1, はじめに―― 課題設定のおもしろさと刺激的な論点提起
◆ 子育て支援という実践と社会空間への着目
90年代以降、国家の政策課題として登場した育児の社会化論と子育て支援政策の展開
⇒ 規範的論理の二重化状況 ―― 子育て私事論(「子育ての責任を家族、とりわけ母親へと帰属する論理の効力」p.36、ないしは抑制の論理)と支援の論理の併存。
⇒「福祉領域と家族領域とのインターフェイス」に子育て支援を挿入することによって「(近代的)公私領域」はどのように再編されようとしているのか。
- 福祉社会学的課題(支援・ケアの社会学)
- ―― 「子育て」への「支援」とはどのように行われており、支援者はそれをどのように経験しているのか。「研究が手薄であった子育てというケアへの支援」(p224)の主要な三つの形態について、支援者の営みと経験としての「規範的論理の二重化状況」の解明し、支援・ケアの社会学の「欠如を埋めようとする」(p.16)。
- 家族社会学的課題
- ―― 現代社会における家族の意味、家族変動へのアプローチ(p.45)
家族が家族であることの重要な条件―― 私的領域である家族に囲い込まれてきた子どもの養育機能が(子育て支援によって)公的領域で代替可能であるとするならば、その社会的変化によって「家族」はどこへ向かうのか。「家族」とは何なのか。
◆ 規範的論理の二重性の状況下での「子育て」を「支援」すること
- ―― 支援提供者は「支援」の対象、現象、行為としてある「子育て」「家庭」「家族」をどのように理解し(規範的論理)、そこに自らの「支援」の意味をどのように見いだし(経験の理解)、その実践の過程に規範的論理をどのように組み込み/限定・排除しているのか(実践の検討)。
⇒ 子育て支援を提供者と受け手との社会的相互行為によって構成されるものという視点から、支援者がその支援をどのように実践し、経験しているのかを明らかにする(p.15)。
⇒ ジレンマの発生と回避、乗り越え ――-支援者の実践と支援の現場での言説における「支援の論理」と「子育ての私事論」の規範的連関。「なぜ家族がすべきことを私がしているのか」
◆ 子育て支援提供者のジレンマの経験
- 支援者は「家族」が子どものケアを担うという規範的論理を家族以外のケアよりも優先的に位置付けて、日々の支援を行っている(p.221)。
- 支援者は、親による「家族の育児責任」の実践への評価、また、「育児責任」遂行のための動機づけ、育児責任の帰属を意識させる契機を意識する。
- それは職業経験の組み立てと意義と同時に自らの仕事への疑問の源泉となり、支援という行為に緊張関係をもたらす。
◆ 「支援者が自らの支援に疑念を抱かずにそれを遂行するための条件の整備が必要(p.145)」
⇒ 実践的「育児の再家族化」
(例)支援の受け手の限定と適合的な受け手の創出。
「個別には問題含みであり得る支援の受け手の限定も、地域社会のなかでそれを独自に行う支援提供者の数が豊富なものであるならば、つまり、受け手からすればそれぞれが独自の限定を行う支援提供者の選択肢が増加するならば、受け手限定はそれ自体では問題がなくなるだろう(p146)」。
⇒(例)家庭性の論理の動員によって、子育て私事論を(家族への)支援の論理で包摂する方途と技法
「家庭的保育を「育児の社会化」と子育ての私事論という二つの理念が併存する中での調停案として位置付けることには一定の妥当性がある(pp.180-181)」
2,知見の整理と提起された論点
―― 労働、職場編成、「子育て支援」の政策的制度化過程という観点から
◆ ジレンマの発生過程、回避、逃避、乗り越え方 ―― 裁量性、職務、技能、対象
キサラギ(母子生活支援施設 併設型 トワイライトステイ)
保育形態 | 集団保育 | 不定期利用 | スポット夜間保育 | 17:00~22:00 | 未就学児から小学生 |
- 対象とする家庭の困難(私事化論理に基づく対象の選別ができない)
- きわめて高度な技能と熟練が必要な保育形態
- ⇔ スタッフの技能、熟練とそれを満たす職場編成、コミュニケーション
- キサラギのスタッフに見る経験年数の短さ、技能の欠如、不安定な労働編成(非常勤、20代中心)
- 成員カテゴリー「大人-子ども」の対比・・・直接的な指揮命令系統とヒエラルキーが明確な職場からの解放と(子どもという)自らの裁量が発揮可能な職場との対比
- 密接な関係、家庭性の追求の壁 ―― 「支援」に対する職場集団の共通理解(組織文化)、保育プログラムのあり方、職員体制、不十分な人的配置、予算措置
保育ママ(自治体 家庭的保育事業)
保育形態 | 個別・小集団保育 | 定期利用 | 昼間保育 | (基本保育時間 8時から17時) | 0歳から3歳まで |
- 親による子どもへのケアが家庭において提供されることを序列的に優先する論理が具体的に貫徹しうる家庭環境:「家庭の延長」(p160)、「家庭的な性質を持つ」(p.161)
- 「家庭性」を創出するための空間的、時間的条件・・・支援者側が考える「家庭性」を保持するための支援形態に限定しての実践
- 自宅という空間の独占性と指揮命令系統の不在(訪問派遣型ベビーシッター、ファミリーサポートを想起)。支援対象の選択を含め、職務遂行における自由度、裁量性。
- 対親への優位性 ―― 提供者による対象選択、経験年数の長さ、子育て経験者
◆ ジレンマは回避すべきものなのか
家族主義的な概念の連関に埋め込まれたままで「育児の社会化」を進めるにあたっては支援の論理による子育て私事論の包摂によって・・・「保守主義」と「社会民主主義」の折り合いをつけやすい条件が整っていることは、支援提供者にとっても、またおそらく支援を受ける人々にとっても、日本社会の現状を所与とした場合には重要ではないか
(p.232)
- 家庭的保育事業に見られる家庭性を軸とした実践的「育児の再家族化」の展開によって、育児を脱家族化する戦略として有効(p.232)
⇒ 私事化を保持したままで支援者側の「脱家族化」戦略の追求の契機はどこに生じるのか?
⇒ 公私領域の再編過程、あるいはケアの再配分過程としてのジレンマの経験
職業的・人格的破綻を導くようなジレンマであれば問題だが、ジレンマの経験を通じて、自らの職業や仕事の社会的意義を問い返すことの価値 ――自己成長の契機、対象との関係構築や職務遂行方法の刷新、外部環境の変化への対応、社会的異議申し立ての主体形成など
◆ 政策と子育て支援実践における家庭性という戦略―― 家族主義的な概念の連関に埋め込まれたままで「育児の社会化」は追求可能か
日本社会の現状を所与とした場合・・・(前掲)
家族の育児責任を外部化すべきとだけを主張する言説は、子育て支援をめぐる言説のポリティクスのなかで、支援が実践される場において作動する家族主義的な論理に対しては有効なクレイムたりえない
(p.232)
⇒ 重要な指摘
⇒ 家庭性戦略による(支援現場での)家族主義的論理の乗り越えと育児の社会化推進?
親主体の構築とは異なる?
⇒ 小規模保育事業の評価は?
- 支援の論理による子育て私事論の包摂――政策的限界
少子化社会対策基本法、次世代育成支援対策推進法、教育基本法における社会的支援の限定的解釈(「育児については第一義的に親またはその保護者に責任がある」)への異議申し立て実践となるか?
- 少子化対策フレーム――親が責任を遂行するための保障と権利保護の規定、視点の欠如(スウェーデン社会省における家族政策の基本目的を見よ)。家庭性戦略において権利行使主体としての子ども、権利行使主体としての女性はいかに位置付けられるのか。
⇒合計特殊出生率の回復に対するエンゼルプラン(保育サービスの多様化)の効果
政策転換:保育所を増やしても子どもは増えない。むしろ専業主婦の子育て。
- 90年代以降の新自由主義的改革のなかでの「家庭性」の論理
⇒ 新自由主義的改革がもたらした日本の企業社会統合の揺らぎと、自立した個人と選択の論理/それを補完するための保守主義的共同体――家族の絆、地域の絆の浮上
⇒ 90年代末~: 家庭教育(家庭教育ノート、社会教育法、教育再生会議など)と、親の養育力低下を補完・向上するための地域子育て支援事業の制度化、国家予算化、政府による推進事業体・協議会の組織化と予算措置(ひろば事業、小規模保育など)
- 子育て支援と育児の社会化の距離――「子育て」「支援」という政策的フレームの限界?
⇒ 「楽しい子育て」「悩まないで」「みんなで子育て」
⇒ 母親による自助グループ・共同子育ての体制内化と子育て支援の担い手としての「母親」(政策推進主体)の組み込み ⇔ 保育サービスの消費者としての親の登場。
◆ ケア供給体制の内部編成、組織化―― ケアの社会的配分とケアの再ジェンダー化
3,キータームに関する質問
◆子育て支援という実践の分析を通じて、家族領域と福祉領域の相互浸透性と、両領域の境界線が絶えず引き直されるなかで改めて浮上する「家族」とケアの連関とその多様性を指摘していると理解。
⇒ 規範論理の二重性―― 子育てにかかる実践の両極あるいは対概念?
子育て私事化(「子育ての責任を家族、とりわけ母親へと帰属する論理」)に対し、育児の社会化が完全になされた状態とはどのような状態、実践を指しているのでしょうか。育児(子育て)の社会化とはどのような状態なのでしょうか。またそれとからんで本書における社会民主主義レジームでの「脱家族化」と「育児の社会化」の関係は?
◆「家族の育児責任」とは何を指しているのでしょうか(歴史的変遷)。
⇒ 「子育て」と「ケアを提供すること」が等置された状態/専門性議論
「ケア提供者にとっては子どもへのケア提供は引き受けるが「親であること」は引き受けないという実践を、家族にとっては「親であること」は外部化して放棄しないという実践を可能にする」(p.240)
⇒ 支援論・運動論における親の主体形成の課題と、子育ての私事化の論理の区別は?