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長岡克行著『ルーマン/社会の理論の革命』合評会
評者 馬場靖雄

ルーマン/社会の理論の革命 2007年1月28日(日)に東京経済大学にておこなわれた、長岡克行著『ルーマン/社会の理論の革命』合評会 の配布資料です。 評者は 馬場靖雄三谷武司のお二人でした。 この頁には馬場靖雄さんの配布資料を掲載しています。
はじめに
第一部 改訂と補足
【1】フッサールとデリダ
【2】sozial / gesellschaftlichの区別について
【3】(1997)読書会で「意味不明」との声があがった箇所
【4】「コミュニケーションは観察できない」は何を意味するか
第二部:「社会の理論の革命」とは何か

はじめに

凡例:[166]は、「本書166頁」を指すものとする。ルーマンの著作は同書文献表に従って(1984:78=84)というように指示する。また敬称はすべて省略する。註は各節ごとに(1)というように番号を振り、節の最後に掲載する。

 最初に本書の位置づけ・意義を確認しておこう。馬場(以下「評者」)にとって本書は、今後のルーマン研究においてくり返し用いられるべきレファレンスブックないしデータベースである。したがってくり返し使用するなかで各人が継続的に「改訂」や「補足」の作業を行っていくべきものである。その成果がネットを通して共有されればさらに本書の意義は高まるだろう。

 特に、本書はルーマンの論述にきわめて忠実であるがゆえに、ルーマンのロジックの不可解さ・不十分さもまた忠実に再現されている。その分だけ補足作業は不可欠になるし、それを促してくれるのも本書の意義であると考えられる。

 以下では第一部として、評者なりのそのような「改訂」「補足」の試みを提示したい。当初は第二部として、長岡が掲げる「社会の理論の革命」の内実について検討する予定だったが、時間の制約のためごく簡単なメモを付するに留める。

第一部 改訂と補足

【1】フッサールとデリダ[296-297]

 同所では次のように論じられている。フッサールは「孤独な魂の生活」から出発したがゆえに間主観性の問題を捉えられなかった。デリダの『声と現象』における記号の反形而上学も、社会的なもの(情報/伝達の差異)を解明してはくれない。したがって現象学でも記号論でもなく、コミュニケーション理論こそが必要である云々。つまりルーマンのコミュニケーション理論はフッサールとデリダを「止揚」ないし「超克」した、というわけである。

 これに相当するSoziale Systemeの邦訳でも「~でも~なく……を」という「超克」解釈が取られている。

われわれは、ここで二つの哲学理論のあいだに、つまり超越論と記号学とのあいだに決着をつける必要はない。経験科学が哲学の理論的営為から学びうるところがあるにしても、それを経験科学のなかに受け入れるのであれば、こうした哲学理論が作り出した理論的展開をかならず十分に吟味しなければなるまい。社会学の理論構築にとってなによりもまず重要な洞察は、いま素描した相対立する立場は【いずれも】、コミュニケーションに関する短絡的な理解を基礎にしているということなのである。コミュニケーションに本書で使用されているコミュニケーションの概念によって、なによりもまずこうした二つの立場は追い抜かれたのである。(1984:203=230)

 しかし評者の見るところ、この解釈はルーマンの議論を正しく捉えていないように思われる。そしてこの一見するとトリヴィアルな論点は、ルーマン理論の根本的前提に関わってくるのである。ルーマンの基本的な論点は、コミュニケーションを情報(=他者言及)/伝達(=自己言及)の差異において捉える、ということである。その際、どちらかがコミュニケーションの「本質」をなすわけではない。あるいはデリダ流に、どちらかにおける「本質の不在」を確認することが重要である、という話にもならない。

 ルーマンによれば、フッサールにおいて「表現」(のみ)が重視されていることから、そこでは伝達がコミュニケーションの「本質」であると見なされていることがわかる。一方デリダが重視するのは、記号(作用)における--つまり、情報=他者言及における--現前するもの/しないものの戯れ(本質の不在)である。要するに両者は、コミュニケーションを構成する差異の、それぞれ異なる側に(のみ)焦点を当てているのである。両者の不十分さは、彼らの理論内容が劣っている、不十分であるということではなく、コミュニケーションを差異において捉ええていないという点なのである。

 ルーマンを含めた社会学者は両者の理論【内容】を「追い抜いて」などいない。むしろ両者の精緻な分析から大いに学ぶことができるし学ばねばならないが、コミュニケーションそのものはあくまで両者が扱った二つの側面の差異として捉えられるべきなのである。したがって重要なのは彼らの理論を「超克」することではなく、差異のうちに位置づけることである。試訳を掲げておこう。

われわれはここで、ふたつの哲学的理論のどちらなのか、超越理論なのかそれとも記号学なのかという決定を下す必要などない。必要なのはただ、この点に関して生み出されてきた概念的な繊細さを、経験科学へと取り入れる前に再吟味しておくことだけである(経験科学は、哲学の理論的苦闘から学び取ることもできるのだ)。社会学的な理論形成にとって特に重要なのは、ここで素描してきた論争における【どちらの】立場も、〔情報/伝達のうちのどちらか一方のみが重要であるという〕コミュニケーションに関する短絡的な了解に基づいている、という洞察である。われわれが用いているコミュニケーション概念は、ふたつの立場をさしあたり切り離しておく(abhängen)のである。( 〔 〕内評者補足、以下同様)

 むろんコミュニケーションにおいて重要なのは、何らかの「項目」「側面」「審級」などではなく差異そのものであるという論点は本書全体を通して、むしろ執拗すぎるほどに強調されてはいる。しかしこの「差異理論的アプローチ」を貫徹することの困難さは、例えば「コミュニケーション=行為の意味は、組織に関する制度的保証(を用いて同定すること)によって担保されねばならないはずだ」といった議論が通用していることからも見て取れる(関連する議論は後述)。

 差異理論的アプローチからは、例えば次のような論点が導出される。

 再度強調しておきたいが、これらの論点は本書で、また特に(1984)で(1)、くり返し確認されてはいる。しかし一般にはルーマンについて論じられる場合、それが十分に理解(というよりも、実践)されているとは言いがたい。この事態は、邦訳自体がその点をあまり理解していないということにも起因するのかもしれない。例えば(1984)冒頭近くの次の箇所。

これに対して、古典的認識論は、自己準拠が純然たるトートロジーであるがゆえに、また自己準拠がまったく任意なものに適用可能とされているがゆえに(a)、自己準拠を回避しようとする意図によって特徴づけられる。科学プログラムが総じて「認識論」の視角のもとに考察されることになるばあいはいつでも、この自己準拠の回避が基本的特徴となっている。自己準拠の根拠について真摯に考えなければならない(b)。ところで、こうした自己準拠の根拠もまた、一般システム理論のなかに現れ出ている。自己準拠のそうした根拠は、システムと環境の差異に関係してる。というのも、自己準拠によってのみ生み出されるシステムもありえないし、システムとまったくかかわりのない任意の環境もありえないからである。(1984:31=19)

(a) als Öffnung für schlechthin Beliebiges 「任意のもの一般へと開かれていることとして」

「任意のものに適用可能」ではなく「〈法は法である〉〈法とは法システムが法と見なすもののことである」といったトートロジー(区別を伴わない自己言及)だけからでは、〈法〉の内容は何でもよいという結論しか導き出せない、ということだろう。

(b)Die Gründe dafür sind sehr ernst zu nehmen.

訳者はdafürを「自己準拠の」と解している。確かにそう取ることも不可能ではないが、そうすると「自己言及の根拠とは、〈自己準拠によってのみ生み出されるシステムもありえないし、システムとまったくかかわりのない任意の環境もありえない〉ということだ」との話になり、(少なくとも評者には)理解不可能になってしまう(そもそも「自己言及の根拠」について考えることなどできるのか?(2)。dafürは素直に「そのことの」、つまり古典的認識論においてなぜ自己言及が回避されねばならないとされていたのか、その理由を、と解するべきだろう。そうすればその次の文も、われわれが依拠する一般システム理論においても古典的認識論において〈純粋な自己言及は不毛だ〉とされていたのと同様に、環境抜きのシステムは、したがって他者言及抜きの自己言及は(「純粋な自己言及」は)ありえないとされているのだから、というように繋がることになる(3)。つまりここで論じられているのは、本書のテーマは「システムとは何か」ではなく、「システムと環境の差異」「自己言及と他者言及の区別」である、という (1984) の(あるいは、「後期」ルーマン理論の)「ライトモチーフ」なのである。

 やはり試訳を掲げておこう。

それに対して古典的認識論は自己言及を純然たるトートロジーとして、またまったく任意なものへの道を開いてしまうこととして、回避しようとする意図によって性格づけられる。そもそも《認識論》の観点のもとで統一的な科学プログラムが存在していた間は、この点は明白に見て取れた。その根拠(理由)は、きわめて真剣に受け取られるべきである。その根拠とはまさしく、一般システム理論のなかにも登場してくるものなのである。その根拠は、システムと環境の差異に関連するのであり、ただ自己言及によってのみ生み出されるシステムも、任意の環境を伴うシステムも存在しえない〔すなわち、システムは必ず特定の(規定された、しかし縮減されていない複雑性としての(4))環境を伴う〕ということを意味しているのである。

 あるいは、自己言及は常に随伴する自己言及(mitlaufende Selbstreferenz)である、と言ってもよい[333]。

きわめてトリヴィアルなことながら、それとの関連で指摘しておきたい。「随伴する自己言及」とはすなわち自己言及は「純粋」ではなく常に他者言及を伴うということを意味している。評者にとってこの訳語は長岡の論文から教示を受けたものであり、今日に至るまで継続的に使用させてもらっているし、何ら問題はないと感じている。ただし[333]で、「随伴する自己言及」の説明のために(1984:59 = 52)の次の下線箇所を引いているのには違和感を覚える。

あるシステムを自己言及的なものとして指し示すことができるのは、そのシステムが、システムを瀬立させている諸要素を、機能する統一体として自ら構成している場合、また同時にそれら諸要素間の関係のすべてにおいてこの自己構成への参照を随伴せしめている場合、つまりそのようにして自己構成を継続的に再生産している場合なのである。(訳文評者)

 この段階ではまだ「自己言及は他者言及を伴う」という議論ではなく、「要素の関係において、その関係のなかで当の要素が再生産されることが含意されている」という緩やかな意味で「随伴」という言葉が使われているように思われる。あるいはやや強引に解釈するならば、基底的自己言及においては要素が他の要素との関係づけ(他者言及)を通して自分自身へと立ち返るわけだから、むしろここで論じられているのは「随伴する他者言及」ではないか。

 いずれにせよ、「随伴する自己言及」という成句が登場したときには常に上記のような意味に解してよいが、「随伴する」という語はより緩やかに使用される場合もあり、この語が登場するケースすべてにおいて「随伴する自己言及」について語られているとは言えないのではないか。


(1)長岡本では(1997)がルーマン理論の総括であり到達点であると評価されている。確かに包括性という点ではその通りであるが、しかし諸概念相互の関係づけの見事さと論述の密度という点では、やはり(1984)こそが「主著」であると見なしたい。(1997)はむしろややルースなかたちで自己の過去の業績全体を回顧したものとして位置づけうるように思われる。

(2)根拠について考える際には、すでに自己言及が打破されていることが前提となる。

体験と行為の基礎となっている、〔例えば,これが基礎概念でありあれが派生概念であるといった〕あらゆる非対称性は、自己言及的な循環のなかに、いわば〔前者から後者への一方通行のかたちで〕人工的に引き延ばされた直線として挿入された見せかけである。演繹〔=根拠と結論〕に関しても、因果性〔=原因と結果〕に関してもそう言える。(1984:651 = 876、訳文評者)

したがって、少なくとも【普遍的な】自己言及システムの理論は、自身を何らかの根拠によって正当化することを断念しなければならない。可能なのは自身を、自身の対象である自己言及的システムの内部に位置づけるというかたちで、理論とその対象を一挙に導入することだけである。

 なお上記引用箇所に関して徳安彰は吉澤夏子『世界の儚さの社会学』への書評のなかで(『三田社会学』10、146)、評者には意味不明な批判を行っている。

また、引用されたルーマンの文章にしばしば誤訳が見られる。一カ所だけ指摘すると、本書の128頁のSoziale Systemeからの引用文中に「人工的に引き延ばされたもの」というフレーズがある。この部分の原文は、künstlich-begradigte Streckenであり、邦訳では「人為的に中断されたコース」となっている。いずれも不正確で、正しくは「人為的に一直線にされた道」というほどの意味である。この部分は、とくに世界構成のメカニズムの根幹を論じているだけに、正確を期して欲しかった。

(3)蛇足ながら春日淳一『貨幣論のルーマン』(129-)では、佐伯啓思に依拠しつつ、変化しつつも秩序を保つ「自己調整的市場」と、(バブル期以降の日本経済のように)自己反応によって暴走していく「自己組織的市場」とを区別した上で、後者を「準拠すべき他者の萎縮」によって生じた一種の病理状態としての「純粋自己準拠」として描き出している。そしてこの病理状態から脱却するためには、例えば地域通貨やSRIによる他者準拠の回復が必要である、と。しかしわれわれの理解によればそもそも他者言及を伴わない「純粋自己言及」など不可能なはずである。両者はただ区別においてのみ用いられうるのだから。昨年10月1日の経済社会学会(上智大学)の折りに春日にこの点を指摘したところ、「自分としても純粋自己準拠は一種の極限状態であり、現実には存在しえないということは承知している」という趣旨の回答を得た。しかしそもそも純粋自己言及は、事実的に存在しないというだけでなく論理的に想定不可能ではないかという評者の疑念は解消されなかった。評者から見れば、「純粋自己言及」による暴走(投機が投機を生む、ポジティブ・フィードバック)も、企業の社会的責任や地域の連帯を重視する「スローな」経済も、異なる他者言及によって規定されているという点で違いを有しているにすぎない。前者の場合なら、経済の過去の作動自体が「他者」として働いているわけだ。

(4)1971a:301 = 389の、[unbestimmt / bestimmt]/[Umwelt / System]の区別を交差させることによって構成される四象限図式を参照。

【2】sozial / gesellschaftlichの区別について(307-311)

 長岡本で述べられているように、sozialは社会的次元(パースペクティブの相違)一般に関わる語であり、gesellschaftはより限定的であるという点は、またしたがって今村仁司の「ルーマンはsoziale とGesellschaftとを互換的に用いている」という解釈がナンセンスなのは明らかである。

 しかし[310]の図10にある「ゾチアールでない行為・自己享受的な行為/ゾチアールな行為」「非ゲゼルシャフトリッヒな行為/ゲゼルシャフトリッヒな行為(コミュニケーション行為)」という区別は、ルーマン理論内在的なものなのだろうか?

 前者はむしろ「行為」という概念に常につきまとってきた歴史的ゼマンティク(アリストテレスのpoiesis / praxis---前者ではdynamisが行為者でenergaiaは制作された物、後者ではdもeも行為者--、アウグスティヌスにおけるuti / fruiなど)であり、自己完結的な行為(他者言及なしの自己言及)もありうるかのように観念させるという点こそが、行為を社会システムの要素と見なす立場を放棄せざるをえなかった理由のひとつではなかったのか。

 (1984:235-236 = 270-271)ではさらに、伝統的には行為をこの二種類に分類した上でそれぞれについての合理性を考えるという方策がとられてきたが、それでは複数の合理性の統一性はどこに求められるのかがわからなくなるという、お得意の(ヴェーバーやハーバーマスに対してなされてきたのと同様の)批判が加えられている。

 また後者が扱われているのは(1984:580-581 = 778-781)においてであるが、ここで問題とされているのはあくまで「相互作用/全体社会」という区別であって、特に「非ゲゼルシャフトリッヒな行為」という概念が提起されているわけではないように思われる。相互作用=非ゲゼルシャフトリッヒな行為、と見なすのはむろん誤りである(相互作用は全体社会から区別されるが、全体社会を再生産しもするから)。

これまでの議論は、あたかも全体社会的な〔個別的場面における相互作用を超えて、全体社会レヴェルで効果を及ぼしうる〕行為はすべて相互作用として経過していくかのような印象を与えてしまったかもしれない。今やこの観念を修正しておかねばならない。そのためには、本書でこれまで等閑視してきた、ひとつの概念的区別を導入しなければならない。それは、社会的次元と社会システムの区別に対応するものである。行為は、意味規定に際して社会的次元もまた考慮されている場合には、つまり他者がそのことについてどう考えるかが顧慮される場合には、常に【社会的】行為である。しかし行為が【全体社会的】であるのはただ、それがコミュニケーションとして意図され、そして/または経験される場合だけである。行為はそうしてこそ、全体社会というシステムを共実現できるのだから。(1984:580 = 778、訳文評者)
……文字と印刷は、相互作用から退きながらなおかつ広範な帰結を伴いつつ全体社会的に行為することを可能にする。(1984:581 = 780、訳文評者)

 ここで念頭に置かれているのは、ルーマンがしばしばゴッフマンを引きつつ強調している、あらゆる行為は相互作用のなかで表出活動として知覚されるのだから、「呈示」の仕方に気を配らざるをえなくなるという議論ではないだろうか。したがって相互作用のなかではあらゆる行為が(poiesisであろうがpraxisであろうが)コミュニケーションとしての意義をもつ。仮にそう意図しなかったとしても、あらゆる行為について「他者はそれをどう見るか」を考慮しなければならなくなる--特に家族においては(1)。

 しかしこの種の非自覚的に生じる自己呈示はあくまで個別的な文脈のなかでのみ通用するのであって、それを離れて全体社会総体に影響を及ぼすことはありえない。そのような影響を発揮しうるのは、あくまでコミュニケーションとして意図された、情報と伝達とを場を共有していない者にも明示できるような行為のみである。もちろん文字の使用はそのための最も有効な手段だが、口承を基本とする社会でも、語りを一定のリズムや音楽や舞踊を伴うかたちで様式化するなどの仕方で、ある程度それが可能だったはずである。gesellschaftlichかそうでないかは以上の文脈で、つまりあくまで「全体社会/相互作用」という区別のもとで用いられていると考えるべきではないか。

以上の解釈が正しいか否かについては今ひとつ確信が持てないが、「ゾチアールでない行為」「非ゲゼルシャフトリッヒな行為」という概念をルーマン理論のうちに位置づけうるか否かについては、やはり検討してみる必要がありそうである。

(1) 家族は「観察の観察のホットセル」となる(1995b:108 = 104)。一度パートナーが自分を愛していないのではないかとの疑いが生じれば、パートナーが行うあらゆる情報処理(観察)が、「愛していない」ことを示すものとして観察されてしまうのである。かくして容易にポジティブ・フィードバックが生じてくる。ルーマンによれば「女性は極端に走りがちだ--一度敬虔になると過度に敬虔になる、というように--との旧い教説」は、家庭内で生じるこの事態を男性の側から表現したものなのだそうだ(1990h:215)。

【3】(1997)読書会で「意味不明」との声があがった箇所

 これは単に長岡の解釈を聞きたいというだけの話なので、当該箇所を引用し疑問点を挙げるに留めよう。

構造的カップリングは、操作的カップリングの対概念である(1993, S.440)。操作的カップリング、すなわち操作と操作のカップリング(連結)には、二種がある。ひとつは、すでにわれわれが見てきたオートポイエーシスである。システムの操作によってシステムの操作の生産がおこなわれる。実在的な諸操作は、同時的に現実存在する(gleichzeitig existieren)世界のなかでのみ、いいかえるとシステムと環境の同時性(Gleichzeitigkeit)のなかでのみ、可能である。このことは、ある操作が他の操作に影響を与えることをさしあたり排除する(26)。このことがそれにもかかわらず可能であるべきだとすれば、それはある操作の他の操作への直接的な接続においてである。しかし、ある操作の終了が他の操作の可能性にとっての条件であるようなそうした再帰的な諸関係は、システムの分化・自立化、ならびにこのシステムと同時的に現実存在する環境の出現につながっていく。この結果が、操作的な閉じと呼んできたものであった。[350]
(26)なぜなら、普通の意味での因果性は原因と結果の時間の隔たりを前提としており、同時的に顕在的に作用する因果的な出来事はないと見なければならないからである。[381]
《閉鎖性》によって意味されているのは実際のところ、熱力学的な孤立性ではなく、作動上の閉鎖性だけである。それはすなわち、自身の作動は、自身の作動の結果によって循環的に可能になるということに他ならない。〔そのようにしてしか可能にならないのは〕なぜかと言えば、現実の作動は【同時に】存在している世界のなかでのみ起こりうるということから出発しなければならないからである。したがって何よりもまず、ある作動が別の作動の影響を受けるということが排除されるはずである。にもかかわらずそれが可能とならねばならないというなら、ある作動が別の作動に直接に〔他のシステムを経由することなく、自身の作動の結果に自身の作動で反応するというかたちで〕接続することにおいてであろう。この種の循環関係のなかでは、ある作動が終結することが別の作動の可能性の条件となっているわけだ。そこからはシステムと、同時に存在しているその環境との分化が生じてくる。その際システムの閉じはしばしば、構造上高度に複雑な道筋で実現されていくことになる。以上の結果が「作動上の閉鎖性」と呼ばれるのである。(1997:94-95)

因果性はオートポイエーシスの内部において、作動上の閉鎖性を実現するかたちでのみ存在しうる?

因果性は自動的に閉鎖性を生ぜしめる? だがルーマンは因果性はシステム境界を横断し、無限へと通じていくと主張していたのではなかったか。

しかし因果性の単純で関係的な、存在論的な概念もすでにはるか以前から解体されている。すでにマックス・ヴェーバーも知っていたように、因果図式は無限問題を含意している。時間的および事象的に見れば常にさらなる原因が、また常にさらなる結果が存在する--つまり任意の、である。それゆえに因果性は【メディア】としてのみ把握されうる。そのうちでさらに改めて形式が確定されねばならないのである。あるいはルースな、しかし任意ではないカップリングの無限領域として、と言ってもよい。そのなかでさらに改めて、どの原因がどの結果とタイトに(=確かに)カップリングされうるのかが決定されねばならないのだ、と。(1995a:15)

そもそも(1997:94-95)で語られているのは因果性の話なのだろうか?

【4】「コミュニケーションは観察できない」は何を意味するか

 本節は[476]以下の、佐藤俊樹によるルーマン批判に対する反論に基本的に同意しながら、それをやや別の角度から敷衍・補足しようとするものである。

 コミュニケーションは【その自己観察すなわち理解において】(a)、情報と伝達を区別することができる。しかしながら、情報・伝達・理解という三つの選択の総合としてのどのコミュニケーションも、すでに触れたように、そのコミュニケーション自身にとっては直接的には観察することができず、推定できるにすぎない(1984, S.226/二五九貢)。
 それゆえルーマンの見解によれば、コミュニケーション・システムが自己を観察するにあたって、観察可能な行為によってコミュニケーションを代表させ、コミュニケーションを行為という旗で示すということがおこなわれているのである。われわれがコミュニケーションに行為を読み込まないときには、コミュニケーションは【いくつかの選択の対称的な関係である】(b)。そのどの選択も他の諸選択をリードできるし、このリード関係はいつでも逆転させることができる。ここでは、きっぱりと定まった選択強化の方向は存在していない。この関係は可逆的であり、そのかぎりで高い適応能力をもっている。こうしたコミュニケーション事象に行為了解が組み入れられ、単純化がなしとげられる。このことを通じてはじめてコミュニケーションは化される。伝達行動それ自体を行為することとして捉えることによって、はじめてコミュニケーションは伝達する人から伝達を受け取る人へという方向を手に入れる。いうまでもなく、この方向は、伝達を受け取る人が何かを伝達しはじめ、したがって行為をしはじめることによってしか、逆転されない。コミュニケーションはこのようにして、行為を通じて単純な出来事として時点に固定されることになる(1984, S.226f./二五九-六〇貢)。[301-302、【 】(a) (b)……は評者による]

 長岡によるこの記述に該当するルーマンの文章(邦訳書による)を確認しておこう。

そのことにくわえて、コミュニケーションは、行為との関係を考えないのであれば、【複数の人びとのおこなう選択の間の非対称的な関係】(c) なのである。このこともまた、移転メタファーの使用によって覆い隠されている。コミュニケーションがそうした対称的な関係をなしているのは、【自他のどちらの側での選択も相手の選択を方向づけることができる】(d) ばあい、ならびにこうした方向づけの関係が【自他の立場を変えてもたえず成り立つことができる】(e) ばあいにかぎられている。そうした対称的な関係としてのコミュニケーションのばあいでも、何が理解されるのかという問題に、その隘路が存しており、したがってその重要課題が存している。そのばあいにまたもや新しい情報がさし迫って重要になるのであり、それを伝達する必要そのものが、すぐさまそのことに対して波及効果を波及効果をおよぼすことになる。したがって、【自他の間で、選択強化のきっぱりと決まっている方向はありえない】(f)。(1984:227 = 260、【 】(c) (d)……は評者による)

 邦訳では、行為へと縮減され非対称化される「以前」の、観察されえないコミュニケーションのもつ対称性を、一貫して【自他の間の】対称性であると解釈している。しかしそれを前提にした訳文のような内容なら、「自他の間の相互的影響関係」とでも述べればよいだけの話であって、それをわざわざ「対称的」などと呼ぶ必要はないだろう。ましてやそれが「観察されえない」などと考えることはできない。(d) などどう考えても観察されうる・相互的な関係そのものではないか。

 だが実際の原文では長岡本の記述のとおり、「自他の」を意味する語句など付されていない。

(c) ein symmetrisches Verhältnis mehrerer Selektionen 種々の諸選択の対称的な関係

長岡(b)で「いくつかの」と訳されているmehreについて。もし問題になっているのが「自他の」二つの選択ならばなぜこんな書き方をする必要があるのか。通常二つならば「種々の」「いくつかの」という言い方はしないだろう(するかもしれないが、評者には不自然に思われる)。これはやはり例の「したがってコミュニケーションは二極のではなく三極の選択過程と見なされねばならない」(1984:194)という議論と対応させて考えるべきだろう。つまりここでいう「対称性」とは、情報/伝達/理解の対称性のことなのである。

この三つの対称的な選択からなるコミュニケーションが対称的であり、観察されえないとはどういうことか。

しかしその前に(d)以下を確認しておこう。

(d) (e) als jede Selektion die anderen führen kann und die Führungsverhältnisse laufend umgekehrt führen können  どの選択も他の諸選択を導くことができ、その先導諸関係が常に逆方向にも生じうるという点で

「他の諸選択」「先導諸関係」が複数形になっている点に注意してもらいたい。問題となっているのが二極関係なら、つまり「自他の間の関係」なら、あるいは「前の行為がなす文脈のなかにおかれた行為が前の行為を解釈していく」(佐藤俊樹「コミュニケーション・システムへの探求」、『InterCommunication』57、29頁)、要するに前の行為が後の行為を規定すると同時に逆方向の規定効果も存在するという話なら(1)、どちらも単数でいいはずである。ちなみに佐藤はこの部分を次のように訳している。

それぞれの選択が他の選択を導き、かつその導くものと導かれるものがつねに反転しうるかぎり、コミュニケーションは対称的といえる。(同上31頁)
(1)したがって[481]での、佐藤はコミュニケーションの「事後成立性」のみを強調しており、先行コミュニケーションが後に続くコミュニケーションを確定するという面を無視しているとの批判は、適切とは言えないのではないか。

(f) Es gibt also keine ein und füe allemal festliegende Richtung der Selektionsverstärkung.  したがって選択強化の方向が一回限りに定まっているなどということはない。

 以上を踏まえて改めて「コミュニケーションが観察されえない」とはどういうことかを考えてみよう。次のような場面を思い浮かべてもらいたい。某国の首相が記者会見の席で、オペラの話しかしない(僕は「リエンツィ」が好きでねえ……)。記者は当然、「首相はどういうつもりでこんな話をしているのか」という疑念をもつ。しばらく考えた末に、「首相は、苦手の経済政策について質問されるのを避けるためにリエンツィの話をしているんだ」との結論を下す。ここでこの記者は「リエンツィが好き」が情報であり、「経済の話を避ける」が伝達の意図or文脈であると理解していることになる。首相の発話をフルスペックに書き換えれば「私は経済政策について問われるのを避けるために〈リエンツィが好きだ〉と言う」となるわけだ。

 しかし件の記者の頭には次の瞬間、もうひとつの疑念が沸いてくる。実は「経済政策について質問されるのを避けるためにリエンツィの話をしている」というのが、首相が伝えようとしている情報内容なのであって、本当はその裏に、発覚しつつある肉親をめぐるスキャンダルから目を逸らそうとする意図が潜んでいるのではないか。この記者はスクープの予感に興奮するが、次の瞬間には、まさにそのようなスクープを打たせることこそが謀略に長けたI秘書官が指揮する官邸の意図なのではないかとの疑いを抱く……

 「誠実さの伝達不可能性」の裏返しとして、相手の「本当の意図」は確定できない。つねにさらなる裏の意図を想定することが可能なである/想定せざるをえない(コミュニケーションの無限性)。

したがって理解は事後的に、とりあえず情報と伝達とを特定のかたちで区別せざるをえない。しかしこれは(評者も「受け手重視のコミュニケーション概念」「セクハラ的コミュニケーション概念」といった表現で誤って強調してきたように)理解が決定権をもつということではない。理解もcreatio ex nihiloではありえず、あくまで先行する出来事を参照するかたちで生じなければならないし、必要な場合には問い返してみなければならない(「問い返し」はこの不確定性が行為として現れてきたものである)。情報/伝達と同様に理解もまた常に別様でありうるし、特定の理解が「正しい」か否かをそれ自体として決定することはできない。

 このように情報/伝達/理解は、常に区別されうる・されねばならないが、それぞれが別様でもありうる(偶発的である)うえに、相互に参照し合う閉じられた環を形成するがゆえに、まずどれかを確定してそこから他の選択を(【諸】選択を)決定するというわけにはいかない。まず情報内容を確定し、次にそれがどんな意図で発信されたかを見極め、そして正しく理解されたか否かを検証する……というわけにはいかない。「その先導諸関係が常に逆方向にも生じうる」からである。この意味でコミュニケーションは対称的である。

 またコミュニケーションそれ自体は完全に閉じられた環、いわば「純粋自己言及」であるがゆえに、何ものかとして指し示すことができない(「純粋自己言及の不可能性」という先の論点を想起せよ)。情報/伝達/理解が相互に差異を形成するということは言えても、どの項目も他の項目を参照せずに確定されえない。確定の試みは、この循環的な相互参照関係のなかを永久に回り続けねばならず、終着点を見いだしえないのである。

 理解という契機が追加されることによって、情報/理解は【独自の創発レヴェルにおいて】決定不能性(スペンサー=ブラウン流に言えばunresolvable indeterminacy)を獲得する。理解が加わらなければ、何が情報で何が伝達なのかは、伝達者本人の心の中を覗いてみればわかるという話になるのかもしれない。実際にはそこにおいても無数の因果要因が存在するがゆえに、縮減を行わずに探求を続けていけば事は決定不能になってしまうだろうが。しかし仮に決定可能だとしても、コミュニケーションそのものはそれによって決定されはしない。この点はすでに「初期」において明確に指摘されていることである。

その種の行為(=対話)の経過も帰結も、そのつど行為している者の特性からは導き出されえない。当の行為に関して決定性が仮定されようが非決定性が仮定されようが、同じことである(43)。
(43)対話する機械のサイバネティクスも、この点に関してはわれわれと同じ結論に達するはずである。(1971a:316 = 403)(2)

 ただしこれは、コミュニケーションは関与者の心的過程によっては確定されえないが、社会的な規則や構造を手がかりにすれば確定されうる云々という話ではない。コミュニケーションは、それ自体としてはいかなる手段によっても確定不可能である。だからこそ「観察されえない」のである。あるいは「観察されえない」のは、コミュニケーションのこの決定不能性に他ならない、と述べてもよい。しかし通常は行為への縮減によって覆い隠されているこの決定不能性は、時にパラドックスのかたちで噴出してくる。例えば「ウィトゲンシュタインのパラドックス」として、あるいは「誠実さの伝達不可能性」をもたらす「普遍的なコミュニケーション理論上のパラドックス」として、である。

例えば「おはよう」と言う場合、〔「まだ早い時刻だ」とか「いい朝だねGuten Morgen」などというように〕言っている事を〔実際に〕考えている必要はない。にもかかわらず、「〔自分は今〕言っていることを考えている」と言うことはできない。言葉の上でそうすることはできるのだが、そう断言すれば疑いを呼び起こすことになる。したがって意図に反する結果に至るのである。さらに加えて〔そのように発言される場合〕、「言っていることを考えているわけではない」と述べることもできたはずだという点をも前提としなければならないことになる。〔さもなければ「言っていることを考えている」は否定されえない=区別されえない=指し示されえないことになってしまうから。〕 しかし後者のように言う場合、「言っていることを考えているわけではない」と言われる時に何が考えられているのかを、相手は知ることができなくなる。かくして相手は、エピメニデスのパラドックスに乗り上げてしまう。話し手を理解すべく努力しても、知ることなどできないのである。このようにしてコミュニケーションはその意味を失う。(1984:207-208 = 236)(3)

コミュニケーションは、厳密に論理を追っていけば、失敗せざるをえない。つまり本源的な規定不可能生に突き当たってしまうのである。だからこそ「一度コミュニケーションに関われば、単純な魂たちが集うパラダイスに帰還することは、もはや二度とできなくなる(クライストが希望をかけたように、裏のドアを使おうとしてもだめである(4))」と述べられているのわけだ(1984:207 = 235)。社会的規則(裏のドア?)を持ち出してみても、やはり帰還は不可能なのである。

 意識や有機体レヴェルにおける決定/非決定にかかわらず、コミュニケーションにおいては独自の決定不能性が創発してくる。これはすなわち、コミュニケーションは独自の、環境とは異なる選択性を有する(環境との間に、複雑性の格差が存在する)ということであり、それだけですでに「コミュニケーション・システム」について語ることができる。このシステムは、環境から区別されるからである。「全体を同定する」必要などない。

 あるいは「全体の同定」を要件とするシステムの定義は、ルーマンの言う「自己組織化」のレヴェル(システムによる構造の自己決定)のレヴェルに焦点を当てているのに対して、ルーマンが考えているのはオートポイエーシス(要素の自己産出)によるシステムの定義であると述べてもよい。後者において問題になっているのは構造=同一性によって規定される「システム」ではなく、要素(作動)の構成的循環関係(基底的自己言及)の統一性(独自の選択性)のレヴェルですでに確保される「システムと環境の差異」である。長岡の言うように、前者の定義を自明視する佐藤や内田隆三は「環境抜きのシステム理論から出発している」[485]ことになる。

 またルーマンの理論を「作動一元論」(やはり「作動中心の立場」「作動的なシステムの理論」のほうが適切か?)として性格づけうるのも、作動のレヴェルでシステムと環境の差異が確保されるというまさにこの理由によっている。

 したがって、「コミュニケーションの総体としての全体社会は、その同一性を立てる操作を持ちえないからシステムとは言えない」という佐藤俊樹による異議は却下される(5)。このシステムは、直面する二つの環境(心的システムと、物理的-有機体的環境)とは異なる、独自の選択性を有しているからである。

 またこのシステムの内部で生じる相互作用に関しても、【少なくともルーマンのシステム理論を前提にして】、「相互作用がシステムである/ない」を論じようとするのであれば、しなければならないのは「相互作用の同一性はいかにして担保されうるか/されえないか」を論じることではなく、「対面状況にある/ない」が形式を形成するか否か、つまり対面状況の下でのコミュニケーションの組織化とそうでないコミュニケーションの組織化のあいだに違いがあるかないかを考察することであろう。少なくともルーマンは「ある」と考えている。

いずれにせよ対面状況は一つの形式である。それはわれわれの概念がもつ意味合いにおいては、ひとつの差異であるということに他ならない。それがシステム形成力をもつのはただもう一方の側を背景としてのみ、不在との関連においてのみである。対面している者は人として、可視的であり可聴的なものとして現れてこざるをえないがゆえに、その人が相互作用の外側において他にまだ何に関わっているのかということも、当人において認識可能となる。その点が自ずから理解できない場合には、当人がそれを示唆することになるだろう。したがって相互作用システムの自己規制化ということのうちには、関与者が相互に顧慮しあう義務を負っており、各人のそのつど〔その相互作用とは〕別の役割を尊重しあうだろうと予期しうるということが含まれている。いうまでもなくこれは、相互作用の《タイミング》についても成り立つことである。対面している/不在であるというこの区別を用いて相互作用は、自分自身に関係づけられたシステムと環境の差異を形成する。相互作用が独自のオートポイエーシスを実行し、独自の歴史を生産し、自分自身を構造的に決定できるのは、この差異によってマークされる遊域内でのことなのである。ある人が対面している者として扱われるなら、その点からしてコミュニケーションに関与することになる。コミュニケーションという複雑な、情報/伝達/理解からなる作動様式は、捕獲装置であるかのように働く。対面している者はそこから逃れられないのである。今話していない者は聞き手として、少なくとも理解はしている者として扱われるのであり、したがって積極的な関与者となる可能性があるという点が考慮されねばならなくなる。かくして相互作用は常に独自の冗長性、独自の情報過剰をも産み出していく。(1997:814-815、[4-13-06])

 ただしシステムを形成するかしないかの判定基準となるこの「違い」は、(パターン変数でいう)限定的かつ普遍的なものでなければならない。例えば扱われているテーマが違うというだけで別のシステムを形成するということにはならない。問題は、あらゆるテーマをその下で扱いうるような、特定の「違い」でなければならない。どんなテーマが扱われていようと、「対面状況にある/ない」に従ってコミュニケーションの選択的な結びつきの仕方には差異が現れてくる、というようにである。したがって「全体社会/組織/相互作用」という社会(sozial)システムの三類型は何ら理論的に要請される(6)固定的なものではなく、そのような「違い」が発見されればさらなる類型が追加可能である、との話になる。

 現に晩年のルーマンにおいてはもうひとつ独自のシステム類型として、抗議運動が追加されていた。「抗議する/される」という違いに基づいてコミュニケーションを組織する抗議運動は、全体社会の内部において全体社会に対抗しようとする試みであり、その対象は(表面的にはきわめて多様なテーマが扱われているが)近代の全体社会の普遍的分化形式である機能分化そのものなのであり、したがって可能性としては抗議のテーマはあらゆるものに及びうるのである。かくして抗議運動は、機能分化社会のなかでの中心(抗議されるもの)/周辺(抗議するもの)分化というかたちを取って登場してくる。

 この議論が成功しているかどうかについては確信が持てないが、少なくともルーマンがどのような観点の下でシステム類型論を提起しているかを知るための手がかりにはなるだろう。

 以上述べてきたような本源的規定不可能生のゆえに、コミュニケーションはそのものとしてではなく、常に解決=展開(Entfaltung)されたかたちで、つまり行為へと縮減され単純化された断定のかたちでしか把握できないのである(ダブル・コンティンジェンシーの場合と同様に、「純粋な」コミュニケーションは現れてこない--後述)。これこれの手がかりから考えれば、首相は今このような意図でこう述べているはずだ、というように。

 そのような(仮の、あるいは偽りの)同定のためには、何らかの基準や制度的保証など必要ないし、後続の行為を参照する必要もない。そのつど自明視されているゼマンティクを用いれば事足りる。(1984:231 = 265)でルーマンはそのようなゼマンティクを歴史的な順序に従って列挙している。

(a) 精気と力(Säfte und Kräfte)。すなわちアリストテレスのdynamisやsteresisのように、行為そのもののうちに「事物の本性」が潜んでおり、行為はその力により、それを実現するかたちで進行していくとの発想。その本性を見極めれば行為を確定できる、というわけだ。関連する論述を引用しておこう。

観察者が行為する存在と見なされているなら、問題は行為と自然=本性の収斂、つまり〔行為の〕目的が自然によって支えられていることなのである。いずれの場合でも、事物の総体および運動の終点(téle)の総体が、世界の中で生じることを支えるという話になる。アリストテレス-トマス説によれば、知性の活動は物事ノ方ヘ(ad rem)向かう。そして、そこで終わるのである。(1992:53 = 33)

(b) 利害関心。これについては(194:228 = 428)(註55)を参照すべきである。

《利害関心》のターミノロジーに関しては、少なくとも歴史的な研究によって、主観的なものへの関心ではなく、客観的な計算可能性への関心から〔十七世紀において〕発達してきたということが示されている。

つまり「利害関心」とは主観的な性向ではなく、ある社会的立場にいる人が必ず、あるいは本来抱くはずのものなのである。したがってある行為の意味を確定するには、当人が何を考えている(つもり)なのかではなく、その人が置かれた社会的立場・背景・文脈に依拠すればよいということになる。

佐藤俊樹の試みは、基本的にはこのゼマンティクの延長線上に位置づけられうるだろう。組織の場合ならば同一性が外部によって担保されているからそれを枠組として行為が確定されうるが、システムの同一性を立てる操作を経験的に同定できない相互作用や全体社会の場合はそうではないはずだ云々[489-490]。むろんその種の「経験的な」試みは依然として有益であり、そのラインに沿って議論を続けていく価値はあろう。行為の同定の必要性は常に存在しているのだから。しかしルーマンが行おうとしているのは、それとは別の事柄である(後述)。

(c) 自己の行為への「内的な同意」。「動機」に焦点を当てる近代的な行為理解である。これは「行為を環境の中に〔特定の行為者に帰されるという意味で〕タイトに、同時に〔その行為者は「自由」であるという点で〕ルースに位置づける」(1984:231 = 265)ことを可能にし、高度な可動性をもった社会秩序を生ぜしめる巧妙な発明品であり(すでに中世において、告悔(7)と法的手続きによってそれが準備されていた)、われわれは依然としてその重力圏のうちにある。

(d) 行為の心理学化。今や行為者の「自由な」心の動きは、心というメカニズムの確定的な働きとして記述される。行為は本人が考えている動機・理由によってではなく、このメカニズムの効果として明らかにされる。

(e) 意識されえずセラピーによってしか明らかにできない要因。むろん「偉大なソフィスト」の一人によって創設された精神分析のことである。

 蛇足ながら、これらのゼマンティクはいわば「自律的な主体」の像を頂点として、アーチ状に配列されていることにも注目しておきたい。

       (c)         ↑自律的
    (b)   (d)
   (a)     (e)     ↓他律的
 ←旧       新→

 ルーマンが試みているのは、これらのゼマンティクのうちのひとつを選択し、精錬していくことではない。これらは機能的に等価であり歴史的・社会的状況によって説得力をもったりもたなかったりする。ルーマンが「コミュニケーションは観察されえない」というテーゼを持ち出すことによって試みているのは、これらをコミュニケーションという空虚な循環のうちに「人工的に引き延ばされた直線として挿入された見せかけ」として捉えることなのである。ではそのような純粋に空虚な循環を想定することにはどんな意味があるのか? この点はダブル・コンティンジェンシーの想定と完全にパラレルである。

《純粋な》ダブル・コンティンジェンシーは、つまり完全に無規定的な状況は、われわれの全体社会における現実のなかでは決して登場してこない〔登場してくるのは「人工的に引き延ばされ」解決=展開されたかたちにおいてだけである〕。にもかかわらずこの出発点は、ある種の問いをさらに追求していくためには適している。例えば次のように考察してみることもできる。他者規定の循環〔=DK〕を自己確定によって打破するために【すべてのもの】が〔偶然的契機として〕役立つというのなら、【特に】役立つのは何なのか? 他のものにも増して特定の社会構造が成立してくることをありそうにする【選択利点】はどこに存しているのか?(1984:168 = 183)

 この利点は普遍的な根拠によってではなく、特定の歴史的・社会的状況との関連において示されねばならない。したがって、そのありそうさが示されるほど、そのようなありそうさ自体が別様でもありうる=ありそうもないもととして現れてくることになる。つまりこの種の「純粋な空虚」の想定は、ありそうなものをありそうにないものと見なすというルーマンの学的「ハビトゥス」に基づくものなのである。むろん先にも述べたように、それとは異なるハビトゥスを採用することもできるしそれも有益で実り多い作業だろう(8)。しかし少なくともルーマンとの方向性の違いは確認しておくべきである。

(1) したがって[481]での、佐藤はコミュニケーションの「事後成立性」のみを強調しており、先行コミュニケーションが後に続くコミュニケーションを確定するという面を無視しているとの批判は、適切とは言えないのではないか。

(2) Warum AGIL?, Kölner Zeitschrift für Soziologie und Sozialpsychologie, Jg.40 (1988), S.132では、行為の自己言及性のゆえにシステムは、少なくとも一部は自分で創造した歴史的状況のなかにあるのであり、したがって観察者には予測し難い仕方で行為する(ただし、だからといって主体を想定する必要はない。予測し難さは数学的に導出されうる)……という議論がなされている。「機械のサイバネティクス」はここでいう予測不可能な挙動の数学的導出のことを指しているのだろう([341]以下における「ノントリヴィアル・マシーン」に関する記述をも参照のこと)。なお「行為」という語が用いられているのはこの論文がパーソンズ論だからであって、コミュニケーション/行為という文脈においてではない。

(3) (1997:311) における同様の記述を参考までに掲げておく。

かくして近代社会は、ある種の限界に到達してしまったように思われる。そこではもはや、コミュニケートされえないようなものは存在しないのである。ただし、古くから知られているように、例外がある。それは、誠実さのコミュニケーションである。ある人物Aが(*)「私は、自分が言っていることを考えていない」などと言うことはできない。もし言えるとしたら、他の人物BにとってはAが「私は自分が言っていることを考えていない」と言っているのを聞いてもAが何を考えているのかを知りえないということを、Aのほうで知ることもできない〔したがって、コミュニケーションを継続することは不可能になる〕はずだからだ。だとすれば、「私は、自分が言っていることを考えている」とも言えないことになる。それは不必要で疑わしい二重化にすぎない。言い換えれば、どのみちコミュニケートされえない〔それゆえ、現実には効果を発揮しえない〕否定を〔わざわざ〕否定しているだけなのである。コミュニケーションのこのパラドックスを回避することはできない。しかし迂回し、分解することはできる。つまり、迂回・分解を狙った区別によって置き換えることはできるのである。それを行う装置をわれわれは、「象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア」と呼ぶことにしよう。
*原文には「人物Aと他の人物B」という表記はなくmanとandereのみであるが、わかりやすくするために訳者の判断で付加した。

(4)「このようなやりそこない(*)は」と、彼は少し間を置きながら付け加えました。「私たち人間が知恵の樹の実食べてからというもの、避けられなくなっているのです。それなのに楽園は閂がかけられてしまい、知天使(ケルビム)は私たちを追い出してそこにがんばっています。私たちは世界をひとめぐりして、もしかしたらどこか裏のあたりにでも門が再び開かれていないかと、調べてみなければならないのですよ」(クライスト「人形芝居について」、『書物の王国7 人形』国書刊行会、206頁)。

*人間の踊り手が、自身の身体の動きを意識することから不自然さを生じさせること。人形使いである「彼」に言わせれば、人形はそのような自意識を持たないがゆえに自然な動きが可能であり、その点で人間の踊り手よりも優れているのである。

(5) 佐藤は、あるいは佐藤に依拠する論者はまずもって、「『システムである』といえるのは、その〔自己産出される〕『何か』を要素とする全体なるものが観察される場合だけである。したがって、システムの同一性をたてる操作が同定されえないかぎり、『システムである』は単純な循環論法になる」(「閉じえぬ言及の環」116頁)という前提をルーマンも共有しているということを、ルーマンの論述に即して論証すべきである。「論理的に考えれば当然そうなるはずだ、これは万人が共有すべき前提である」云々と主張することはもちろん可能ではある。しかしそれは、「自分はルーマンとは異なる区別から出発している」ということ以上でも以下でもない。つまり(同定する操作を立てうるかを基準とする)「システムである/ない」という区別である。一方ルーマンの出発点は「システム/環境の差異」である。(1984:30 = 17)の悪名高い書き出し「以下の考察は、システムがある、ということから出発する」は、「研究対象を〈環境から区別されるものとしてのシステム〉とする」ということであり、システム/環境の差異から出発するということと同義である。確かに、単に「システムがある」だけから出発するならそれは「単純な循環論法」あるいは純粋自己言及に他ならない。しかし実際にはこの自己言及は、環境への他者言及を含んでいる。くり返すことになるが、重要なのは「システムである」ではなく、システムと環境の差異なのである。したがって議論は、(最終的には全体社会システムへと集約される)諸社会システムはどのように環境と区別されるのか、という方向へと進んでいく。この問いへの答はすでに述べたように、「コミュニケーションを構成する三極の選択性が相互に参照しあうなかで独自の非決定性を生じさせることによる」というものであった。確かにどちらの区別から出発するかは根拠づけの対象ではない(根拠づけは、区別を採用した後で可能になる)。佐藤流のシステム定義に基づく考察も、それはそれで有効であろう。結局のところどちらを選ぶかは、最後で述べるような意味でのふたつの学的「ハビトゥス」の間の選択の問題なのであり、それぞれが実り豊かな成果をあげうるはずである。しかし少なくとも評者は、自身の主導差異をルーマンも当然共有しているかのような「不当前提」に基づいて進められる議論が「ルーマン論」であるとは認めがたい。

(6) 例えば佐藤俊樹が考えているように「相互作用と全体社会と組織は相互にになりあうことで あたかも『システムである』ように見えている」([490]より引用)のであり、三類型はそのために必要なのだ云々。

(7) 次の論述を参照。

最後に、中世においては道徳は意識によるコントロールのもとに置かれていたということも指摘しておこう(これはおそらく、定期的な告悔の影響であろう)。道徳が扱うのは、もっぱら行動の《内》側のみであった。したがって次の点が前提となっていた。誰でも〔道徳〕規則を知っている。だから【奇矯な】行動が取られる場合でも(例えば「この極端さこそが尊敬されるだろう」と考えられているのであり)、道徳を遵守するないし道徳に違反することを欲しているのか否かが、内面的にコントロールされているはずである、と。最終的にはそこからさらに、神学と道徳が合体してかけてくる圧力のもとで、【自己の】行動に関して【悔恨という非一貫性】(痛悔contritio*)を要求することすら可能になった。そしてその要求を達成するという目的のためだけに、聖職者の助言装置が発展してくることになったのである。(1997: 246-247)
*カトリック教会では悔恨(paenitentiaまたはpoenitentia)が秘蹟の一つと見なされており、司祭の前で行なう告悔を中心として、三つの要素に分けられている。すなわち(1)心の痛悔(contritio)、(2)口の告白 (confessio)、(3)行ないの償罪(satisfactio)である。痛悔とは単にかたちの上で罪を悔い罪を償うことではなく(刑罰への恐れから悔恨することは、痛悔と対比されて不完全痛悔atritioと呼ばれる)、過去の自分の内面に悪を好む性向が存しておりそれゆえに罪を犯したことを認め、そのような自分を嘆き悲しむことを通して過去の心根から断絶し、将来において二度と罪を犯さないように誓うことをさす。したがって痛恨においては「過去の自分/将来の自分」の間に非一貫性が存するということが誓約されるのである。なおcontritioの原義は「(ひとつにまとまっているものを)砕くこと」であり、ルーマンの論述はその点をも踏まえているものと思われる。

(8) ルーマンが以下に述べているような意味での「ハビトゥス」として、である。

この問題のさらに背後には、学的関心の「ハビトゥス」についての問いが控えている。対象を観察する能力をさらに高めるためには、理論を次の二つのうちのどちらの方向に向けるべきなのだろうか。第一に、まず正しいものを仮定しておいて、そこから逸脱する現実に関心を向けるというやり方(*)。第二に、ありそうもなさを仮定することから始めて、反対方向に働く原理を探求するというやり方。第二の関心方向は結局のところ、ありそうなことのなかに、ありそうになさの痕跡を見いだそうとする。あるいはありそうなものが孕んでいる危うさを、またありそうにないことをありそうなことへと転換する作業から派生してくる問題を、明らかにしようとするのである(**)。(1987d:311 = 115)

*一般にルーマンがこの種の言い方をする場合、ターゲットとされているのは、パーソンズやハーバーマスのように規範的統合こそが不可欠でありノーマルなのだとする議論であると理解されているようだ。しかし当該箇所の前々段~前段で根拠律やハイデッガーが引かれていることからもわかるように、事は規範の問題に留まらない。例えば佐藤俊樹の議論は第一のハビトゥスの典型である。同定されるべき全体を想定しておいて、その現前/欠如を基準としてシステムがある/ないを論じているのだから。
**この「転換する作業」とは、ダブル・コンティンジェンシーを解決へと、あるいはコミュニケーションを行為へと「引き延ばす」ことを意味している。ルーマンが関心を抱いているのはこの作業がいかなるメカニズムによって、あるいは基準によって可能になるかではなく(純粋な円環はその無内容さのゆえに、いかなる作業でも受け入れうる)、特定の引き延ばしが採用されることからどんな帰結とリスクが生じてくるかなのである。馬場靖雄「ルーマンと社会システム理論」(新睦人編『新しい社会学のあゆみ』有斐閣)160頁でも述べておいたように、ルーマンの権力論(さらには、メディア論一般)がめざしているのはまさにこのことなのである。

第二部:「社会の理論の革命」とは何かthe penultimate-revolutionのために

the penultimate-revolution=「最後から二番目」革命(「最後から二番目の革命」ではなく)

最終的な根拠とは常に、最後から二番目の(vorletzt)根拠でしかないのである。(1993:406 = 540)

長岡の言う「社会の理論の革命」=脱存在論的でオートロジカルな社会記述?

しかしこの革命は、シュッツ的=社会科学基礎論研究会的な「実証主義批判」であってはならない。君が自明のものとして使用している諸概念は生活世界のなかで、あるいは歴史的経緯のなかで一面的に構成されたものであることを自覚せよ!
社会学者は社会を外から記述できるわけではないことを自覚せよ!

この意味での「革命」が不十分なのは

ルーマンの「革命」はむしろ、その種のゲームから降りること。

現存の秩序を、その一歩手前の諸可能性のマトリックス(メディア)からの偶発的な選択的結合(形式)と見る。→ その形式が、さらにタイトな結合のためのメディアとして働くことを示すと共に、そこにどんなリスクが孕まれているかを明らかにする。

ルーマンの社会理論の認識利得はこのレヴェルの差異を明らかにすることにある。

それは「より深い」認識を意味しない。

ここまでの考察は、自己記述に関する理論的記述というレヴェルで定式化されてきた。以下のすべてに関しても同じことが言える。自己記述の理論的再記述(45)というこのレヴェルでは、この概念は《オートロジカル》になる。つまり自分自身にもあてはまるのである。全体社会の自己記述の再記述もまた、全体社会の自己記述である。そこでは再記述はもはやよりよい知の産出とは、ましてや進歩とは見なされえない(今日ではこの点は、さらにもうひとつのレヴェルを、すなわちその再記述も自身のオートロジカルな性格を顧慮していないという点を、自己記述するのを見越しておくこととして、容易に理解されうるはずである)。むしろここで問題となっているのは前提を継続的に変換していくことである。先ほどまで〔の自己記述において〕必然的で自然なものと見なされていた前提が、〔再記述のなかでは〕特定の作動を偶発的で人工的に選択されたかたちで制限することとして現れてくる、というように。例えば無調音楽の導入によって、調性音楽はそのように再記述された。あるいは、マルクスの《資本主義》分析によって政治経済学が再記述されたことを考えてみればよい。したがってこの種の再記述が記述へと介入することはただ暫定的にのみ、現在の状態から見て適切であるという点でだけ正当化される。そしてその際記述も明日になれば旧くなってしまうだろうという点が見越しておかれるのである。(1997:892 - 893)
頁先頭↑馬場靖雄評三谷武司評