日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

2000年4月:進化論を巡って1[|1/3|2/33/3

Date:Wed, 12 Apr 2000 18:46:44 +0900
From: 酒井泰斗
Subject:[luhmann:00960] 転送 : Niklas Luhmann のシステム論的進化観について
酒井です。
このフォーラムでも何度か話題にでました、evolve-ml の主催者、三中信宏@農環研・計測情報科・調査計画研究室#さんから、次のようなメールをいただきました。
これ、最初に私のほうへDMでいただいたのですが、私一人で答えるにはちと荷が勝ちすぎているので、
なにしろ私は、言及されている
Die Gesellschaft der Gesellschaft (1997) も、
Die Wissenschaft der Gesellschaft (1990) も
読んでないし(;_;)。
フォーラムのほうへ転送します。
転送許可願いのメールをお送りしたところ、丁寧にも「フォーラム向け」に少しアレンジしてくださいました。以下に掲載するのはそちらのヴァージョンです(^_^)。
さて、誰が答えられるんだ?(^_^;

From: 三中信宏
Subject: Niklas Luhmann のシステム論的進化観について
--- 転載文 begins ---
ルーマン・フォーラムのみなさん:
三中信宏(農環研)と申します。はじめまして。このMLの会員ではありませんが、酒井泰斗さんのご配慮により、ちょっと失礼させていただきます。

私は、進化生物学とくに生物系統学の理論的問題を専門とする研究者です。専攻する分野の周辺領域とりわけ歴史哲学と科学哲学にも関心をもっています。歴史科学の観点から、生物系統学を見直そうと考えています(cf. 三中信宏著 1997『生物系統学』1997年,東大出版会)。

先日、私が企画幹事をしている生物地理学会の年次大会シンポジウムで、このフォーラムにも登場した渡部元さんに、分類学の公理化」をテーマとする特別講演を依頼し、ルーマン流のオートポイエーシスの生物分類学への適用について話をしていただきました。
渡部君の言う「オートポイエーシス&公理化&ラディカル構成主義」の三位一体説は、私には結局よくわかりませんでした(笑)。

しかし、その後 Luhmann のいくつかの著作:
Die Gesellschaft der Gesellschaft (1997)
Die Wissenschaft der Gesellschaft (1990)
Soziale Systeme (1988)
を実際に手に取る機会がありました。そして、これらの著作に、生物進化に関する記述が大量に含まれているのを発見して、渡部君とは別の意味で、ルーマンの進化観に少しだけ(^^;)関心をもつようになりました。

たとえば、Luhmann の最後の著作である「Die Gesellschaft der Gesellschaft」には、約200ページにも及ぶ生物進化に関する章が含まれています。
Die neodarwinischen Theorie der Evolution への批判は当然予想されるところです。

いくつか疑問を持ちました:
●1)私が感じたところ、Luhmann の進化観はきわめてドイツ的な「システム論的進化観」がバックボーンになっているように見受けられます。「きわめてドイツ的」と私が言ったのは、そういう非還元論的な-全体論的 holistic ということ-思潮は、Luhmann が育ってきたドイツの知的環境の中では、かなり一般的な考え方だったと想像されるからです(cf. A. Harrington 1996. "Reenchanted science: Holism in German culture from Wilhelm II to Hitler". Princeton Univ. Pr.)。Luhmann 社会学のシステム論への志向の系譜をたどった研究はあるのでしょうか?
私の見るところ、オートポイエーシスという役者は、このドイツ的な「システム論」という舞台の上ではじめて演技を続けられるわけですね。

●2)最近の進化学では、人間の集団(社会もそのひとつ)に関する研究が盛んになっています。社会的・文化的・宗教的に結び付けられたヒトの社会集団の形成・動向・動態の解明に、自然淘汰過程によって説明しようとする一群の研究です。この進化学的社会科学に対して、Luhmann の「システム論的社会学」はどのようなスタンスを取るつもりなのでしょうか? Luhmann が進化を念頭において理論を構築しているかぎり、少なくとも無関係ではないですね。
システム論という全体論を排除する方向を目指している現代の進化学の主流派から見れば、Luhmann の見解はただの【異端】ということになります。というか、まともな検討の対象とはみなされないということです。社会がある種の「システム」であるという言辞が何事かを「説明」しているようには、私には思えません。

私がここで念頭に置いている説明とは、おおざっぱな意味での「因果的」な説明です。もちろん「因果」にもいろいろなレベルがありますね。私が、歴史科学の観点で関心をもつ因果的説明とは、William Whewell の言う古因学(palaetiological sciences)のレベルでの因果的説明-現在作用している因果過程に基づいて過去の現象を説明すること-です。Arthur Danto の分析的歴史哲学への私の関心も、この古因学における因果的説明と絡んでいます。>私の『生物系統学』の中で、このあたりの議論をしています。

---
それにしても、Niklas Luhmann はこんなに短期間の間にあれだけ大部の本を立て続けに書いたわけで、Luhmann について勉強する側もさぞかしたいへんでしょうね。"Soziale Systeme"だけがいまのところ主著として日本語訳されているようですが、英訳もあまりなさそうだし...。きつそう。
とりいそぎ、失礼します。
 Wed, 12 Apr 2000 20:01:29 +0900
 From: 酒井泰斗
 Subject: [luhmann:00961] [EV][960] ルーマンの進化観について
酒井です。
三中さんのメールを受けた進化に関するスレッドですが、
[EV]
をスレッドタイトルにしましょう。このマークがついたものは、すべて酒井の方から三中さんのほうへも転送することにします。

さて。まず、三中さんへ向けてというよりは、フォーラムメンバー宛というつもりで若干のレスを書いてみます。

三中さんの曰く:
●1)私が感じたところ、Luhmann の進化観はきわめてドイツ的な「システム論的進化観」がバックボーンになっているように見受けられます。「きわめてドイツ的」と私が言ったのは、そういう非還元論的な──全体論的 holistic ということ──思潮は、 Luhmann が育ってきたドイツの知的環境の中では、かなり一般的な考え方だったと想像されるからです。
ルーマンの議論は、「非還元論的」ですが、「全体論的」ではありません。もちろん、両者は「普通は」直接的連想関係にありますから、三中さんが並置されているのは「当然」だろうとは思います。
が、とりあえず“一般的通念”を脇にどけ、しかも「全体論的」という観点に着目して、「ドイツ的なシステム論」を云々するのだとすると、この答えは「否」です。

●2)最近の進化学では、人間の集団(社会もそのひとつ)に関する研究が盛んになっています。社会的・文化的・宗教的に結び付けられたヒトの社会集団の形成・動向・動態の解明に、自然淘汰過程によって説明しようとする一群の研究です。この進化学的社会科学に対して、Luhmann の「システム論的社会学」はどのようなスタンスを取るつもりなのでしょうか?
・三中さんのコメント全体を通じて、もっとも強い関心は、たぶんこのあたりにあるのではないかと想像します。 
そして、その限りで、この関心にうまく対応しないと、議論が難しくなるでしょう。
にもかかわらず、ルーマンの議論は、そうした広義の「行動学的」議論とは、実は縁遠いような気も。。。。このあたり、高橋徹さんの意見を聞いてみたいです。

システム論という全体論を排除する方向を目指している現代の進化学の主流派から見れば、Luhmann の見解はただの【異端】ということになります。というか、まともな検討の対象とはみなされないということです。社会がある種の「システム」であるという言辞が何事かを「説明」しているようには、私には思えません。
これはさしあたって、「もっとも」な言明だと思います。が、あからさまに急ぎすぎの「決め付けオヤヂ」的発言でもあります。 
しかも、現実の生物業界には「全体論や階層論の排除」というメジャーな方向性と、にもかかわらずそれに対抗しようというメイナーな(しかし実は少なくない)方向性の双方がせめぎ合っているようにも見えます(と、書くときに、私が直接に知っている生物学者を何人か思い浮かべながら書いているのですが)。
それはそれとして、注意を引いておきたいのは、ルーマンの議論は──「全体論や階層論」を志向していないので(!)──こうした区別立てには直接乗らない、ということです。そこで──「非還元主義である」から無視するというのはともかくとして──、仮に「全体論や階層論」を志向する人が読んでも、肩すかしを食らわされるだけだ、ということになります。

これに関して、最初にいただいたメールのレスとして、酒井はおおよそ次のようなことを書いてみました。


確かに、「社会はシステムである」とか、「社会システムがある」とかいう言明は、因果論的な意味での「説明」ではない、というのはその通りだと思います。そしてその限りにおいては、ルーマンのシステム論と狭義の進化学の間には折り合いの付きがたい深い溝がありそうです。
ただしルーマンは、「システムがあるthere are systems」という言明を「因果論的説明」として為しているわけではないので、ここに──「溝」はあっても──(調停されねばならないような)“問題がある”わけではありません。

ですから、この場合、それでも議論を続けようとすると、
・或る物を「システムである」というふうに名指すことによる認識利得はいったいなんなのか、
ということにとどまらず、同時に、
・そもそも説明するとはどういうことなのか
との双方を、問題にする必要があります。
「自然科学」的な立場からいえば、これはきわめて「弱い」議論だということににはなるでしょう。が、これは、社会学にとっては多かれ少なかれ回避の出来ない事柄だと思います。

なるほどダーウィン自身は、彼の議論を「因果的説明」だと考えていたわけですし、
ということの含意に関する簡潔かつ明晰な紹介として、内井惣七『科学哲学入門』(世界思想社)を読まれたし> フォーラムの皆様
もちろんそれは現在の進化学もかわるところはないでしょう。

それはそれとして、社会進化に関するルーマンの議論が私にとって面白いと思えるのは、
・一つには: 
進化という現象を記述するやり方(進化論)を、そうした生物学者の自己理解(=「因果論的理解」)とは異なる仕方で再解釈できるのではないか、
という可能性を、
特に、「何かの 起源origin を問う」という姿勢、そして、何を以ってその問いの「答え」*と見なすのか、という姿勢の転換という、哲学-思想史的にみてもきわめて射程のおおきな文脈の中で
検討しているところにあります。 
* いうまでもなく、或る時代までは、これは“最終的”に「神」に回収されていました。「因果的説明」は、これに対するオプションの一つとして登場してきたわけですが。
まぁこれだけでは生物学者にとってはなんの魅力もない議論かもしれませんが、この文脈を抜かしてしまうと、ルーマンの議論のおもしろさも半減です。とはいうものの、社会理論がベタに進化学の“役にたつ”と考えちゃうような、ちょっとオトボケな人もそういないでしょうから、この事自体はそう大した問題ではありません。

・そして、いまひとつには: 
逆に、そのように解された、「時間のうちにおける現象」の記述の手法をもとに、そもそも「因果的説明」によって、我々は何をしていることになるのか、という議論、さらにまた、社会一般の記述のやり方について反省できないか、
という議論につながっていくところです。
書いているうちに、実際のメールよりもずいぶん補足してしまいましたが(^_^)、三中さんの次の文はおおよそ酒井の上の内容を受けて補足していただいたのだろうと思います。

私がここで念頭に置いている説明とは、おおざっぱな意味での「因果的」な説明です。もちろん「因果」にもいろいろなレベルがありますね。私が、歴史科学の観点で関心をもつ因果的説明とは、William Whewell の言う古因学(palaetiologica sciences)のレベルでの因果的説明-現在作用している因果過程に基づいて過去の現象を説明すること-です。Arthur Danto の分析的歴史哲学への私の関心も、この古因学における因果的説明と絡んでいます。>私の『生物系統学』の中で、このあたりの議論をしています。

そうすると、三中さんは、クラシカルな「因果的説明」から出発しそれを洗練させようとされているわけです。この議論自体、システミストにとっても大いに関心をひくことと思います。
つまるところ、狭義の進化論者とシステミストの間に海よりも深い溝があることにはかわりないと思うのですが、しかし、その「溝がある」ということをふまえていればそれはそれで議論が成立する余地があるかもしれません。
たとえば、海洋科学研究所から「しんかい6500」を借りてくるとか(^_^)。なんらかの手続きをふめば。

というわけで、一口に「進化」といっても様々な切り口があり、ひょっとしたらまずは論点の列挙からしていかねばならないかと思わせるほどですが、それだけ間口の広い話題だということもできます。

てなことで、フォーラムのみなさんの意見をお待ちしています。
 Thu, 13 Apr 2000 02:23:47 +0900
 From: 角田幹夫
 Subject: [luhmann:00963] Re: [EV][960] ルーマンの進化観について
角田です。

ルーマンの進化観という場合、社会学史的には、やはり直接の先行者であるパーソンズを考慮しないわけにはいかないのではないかと思います。多分、酒井さんもパーソンズなんて当たり前すぎて、言及を避けたのかと思います。但し、パーソンズの進化論がどういう系譜を引いているのかというのは、今即答できないのですが。そもそも、機能主義と進化論(というより変動論一般)の相性は悪いわけですが。

 因みに、パーソンズ派のスタンダードな「進化」の定義かと思われる Robert Bellah のそれを抜き書きしておきます。1964年の Religious Evolution という論文(但し、Roland ROBERTSON[ed.] "Sociology of Religion", Penguin Books, 1969に再録されたもの)から;
Evolution at any system level I define as a process of increasing differentiation and complexity of organization which endows the organism, social system or whatever the unit in question may be, with greater capacity to adapt to its environment so that it is in some sense more autonomous relative to its environment than were its less complex ancestors. I do not assume that evolution is inevitable, irreversible or must follow any single particular course. Nor do I assume that simpler forms cannot prosper and survive alongside more complex forms. What I mean by evolution, then, is nothing metaphysical but the simple empirical generalization that more complex forms develop from less complex forms and possibilities of more complex forms differ from those of less complex forms.(p.263)

上で「パーソンズ派のスタンダードな「進化」の定義」と書いたのですが、この論文では師匠パーソンズは全くリファーされていない。
自らの進化論の系譜についてですが、ベラーは19世紀の宗教研究は「進化論的傾向」に染められていたと述べるばかりで、ほとんど述べていないといってよいです。というよりも、ベラーの現状認識は20世紀中盤において社会科学では「進化論的思考」は全く流行っていないというものです*。 
*cf.上に書いた、「そもそも、機能主義と進化論(というより変動論一般)の相性は悪い」ということ。機能主義の出現自体が、例えば社会人類学においては、モルガンにせよフレイザーにせよ、19世紀的な進化論への批判だったわけですが。

パーソンズは、進化論を取り入れるに当たって、スペンサーを意識していたのでしたっけ。パーソンズと、サムナーとかヴェブレンといったアメリカ的進化論者はあまり関係がなさそうだし。
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