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大黒です。
【略】
 ルーマンのメディアに関する対概念「FORM-MEDIUM」を従来のコミュニケーション・メディアにまで適応・拡大した論文あるいは著作は存在するのでしょうか?
		「自己言及について 」「ルーマン自身を語る
」「ルーマン自身を語る 」でその内容の片鱗は窺えるのですが、今ひとつ具体性に欠けます。
」でその内容の片鱗は窺えるのですが、今ひとつ具体性に欠けます。
もしご存じでしたら、教えていただけませんでしょうか?
菅原と申します。
Die Kunst der Gesellschaft の「第3章」が Mediumund Form となっております。
 それから、「従来のコミュニケーション・メディアにまで適応・拡大」ということでいえば、『社会の経済』 に若干の言及があります(同書の「事項索引」でアクセス可)。
に若干の言及があります(同書の「事項索引」でアクセス可)。
また、Das Recht der Gesellschaft の193ページには
Die Codewerte mussen als Moglichkeiten interpretiert werden, oder in anderen Worten: als Medium, das verschiedene Formen annehmen kann.
とありまして、「コミュニケーション・メディアとそのコード化」および「Form-Medium」とを繋ぐ手がかりがあるような気がします。
「繋ぐ」といったのは、これらふたつのメディア概念は元々理論的な出自が異なるものをルーマンの力技(?)で接合または交差させたものではないのか、と考えているからです。というか、同じ名辞を持ってはいるが別概念で、しかし交差概念の関係にある、というぐらい割り切って考えています(大黒さんも「従来の」と形容されていらっしゃいますので、私と同じようにお考えでしょうか)。相性でいえば、「言語」というメディアと「メディア/形式」との関係のほうが、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」よりもよい――これはルーマンの説明の仕方から受け取る印象に過ぎませんが。
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菅原さんのご高説:
これらふたつのメディア概念は元々理論的な出自が異なるものをルーマンの力技 (?)で接合または交差させたものではないのか、と考えているからです。というか、同じ名辞を持ってはいるが別概念で、しかし交差概念の関係にある、というぐらい割り切って考えています
私も基本的にはその通りだと思います(徳安さんはかなり前からそう強調されてたように記憶しています)。
ただその一方で、「コミュニケーション・メディア」の話と「メディア/形式」の概念は、結果としてかなりうまく適合するのではとも考えております。私が注目しているのは、次の一節です。
コミュニケーション・システムは、メディアと形式の区別を用いて、自分自身を構成する。この区別は……『最終要素』を探求する労を省いてくれる。(Die Gesellschaft der Gesellschaft, S.195)
私はルーマンのコミュニケーション論の要諦は、コミュニケーションを、情報/伝達の差異として捉えること、すなわちコミュニケーションは、何かによって可能になるような現象でもなければ、何かを可能にする自己同一的な基底でもないと考えることにあるのではと思っております(「第2章」で書いたことですが)。
同様にメディアも、それ自体として論じうる何ものかなのではなく、あくまで「ルーズなカップリング/リジッドなカップリング」という区別においてのみ把握されうるのであって、この区別抜きに「何が最終的なメディアであり、それは何によって可能になるのか」云々を論じてみても意味がない。
そしてこの点こそが、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」に関しても強調されねばならないのではないでしょうか。例えば権力にしても、それ自体として論じうる何ものかなのではなく、政治システムにおけるコミュニケーションが接続していく(リジッドなカップリング)ときに、常に-既に通用してしまっているもの(ルーズなカップリング)である、と。
この「具体的なテーマに即して接続していくコミュニケーション/その際前提とされてしまっているもの」という区別抜きに、「権力はいかにして可能になるのか」などと論じようとする姿勢が、コミュニケーション・メディアをめぐる議論を混乱させているように思います。
……などということを、「第2章」の補論として付け加えようと思っているのですが、どうもうまくいきません。ご教示をいただければ幸いです。
酒井です。
大黒さんの質問について菅原さんと馬場さんのほうからレスがついていますが、関連する議論として、過去ログより高橋徹さんのメールを再掲します。
Date: Mon, 13 Mar 2000 18:49:11 +0900
From: 高橋徹
Subject: [luhmann:00816] [TM] ハイダー翻訳これまでにいくつかルーマンがハイダーに言及したり、取り上げたりした等の情報が提供されていますが、その一環として、『社会の学問』
の第1章「意識とコミュニケーション」第5節についてご紹介します。
ルーマンは、ハイダーの「メディア(媒質)」と「形式」という区別を、意識とコミュニケーションの構造的カップリングにおいて言語が果たす役割を説明する関連で持ち出しています。
ルーマンは、「媒質」と「形式」を要素間の関係として次のように捉えています。
- 媒質=ルーズ・カップリング(アレンジ可能な要素間の緩やかな結合)
- 形式=リジッド・カップリング(上記要素がアレンジされ強く結合されること)「ハイダーは、空気と光を知覚の媒質と呼んでいる。この空気と光は、聴覚の、あるいは視覚のそれぞれに特有の知覚状況を媒介しているのである。言語はこの条件を満たしており、それゆえ、〔空気や光と〕同様に形式を受け入れるのための媒質なのである。」(S.53)
ルーマンは、このように述べています(「メディア」の訳語は、「媒質」がよいように思います)。
この話は、「マテリアリティの連続性Materialitatskontinuum」と同じことをいっているといえます。私は、これについて「構造的カップリングの問題性」(佐藤勉編『コミュニケーションと社会システム』
)で書いたのですが、そこの註で、次のように述べました。
「・・・この場合{コミュニケーション・システムと人間の生体の関係においては}、「マテリアル」は物質的なものに限定されているが、ルーマンは、「マテリアル」の連続性というこの考え方を、有意味的なリアリティ(たとえば、言語)についても適用している。ルーマンは、「マテリアル」をこのように拡張することで、言語における法システムと社会との「マテリアル」の連続性について論じている。詳しくは、N.Luhmann,“Closure and Openness:On Reality in the World of Law”, in: G.Teubner(ed.), Autopoietic Law: A New Approach to Law and Society, Berlin 1988, pp.338-343. 参照。」(334頁)
そうしますと、このハイダーの図式のルーマンにおける位置価というのがつかめてきます。
おもいっきり端折っていえば、ハイダーの図式自体が意識システムやコミュニケーション・システムのシステム/マテリアル関係を記述するための「媒質」になっていて、これを持ち出すことで、知覚の問題からコミュニケーション・システムに至るまでの話を並行してすることができるわけです。
構造的カップリングとの関係でいえば、このような媒質による環境との連続性は、システムの自己準拠的な刺激の感受を(自己準拠的であるにもかかわらず)環境とのカップリング(結びつき)と記述できる(また実際に結びつきでありうる)ことの基盤をなしているということになります。
そういうわけで、私なりの観点からしますと、ハイダーに期待しますのは、そのようなシステムと環境の「マテリアリティ{媒質}の連続性」とシステム独自の「形式」化(フォーメイション)よる非連続性の関係についての理解をさらにアーテキュレイトする材料になればというあたりです。