エスノメソドロジー |
ルーマン |
研究会 |
馬場靖雄論文書庫 |
そのほか |
・大きく、二部構成
第一部 | 第1章~第3章 | リスクの概念、リスク社会論、ルーマンのリスク論の位置 | *第2章:ギデンズ/フーコー派/デュルケム派のリスク論と、ルーマンのリスク論との相違、ルーマンのリスク論について |
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第二部 | 第4章~第8章 | 教育システム内部のリスク、各教育問題との関わりで議論 | 学級崩壊、教師への不信問題、リスクある子ども、発達障害 |
「教育システムはそのそもそもの作動において、つねにすでに(各種の)「リスク」に満ちている」という一貫した観点から、学級崩壊、教師と生徒との感情的なもつれ、あるいは教師への信頼、犯罪-を犯す/-にさらされる子ども、「リスクある子ども」概念の検討、そして発達障害、といった今日の教育をめぐる諸問題にアプローチ、そのそれぞれの現象がなぜ生じているいるのか、こういった数々の、現場の教師を悩ませる問題からの脱出口はどこに求められるべきなのか、という教育実践上の課題に対しても、やはり一貫して、この「リスクとしての教育」という観点から独自の見解を提示
・教育とリスク――通例は・・・ | 学校をめぐる数々の事件への対処、子どもを対象にした犯罪、安全教育
cf.)文科省「生きる力をはぐくむ学校での安全教育」(2001) 学校での「危機管理マニュアル」(2003) [1] 生活安全、[2] 交通安全、[3] 災害の安全、[4] 防犯教育、の4領域 |
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教育の企てそのものが、そもそも「リスク」に満ちている | 「単に近年において教育システムにおけるリスクが高まっているという短期的な見通しにおいてではなく、教育には本来的にリスクがはらまれているという原点に立ち返って、教育をとらえ直したい」(1頁) 「巨大化する技術が抱える不安」や 「異常な事態」にのみ目を向けるのではなく、 「われわれの日常生活に潜む『ありうるかもしれない』ことの集積として存在」するリスク(45頁)、 「日常不安」(同)に目を向ける必要性 |
→例外的な事例を針小棒大に語る各種の「リスク社会」論とは対照的 *C.ペローの認識 |
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従来の「教育」において支配的なイメージ、「神話性」を解体 | "現実"をまずは直視してそれを出発点としながら、教育実践での取組への視点 |
・「リスク回避」よりも、リスクをポジティブなかたちで捉え直し
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「子どもの可能性に賭けることをその営みの本質とする教育がそもそもリスクある行為」70頁 |
・とりわけ、第7章「リスクある子ども」
「リスクから守られるべき」「保護されるべき」未熟な存在としての子ども ⇔ 「リスク主体」としての子ども
cf.)「個人化」&「脱-伝統化」→ いま・ここでの行為・決定の、将来に対して有する「責任」が、当該個人により重くのしかかる(決定の、個人への帰属)
ベック&ベック-ゲルンスハイム(1990) |
→子どもの成長=親の現在の行為次第という表象。親自身の(人生設計上の)成功として観念
「私の子どもたちは、自分よりもよい人生を生きてほしい」と語る親は、たいていの場合、子どものためを思ってというより、自分自身のためを思ってそう語る」(Beck & Beck-Gernsheim 1990 ) |
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→ | 将来的に考えうるかぎりのありとあらゆるリスクから遠ざけるべく、子どもの安全のために多大な(時間的、金銭的な)「投資」をする親 | |
→ | リスクから子どもを遠ざけること=「子どもらしさ」の保持 | ⇔ リスキーな子ども:子ども/非-子どもという区別の「向こう側」へ
Jackson & Scott 1999, "Risk anxiety and the social construction of childhood" in: Lupton,D.,ed.,1999 :86-107 |
↓
・近年の、各種安全教育との関わりという意味でも示唆的(に思える)
・石戸氏の「リスク」の概念
・一方で、「帰属」に則した叙述がある ・他方で―― 「能動的なかかわり」、「みずからの選択」、「心理的」な「構え」 |
・教育は「冒険」であり「賭け」であるところが重要(16頁) ・主体的・積極的な構えという意味で「リスク」概念を取り上げている部分(23頁など) ・「リスクを冒すということを可能性に賭ける主体の選択行為と見なす」(70頁) |
↓しかし cf.) ルーマンのリスクの概念: 帰属という操作に徹底して執着 |
→ある「損害」の可能性を、「リスク」としてフレーミングするのか/「危険」としてフレーミングするのか が、重要な争点となる |
↓だから
・「帰属」としてのリスクという観点が、一貫されていないような印象?
あるいは、むしろ、石戸氏には――
・リスク概念を、帰属概念との結びつきを、もう少し緩やかなものにする、さらには積極的に切り離していったほうが、教育現象をリスクで語るという文脈では適切、という判断がある?
・第1章の第7節(28-29頁)「教育がリスクとして語られる」
↓
安全教育と石戸氏の「教育の日常的な営みそのものがリスクに満ちている」という観点との関わりは、どうなっているのだろうか?
・教育的に意味ある/意味のない、と、リスクを冒す/冒さない、という区別の重なり (→本書全体において、ある程度一貫した認識[に思える])
「ハラハラ、ドキドキするのが教育の楽しみでもある。そのようなスリルを楽しめないなら、教師は務まらないだろう」(16頁))
リスクを冒さない教育、つまり「何の挑戦性もない『安全』をとりにいく教育実践」(同)は、「生徒に生気のない反応をもたら」し、「すでに失敗」である
転移/逆転移関係について記述するなかでも、(教育上リスキーな)転移が生ずる関係こそが真の意味で教育的関係であり、「おとなしく、目立たない子ども」は、教師との関係という点では「深さがない」(第4章)
↓ リスクを冒すことをむしろポジティブに捉えるという観点との関わり ↓ただ、他方で―― |
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「教育システムの"日常の"作動はつねにすでにリスクに満ちたものだ」という観点をもっと徹底して一貫させるべきではないか ↓その上で |
・ルーティンとして「安全をとりにいく」教育をしてしまうこと ・転移関係が生じず「教育的共生」がおこなわれないこと →これらもまたやはりリスキーだという視点が必要に思える |
冒険で新しいことにチャレンジした上での失敗のリスク / ルーティン化した教育(同じ指導案の繰り返し、等)での失敗のリスク への別様の評価、意味づけ or 転移/逆転移が生じない(=生徒と距離をとる)ことによるリスク / 転移/逆転移が生じることでもたらされるリスク が別様のかたちをとる |
ex.) 前者:石戸氏が84頁で指摘するように、ベテラン教師の陥る学級崩壊のリスク/ 後者であれば、若年世代の教師が陥る非教育的関係と化すリスク、等々 |
↓
積極的な教師 - リスクを冒した教育 - 本来的な教育行為 / 消極的な教師 - 安全をとる教育 - 本来的ではない教育行為 という区別の連鎖を想起させる叙述では、石戸氏の、「教育システムのすべての作動はつねにすでにリスクに満ちている」
という観点が貫徹しえないのでは?
「教師・生徒間のコミュニケーションには感情的な要素が入り込むことは避けられない」ので
「心理システムの内部で起こっていること」にも積極的に立ち入って考察すべき(80-81頁)、という観点から取り上げる、というよりもむしろ、
「教育システム には心理システムの次元での『転移/逆転移』が必要だ」と説くその言説が、遂行的に果たしてしまう負の側面、というかたちで語り直されたほうが、むしろ第4 章と第5章とが一貫するのでは?
「子どもが、否定されがちな自分について肯定的なアイデンティティを獲得する契機」(168頁)
「ここにおいて、ルーマンが信頼には反省的契機が欠かせないと述べていることが重要となる[ルーマン1968=1988:112-114]」として、「教師が信頼を再び獲得するには、保護者・生徒からの信頼が自分個人への信頼ではなく、システム信頼によるものだという『反省』がまず求められるだろう」(102頁)
「教師と生徒の関係がこのような不信リスクにおいて成り立っていることの『反省』がたえず必要となるだろう」(103頁)
cf.)「システム信頼」の「反省的」(あるいは「再帰的」)契機 | =「信頼についての信頼」では? 「個人は、他者が自分と同じやり方で第三者を信頼している、ことを、信頼する」 |
↓ | |
任意の第三者もまた、この教師の指導の内容を信頼するに違いない、と、他の保 護者や生徒も信頼しているはずだ、と、個々の保護者や生徒が信頼するから、教 育システムでのシステム信頼が成り立つ、といった議論? |
「そこでは、教師は上からの指示通りに教育できなかったことで責任が問われる『恐れ』」28頁さらに、リスクと「恐れ」が同じような意味に用いられている部分もある(
「このとき、子どもはリスクを負うのではなく、学校生活が期待に添わないものになる『恐れ』がある(子ども・保護者にとってどんな教師に『当たる』かが話題になるときがある。これは、蓋然性が問題になる限りで『リスク』であるが、厳密には『恐れ』である)」23頁
「〔ギデンズは〕単に、確率論的に『~の恐れがある』というリスク観にたたずに、リスクがリスクとして観察される社会的プロセスに注目する」44頁
「単に問題を抱える子どもを発生させる『恐れ』(risk)という意味だけでなく」(151頁))、等