日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

エスノメソドロジーに関するよくある質問と答え──『ワードマップ エスノメソドロジー』

ワードマップ エスノメソドロジー──人びとの実践から学ぶ

このページには、『ワードマップ エスノメソドロジー』「エスノメソドロジーに関するよくある質問と答え」を掲載しています。
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質問一覧

Q01 エスノメソドロジーと会話分析の関係について教えてください。
Q02 ミクロな現象を見ているだけでは、マクロな現象(社会構造、文化、制度)は扱えないのでは?
Q03 日常生活の実践をみているだけでは、その土台である社会制度や社会構造(さらに国家、権力など)を扱うことはできないのでは?
Q04 現在の現象を見ているだけではもっと長い時間にわたるような現象は扱えないのでは?
Q05 数例を見るだけで議論するのでは、一般性がないのでは?
Q06 「成員カテゴリー化装置」(108頁)や「順番交代の規則」(128頁)はモデルなのですか? 検証はされているのですか?
Q07 順番交代の規則(128頁)にしたがっていない会話もある。お行儀のよい・うまくいっているやりとりしか見ていないのでは?
Q08 個別事例について極端に精密な記述を行なうことにはなんの意味があるのですか?
Q09 個別事例についてとても詳細に記述されますが、当事者はこんなこと考えていないのでは?
Q10 行為者の意図・動機・感情などを無視した冷徹な分析がされていませんか?
Q11 秩序の合理的な側面ばかりを見ていては、社会の不合理な側面が見逃されて、現状肯定的な議論になるのでは?
Q12 日常的な・常識的な振舞いばかりを見ていては、非日常的な・異常なことがらを扱えないのでは?
Q13 エスノグラフィーとの関係について教えてください。
Q14 構築主義との関係について教えてください。
Q08 個別事例について極端に精密な記述を行なうことにはなんの意味があるのですか? A EM研究においては、確かに、精密な記述がなされています。けれども、やたらに測定の目盛りを細かくしているわけではありません。そもそも「エスノ(人びとの)」「メソドロジー(方法論)」というのは、人びとが用いている方法論であると同時に、それを用いて研究を行なうことでもあります(【1‐1】)。ですから、EM研究の記述の細やかさは、メンバーの方法の細やかさにそっているのです。
 そもそも「細やかさ」といっても、それが「どの程度」細やかであれば適切なのか、ということ自体、実践上の課題でありえます。たとえば、住所を聞かれたときにどのように答えるか、考えてみましょう。もしもあなたが、お店で大きな買い物をして自宅に届けてもらわなければならないとしたら、番地やマンションの部屋番号まで記入するはずです。けれど、もしもあなたが、海外旅行中で知り合った人に、「どこからきたの?」と訪ねられたら、どのように答えるでしょうか。たぶん「日本」「東京」といったものがその候補になるのではないでしょうか(【1‐3】)。科学研究において測定を行なうような場合でさえ、再現なく細かくしていけばよいというふうに、なされているわけではありません(【8‐3】)。むしろ、それぞれの実践には、それぞれ固有に適切な「細やかさ」があるのです。
 EMは、陪審員が評決を行なうとき(【1‐1】)、行列をつくって並ぶとき(【3‐3】)、相談の電話をかけるとき(【5‐1】)、友だちとおしゃべりをするとき(【6‐1】)など、それぞれの実践におけるそれぞれ固有の方法を見いだしてきました。EMにおいては、これらの実践から切り離された「細やかさ」の基準を、個別の事例にあてはめるようなことはありません。むしろ、法廷においてひとつの評決までたどりついたり、いつのまにか行列を形づくることができていたり、相談の電話をともかくも終わらせることができたりなどなどを、ひとつの出来事として成り立たせることも、参加者たちにとっての実践上の課題なのです。つまり、それぞれの実践においては、ひとつの事例を、それとして区切り、それとして成り立たせるのに適切な「細やかさ」を備えた、メンバーの方法が用いられているのです。
 EMが行なっているのは、こうしたメンバーの方法を記述することです。ですから、もしもEMの記述が精密になされているとしたら、それは、それだけ、メンバーの方法が精密にできている、ということなのです。そしてその精密さは、少なくともその実践においては、ありふれた精密さなのであって、けっして「極端」なものではありません。むしろ、それだけの精密さがない記述は、メンバーの方法を捉えそこなっているのです。さらにくわしくは、【1‐3】【2‐2】【5‐1】【6‐1】などをみて下さい。(前田)
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Q09 個別事例についてとても詳細に記述されますが、当事者はこんなこと考えていないのでは? A EM研究は、実践に参加する者たちが行なっていることを、記述していきます。このとき、記述されたことすべてを、参加者たちが、ひとつひとつ強く「意識」して「自覚」しているなどということは、ありません。しかし、大事なことは、その実践の参加者たちは、それにもかかわらず、実際にいろいろなことができているのだ、ということのほうです。そして、ともかくもできている以上、その「やり方」を「知っている」はずです。
 こうした「やり方の知識」(Ryle 1949=1987)(【1‐1】)のなかには、当たり前のようにできているのに、それを言葉で説明しようとすると難しかったり、強く意識してしまうとかえってうまくいかなかったりするものがあります。【6‐1】でみるような、会話のやり方などは、その最たるものでしょう。会話のなかでは、確かに、話す順番を交代していきますが、次に誰が話すか、強く意識していたら、かえってスムーズにはいかないかもしれません。あるいは、行列をつくるときでも、その「やり方」を強く意識するのは、むしろ、「割り込み」がなされている場合ではないでしょうか(【3‐3】)
 このように、実践において参加者たちが用いている知識は、強く意識されているものには限りません。それでも確かに参加者たちが「知っている」といえる「方法についての知識」はたくさんあります。そうした知識のあり方を、ガーフィンケルは「見られてはいるが気付かれていない」という呼び方をしています(【1‐1】)。EMが記述しているのは、こうした方法についての知識なのです。くわしくは、【1‐1】【2‐2】【3‐3】【6‐1】などをみて下さい。(前田)
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Q10 行為者の意図・動機・感情などを無視した冷徹な分析がされていませんか? A いえ、そんなことはありません。EM研究においても、行為者の動機や感情は、非常に重要なトピックのひとつです。何よりも、それぞれの実践において、本人がどういうつもりなのか、あるいは、本人がどういう気持なのか、メンバーにとっての問題になることは、もちろんありうることです。だからこそ、どのようなつもりや気持が、どのような状況で、どのように問題になるのか、考えていくことができるはずです。
 もちろん、どのようなつもりなのかが強く問題になるのは、なぜそんなことをしたのかが問われるような場合でしょう。また、どんな気持かが問題になるとすれば、そもそも簡単には扱えない場合だからこそかもしれません。そして、「なぜそんなことをしたんだ?」と行為の理由を問い、それに答え、弁解したり正当化したりすることは、参加者たちが成し遂げる実践です(【2‐1】【2‐2】)。また、わかってほしいと「気持」を訴えたり、それを聴いたり、聴くことを拒んだり、といったことも参加者たちが成し遂げる実践なのです(【9‐5】)。実践の参加者たちは、行為者の動機や感情を扱う、メンバーの方法を用いているのです。
 ですから、メンバーの方法を考慮することなく、研究者が持ち込んだ枠組みにもとづいて、動機や感情を割り当ててしまうとしたら、むしろその方がかえって、行為者をその枠組みのなかにしか存在しない「判断力喪失者」(【4‐1】)へと切りつめてしまうことにつながりかねないのです。ここには、難しい論点が含まれていますが、くわしくはぜひ【1‐3】【2‐1】【2‐2】【9‐5】をみて下さい。(前田)
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