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2000年4月:進化論を巡って1
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 Date: Thu, 13 Apr 2000 12:20:54 +0900
 From: 酒井泰斗
 Subject:[luhmann:00974] [EV][960/3] 角田 ルーマンの進化観について
酒井です。

角田さん wrote:
多分、酒井さんもパーソンズなんて当たり前すぎて、言及を避けたのかと思います。
いや、どうしようかなぁ・・・と。少し悩んで、言及するのを“あえて”やめたんですけど(^_^;。

おっしゃるとおり、社会学史の文脈で「進化論」といえば、
機能主義 V.S 進化論
ということのほうが(特に19c末~20c初頭にかけては)本筋だったわけですよね。
これは、人類学内部での論争が社会学にもちこまれたわけですが。
すくなくともパーソンズのあたりまでは、その対立図式は生きていた、と。
パーソンズは「スペンサーは死んだ」(『社会的行為の構造』[1937])と書きつけたのは、そうした文脈のなかで、でした。

 しかしですよ。“ここでいったい「誰に向かって」クチをきいてんのよ?”ということを考えつつ、「社会学における進化論」を提示しないと、ハナシはややこしいことになりますよ。きっと。
 で、現時点において、狭義の進化学者と議論するのにそのテの話をもちだしたものかと考えてみると、「そりゃやめたほうがいいでしょ」という気にもなるわけです。

ところで、三中さんとの議論において、一つの緩衝領域的な話題となるのが、一方の、社会生物学的進化論と、他方のポパーやハイエク流の進化論、そして両者に対する、ルーマンの議論の違い、といったことになるかもしれません。
とりあえず、人類学=社会学における「古い」進化論を取り上げてしまうなら、その当時の人類学=社会学的議論の“コンテクストの紹介”も必要になってしまいます。しかし、「進化論」という名称で、現在のネオダーウィニズムを前提にして議論する限り、それはほとんど関係ないというだけでなく、むしろすると混乱を招くことになる様なハナシなわけです。。。
社会学者は、もちろん社会学史を知っていなければならないわけですが、他分野のひとにまでそこにつきあわせる必要はないんじゃないか、と。・・・という気がしていたので、社会学の古典的議論に言及するのはやめようと思ったわけですが、
そして/やはり、角田さんがひいてくださった Bellah の議論を読むとまたますますアンビヴァレンスはつのりますね(^_^;

引用文中にみられる「システムは、社会分化を通じてその複雑性を増大させ、環境に適応する」という命題はそれこそ今日では(ひょっとすると)、「ルーマンはそういってるらしい」ということで世間では通っている(?)わけですが、これ、そもそもはスペンサー出自の議論だったわけですよね。そうした古典的-人類学的=社会学的-進化論がしかるべき理由によって退潮したのちに、パーソンズ(そしてルーマン)はふたたび進化論的議論を取り上げたわけですけども。
 ルーマンにおいては、「複雑性」はサイバネティクス経由で持ち込まれたのであって、進化論経由で持ち込まれたわけではありません。
しかも、それを現象学的議論と遭遇させた段階で、サイバネティクス的含意──たとえば「必要多様度」とかね──からも、逸脱してしまっているわけで。
なので、私としては、complexity の訳語には、「複合性」を当てたいと考えてしまうわけですが。
が、その間の経緯を生物学者に誤解なく説明するのは、かなり難しそうです(^_^;。

さてさて。どなたか、「ルーマン進化論の概略」、とくにその最近の動向を描けるかたはいらっしゃらないですか?

 From: 三中信宏
 Subject: [luhmann:00976] FW:[EV][960/1]角田:ルーマンの進化観について
--- fwd msg ---
角田さん(961)&ルーマン・フォーラムのみなさん:
三中信宏(非会員)です。
※ またまた、酒井さんのご好意により、お邪魔しています。

At 2:43 +0900 0.4.13, SUMITA Mikio wrote:
*cf.上に書いた、「そもそも、機能主義と進化論(というより変動論一般)の相性は悪い」ということ。機能主義の出現自体が、例えば社会人類学においては、モルガンにせよフレイザーにせよ、19世紀的な進化論への批判だったわけですが。
ここで言われている「進化論」というのは、ハーバート・スペンサーが当時の社会学に持ち込んだ「社会進化論」のことですね? ルーマン進化観のすぐ裏側には、スペンサー的な「社会進化論」が潜んでいると考えていいのでしょうか? 
社会有機体論(社会システム論)の基盤がそこにあるのだとしたら、スペンサー進化論とダーウィン進化論との本質的違いについての認識から始める必要があります。

因みに、パーソンズ派のスタンダードな「進化」の定義かと思われるRobert Bellahのそれを抜き書きしておきます。
私が読み取ったかぎり、この「進化観」は私が理解しているダーウィン的な進化観ではありません。この引用文のように、進化に「発展段階」があるとみなすのは、きわめてスペンサー的な progressionism の発現です。ルーマンの場合も、同様な「発展段階論」がみられるのでしょうか? 
ダーウィン的な進化観というのは、「偶然」と「分岐」ということばに象徴されると私は考えます。スペンサー的進化観にはこの要素は希薄ですね。
※ 現代の進化生物学では「システム論」とか「有機体論」は、かなり警戒心をもって応対されます。

パーソンズは、進化論を取り入れるに当たって、スペンサーを意識していたのでしたっけ。
きっとそうでしょう。
スペンサー進化論の影響がシステム論志向の現代社会学に生き残っていたというのは私にとっては、素朴な驚きです。
--- fwd msg ---

 Date: Thu, 13 Apr 2000 14:55:48 +0900
 From: 酒井泰斗
 Subject:[luhmann:00977] [EV][960/1/7]三中:ルーマンの進化観について1
・・・ほら、「素朴」に「驚」かれたじゃん。。。

ふぅ。
酒井です。
サブジェクトの敬称略は、短縮化のためのルーマン・フォーラムデフォルトルールです。ご容赦を>三中さん

At 0:38 PM +0900 00.4.13,
三中さん wrote:
ルーマン進化観のすぐ裏側には、スペンサー的な「社会進化論」が潜んでいると考えていいのでしょうか?
いや、ダメです(^_^)。

社会有機体論(社会システム論)の基盤がそこにあるのだとしたら、スペンサー進化論とダーウィン進化論との本質的違いについての認識から始める必要があります。
三中さんは、その違いはどういうところにあると考えていますか? 少しあとに、
ダーウィン的な進化観というのは、「偶然」と「分岐」ということばに象徴されると私は考えます。スペンサー的進化観にはこの要素は希薄ですね。
という言葉が見えるので、まずはこのことが一番だ、ということにみえますが。
それならば、端緒においては「コンセンサス」を確保することができるわけです(当然ですが)。ルーマンが、社会学者として一番最初におこなった一連の作業のなかには、「偶発性」という存在様相に関する研究が含まれているのですが、これは大いにダーウィニズムの刺激を(も)受けてのことと考えられるからです。

因みに、パーソンズ派のスタンダードな「進化」の定義かと思われるRobert Bellahのそれを抜き書きしておきます。
私が読み取ったかぎり、この「進化観」は私が理解しているダーウィン的な進化観ではありません。この引用文のように、進化に「発展段階」があるとみなすのは、きわめてスペンサー的な progressionism の発現です。
おっしゃるとおり。

ルーマンの場合も、同様な「発展段階論」がみられるのでしょうか?
とりあえず、「否」だと答えておけばほとんど誤解なく正解だと思います。というかむしろ「ルーマンの議論では、社会が進むべき“よい方向”を示すことが出来ない」(藁)といって、みなさまから怒られているわけです。
というわけなので、ルーマンも進化に進歩の意味は含ませないのですが、それでも上で「ほとんど」と留保をつけたのは、“社会進化の記述に、メタレヴェルから=観察者の側から もちこまれる価値意識がどのように働いてしまうのか”という問題を簡単に無視するわけにはいかず、しかしまた、それに簡単に答えるわけにもいかない、ということがあるためです。
そうはいっても簡単な答を用意すれば(^_^;)、それは、観察者が認知や記述の複合性を縮減するためにもちこむものが、いつも何かあるだろう、ということに関係するでしょう。
ただしそれは、いま議論のこの水準で「同時に」論じるべき事柄ではないです(それをやってしまうと議論が混乱するだけなので。)
その限りで、この答えは「否」です。

ちなみにルーマン理論の中には──社会学の理論伝統から受け継いだ──「社会分化の類型論」というのはあります。/セグメンタルな分化/階層的な分化/機能的な分化/ というのがそれですが、これは「発展段階論」的な含意は持っていません*。それは──本人の弁に寄れば──、社会史を観察すると、分化のパターンとしてこの3つを用意しておけば足りそうだ、という経験的な含意しかありません(これはたぶん、パーソンズ理論と異なる点)。
* ただし、ここにもう一つ、次の仮説が加わると、実質的には「発展段階」説に酷似した議論がなされることにはなります。次便で紹介しますが、その仮説とは次のようなものです:「社会進化は、その都度、それ以前にあった分化パターンを破壊して展開する(という点で、生物進化と異なる)」

スペンサー進化論の影響がシステム論志向の現代社会学に生き残っていたというのは私にとっては、素朴な驚きです。
さてさて。。。。 「驚」かれちまいましたが。。。。
というか──とりあえずルーマン理論の中には──、「生き残って」ないわけですが(-_-;)。
社会学者のみなさんは、この、生物学者の素朴な、しかし当然ではあろう驚きに対して、どのように答えますか?(^_^;
というか、このオトシマエ、どうつけます?

 Date: Thu, 13 Apr 2000 14:55:58 +0900
 From: 酒井泰斗
 Subject: [luhmann:00978] [EV][960/1/7]三中:ルーマンの進化観について2
酒井です。
続きです。参考のために、少しルーマン自身の議論を引用しておきます。
これはルーマンが88年に来日した際におこなわれたシンポジウムのときの発言で、ヘーゲルと対比された文脈で「進化の方向性ということについて、あなたはどう考えているのか?」という哲学者からの質問に対してルーマンがこたえているくだりです。[口頭のセッションの記録なので、引用に際して、表現と語順を適宜改変しました。「‥」は省略をあらわします。]
 ‥‥{確かに、}/セグメンタルな社会、原始社会/階層性によって特徴づけられる社会/機能的に分化した近代社会/という{ルーマン理論の}構成には、ある種の疑似ヘーゲル的、疑似マルクス的なものがないとは言い切れません。そこで決定論の問題になるわけですが・・・。私は、歴史を動かす原動力というものは──{ヘーゲルが謂うような}何らかの精神とかイデーとかいったものの自己実現ではなく──偶然だと思っております。 システムは、様々な偶然に反応しているわけです。‥‥{この議論が、裸の決定論ではない[しまた裸の偶然論でもない]のは、}歴史に何らかの内在的な必然性を見るというのではなくて、システムと環境世界という関係の中で、事柄を見ようとしているからです。

 進化の全体的な方向というのは、非常に難しい問題です。生物について言っても、一方では高度に発達したものがおり、その反面、無数の、非常に単純な発達しかしていない生物も同様に存在しているわけです。‥‥[生物の場合、進化というのは]決して、以前に存在したものを淘汰して次に新しいものが出てくる、ということではないわけです。
 これに対して、社会の進化というのは全く別でして、近代の社会というのは、その前にあったプリミティヴな社会を解消して[=破壊して]展開してきたわけです。‥‥そうだとすると社会を進化論の理論で説明してみるというのは、“非常に高い選択性をもったシステムが出現してくる”という方向での進化を問題にすることではないかと思います。
 たとえば、貨幣経済の発達や、政治的に保証された平和の確立、そして{制度的に確立された}科学や経済といったものが、複雑な・選択的なシステムとして展開{=分出}してくるといったものとして、進化を考えなければならないのではないか、ということです。
 ‥‥或る社会が経済的な負担をもとに解体してしまうということはありえますし、原発の事故で破壊されてしまうこともあり得ます。アメリカに原爆がおちた場合に直接に原爆だけで死ぬのは2000万人~3000万人ぐらいだが、残りは{それより遙かに多数の人間が}飢えで死ぬだろうと計算されています。そうした意味で、近代の社会では{それ以前の社会と比較して}システム依存性が極めて高くなってきているわけです。そして、このように増大してくる相互依存性のリスク──依存性というのは常にある種のリスクを抱えているわけですけれども──を、計画で何とか押さえるということは、残念ながらできないし、[そうした方向で進化を云々することもまたできないわけです]。その意味で私は、ヘーゲルのいうような、理性の自己実現として進化を考えていくことはできないと思います。むしろ進化というものは、様々な諸関係が、一時的な・過渡的な仕方で現実化されていく過程である、と私は捉えています。
『ルーマン・シンポジウム』(@1988:未来社1991刊)

「進化=進歩」という観念の批判については、『社会構造とゼマンティク』あたりには、もっとふさわしい引用がありそうな気がします。相応しい場所があれば、どなたか引用お願いします。
とりあえずまずクリティカルなのは、上で言われている、生物進化と社会進化の違いを、どう考えるか──認めるのか/認めないのか──という問題になるでしょうね。

それはそれとして。
三中さんが、「偶然性と分岐」というキーワードを出されたことに引きつけて、とりあえず前者を意識しつつ*まとめがき的に付記しておきます:
* 後者=「分岐」に関しては、前便の“「何かの 起源origin を問う」という姿勢、そして、何を以ってその問いの「答え」と見なすのか、という姿勢の転換”に関連して何か書けそうな気がしますが、とりあえずそれはまた別の機会に。

社会進化の文脈では、
可能性の過剰、あるいは[ある社会構造のもとで可能になる]偶発的な諸選択肢=選択可能性
が variation にあたり、そうした可能性のプールから
何らかの事態が実際に生じること
が selection にあたり、さらにその生じたことに、ほかの出来事が接続していくことによって、
[「裸のままの事実」として考えれば]生起する蓋然性の低い出来事が、しかし社会的には相対的に安定して生起し続けるようになる
というのが、(re-)stabilization にあたる、とおおよそいえると思います。
このあたり、どなたか補足していただけると助かります。とりあえずここでは、ルーマン理論の中では「初期」にあたる『法社会学』(2版:1972)を想起しつつ纏めました。

このことは、もちろん、どれも「リニア」につながっていくことではありません。「偶発的」な出来事については、
1)いくら偶発的といっても、なんらかの仕方で、その都度その都度の社会構造のありように依存しているはずで、
またそれは
2)いつも常に生じているわけですが、そのあとに、なにかほかの出来事が接続しないのであれば、生じてすぐに消え去るだけであり
その意味で、ほとんどの出来事は「ニュートラル=中立的」だといえます
さらに、
3)それがなければそもそも進化自体が生じないのだが、同時にまたそれがシステムを破壊しないという保証は何もない
などなどのことがいえます。

 このことを踏まえると、「蓋然性の低いunwahrscheinlich・選択的出来事-の-安定化」については、ただ「事実的」かつ「事後的」に語ることができるだけです。つまり我々は、“実際に”接続につぐ接続を受けている出来事を、それが「接続されて-ある」[=接続-によって/において-ある]という風に語りうるのみです。
そうではない出来事は、そもそも識域に入ってこない(^_^)。
社会的な出来事のうち、識域スレスレの事態については、社会学者よりも文学者のほうが鋭い嗅覚をもっていて、その点ではしばしば社会学者は文学者に出し抜かれている、とルーマンは考えていると思いますが。

たとえば、貨幣経済や法制度は、人類の歴史総体からみれば、ほとんど ありそうにないunwahrscheinlich ような事態が、しかし実際に現実化されているわけです。が、それについて語りうるのは、ただ事実的に、そのようなありそうにない振る舞い[という出来事]が、しかし実際に日々接続されることによって相対的に安定化されている、という仕方においてなわけです。
もちろん、そこから出発して、その選択性の可能性の条件に遡行する、という問題=課題が、次に生じてくるわけですが。ここではそれについては置いておきます。
ついでにいうと、ここにさらに観察の問題が付け加わります。社会学的観察においては、観察されるもの-と-観察する者 とを 鋭く/遠く 切り離しておくことが難しいので、生物学的進化論ではほとんど不要な議論も、クリティカルな問題として浮上してきてしまいます。──或る出来事を見て、それを「選択的な事態」とみなすのは、観察者がおこなっていることです。つまり、当の出来事から逆に「可能的な事態」を遡行的に推察し、その「可能的事態」と当の出来事を比較するからこそ、ただの「或る出来事」が、「選択的」なものだととらえられるのだ──云々、という問題を抹消できないわけなのでした。

とりあえず、三中さんのいう、「偶然性と分岐」ということについて、その前者のほうに関して少しだけ考えてみました。この文脈では、ルーマンが進化論からうけとめたインパクトというのは、
社会的なものを、その偶発性*に即して考える
という仕方で展開されているのではないかと私は思います。平たい言い方でいいかえると、これは、
現在に置いて、社会的に当然なものとして流通しているものを、何らかの実体的な根拠[=そのような意味での“起源origin”]からではなく、様々な出来事の重なり合い[=接続]の、つねに一時的で過渡的な“帰結”
いわば、consequence(s) of sequences
という方向から考えようとすること
だ、ということになるかと思います。
* ここではとりあえず、「偶発性」とは“必然性”および“不可能性”それぞれの否定によって得られる存在様相のこと だという仕方で、ミニマムな定義を与えておきます。
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