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東北大学の小松です。
仙台では、暑さも(ちょっとだけ)和らぎつつありますので、冷房なしのムサい部屋でもなんとかしのげそうです。
角田さん、お忙しい中、拙稿への丁寧でかつ適切なレスポンスをありがとうございました。ちょっと長くなりますが、レスへのレスをさせてください。
ルーマンの例の リスク/危険 という区別には、もちろん、ハイダー以来の「帰属理論(attribution theory)」の影響は明確にあります。 というより、ほぼそのものです。
たとえば、『リスクの社会学』(1991) の S.34f. には、
以上の少しだけの指摘からも、リスク/安全の図式からリスク/危険の図式へと移行したさいに獲得できる利点のいくつかが、明らかにされている。とはいえこのように形式を移行させることのもっとも重要なメリットは、帰属Zurechnung概念が適用できるようになる、という点にある。というのは、この帰属概念は、セカンド・オーダーの観察の水準に属しているものだからである。・・・・・第二次世界大戦後に開始された社会心理学的な帰属研究Attributionsforschungによってようやく、セカンド・オーダーの観察の水準に手が届くようになったのである、云々
という記述があり、ルーマンは、この「帰属研究」のところに脚注を打って、その註の中で、フリッツ・ハイダーの The Psychology of Interpersonal Relations, 1958 の参照を求めています。
「意思疎通Verstandigung」の考え方についての角田さんのご指摘は、とても大切な論点を含んでいます。まとめてご発言なさっていますが、
(1)決定の暫定性と不可逆性という件
と、
(2)「聞かれる権利」の保障という規範的な次元について
という主として二つの論点が含まれています。
まず、(1)についてですが、決定が下されると、決定がくだされる以前の状態に復帰するということはありえなくなる、ということはルーマンもたびたび指摘していることですので、そういう意味で「暫定的」である、というのではありません。つまり、「いつでも取り消し可能で”正常復帰”ができる」という意味で、「意思疎通」が語られているのではないと思われます。じっさい、たとえば核燃料処理施設に関する決定や原発立地、ゴミ処理場立地に関する決定は、後戻りさせることはできません。暫定的である、というのは、事後的に決定を問題視しうる視点を確保しうる、という意味でしかないと思います。いかにも凡庸な、ありがちな考え方かもしれませんが、しかしこれは今日の環境問題の文脈の中では重要です。
角田さんのいわれる「いかにして「取り返しのつかない」実行が暴走するのを抑止していくのか」という問いは、抑止すべき(「誤った」)実行(決定)/促進すべき(「正しい」)実行(決定)、という区別が、その決定を下す時点ですでに設定可能である、ということを前提にしています。ところが他方で、ルーマンが「非知」という概念で問題にしているのは、何が「取り返しのつかない間違った決定」なのかということそれ自体が政治的な争点になりうる、ということです。
いかなる「決定」も、「この選択が正しくてああいう選択は間違っている」という確固たる"客観的な"判断に基づいて下されうるわけではありません。だから、非知のもとでおこなわれる決定は、(もし「正しい」問題処理をめざすものであるとすれば)ことごとく決定不能なものにならざるをえないか、さもなければ恣意性が入り込んでこざるをえなくなります。しかし、行政や企業が、「自分たちはエコロジーという重要な問題を前にして何も解決策を呈示することはできません」と開き直ることは当然できませんし、「まぁ間違っているかもしれないけど一か八か」といった具合に決定を下すわけにはいかないので、行政や企業は、つねに、「信頼」に値する決定を自分たちは下しているのだという外観を保つ(そうした自己描写をおこなう)ために、多様な戦略を講ずることになります(このへんを、法の文脈で議論したものとしては、福井康太さんの「リスクの社会理論と法──ニクラス・ルーマンの"Soziologie des Risikos"を手がかりとして」九大法学72号(1996)がありますので、そちらもご参照ください)。
組織には、行政組織であれ企業組織であれ、実行部門(アクション部門)と外部に向けての表出部門(「トーク」部門)とが分化しているのはよくあることです。前者の下した決定を後者が外部に向けて「理想化」して呈示するのです。そうすることで、組織は、みずからに対する信頼を確保していくわけです。このあたりのことは、最近書いた拙稿「リスクとシステム信頼」(『社会学年報』28)をご参照いただければ幸いです。
また、こうした「信頼」を確保するための戦略として、最近では、「参加」ゼマンティクが利用されることがあります(「参加」についての議論も、多様なので、以下のようにまとめられないものもありますが)。たとえば、最近の「社会運動論」の流行りは、NPOと行政とのコラボレーションやパートナーシップ(厳密にはこの二つの概念は違うようですが)ですが(NPOを「社会運動」と呼んでいいのかどうかという議論もありえます)、ここでは、NPOは当該決定の、行政と「対等な」責任主体として「決定者」(/「部外者」)へと参入されます。そのさいのキーワードは「参加」(「住民参加」に基づく決定)ですが、この「参加」という言説もまた、決定に信頼を呼び込むための重要な手段です。
ところが参加主体にされてしまった者は、ある決定が事後的に(あくまでも、ある決定が間違っていたのかどうかは、事後的にしか問題にできません=そのとき、ルーマンも述べているように、決定に対する評価は、決定の前と後とで、逆転することになるわけです)「間違っていた」ことが判明しても、「おまえも参加してイエスと言ったじゃないか」というかたちで、「問題化」していくための口が塞がれていきがちです(少なくとも当事者は問題化しにくくなります)。
このような、非知=実際上の決定不能性のもとで決定を下すさいに「参加」という戦略を講ずるのは、なにも環境リスクの脈絡に限られたことではなく、近年とても広い領域において(医療の領域では「インフォームド・コンセント」の概念のもとで、環境リスクの領域では「リスクコミュニケーション」という概念のもとで)行われています。ルーマンの「参加」ゼマンティクに対するやや否定的な記述(たとえば、『社会学的啓蒙第4巻』1987
の Partizipation und Legitimation 等)は、このあたりのことも考慮に入れて考えてみるべきでしょう。
ともあれ、ルーマンが問題にしているのは、「抑止すべき間違った決定/促進すべき正しい決定、という区別を自分たちはきちんと行えているのであり、したがって自分たちのおこなう決定は十分に吟味されており信頼に値するものなのだ」、というシステムの自己描写の危うさ、なのだと思われます。この危うさを指摘しうる回路を確保するために、「意思疎通」というややこなれない概念を、ルーマンは、S.Jasanoffらのアメリカの環境規制政策に関する経験的な研究を背景としながら、提出したのだと私は考えています。このことは、次の、「聞かれる権利」の問題とも関わってきます。
ここでも、いまのべたような意味での「参加」(もっとも、「参加」概念は上述したような意味につきない意味内容も含んでいますが)に絡め取られてしまう危険性には十分に注意すべきです。とはいっても、角田さんの言われる「聞かれる権利」の保障ということは、今述べた点とは別の意味でとても重要です。ルーマンの議論でいえば、この点は「包摂と排除」の問題と関わってきます。この論点については今度の秋に口頭報告する予定ですが、「包摂/排除」は、コミュニケーションのレベルで見てみると、P.フックスのいう
"Adressabilitaet"、つまり、相手が、コミュニケーションの送り手という審級として認められるか否か、という問題として捉えることができます。ルーマン自身も、『社会の社会』(1997)
の中では、
包摂を、「個々のパースンが社会的な顧慮を受けるチャンス」(S.620) sとして、
排除を、そうしたチャンスが簒奪された状態、として
定義しています(ここでいう「パースンとして顧慮される/されない」という中身を、伝達能力のある審級(Mitteilungsinstanz)
があるか否か、と言い換えれば、フックスが言っていることと同じ内容になります)。
ところが、環境社会学においてたびたび指摘されることですが、ルーマンのいう「部外者Betroffene」の中でも、比較的大きな被害を被りやすくしたがってみずからが被る「危険」を可視化しその経験を政治的コミュニケーションの俎上に積極的にのせてしかるべき人々は、通常、「排除領域」に集中しています。これは、主としてアメリカの環境社会学の中で、「環境的公正」というタイトルのもとで考察されてきた事態です(居住地区の人種的偏りと環境被害の偏りとが一致する)。ベックが例の『危険社会』(1986)の中で「リスクに満ちた工業部門は周辺の貧しい諸国に疎開している」と指摘しているのも(Beck
1986:54=1998:61)、同様の脈絡に属するものです。言い換えると、もっともエンパワーメントの必要な人ほど、排除される=聞かれる権利が奪われる、ということです。
この点は、近年のコラボレーションやパートナーシップ論の盲点でもあります(すべてのコラボレーション論がそういう盲点を持っているわけではありませんが)。もっともエンパワーメントの必要な者ほど、行政とコラボレーションをおこなう資源に恵まれていない、という問題に、一部のコラボレーション論者やアドボカシーを「共生社会」として無条件に礼賛する論者は、あからさまに目を閉ざしてしまいます。ルーマンからさらに学ぶべき重要な論点を、角田さんは「聞かれる権利の保障」ということで的確にも指摘してくださったのだと思います。
さらに言うと、この点は、ルーマンの「抗議運動」についての見解(抗議運動には「抗議という形式」と「テーマ」との緊張関係が不可避的に附随する)とも密接に関わってくる論点ですが、この点については追々、どこかで述べます。
さて、最後の、サブシステム間関係、という点ですが、これについては、角田さんと私のスタンスはいささか違ったものになってしまうと思います。角田さんの立場は、おそらく
ベッ クや R.ミュンヒ のそれに似たものになっていくかと思います。(ちなみに、システム「間の」コミュニケーション、ということと、システムの「外部への」コミュニケーション、とでは、私の受けるニュアンスは、ちょっと違います。後者の場合にはかならずしもサブシステムとサブシステムの「間」という視点をとらずにシステムの「閉鎖性」に定位しても十分に可能なコミュニケーションです。がここではこの点にはふれません。)
また、「サブシステムの間」についての角田さんのご指摘は、ルーマン批判の一つの重要なスタイルでもあります。馬場靖雄さんが(「政治と法の「外部」」等の論考で)たびたび指摘なさっているように、ルーマン批判の多くは、「機能分化した近代社会」ならびにシステムの「閉鎖性」というルーマンのシステム理論にとって不可欠の仮説に向けられ、「統合」あるいは「開かれた」「システム間関係」をそれに対置する、というものです。日本の論者でいえば、たとえば、中野敏男氏や山口節郎氏のようなハーバマスをいったんくぐり抜けた人が「批判的公共性」をルーマン理論に対置する、というスタイルです。しかし、上述したような「批判的」な視点をルーマンの中に読み込んだとしても、私は、サブシステムの「間」を想定したりそれに期待したりはする必要はないかと思っています。このあたりのことは、また、あらためて。
が、角田さんはご発言から察するかぎりではこのあたりのことはきちんと弁えていらっしゃると思いますが、私は、中野氏や山口氏のような「批判的公共性」に賭ける人々が、ややもすると上述した排除の問題に鈍くなりがちだ、ということにはどうしても警戒したくなります。たとえば、中野氏の『近代法システムと批判』260頁付近での、
・・・構造的再審の批判的コミュニケーションが自由に活性化しているときに、それにもかかわらず、棄却されずに生き続けている法的決定は<正当>である、といえる
という言葉から典型的に窺えることですが、実際には、低所得のために十分な教育を受けることができないために言語的資源に恵まれておらず、したがって当の「開かれた」(?)「批判的コミュニケーション」において「合理的な=まともな根拠を示しうる発言ではないじゃない(感情的?)発言は傾聴に値しない」と顧慮されずに終わってしまったり、マスメディアに訴えるための機会がなかったりで(ちなみに、これは、ルーマンが言っている「排除領域における機能システムの統合」あるいは「ネガティブな構造的カップリング」です)、それに参加することのできない人々が数多くいるにも関わらず、それを、「自由に」「活性化」している「開かれた」(?)コミュニケーション空間のなかで「それにも関わらず棄却されていない」がゆえに、「正当な決定だ」、などと言いきってしまうことは、(見かけ上は「差異」や「異質性」に敏感で「開かれたコミュニケーション」を目指しているのだと言い張っても)「差異」や「異質性」のたんなる「隠蔽」です。言ってみれば、「開放的なコミュニケーション」という言葉のもとで「開放性」を潰しているわけです。馬場さんとはちょっと違った意味で、私も、「開かれたコミュニケーション」に対しては、やや距離をおきたい気分です。これは、リスク論の脈絡でいえば、ウォルフガング・ボンスのような「ポストハーバマス派」のリスク論にも見られる危ない傾向なのです(もっともこのあたりの点をきちんと踏まえた公共性論も、最近は出てきてはいますので、一概にはいえませんが)。
とても長くなってしまいましてすいません。