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20150331 作成|20150401 更新
春のルーマン祭り

ヴィンフリート・メニングハウス著
『無限の二重化──ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』 読書会
Winfried Menninghaus, Unendliche Verdopplung : die frühromantische Grundlegung der Kunsttheorie im Begriff absoluter Selbstreflexion.

開催趣旨

ヴィンフリート・メニングハウス『無限の二重化──ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』

    ヴィンフリート・メニングハウス『無限の二重化』は、「すべての芸術作品そのものは、パラレリズムの原則に還元できる。詩の構造とは連続するパラレリズムの構造である。」というロマン・ヤコブソンの命題を出発点とし、シュレーゲル、ノヴァーリスが提唱した無限の自己反省理論にこの命題の接続を試み、ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』におけるロマン主義反省理論を再検討する書である。

    メニングハウスは第Ⅴ章「ロマン主義の絶対的自己反省理論のシステム理論と歴史哲学における消尽点」で、ロマン主義の理論とニクラス・ルーマンの『社会システム──一般理論の概要』 を比較し、両者の類似点を指摘している。

    この読書会では、 について議論を行いたい。(西澤)

概要

対象書籍

書誌 目次
  • 1章 パラレリズム、韻、詩的反省
  • 2章 ヴァルター・ベンヤミンによるロマン主義反省理論の叙述
  • 3章 産出および絶対的総合としての反省―非再現前化主義的な自己二重化モデルの根本規定(記号、言語、表出)
  • 4章 初期ロマン主義の超越論哲学、神秘主義、幾何学、修辞学、テクスト理論、文芸批評の収斂点および消尽点としての反省的「屈折」の脱自的「遊動」
  • 5章 ロマン主義の絶対的自己反省理論のシステム理論と歴史哲学における消尽点

参加申込

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メモ: 事前に読んておくとよい参考文献など

ロマン主義について

ヤーコブソンについて

ルーマンについて

その他

引用集

※下線、箇条書きは引用者

引用1: ルーマン(1995)『社会の芸術』、第四章「芸術の機能と芸術システムの分出」

6節「分出への歴史的経緯」

[4-6-13] ヘーゲルは芸術の終焉について語っている。《芸術の最高の使命はわれわれにとって総じて過去のものである》。しかしこれが意味しているのは、次のことのみである。すなわち芸術は、全体社会が取り結ぶ世界関係との直接のつながりを失ってしまった。そして自身が独自のかたちで分出しているということを知るに至ったのである、と。芸術は依然として、何もかもに関する普遍的な権能を常に要求しうる。しかしそれは芸術としてのみである。つまり特殊な、固有の基準に従う作動様式という基礎の上でのみのことなのである。

[4-6-14] … 芸術家/芸術享受者が補完しあう役割を形成するというモデルは、全体社会における芸術システムのカップリングを描出するためには役立たない。むしろそれが表しているのは、コミュニケーションとしての芸術が全体社会のなかで分出しているということなのである。芸術家と、芸術専門家および芸術享受者との間のコミュニケーションは、コミュニケーションとして分出する。そしてこのコミュニケーションは芸術システムの中でのみ生じるのであり、芸術システムはそのようにして自己を確立し再生産していく。ロマン派は、この事態に対応するかたちで、芸術批評と呼ばれるものを《反省のメディア96》として芸術の中に取り入れることになった。他ならぬメディアとしての批評においてこそ、芸術家によってもたらされた作品を完成しようとする試みがなされているのだ、と。というよりもそもそもロマン派は、システムに自律性が与えられるというこの新たな事態に関わることになった最初の芸術スタイルなのである。今や全体社会が芸術を支えているといえるのは次の点においてである。すなわちどの機能システムも、それぞれ独自の機能に関わる。どの機能システムにとっても、自己の機能こそが優位に立つと主張できるのであって、それを超えるような権能を発達させることはもはやないのである。しかし同時にどのシステムも他のシステムの無関心に出会うのだから、コミュニケーション可能性の過剰を産出することにもなる。したがって自己制限が──まさに《自らを律すること Auto-nomie》が──常に必要になるのである。この衝撃を直感的に把握し、自己反省に焦点をあてることによってそれを受け止めようとしたのもやはりロマン主義運動だった。またロマン派はそのために次の諸点も提起した。 確かにロマン派における反省のゼマンティクは、無限にまで拡大された目的という枠内にいまだ留まりつつ、自分自身を探求しようとするものだった。しかし実際にそこで反省されていたのは自律性が芸術システムに対して強制されているという事態、すなわち全体社会システムの機能分化だったのである。そしてこの点に関しては、その後200年が経つ間何も変わらなかったように思われる。ただシステムが自分自身を挑発する激しさだけが、極限にまで増幅されていくことになったのである。
(96) これは周知のように、Walter Benjamin, Der Begriff der Kunstkritik in der deutschen Romantik, Frankfurt 1973〔浅井健二郎訳『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』筑摩書房〕の議論である。

引用2: ルーマン(1991)『リスクの社会学』、第2章「リスクとしての未来」

[2-3-07] … フランス革命が全体社会の状態を何か変化させたのかどうか、また変化させたとしたら何を変化させたのかは、今日、論争の的になっている26。しかし、この決定ならびにそれにともなう決定についての観察が、観察として、きわめて大きな影響力を及ぼしており、特にフランス革命が起こった時点から見れば過去となった全体社会秩序と、その辞典から見れば未来となる(「立憲的」な)全体社会秩序との不一致を、あまりにも鮮明なかたちで明るみに出したことは誰も疑わない。そうであってはじめて、人類全体がかつて生活していた全体社会の携帯とは別用の全体社会形態の中で人々が生活するようになったということが、後戻りできないかたちで明らかにされたわけである。

[2-3-08] しかし近代社会が、その構造的現実の点でどうなるかは まだまったく可視的ではなかった。近代社会が現実化することでどんな帰結がもたらされるのかが可視的でなかったのは、いうまでもない。人々はただ、身分的に合法化された文化の撤廃によってもたらされる帰結と結びついた希望、したがって自由や平等のような価値概念と結びついた希望を手がかりにできただけであった。こうした分裂にはじめてさらされたロマン主義者たち──私はノヴァーリスをすでに〔6-2で〕引用しておいたが──は、この問題を主題化し、過去を憂愁でもって、また未来を喜びに満ちた予感でもって、見ていた ──だが現在を決定としてはまだ見ていなかった。結局は観察のできない全体社会構造の変動のゆえに、未来が過去に対して優位に立つようになり、同時に、周知のイデオロギー論争がもたらされた。この論争は、さしあたりは革命それ自体がその火種であったが、その後、1820年代以降は、その頃から始まった産業化によってもたらされる諸帰結が、火種を提供するようになった。今日では、この論争は、論争による統一性の呈示という形式をとってきており、それゆえに、エコロジー、女性のおかれた状況、新しいエスニック集団、地域の自立等々の新しいテーマを探し求めている。こういった状況の中に、現在を決定の時点として あるいは決定しそこねた時点として把握するべしとの要請が、ますます明瞭に見いだされるようになっている。これについては後で立ち返ることにしたい。

引用3: ルーマン(1991)『リスクの社会学』、第12章「セカンドオーダーの観察」

[12-3-08] 〔12章のこれまでの議論で挙げてきた〕いずれの事例でも、問題となっているのはセカンド・オーダーの観察をファースト・オーダーの観察の水準に復帰させることである。ただしこの場合、直接に-共通の世界信仰という旧来の素朴さが問題となっているので決してなく、コミュニケーションの解きほぐせないもつれあいから逃れることが重要なのである。セカンド・オーダーの観察の世界は不透明である。人々は、つねに新しい区別の区別にはまり込み、それにより、人が考えたり述べたりすることすべてについて、他の側面がつねに持ち込まれる。このようにして世界は巨大なブラック・ボックスへと膨れあがる。まさにそうだからこそ、つまり、こうした事態を経験し他者もまたこれを経験していると想定できる場合にこそ、せめて若干の相互作用構造だけでもこれを透明にして、再度、ファースト・オーダーの観察で満足する、つまり「ブラック・ボックスを白くする」21ことで満足するのが望ましいだろう。

[12-3-09] 何かを達成するには、誰かを知っている人を知っていなければならない政治的に腐敗しがちな官僚制においては、資料や行為や証拠が重要になるのと同様に、セカンド・オーダーの観察の水準において構成される世界では、了解が重要になる。了解の成果は直接に観察できるので、システムは、こうした了解をたえず補整したり変化させたりという形式で、みずからを観察できるようになる。ここで問題となっているのは、そのつどごとにそこに見いだされる取り決めである――まさに、それが「事実そのもの」ではないことを関与者が知っているからこそ〔暫定的なそのつどの取り決めで満足するの〕である。ここで人々は言語についてもう一度学習することになる。つまり記号とその記号によって指し示されているものとの区別をあらためて学習する――すべてのファースト・オーダーの観察者にとってそこにあるものと、彼らがそれを観察するときに観察されうるものとの区別をである。この区別は、誠実さ・正直さ・契約遵守という伝統的な要請もろとも、いわゆる合意を引き裂く。真剣に受け取られないがゆえに機能作用するシステムの作動様式も、存在するのである。ちなみにこれは、すでにロマン主義者が「思慮深さ」とか「イロニー」、妖精、魔法使い、鏡、分身、舞台装置などによってわれわれに教えていたものである。これらは、そのテキストが「詩」として機能するのに不可欠だが、本来それがそうであるところのもの──つまり歴史的にみて書き言葉に適合した最初の観察様式〔つまり、詩そのもの〕──と混同されてはならない。全体社会で広く実践される了解が必要となることで、すなわち、セカンド・オーダーの観察の実践によって不透明にされ精確な意味で観察不能になっている世界の中で透明性の筆致(Lineatur)を確保する必要があることで、われわれもまさにこれと同様の状況にある22

(22) これについて、芸術の現実化の領域に関して私の論文を参照。Weltkunst, in: Niklas Luhmann / Frederick D. Bunsen / Dirk Bäcker, Unbeobachtbare Welt: Über Kunst und Architektur, Bielefeld 1990, S.7-45.