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ここには、2012年03月03日に明治学院大学にておこなった 社会学研究互助会第二回研究会「小宮友根『実践の中のジェンダー』合評会」における配布資料などを掲載しています。
このコーナーの収録物 | 小宮 友根さん (配布資料) | |
加藤 秀一さん (配布資料) (討議) | ←このページ | |
中里見 博さん (配布資料) (討議) | ||
全体討議摘要 |
※本書の紹介ページがあります。あわせてご覧下さい。
私たち人間が「性別」という属性を持つことの、社会現象としての側面にアプローチする、ひとつの方法を描き出すこと (i)
「ジェンダー」という概念は「社会的性差」のことだと言われつつ、同時にそれとは異なった規範的な何かを指し示すための概念としても用いられる。(ii)
ジェンダー概念がそうした規範的な何かを指し示していることが、いかなる意味で性現象の「社会性」の表現だと言えるのか。(……)このことは、ジェンダー概念をめぐる議論の中で、これまで十分に言語化されてこなかった点であるように思う。(ii)
バトラーの理論は、性差の因果説明とは異なった議論平面に「ジェンダー」という言葉をおこうとする試みとして、フェミニズム理論の中でも傑出した存在である。(iii)
その主張の核心は、私たちが帯びるアイデンティティの理解可能性が、徹頭徹尾、私たちが何かを「おこなうこと」と結びついている、という点にある。(iii)
問われなくてはならないのは、社会生活に参加している社会成員自身にとっての理解可能性である。言いかえれば、みずからがいま「何者」として、いかなる行為をおこなっているかを社会成員自身が提示/理解しあうことで作られている秩序へと接近することができなければならない。(vi-vii)
「社会的」とは、「自己や他者の行為やアイデンティティが、いまどのように理解されるべきかを、行為の遂行をとおして人びとがお互いに示しあっている、その様子」を意味する。(vii)
★用語法についての小さな(でもけっこう気になる)疑問。「理解可能性」と「どのように理解されるべきか」を同義とすることへの違和感。バトラーは「理解可能性の規範」(p. 21)という言い方をしているが。可能性イコール規範なのか、可能性の規範なのか。〈理解の可能なあり方が現実には規範によって制約されている〉という把握が正しいとすれば(第2章参照)、「理解可能性の規範」ではなくて「理解可能性を制約する規範」なのでは。
★ 「社会的性差」ではないジェンダー概念を提示するというとき、本書は[1] 「別の意味で社会的な性差」を提示しているのではなく、[2] 「そもそも性差ではない対象」(=行為の理解可能性)を提示している。そのとき、ほぼ自動的に、社会的性差というときの「因果性=社会性」とは異なる、「規範性=社会性」の概念も提示される。このことがやや判りにくいかもしれない。
また、「社会的」という用語の意味そのものも、もっと明快に説明してしまってよいような気がした。「社会的」とは、[1] 因果連関上で「自然」「生物学(的なもの)」に対置される意味(「環境」「後天的」「学習」などの類義語)と、[2] 因果関係という水準そのものに対立するような「理由の空間」[←この表現は註に出てくる]の別名(規範性、志向性)という相異なる二つの意味がある、という見通しを早めに出してくれた方が、少なくとも哲学者には通りがよくなったのではないか。
もっとも、その結果「ああ反自然主義ね」等々とすばやく「理解」されてしまってもいけないのかもしれないし、データの分析を積み上げた後にそっと「理論」っぽいテーゼを差し出したいという気持ちもわかる。また、従来のフェミニズムの議論から自分の主張を展開させて行きたいという気持ちはもっとよくわかるのがツラいところ。以下、この後者の点について少し私見を述べる。
このように II巻は、女の視点から語られる体験の書であると同時に,性というものがいかに社会・文化的に作られた虚構であるかということを、女の体験の構造から明らかにしたジェンダー論とも言える。生物学的な性であるセックスと社会・文化的に作られたジェンダーの関係は、『第二の性』においては非常に微妙で、ジェンダーが、セックスを意味づけする、セックスに先行すると読み取れる箇所が多い。たとえば、II巻第一部第一章で、ボーヴォワールは「他人の介在があってはじめて個人は〈他者〉となる。子どもは自分に対してだけ存在しているかぎりは、自分を性的に異なるものとしてとらえることはできない」と言う。これは、現在でもセックスとジェンダーをめぐる大きな問題点となっていることを記しておきたい。」
(加藤康子・中島公子「訳者あとがき」、ボーヴォワール『決定版第二の性II 体験[下]』、『第二の性』を原文で読み直す会訳、新潮文庫、2001年、494)
ミードが、ジェンダーという用語のない時代にジェンダー研究に相当する研究を行ってきた先駆者であるということは重要である。
(山本真鳥、「ジェンダー研究と文化人類学」、江原由美子・山崎敬一編『ジェンダーと社会理論』有斐閣、2006年、121)
それが本当なら、ジェンダー論をやるのに(「セックス=生物学的性差」と対置される意味での)「ジェンダー=社会的性差」という概念はそもそも必要ではなかった、ということになるだろう。これはジェンダーという概念の故郷が心理学であることを考えると意外ではない。セックス/ジェンダーという概念対は、発達心理学においては研究対象を腑分けするための分析概念として機能するだろうけれども、社会学においては(辞典や教科書で定義される際にそのように意味づけられるだけで)実際には機能していない。社会学のジェンダー論は実際には社会的規範としての性役割に照準してきた。
つまり、これまでの「ジェンダー論」「ジェンダーの社会学」においては、ジェンダーの定義(社会的な原因を持つ性差)と実際にやっていること(性別をめぐる規範の分析)とが乖離していたのでは?
(このことは、「構築主義」をめぐる不毛な混乱にも反映している。構築を「社会的な(=出生後の学習による、環境に起因する)原因をもつ」という環境要因説の意味にとる人続出。社会学における構築主義とは全然別のことだし、バトラーの議論とも違う。でも、バトラーを引きながら、この意味で「構築」を言う人は少なくない。)
これが当たっているとすれば、小宮氏には、バトラーだけでなく、従来のジェンダー論者、社会学者たちが実際に何をやってきたのかとの対比作業をやってもらえれば、本書の意義がよりはっきりしたのではないか。そうした方が、少なくとも社会学者たちに対しては親切だったのではないか。
人間には生まれついての生物学的性別(セックス/ sex )がある。一方、社会通念や慣習の中には、社会によって作り上げられた「男性像」、「女性像」があり、このような男性、女性の別を「社会的性別」(ジェンダー/ gender)という。「社会的性別」は、それ自体に良い、悪いの価値を含むものではなく、国際的にも使われている。
社会的性役割や身体把握など文化によってつくられた性差
本書において、「セックス」という言葉は、男あるいは女という性別を、また、ある人が男であるか女であるかを決定する生物学的な構成要素を指す。それゆえ「セクシュアル」という語は解剖学的および生理学的な含意を持つ。これに加えて、セックスに関連してはいるが第一義的に生物学的な含意を持つわけではない、さまざまな行動、感情、思考、幻想の広大な領域があることは明らかだ。そのような心理学的現象の一部を表すために、「ジェンダー」という言葉が用いられる。
「ジェンダー」と「セックス」は常識的には同義語ではあるが、(……) これら二つの領域(セックスとジェンダー)は必ずしも一対一対応のように結びついているのではなく、それぞれがかなり独立したものである。(vi-vii)
二人とない個人である自分がこういう自分であるというはっきりした意識――アイデンティティ(identity)――は、あなたの本質であり、その核には男性あるいは女性としての自分はこういう自分であるという認識――「性自認」(gender identity)――が存在している。(p.12)
あなたの持っている性に関する個人的概念である図式は、あなたの性自認・役割(gender identity/role)の枠組みとなる。(……)性役割とは、男性または女性としての自己認識を表現しているあらゆることがらをいう。性役割は、あなたが感じること、考えること、行なうこと、言うことのすべてを含んでいるわけで、これらのあらゆる言動はあなたが男性あるいは女性であることを――他の人々だけでなくあなた自身に対しても――表しているのである。
性自認と性役割は(……)同じものの一つの違った側面なのである。つまり、あなたの性自認は性役割の内面的な経験であり、性役割は性自認の表現なのである。(pp.17-18)
だがそもそも同一化は、演じられる幻想であり体内化であるという理解によれば、首尾一貫性は欲望され、希求され、理想化されるものであって、この理想化は、身体的な意味づけの結果であることは明らかである。換言すれば、行為や身ぶりや欲望によって内なる核とか実体とかいう結果が生みだされるが、生みだされる場所は、身体の表面のうえであり、しかもそれがなされるのは、アイデンティティを原因とみなす組織化原理を暗示しつつも顕在化させない意味作用の非在の戯れをつうじてである。一般的に解釈すれば、そのような行為や身ぶりや演技は、それらが表出しているはずの本質やアイデンティティが、じつは身体的記号といった言説手段によって捏造され保持されている偽造物にすぎないという意味で、パフォーマティヴなものである。ジェンダー化された身体がパフォーマティヴだということは、身体が、身体の現実をつくりだしている多様な行為と無関係な存在論的な位置をもつものではないということである。(pp.239-240)
ジェンダー(ここではとりあえず「男らしさ」「女らしさ」といった当該社会の社会成員が身につけている性別に基づく行動・態度・心理的態度などの性差という意味で使用しておくことにしよう)。(p. 4)
「ジェンダー」[=「男らしさ」「女らしさ」]とは、「心」の違いにではなく、「心にかかわるふるまい」の違いに求められることになる。(p. 25)
ジェンダーは非常に多義的な概念である。それは第一に、社会的文化的に形成された「男らしさ」「女らしさ」などの性別特徴、あるいは「性別」アイデンティティを含意する。第二に、社会通念の中に分けもたれた「男らしさ」「女らしさ」などの観念や知識を意味する。第三に、男女間の社会関係を「権力関係」という視点から把握する研究上の視点を意味する(……)。(p. 59)
ジェンダーは、性と生殖の舞台をめぐって構築される社会関係の構造であり、諸身体間の生殖上の区別をリプロダクティヴ・アリーナ社会過程に関連づける(この構造に制御された)一連の実践である。(p. 22)
ジェンダーの表出の背後にジェンダー・アイデンティティは存在しない。アイデンティティは、その結果であるといわれるところの「表出」そのものによって、パフォーマティヴに構築されるのである。
(Butler[1990]1999: 33=1999:58-59、p. 7)
わたしたちは、さまざまなカテゴリーの担い手でありうる。わたしは、「男」であり「中年」であり「夫」であり「父」であり「教員」であり「日本人」であり、という具合に。「私は日本人である」という命題は真である。しかしながら、「日本人」というカテゴリーをわたしに適用することが、いつも適切(レリヴァント)であるとはかぎらない。わたしが適切(レリヴァント)なしかたで「日本人」であるのは、そのつどわたしが参与している場面設定がどのように局所的に組織されているか、による。(中略)「日本人」である、といった、いわば社会のマクロ・レベルにかかわることがらも、(中略)「局所的」に彫琢され、「局所的」な組織化をとおして、あるいはかかる組織化として、現実的(リアル)なものとして達成されるほかない(後略)。
(西阪 仰『相互行為分析という視点』 金子書房、1997、pp. 45-46)
「パフォーマティヴな構築」ということが示唆するのは、ひとつひとつの行為が提示/理解されるときに、そこでどのようなコンテクストが作られ、そのことによって、その行為がどのような社会システムを形成するのか、またその際、意図や動機がどのようなアイデンティティのもとへ帰属されるのか、といったことを経験的に探究することができるということである。
(小宮自身による(ルーマンを参照した後の)まとめ、p. 97)
バトラー | 「構築」 | = | EM | 「組織化=達成」また「(意図や動機の)アイデンティティへの帰属」? |
---|---|---|---|---|
バトラー | 「物質」 | = | EM | 「現実的(リアル)なもの」? |
バトラー | 「(アイデンティティの)表出」 | = | EM | 「(ひとつひとつの行為の)提示/理解」 |
誰かの声[1]
「EM の方が同じことをバトラーよりうまく分節化できているなら、EMでいいじゃん。なんでバトラーなんかを細々と検討するの?」
誰かの声[2]
「いやそうかもしれないけど、バトラーの言葉遣いはフェミニズムとかクィア圏ですでに広く流通してしまっていて、それ自体が反復されているのだから、そうした現実をふまえつつジェンダーの社会学の課題を再定式化することには、それ自体実践的な意味があるのだ。」もう少しありていに言えば、多くのフェミニストやクィア・スタディーズの関係者は、EMはおろか、社会学の方法なんぞに関心を持ってくれないから、そういった読者をも惹きつけるには、少なくともいくつかの言葉遣いだけは人口に膾炙したバトラー理論との対応をつけながら論じるのが巧いやり方なのかもしれない。
でも、それ以上(以外)の積極的な意義ってあるだろうか?
フェミニストたちは、そのような社会は今より良い社会だと考えるに違いない。そしてそれは、「レイプ」の原因を調べることによっては決して実現できない社会であることも、明らかである。
★これは半分正しく、半分は変だ。新たな定義を採用することで、統計に表れるレイプやDV の数が増えれば増えるほど「良い社会」であるとは、「フェミニストたち」の多くも考えないだろう。一方では、これまで犯罪にカウントされていなかった行為が犯罪にカウントされるようになったことを歓迎しつつ、他方では、その新たな定義(=行為同定)の下で、その「数」および「原因」に関心を向け、それを現象させる因果連関的方策により大きな関心を払うだろう。
★行為の同定という規範的問題と、何らかのやり方で同定された行為をめぐる因果説明とは、質の違う課題であり、同位対立しない。「進化心理学的説明はフェミニストが提出している説明を覆す」というのはたぶん間違いだが、フェミニストが関心を持つのが本当に行為の定義という問題だけだとしたら、それも進化心理学的説明を「覆す」わけではないだろう。著者は両者を対立させすぎではないか?
★蛇足。ここでの「フェミニストたち」には著者自身も入っているのか。もし入っているなら、どうして「良い社会だ」と言い切らないのか。
「レイプ」についてのフェミニズムの主張(……)で問題になってきたことは、その行為の原因ではなく、その行為の理解可能性と、人びと(とりわけ女性)が帯びるアイデンティティとの結びつきであることがわかるだろう。(p. 28)これはやや我田引水すぎるのではないか。フェミニストたちもやはりレイプの「原因」についてあれこれ言ってきたのは事実だろう。参照、杉田聡『レイプの政治学』明石書店。
★ 76 註6 に引用されている馬場のルーマン解釈は、バトラーの議論にそっくり。こうした「一元論」を批判するなら、バトラーの「言説一元論」も批判されるべきではないか。
第1章は全体として、バトラー理論を救済するという目的で書かれているから仕方がないのだが、もっと素朴に、学ぶべきものを学び、駄目な点は駄目という、という構えで書かれた方が、議論の見通しを良くできたのではないか。
★ 85 「観察者による分析的モデル構成を退ける」
これは、正しくは、〈観察対象に、《観察対象の側で成立している「意味」》を組み込んだモデルに取り替える〉ということではないか。それはもはや「分析的モデル構成」とは言えないのか?
★ 100 「認識論的問題を解決しなければ研究を始めることができない、という考え方を取らないこと」
同じことを進化心理学者も言いたくなるのではないか?
★ 113
(……)その社会構造を、当の会話への参与者たち自身が、みずからのおこなっている会話に対して関連あるものと理解していなければならないということ。(……)社会構造のようなマクロな秩序を見て取ることができるということは、そうした構造にかかわる諸カテゴリーを用いることができるということと深くかかわっている。男女間の権力関係やコミュニティ内での性別規範を見出すことができるためには、会話をしている人びとを「男性」「女性」といったカテゴリーによって特徴付けることができていなくてはならないだろう。すでに述べたことだが、人びとのそういう振る舞いを論じることが社会学だとするなら、「ジェンダー」という概念は特に必要ない。上記のようなアプローチそのものを、すなわち「参与者の指向」に関連づけられたかぎりにおける「男性」「女性」「性別」といったカテゴリーのふるまいを論じるというテーマを「ジェンダー論」と呼ぶことはできるが、分析の内部においてジェンダーという概念が活躍する余地はなさそうだ。
★シェグロフの勧め(参与者の指向にもとづいた記述)にしたがって性別規範やジェンダー/セクシュアル・アイデンティティを記述しようという試み
~バトラー理論の具体的な展開:実際に行為がおこなわれる中で、その行為をおこなうための資源として用いられている性別カテゴリーの記述をおこなっている。117
なるほど。小宮もその一員ということであろう。ただ、バトラーは「身体が構築される」という話をしているので、それは下線部に解消されるのだろうか。バトラー自身はそれに賛成するか、ちょっと気になる。
★「リマインダー」としてのデータに関して。ここでのデータと観察者、参与者と研究者の関係(みずからの社会成員としての能力)に照らすと、たとえば、研究者が自分の属しているものと著しく異なる「概念の論理文法」をもつ社会について研究することは不可能ということになる? (そもそもそういうレベルの異文化がありうるかという問題。)
★ 135
フェミニスト的関心と会話分析との統合を試みるような「応用会話分析」は、記述の持ちうる規範的含意を積極的に打ちだそうとする、ひとつの試みであるだろう。これは、いわゆる「批判的エスノメソドロジー」とは違うのか?
★ 136-137
一枚岩の『性別役割』のようなものを想定することが難しいのと同じ理由で、『単一の性別システム』のようなものを探さなければならない必要はおそらくない。性別カテゴリーは多様な実践の中で、多様なしかたで用いられることで、無数のシステムを形作るための道具になっているだろう。『性別』という社会秩序とはおそらくそうした実践の集まりのことなのであり、それゆえ必要なのはそうした実践の記述の積み重ねであると思われる。これは、江原『ジェンダー秩序』批判? ここでの「一枚岩」「単一」とはいかなる意味か?
★研究領域が「法」という明らかに「もっとも「規範的」な領域」141 なら著者の方針はうまく行きそう。でも、「身体」だとどうなのかな? バトラー理論に人気があるのは「身体」を問題にしているからなので、それを小宮的展開からどうとらえ直せるのか、フェミニズム理論の側からは、興味がある。
「従来のジェンダー論に対し、自分たちのやっていることを教える」という意義を獲得しているように思える」と書いていただいたこと──こう書かれると とても偉そうですが──を、執筆者本人として言い直してみます。