日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

コード化を巡って

ブックガイド:ルーマン本」に載せた、福井康太著『法理論のルーマン』(2002、勁草書房)への酒井コメントに対し、著者の福井さんよりメールをいただきました。許諾を得てここに掲載させていただきます

Date: Mon, 5 Aug 2002 20:49:07 +0900
From: 福井康太
Subject: ドイツから

【前略】

ご指摘のように:

現実の二分コード化のプロセスは、そう単純なものではなかったはずである。‥‥しかし、二分コード化の成立を歴史的に探究するということは、それほど意味のあることとは思われない。法的なやりとりが‥‥二項対立関係を基礎に構成されるようになったという事実を確認しておけば足りる。二分コード化の成立プロセスについては括弧にいれたまま話を進めよう。
なるほど、「現象論」のために常に歴史を参照する必要はないかもしれない。またしばしば(主にその都度の論述の制約から)できないかもしれない。しかし、
 B)   0) 「とにかく項が二つある」というほとんど無規定な関連(=無・関連)形態から、
 1) (並列・対立・包含など)>>変換不能<< な仕方で関連づけられ、さらに、
 2) >>変換可能<< な関係にまで「技術化」され、
ついには、
 N)  脱-価値原理/選択基準-化されてしまう関係にまで至る、
そのような、二項図式の広大な「スペクトル」のなかに「狭義の二項図式・二項コード」を位置づけ、それらからの区別を論じようとすれば、そこで歴史的・人類学的知見の参照が求められるのではないだろうか。

私は、現実の二分コード化のプロセスを歴史的、人類学的観点から検討することが不要だと考えているわけではありません。私が、これを「括弧にいれたまま」すすんだ理由は、そこに深入りすれば、本来の拙著の課題である「法理論」にたどり着く前に、それだけで数百ページ?(いずれにせよ、本題と関係い大量のページ)を費やしかねないと判断したからです。そのような「実際的」な理由は本文でも註でも明示するわけにいかないので、なにもことわりなく「括弧にいれたまま」進んでしまって、酒井さんにそこを指摘されることになったわけです。

ルーマン自身がコード化のプロセスを描く場合には、ほとんど定番のように、社会分化の変遷プロセス(環節分化-成層分化-機能分化)が出てきて、近代においては高度の複雑性に対処するために、コード化のメカニズムを主軸として機能分化社会が成立しているということが詳細に記述されます。しかし、ルーマン自身、なにゆえに「二分」コードなのかという理由について十分に納得できる説明ができているかどうか怪しいように思われます(事実そうなっているではないかと開き直っているのでしょうか)。

 一般にルーマン理論は、特に 象徴的に一般化されたコミュニケーションメディア[SGM]と《2=狭義の二項コード化》とが組み合わされて論じられる側面を──そしてもっぱらこの側面のみを──選んで取り上げられることが多いようだ。
そしてそのことがしばしば、この理論に関する要らぬ誤解をまき散らしているように、私には思われる。 たぶんこれと関連することだと思うのだが、どうやら多くの論者は──「コミュニケーション」概念のほうから「バイナリ・コード(化)」についても考えねばならないのに──逆の読み方をしてしまうようだ。つまり、「コミュニケーション」概念を、「バイナリ・コード」概念を以て捉えようとしてしまうらしいのである。これがこの理論の解釈を巡って多くの──ほとんど冗談のような──喜劇が生じる理由の一つだと私には思われる。‥‥のだが、さらに正直にいえば、そもそもどうしてこのように「逆立ちした読み」をしようとしてしまうのか、それが私にはわからない。たぶんそこでは、なにか私の想像を遥かに超えた事態が生じているに違いないのだった。「社会」恐るべし。 (ただし多くのひとたちが“一致”してそのような挙動を示すところを見ると、やはりその“原因”の半分は、ルーマン自身の記述のまずさの側にある、という気もするが)。

仰るとおりで、「逆立ちした読み」にもとづく、非常に滑稽なルーマン理解が主流になっていることが、ルーマンのまともな受容を阻んでいるように思われてなりません。それがルーマン自身の記述のまずさに由来することも仰るとおりでしょう。

誤解のないように申し上げておきますが、私自身は、別に「逆立ちした読み」を支持しているわけではありません。ましてや自明の前提にしてなどいません。自我/他我関係の基底にあるダブルコンティンジェンシー(自我と他我の「両すくみ」)状況は、とくに二分コードに依らなくとも「切断」され得ます。むしろそれは、端緒的には「偶然的出来事」によって切断されるものです。それによって自我と他我のやり取りが始まってしまえば、その段階で対応可能な選択肢が大幅に縮減され、コミュニケーションの条件が形作られるということが言いたいのです。

拙著では、「法的決定」がとりわけ黒白決着に向けられて作られていて、そのために、「二分」コードがもたらす自己言及パラドックス(決定パラドックス)が重大な現れ方をするということに着目して分析を進めました。法的やり取りが、どこかで「法的決定」をその成立条件にしてしまっているために、(それが法的観察に服するかぎりで)「二分」コード化が優勢になってしまうということは、否定できないように思います。別に、あらゆる社会的コミュニケーションが二分コードによって説明されなければならないとは考えていません。記述の仕方には問題があったかもしれませんが。

私自身は、拙著の後半で「社会的実体としての紛争」を分析している箇所にあるように、規定性の低い、それでいて凝集力の強い、特殊な相互作用システムに強い関心を持っています。法システムの抱えている固有の問題は、必ずしも二分的に構成されていない、「紛争システム」におけるやり取りとの関係で、さらにシビアな様相を呈するということを問題にしたかったからです。

仮に論点をSGMに絞ったとしても、問題は、「[狭義の]二分コード化の[歴史的]プロセス」に留まらない。SGM(あるいは《2》)の「技術的水準」が上昇しても・分化がどんなに昂進しても、広狭の二項図式は(あたりまえのことだが)併存し続けるのであり、そこで広狭の異同を論じることは常に“現在的”な課題であり続けるのだから。
 より広い理論的文脈に位置づけてみれば、「コード化論」は「カテゴリー化」や「類型化」といった議論を前提にしている(というか、コード(化)論はカテゴリー化論/類型化論の下位主題である、と言ってもよい。そしてこれは広狭双方の「象徴的な・一般化」という論点にもあてはまる)。 なるほどここで、論点を歴史的・人類学的対比──学史的伝統との関連でいえば、たとえば『分類の原初的諸形態』的議論との対比──に限る必要はないかも知れない。(たとえば、社会進化論的視角と並ぶ重要な参照項として、カテゴリー化実践に関する議論を挙げることもできよう。しかしこの二つはもちろん、二者択一的ではなく相互補完的な関係にあるわけだが。)

前述したところと重なりますが、コードは、ゼマンティクと同様、自我/他我関係の基底にあるダブルコンティンジェンシー状況を切断し、コミュニケーションを可能にするための方策(システムの構造)の一つに過ぎないだろうと考えます。システムの「構造」とは、情報/伝達/理解の整合的な連接が可能であるように整序する、予期の枠組のようなもので、コードはその中の優勢なものであるにすぎないと考えます。

酒井さんの仰っている「カテゴリー」や「類型」が同様な機能を果たしているとすれば(だとすれば、それはある種の「ゼマンティク」ということになるでしょうけれど)、それもまた同様の位置づけとなるはずです。なお、上位主題/下位主題というような区別はルーマン自身が使うとは考えられないので、私自身はそのような分析軸を立てるつもりはありません。もし私がやるとすれば、「カテゴリー」や「類型」といったゼマンティクを通じて、いかなるコミュニケーションが可能となり、他方なにが不可能になり、その際なにが不可視化され、どのような派生的問題を連鎖させていくのかということに関心を向けるはずです。

(*「カテゴリー」や「類型」を「上位主題」に位置づけるのは、過度に認識哲学的であるように思われます:ルーマンはコミュニケーションを問題にしているのですから、こういう位置づけの仕方には問題があると考えます)。

 けれども、歴史を参照せずにコード化について論じようとすると、その分だけ逆に、理論的に過剰な負担を強いられることになるのではないだろうか。──「現象論」的議論は、どのようにしてその負担を払うのだろうか? というか、その負担はなぜ払われねばならないのだろうか?(歴史を参照すること自体が負担だから、だろうか?)

学的説明の観点から歴史を構成する作業はつねに行われなければならないことで、確かにその通り(魅力的に構成された歴史はたいへんにインパクトがあります:Ex.カール・マルクス)ですが、著書にはそれぞれのテーマがあるので、それを正面から論ずることをテーマにした著書を出すのでなければ、難しいです(やや逃げが入っている)。すべての著書で、必要な観点のすべてが論じられなければならないというのは、一種の「無い物ねだり」なのではないでしょうか。

 いずれにしてもいままでのところ、ルーマンのコード(化)論をこうした理論的(/理論史的)文脈に的確に関連づけて論じてくれた人は(私の知るかぎりでは)ゐないようだ。すこし残念なことではある。

コード化論でそのような研究がないというのは確かに残念なことです。ゼマンティク論では、高橋徹さんの研究がまさにそのようなことを目指すものだと思います。

『社会の社会』の読み込みが社会学者のあいだである程度進んでくれば、コード化論とゼマンティク論を横断する形で、そのような議論が可能になってくるかもしれません。馬場さんを中心として編成されていると伺っている同書の翻訳グループの作業に待つところが大です。

酒井さんの提起した問題に対するお答えになっていれば幸いです。