日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

フッサール 『イデーン』第二篇第二章から

Date: ??
From: 酒井泰斗
Subject: [luhmann:?] ??

第三十三節「現象学的残余としての“純粋意識”もしくは“超越論的意識”の予示」

邦訳147~149 からテキトーに抜粋
 ......我々にとって 是非とも必要なのは、次の点に対するある種の普遍的洞察である。すなわち、意識一般の本質に対する洞察、そしてことのほか特別にはまた、そのもの自身の内でそのものの本質に従って「自然的」現実が意識されるような、そのような意識の本質に対する洞察がそれである。しかもこうした本質は、純粋に「内的な経験」のうちから、もしくは純粋に内的な一般的直感のうちからくみ取られなければならない態のものである。...........[分析を通じてフッサールが示そうとしているのは] これである。.........

 もっと精確に言えば、こうである。つまり、客観的世界の存在妥当を現象学的に働きの外に置くということ を遂行することに よって、この「内在的」存在領圏は、なるほど、世界に帰属し・世界をすでに前提する実在である人間(ないし動物)に付着した、一つの実在的層である、 という意味を失いはする。......... けれども、.........、その存在領圏は、あのエポケーという変更された態度の中で、 一つの絶対的な存在領圏である という意味を保持するのである。それは、 であって、 存在するのである。したがってまた換言すれば 、そうした存在領圏は、あらかじめすでにそれ自身において・またそれ自身だけで存在するような一存在領圏であって、たとえ世界の存在の問題が、......、どのように 答えられようとも、......、そうした事には関係なしに存在するものなのである。.. ........

 .......、このエポケーによって全く初めて開示されるものは 、......、絶対的もしくは「超越論的」主観性という絶対的な存在領域なのである。 そしてこの存在領域は、全世界という全体的な実在領域の中の一つの部分的な領域ではなく、むしろそうした実在領域やその中の全ての特殊領域からは原理的に区別されるものなのである。....[それは]実在領域と境を接しながらそれと区別される、というのでは断じてなく、あたかもこの存在領域が世界の不足分を補うという形で世界と結びつき、こうして世界と一緒になって一つの包括的な全体を形成しうると言った具合には断じてなっていない。.......にもかかわらず、......、絶対的ないし超越論的主観性の領域は、或る特殊な・全く独特な仕方において、実在的な全世界を、もしくは、実在的な世界たりうるでもあろう様なものすべてを、.....、「おのれの内に担う」のである.....。

第三十四節「心理学的現象学的主題 の形で論ぜられる、意識の本質」

邦訳152~155からテキトーに抜粋
...... 我々の主題の名称は、こうであった。意識、もしくは もっと判然といえば、意識体験一般、これであり、しかもそれを非常に広い意味に解 してである。.......

 ....... この純粋な意識体験を、我々は、具体化の全ったき充実において考察する。この具体化の全ったき充実をそなえつつ、意識諸体験は、それ固有の本質によって相互に融合して、この具体的連関をなすのである。......[この分析において]大切なのは、意識の統一性を性格づけることである。.....[その際、]純粋な意識経験が可能になる仕方というのは、その意識経験が、 という具合である。こうした点に、すべての意識総合は帰着する[ということの洞察も重要である。] したがって、別言すれば、純粋意識の全般的領野が、そしてさしあたりはまず、心理学的意味における私の純粋意識が、可能的経験と経験証示とのそれ自身完結的な・無限の領野として、明らかにされてゆくべきなのである。............

引用者による追記:酒井泰斗

 ここで目をひくのは、一つには、上で言及されているところの「意識」(なるもの)が、「オートポイエーシス」の定義を満たしているということ。もう一つは、(超越論的)「意識」(なるもの)がいわゆる「ものres」の世界・実在的世界に属さない──このことを、フォーラム宛のメールで私は「システムは彼岸にある」と表現したのですが──にもかかわらず、世界を「己の内に担う」という“不可思議”な性格をもつ、とされているところ、です。
 ところで、フッサールは、彼が準拠しているところの>>もの[=意識(なるもの)]<<を〈システム〉だとはみなさなかった。つまり、他にもそうした「性格」をもつものがあり得るとは考えなかった。
なにしろ、諸システムのそれぞれをシステムと呼ぶのは、そうした、システムと考えられるモノ達が他にもたくさんゐると考えられるからなのですから。そのような前提をとらないときには、なるほどたしかに、「意識」(なるもの)をわざわざシステムなどと呼ぶ必要はありません。
フッサールのそのやりかたは、一方では、「意識」(なるもの)を“優越視”というイミで特別扱いすることであり、他方ではそのせいで「意識」(というシンボル=概念、および、それをつうじたモノの見方・考え方)に過剰な負担をかけることに繋がったと考えられます: .......ということ。

 システム論の見地から観察するなら、現象学の「超越論的主観性」の問題は、そうした双方の面から観察することができるだろうし、またしなければならないでしょう。



“準拠システム”を複数とれば、一挙に別の描像が獲得されます。
 つまり、「意識」が「その世界を己の内に担う」ものであり、しかもその「担う」ということが「オートポイエティック-である-こと」と等価であるのなら、オートポイエティックだとされるどんなシステムも──つまりたとえば、免疫システムも神経システムも──、同様に、「世界」──ルーマン理論の文脈で正確にいえば〈環境世界〉──を、それぞれなりに「おのれの内に担」い・それぞれなりの「働きLeistung=オペレーション」を行っているであろう筈なのです。そして、その時には、「意識」は、優越的な・特別無比のモノという地位を追われることにはなりますが、同時に、それまで(不当にも?)負わされていた過剰な負担から開放されることにもなるのです。
このことは、ひとつの「システム論的=社会学的-啓蒙」だ、といえばいえる‥‥かもしれません。

 ・・・しかし、そう考えてしまうと、こんどはもはや、フッサールの依拠している様々な前提が崩壊してしまい、まったく別の──たとえばルーマンがその一つの例を与えているような──世界描写にたどりつくことにはなってしまうのですが。