはりリスキーだという視点が必要に思える
冒険で新しいことにチャレンジした上での失敗のリスク ルーティン化した教育(同じ指導案の繰り返し、等)での失敗のリスク への別様の評価、意味づけ
or
転移/逆転移が生じない(=生徒と距離をとる)ことによるリスク 転移/逆転移が生じることでもたらされるリスク が別様のかたちをとる   
ex.)
前者:石戸氏が84頁で指摘するように、ベテラン教師の陥る学級崩壊のリスク
後者であれば、若年世代の教師が陥る非教育的関係と化すリスク、等々


積極的な教師 - リスクを冒した教育 - 本来的な教育行為消極的な教師 - 安全をとる教育 - 本来的ではない教育行為 という区別の連鎖を想起させる叙述では、石戸氏の、「教育システムのすべての作動はつねにすでにリスクに満ちている」という観点が貫徹しえないのでは?

(4)転移/逆転移-関係と、教師不信の問題との関係について

〔1〕108頁以降:教師不信と「親密性」

ただし、第4章の議論と、第5章の議論とでの、議論のレベルの違い
[1] 第4章:心理システムの内部において転移/逆転移が教育上必要だ
[2] 第5章:社会の中で規範化された感情としての"親密さ"
「先生のご機嫌をとらなくちゃ」 「教師の気に入るような態度をとらなくてはならない」
↓とすると
第5章での「教育システムの人間化」の「リスク」を指摘する議論をふまえたと き、第4章での「転移/逆転移」の議論は、石戸氏が語るように、「教師・生徒間のコミュニケーションには感情的な要素が入り込むことは避けられない」ので 「心理システムの内部で起こっていること」にも積極的に立ち入って考察すべき(80-81頁)、という観点から取り上げる、というよりもむしろ、「教育システム には心理システムの次元での『転移/逆転移』が必要だ」と説くその言説が、遂行的に果たしてしまう負の側面、というかたちで語り直されたほうが、むしろ第4 章と第5章とが一貫するのでは?
=転移/逆転移あるいは教師と生徒との心理的な親密も教育上必要だという語り は、第5章で述べられている問題ある現状(と、共犯とはいわないまでも)を追認する結果に?

〔2〕第4節部分について

・「教師不信」の問題を実践上解決していく上での難しさ(第4節)
:現場の教師の逡巡をトレースしているようで、リアル ↓ただ
・もう少し敷衍を・・・
生徒の内面に踏み込んでも踏み込まなくても、必ず信頼喪失のリスクがある、失敗は避けられないと観念すべきだという指摘がある
→では教師不信が生じなかった(成功した)事例はなぜ成功したのか、というと
→"教師が元々信頼されていたから"
 「信頼を喪失しないためには信頼をはじめから獲得しておくべきだ」とも読める
・この部分、こうした印象に回収されない、もっと別の含み?

(5)発達障害をめぐる議論に関して

・LDやADHD、アスペルガー症候群といった障害をもつとされる「子どもが、否定されがちな自分について肯定的なアイデンティティを獲得する契機」(168頁)
→具体的には?
佐世保の少女の事例?
ただし:「アスペルガー症候群」という病名付けが「不適切」な事例

(6)その他、細かい点

[1] 信頼の「反省性」(102頁)

「ここにおいて、ルーマンが信頼には反省的契機が欠かせないと述べていることが重要となる[ルーマン1968=1988:112-114]」として、「教師が信頼を再び獲得するには、保護者・生徒からの信頼が自分個人への信頼ではなく、システム信頼によるものだという『反省』がまず求められるだろう」(102頁)
「教師と生徒の関係がこのような不信リスクにおいて成り立っていることの『反省』がたえず必要となるだろう」(103頁)
cf.)「システム信頼」の「反省的」(あるいは「再帰的」)契機 =「信頼についての信頼」では?
  「個人は、他者が自分と同じやり方で第三者を信頼している、ことを、信頼する」
任意の第三者もまた、この教師の指導の内容を信頼するに違いない、と、他の保 護者や生徒も信頼しているはずだ、と、個々の保護者や生徒が信頼するから、教 育システムでのシステム信頼が成り立つ、といった議論?

[2] 「恐れ」という概念とリスクの概念との違い

「そこでは、教師は上からの指示通りに教育できなかったことで責任が問われる『恐れ』」28頁
「このとき、子どもはリスクを負うのではなく、学校生活が期待に添わないものになる『恐れ』がある(子ども・保護者にとってどんな教師に『当たる』かが話題になるときがある。これは、蓋然性が問題になる限りで『リスク』であるが、厳密には『恐れ』である)」23頁
「〔ギデンズは〕単に、確率論的に『~の恐れがある』というリスク観にたたずに、リスクがリスクとして観察される社会的プロセスに注目する」44頁
さらに、リスクと「恐れ」が同じような意味に用いられている部分もある(「単に問題を抱える子どもを発生させる『恐れ』(risk)という意味だけでなく」(151頁))、等
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