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p.22~全体として見れば満足した経過をたどったわけではないが、『宗教の機能』4についての議論から示されたことは、この[神についてのコミュニケーションという]問題に、宗教の機能の示唆をもって答えるのでは、十分ではないということである。宗教の機能という問題は、まず18世紀に精神性という特権的立場の正当化に利用され5、つぎに啓蒙の手に帰せられ、それから社会学の問題となった。それは別に間違って提示されたものでも、時代遅れのものでもない。宗教の機能という問題は、それ自体が、区別を産み出す機能を有している。しかしそれは、宗教が依拠する問題を解決するものと同様な機能を持つさまざまな可能性の区別にまで至るのである。宗教と社会の区別が付け加えられ6、その結果、宗教システムの分化終了と世俗化等について議論されることとなる。このことによって、社会における宗教システムの分化終了が、いったいどの区別を引き起こすのか、という問題にたち戻ることとなる。しかし、ある特定の機能を示すことが、すべて具体的に確定しているものと他の選択肢との比較に(私自身長い間想定してきたように)役立つからといって、このことにたいし、はたしてそれで十分なのであろうか。
この困難は、機能が区別をとおして、つまり機能にとって特定の二分コードをとおして解釈され得る場合にのみ、社会の機能システムの分化終了が可能であるということを受け入れることで回避される7。かかるコードには、日常的な優先の意味ではなく、接続能力(肯定的)とその反省(否定的8)の標識として説明できる、肯定的価値と否定的価値とが含まれている。それゆえ、われわれはまず、つぎのように問わなければならない。つまり宗教には独自のコードがあるのか、またもしあるとすれば、われわれはこのコード化の歴史的な意味論について何を知り、また神概念がこの連関で演ずる役割について何を知っているのか、ということである。
宗教コードの問題は、まず神学者からしばしば批判された「二元論」の領域、たとえば自然的/超自然的というような領域に進む。性急な決定を避け、さらに数多くのヴァリエーションでもって宗教の意味論を正当に評価するために、われわれは、ある抽象的状態にあるコードを推測しなければならない。その抽象的状態は、宗教システムを一定の歴史的に説得力のある諸条件と結びつけることなく同定するものである。‥‥
4. Niklas Luhmann, Die Funktion der Religion, Frankfurt 1977.、邦訳『宗教社会学』(土方・三瓶訳)新泉社、1989年および Peter Koslowski (Hrsg.), Die religiböse Dimension der Gesellschaft : Religion und ihre Theorie, Tübingen 1985 における、このテーマにたいする批判を参照。
5. たとえば、Victor de Riqueti, Marquis de Mirabeau, L'ami des hommes (1756), Paris 1883 版、S. 149 (le premier et plus utile frein de l'humanite) 参照。
6. 経済システムの差異理論的分析の同様な事例について、Dirk Baecker, Information und Risiko der Marktwirtschaft, Diss. Bielefeld 1986 が同様な途をとる。
7. この点について、Niklas Luhmann, Ökologische Kommunikation : Kann die modeme Gesellschaft sick auf oeökologische Gefuerdungen einstellen? Opladen 1986.、邦訳『エコロジーの社会理論(改訳版)』(土方昭訳)新泉社、1992年参照。さらに同様な事例について、Niklas Luhmann, Codierung und Programmierung : Bildung und Selektion im Erziehungssystem, in : Heinz-Elmar Tenorth (Hrsg.), Allgemeine Bildung: Analysen zu ihrler Wirklichkeit, Versuche uber ihre Zukunft, München 1986, S. 154-182 ; ders., Die Codierung des Rechtssystems, Rechtstheorie 17 (1986), S. 171-203 参照。
8. G.ギュンターによる Designation と Reflexion の区別を参照せよ。Gotthard Günther, Strukturelle und Minimalbedingungen einer Theorie des objektiven Geistes als Einheit der Geschichte, in : ders., Beitrege zur Grundlegung einer operationsfaehigen Dialektik, Bd. III, Hamburg 1980, S. 136-182 (140ff.) を参照。学校で行なわれる道徳学に同様の考えが見られるが、宇宙論的形式においてである。すなわち、自然的理性を知ることができる創造の秩序にしたがって、悪徳が互いに闘っている間に、徳が相互に同盟を結んでいるということだ。
p297
‥‥、私は法というものをその機能から把握すれば十分であると長い間考えて来ました。ですから、『法社会学』の中で私は規範的予期の抗事実的措定という機能、即ちある一つの予期が背反されてもその予期は存続し得るということが蓋然的であるということを解明いたしました。その際、そうした予期の存続は社会的に保証されねばならず、恐らく予期が
それはパラドックスと全く関係のないものでした。- 時間的にコンスタントに続くというだけではなく、
- 事項的に一般化されておらねはならない
と私は考えたのです。その結果、私は- 社会的に、
ということを問題としたのです。
- 事項的な局面でのそのような統合を通じて法を機能として定義し、
そして- そのような機能がどのように分化するのか
しかし、その後、私は考えを変えました。というのは、一つの機能が何故に分化して行くのかということが結局のところ不明確なままだったからです。しかも、当時考えていた以上に、「合法」「不法」という二分コードにもっと注目すべきだと私は考えるようになったからです。こう考えることによって、「合法」「不法」という区別のパラドックスに直面することになると私は思っております。従って、ここで問題となるのは、道徳から、あるいは習俗から、要するにオイゲン・エールリッヒの言うところの慣習(「生ける法Lebendes Recht」)から法を区別するということではなく、法内在的な、従って極めて特殊な区別──「合法」と「不法」という区別──が正しいのか正しくないのかということなのです。既に申し上げたこと、即ち、一般化の発展および一般的法規則、そして脱パラドックス化の進展ということ と、今ここで申し上げたこととは、勿論、関連しております。市民的不服従という問題が頻繁に生じて来る現代の状況の下で、そもそも法が法であると主張する権利を有しているのかどうかということ、また法が社会的利害や個人ないし半公的な期待を満たし得るのかということ、こういったことを考えねばなりません。このようなコンテクストにおいて、まさに「合法」と「不法」という区別の正当化は、具体的な法規範の体系の正当性のみならず、「合法」「不法」の区別をどのようにしてなすのかということとの関連から問題となって来るのです。ここ十~二十年の間に、この問題の重要性はますます増大して来ているように私にほ思われます。日本でもそうであると私は思っております。
[‥‥]、相互に刺激しあう次の二点が実現されているということが、法システムが分出し閉じられるために、重要であるように思われる。すなわち、
- 法の機能が特定化されること。つまり法が、全体社会のなかで生じる特定の問題のために整備されていること。
- 正の値(合法)と負の値(不法)からなる図式によって、法システムが二分コードのかたちをとっていること。
かつての機能分化と特定化の理論は、もっぱら分業がもつ利点を強調していた。われわれから見れば、この理論が考えていたように、機能のみに定位していればそれで充分だというわけにはいかない。機能という観点からすれば、機能的等価物を視野に入れておくことが常に必要となる。それはすなわち、システム境界を踏み越える必要がある、ということである。このことだけからしても、機能のみでは不充分だということが明らかになる。そしてまた、実務のなかでは、《法の機能》が、根拠づけ観点として何の役割も果たしていない、ということもわかるだろう。
いくらかでもそれに近いものといえば、民法における《カウサ(原因)》(causa)の概念であろうか。しかし昔の法においては、《(訴権の)名称とカウサ》(nomen et causa)は訴訟を有効に提起するための必要条件にすぎなかったのだが。今日でもやはりカウサは、個々の法制度を解釈するための視点のひとつにすぎない。法自体は、カウサを必要としないのである。法律家が、あるコミュニケーションが法システムに属するか否かを認識するためには、そもそも合法と不法の振り分けが問題となっているのかどうかを、必ず吟味しなければならない。つまり、法のコードがそのコミュニケーションを支配しているのかどうかを、である。二つの成果が、つまり機能とコードが共働している場合にのみ、法に特殊な作動が他のコミュニケーションから明確に区別されうるようになる。そしてそれによって、自己を自分自身から再生産することが可能になるのである(周辺部はなお曖昧さをとどめているにしても、である)。
要するに、セカンド・オーダーの観察のためのこの形式(区別)によって産出されるものを、回帰的に相互に関係づけることによって(そして、あたかも今まで常にそうなされてきたかのようにふるまうことによって)初めて、法システムはオートポイエティックな閉鎖性へと収斂していくのである58。もちろんそれは、古代地中海圏のいくつかの都市文化において、すでに生じていたことであった。そして、それが都市においてのみ生じたのは、けっして偶然のことではないのである。だからといって、そこではもはや《野生のwild》(よく使われる言葉でいえば、「自然発生的なnaturwüchsig」)規範化は存在しなかった、というわけではない。ちょうど学において、セカンド・オーダー・レベルの観察が成果を挙げるようになったからといって、魔術が消減したわけではないのと同様である59。それゆえに、法が規範的予期のプロセッシングヘと、機能的に特定化したということだけでは、法システムの進化的分出を十分に説明できない60。法へと特定化された問題が、法システムにとって不可欠だということはまちがいないにしても、である。コード化のみが、法の普遍化61に対応しうる。すなわちコード化によってのみ、あらゆる事態に適用可能であり、あらゆるコミュニケーションを契機としうるという可能性が得られるのである。しかも、一次的観察者が何によって動機づけられているかとは無関係に、である。