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Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

公開:20190810 更新:20190810

ニクラス・ルーマン
酒井泰斗

2018年8月に 芹沢一也さん編集のメールマガジン「αシノドス」第249+250号に寄稿した5000字の小文を公開します。
 「αシノドス」には「知の巨人たち」というシリーズがあり、そこにルーマンの紹介文を書きました。このシリーズ、ほかには橋本努さんの「ウェーバー」、重田園江さんの「フーコー」、古田徹也さんの「ウィトゲンシュタイン」、牧野雅彦さんの「シュミット」などなど錚々たるラインナップで、ここにルーマンの名前が並ぶなんてことは──ついでにまた私の名前が並ぶなんてことも──20年前だったら考えられなかったことです。なかなか感慨深いです。
 なお同号掲載論考は下記の通りでした。

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 私はルーマンを他人に勧めたことがない。

 彼のキャリアにはしかるべき年月にわたってきちんとした学問的訓練を受けた形跡がない。彼の仕事には証拠にもとづく論証とか主張の妥当性の吟味や正当化が薄く、おおざっぱにいえば、それは「思いつき」の集積に見える。一般に「思いつき」に付き合うのは難しいし、それが学問的研究であるかのような体裁をとっていればなおさらそうだろう。しばしば「ルーマンのテクストは難解だ」という声を聴くが、そうした印象を与える理由の一つはここにあるだろうと私は思う。この点について私は彼を擁護しようとは思わない。とはいうものの、こうした事情は研究者たちにとっては由々しきことかもしれないが、私にとってはそうではない。私自身はずっと「たくさん本を読む少し賢いアマチュア」だと思ってルーマンと付き合ってきたからである。そんなわけで、αシノドスにおいて、マルクスやウェーバー、シュミット、ウィトゲンシュタインやフーコーと並んでルーマンの名前が召喚されるところを見るのはなかなか感慨深いのだが、こうした才気溢れる著述家たちと同じ仕方では、ルーマンと付き合うのは難しいだろうとは思う。彼らとルーマンとは、ヴィルトゥオーゾと DJ ほど違う。両者は同じやり方では評価できないだろう。

機能的方法

 「思いつき」の話をもう少ししておこう。ルーマンがデビューしたのはアメリカ社会学において「機能的説明」様式──「雨乞いの儀式(=現象)は部族の絆を強める(=機能)から行われるのだ」といった説明様式──が没落し始めた時期である。多くの論者が機能概念を捨て去ろうとした時期に、ルーマンはその代わりに機能概念の格下げを図り、それを説明のためにではなく発見のために使うよう次のような提案を行った:

 このやり方で、諸現象を〈問題/問題解決〉の区別のもとで見立て、視野を拡張し、膨大な「似ていないもの」を比較していくことでルーマンのテクストは書かれている。ここには、一方では、ふつうにはちょっと思いつかないような比較──たとえば世論と金融と法解釈学の比較、時計やカレンダーと物と道徳の比較──を、アナロジーに訴えずに、系統だった仕方でおこなっていく面白さがある。他方でこれは、あくまで「思い付き」を促進する技法(ヒューリスティックス、発見法)であって、それだけでは研究方法論にはならない。研究論文の中ではこれとは別に正当化の議論を用意しなければならない。・・・しかしルーマンには後者に相当する議論がないのである(彼自身は「機能的方法とシステム理論」の組み合わせによってそれが果たせると考えていたようだが)
 この点についてもルーマンを擁護する気は私にはまったくないので、ここではさしあたり「思い付き」というのが彼のテクストの本質的な性格をなすことを指摘するにとどめ、別の話題に進もう。

社会工学と技術

 70年代初頭のハーバーマスとの論争がルーマンを著名にしたのは間違いない。しかし相手がハーバーマスであったことによってルーマンが被った害も大きかった。その一つは、ハーバーマスが「社会理論か社会工学か」という問いを立て、自分を前者に・ルーマンを後者に割り振ろうとしたせいで、ルーマンもまた社会理論の構築という課題のなかで社会工学や技術という論題に取り組もうとしていたことが看過されてしまったことである。

 すでに「論争」以前にルーマンは、〈規範的な学/経験的な学〉という伝統的な学問間の分断を、 のセットによって再構成する、という社会科学再構築の構想を打ち出していた(『目的概念とシステム合理性』第5章)。そしてルーマンはここで自らを、「解ける問題の解決(~社会工学)」にではなく、それを反省する(~解けない問題を吟味する)側に位置づけたのである。ハーバーマスがそれを知らなかったはずはない。しかし彼はそれを無視した。あるいは彼が依拠していた〈技術/実践〉といった区別ではルーマンの企図はうまく扱えなかったのかも知れない。

  「論争」以後も、二人は、似たような語彙を使いながら議論を組み立てていく。ハーバーマスが主としてシュッツに依拠しながら〈生活世界/システム〉という区別で議論を進めるのに対し、ルーマンの方は フッサールまで立ち戻って〈生活世界/技術〉という区別を用いる(『権力』第5章)。ハーバーマスが「システムによる生活世界の植民地化」を論じるのに対し、ルーマンは、偶然の積み重ねによって生活世界的な制約を突破して世界史の中に登場してきた機能分化した非人格的な社会秩序のことを、「技術」として論じる。二人の議論はしばしば混乱するほど似ているが、しかし進もうとしている方向はまるで異なっている。ルーマンは当初から、技術とその可能性条件を、その非蓋然性・脆弱性・虚構性も含めて捉えようとしていたのであるが(そのことは『リスクの社会学』のような晩年の著作まで視野に入れると特にはっきりする)、「イデオロギー」や「制御」といった語彙で技術をとらえようとしていたハーバーマスとの間で、両者の技術の捉え方の違いが話題になることはなかった。
 ハーバーマスにとっての問題は、発達した社会システムが生活世界を制御しすぎて荒廃させてしまうことである。ルーマンにとっての問題は、そうしたことではなく、我々がいまだに、機能分化という、人類史における未曽有のカタストロフィックな変貌について適切に言葉にすることができていないことの方であった。ここに再び、ルーマンの付き合いにくさの理由の一つがあるだろう。「制御」が問題なら「制御に対してどう対抗するか」といった課題を立てることができる。しかし「理解」を問題とすることからは、「理解が達成されたらなんだというのか」、「理解のあとに何をすべきか」という問いに対する回答は直接には出てこない。そこから出てくるのはせいぜい「理解による洗練」といったほどのことであって、実際、ルーマンが珍しくなにか処方箋めいたことを記すときには、多くの場合そうしたものになっている(『福祉国家における政治理論』最終章では政治文化の洗練が、『リスクの社会学』最終章においては抗争的コミュニケーションの洗練が語られている)。「それはいったい何のための議論なのか」という問いには、あらかじめ因果図式や手段目的図式を使って議論を組み立てておけば答えやすいわけであるが、ルーマンの議論はそうなっていない。その意味でもルーマンの企図はわかりにくい。

技術としての機能分化

 上で述べた「技術」──機能分化した非人格的な社会秩序──とは、もう少しだけ具体的に言えば、例えばフッサールが批判した実証主義やマルクスが批判した資本制的生産様式などを指している。彼らの議論においてこれらは、自らのなかで自らの要素を構成し、生活世界的な「現実」から遊離していくものとして捉えられていた。ルーマンは彼らの議論に学びながらも(例えば『近代の観察』第1章)、しかし遊離に対しても、そこから生じる「疎外」に対しても批判することはない。それらが「解消」されるとはまったく考えていないからである。代わりに、同様の事情が他の領域──実定法、コンセプチュアル・アート、民主主義などなど──でも生じていることを示そうとする方向へと進んでいく。その作業は最終的に『社会の理論』というタイトルの著作シリーズに結実することになったが、これもまた狙いも意義もわかりにくいプロジェクトだといえる。
 目指されているのは我々が置かれた現状に関する適切な表現を獲得することだから、著作群において実際におこなわれているのは、当該領域でよく知られた事柄を系統的にたどり直すという作業である。だから個々の論点においてなにか斬新な見解でてくるわけではない。しかもルーマンには、例として引き合いに出す先行研究を本文の中で敷衍しないという決定的な悪癖があり、読者は「よく知っているわかりきった論題についてよくわからない仕方で論じられた著作」に付き合わされることになる。議論を理解するためには いちいち参照文献を読んでからルーマンの著作に戻ってくる必要がある(が、ほとんどの読者はそんなことはしない)ために、これもまた、ルーマンの付き合いにくさの理由の一つ(しかもかなり重大なもの)になっている。
 とはいえ、逆にいえば、大量の参照文献をスピーディに読む気がありさえすれば、付き合うのはそれほど難しくないともいえる。個別の領域に関してルーマンが参照している文献には、当該領域では誰でもが知っている、いわば「分野を超えない名著」が豊富に含まれていて、私にとっては、ルーマン経由でなければ出会わなかっただろうものも多い。思いつくままに挙げてみれば、バーマン『法と革命』、ブルーメンベルク『近代の正統性』、ゴンブリッチ『装飾芸術論』、ワット『イギリス小説の勃興』、ダール 『ポリアーキー』、アリソン『決定の本質』、コメニウス 『世界図絵』、ストーン『家族・性・結婚の社会史』、デュモン『ホモ・ヒエラルキクス』、ラ=ファイエット夫人『クレーヴの奥方』、ヴァレリー『テスト氏』・・・。 どれも──ルーマン本人のものとは違って──間違いなくお勧めできる面白い著作であり、以前に私は、研究者たちの手を借りて、こうした著作を集めたブックフェアを企画したことすらある*。

* 「社会のブックガイド──ルーマンからはじめる書棚散策」

 ならばこれらを読めばよいのであって、ルーマンその人の著作を読む必要はないのではないか?

 この問いに対しては、「たとえば権力と所有と真理を比較することによってしか出てこない着想(~思い付き)というものがあるのだ」という方向で回答を与えられるとよいのだが、それを例証するスペースがない。ダイジェストで記せば次のようになる。

 このような形で、個別領域ではよく知られた事柄は、他の領域と比較され相対化されることによって独特の光が当てられる(その威力は、特に、民主主義、暴力、財、信仰といった、強い価値負荷を孕んだ事象に向かうときに発揮されることになるだろう)。またフッサールやマルクスに深く学びながらも彼らの教説にコミットしているようには見えない、というルーマンのテクストの不思議な性格も、こうした「似ていないものの比較」から生じる。そこでは、個別の領域の固有の特徴を深く探ろうとする姿勢を保ちながら、またそれぞれの領域において重要視されているものをそれぞれに評価しながら、それらのどれかについて「最も重要なもの」が語られることはない。そしてこのことは、「過去に学ぶ」ことと「過去を突き放す」ことの共存、というルーマン理論全体の性格にもつながっている。

重要なのは拘束ではなく自由である。どこにも位置を占めることのない恣意性などではなく、想像力こそが肝心なのである。(『近代の観察』訳62頁)

こう述べるときルーマンが想定しているのも──「解放的関心」ではなく──この「過去に学ぶことによる過去の突き放し」である。

 こうした議論は魅力的だろうか? 少なからぬ人にとって、おそらくそうではないだろう。──というわけで、やはり私には他人にルーマンを読むよう勧めることは難しい。とはいえルーマンのテクストは、「自分が専門的訓練を受けたわけではない複数にわたる領域の膨大な学問的知見と、いかに系統だった仕方で付き合うか」の1つの不完全なモデルにはなってはいるし、私と同様の面白がり方をする人が数千人に1人くらいの割合でなら いてくれてもよいのではないか、とは思うのである。

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