日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

2000年8月:小松丈晃「非知のコミュニケーション」を巡って1[1/32/33/3

Date: Thu, 17 Aug 2000 13:33:26 +0900
From: 角田幹夫
Subject: [luhmann:01451] 小松「非知のコミュニケーション」

5月に送っていただいた小松丈晃さんの
  非知のコミュニケーション──エコロジーのシステム理論──(『社会学研究』67)
を、先日やっと読む時間を作りました。

非常に勉強になったのですが、幾つか無駄口を叩きます。
まずは、論旨の中心ではない些事なのですが、

ルーマンによれば、こうしたリスク/危険という区別において問題となるのは、観察することから独立にいわば客観的に存している物事の安全さやリスク性の如何なのではない。そうではなく、各人が未来において生起しうる損害を「どのように(wie, how)」観察したり説明したりしているのかということについての観察がおこなわれるのである。この区別は、もたらされうると見込まれる将来的損害が、当人自身の行為(決定)に帰属されるのか、それとも当人以外の誰か(あるいは何か)に帰属されるか、に依拠した区別である。前者の場合には「リスク」として記述され、後者の場合には、自分の及び得ないところからいわばふりかかってくる「危険」とされる。こうした区別をとおして、同じ一つの出来事がある人(システム)にとってはリスクでありながら同時に他方の人(システム)にとっては危険であるという事態が捉えられることになる。(p.61)
とありますが、これはハイダー以来の「帰属理論(attribution theory)」の影響を受けたものでしょうか。

 それから、第5節で言及されているVerstandigungですが、これは英語でいえば、やはり understanding でしょうか。

さて、この「意思疎通(Verstandigung)」は、

互いの立場放棄を強要せず相互に説得されずに進行する意思疎通(p.74)
であり、
「道徳的に正しい」結論を生みだしているわけでもないし理性的な推論の結果でもなく、ましてや「正しい」問題解決などでもない(p.75)。
すなわち、
コミュニケーションした挙げ句に到達する、コミュニケーションの終着点としての意思疎通ではなく、引き続くコミュニケーションの出発点としての意思疎通(p.75)
ということですが、かなり現実的なものではないかと思います。

 しかし、実際疑問なのは、Verstandigung は「コミュニケーションの終着点」=「合意」を目指す=強制するものではないとはいえ、実際に何らかの決定或いは政策の実行はなされなければならない(なされてしまう)わけですよね(非実行も含めて)。その場合、決定或いは実行は、取り敢えずのもの、暫定的なものということになるし、そうでなければならないことが規範的に要請されてくると思います。
  しかし、特に環境問題という領域において、取り敢えずの実行というのは、可能なのでしょうか。 というのは、実行は変化を生み出してしまうわけですが、暫定的という場合には、その変化の回復可能性が何らかのかたちで合意されている必要があると思うのですが。また、〈取り返しのつかない〉事態を避ける努力が要請される。
  しかし、ここで問題になっているエコロジカルなコミュニケーションの場合、この回復可能性そのものが「非知」に属している、または回復可能性そのものがコミュニケーションの賭金になっているわけですよね。いくら「その場その場の「解決策」を見いだしていく」(p.76)とはいっても、如何にして〈取り返しのつかない〉実行が暴走するのを抑止していくのか。なお、これには当事者間の資源的不平等が関わっていると思います。やはり、〈聞かれる権利〉の保障のような規範的な次元が関わってこざるを得ないのではないかと思います。

 ところで、この Verstandigung というのは、哲学的な側面だと、エピステーメーの断念を含んでいますよね。で、私は(かなり我田引水的かも知れませんが)、アレントのいう、真理(エピステーメー)ではなく意見(ドクサ)の空間としての公的領域を思い出したのでした。
ベックはリスク社会においては

プライヴェートな領域でのリスクの創出はもはや非政治的(apolitical)とは見なされない*
といっていますが、これはリスクが最早エピステーメーではなくドクサに関わる領域に移っているということでしょう。

 ところで、以前馬場靖雄さんのテクストを読んでいて考えたことでもあるのですが、こうしたコミュニケーションの暫定性というのは、ルーマンの場合、環境問題で特に突出したこととはいえ、そもそもシステム間の(システム外部への)コミュニケーションに付き纏っていた問題といえるのでしょうか。また、このことに関して、私は〈政治〉というもののプロパーな領域を、通常政治システムと呼ばれている(国家とかが関わる)場所から、寧ろそのようなのとは別の、例えばサブシステムとサブシステムの間へと移すべきだとも考えているのです(特に、アレントいうところの、非政治的に選択されたエリートによって牛耳られるのではない、自らを選んだエリートによって自己執行される政治は)。


* "Politics of Risk society" in Jane Franklin[ed.] _The Politics of Risk Society_, Polity Press, 1998, p.10
Date: Fri, 18 Aug 2000 01:29:46 +0900
From: 徳永基二
Subject: [luhmann:01452] Re 小松「非知のコミュニケーション」

角田氏のこの文章は小松氏の論文に対する感想として述べられているので、私が更にそれに再感想(小松氏の論文を読んでないにも拘らず)を付すというのも奇妙な話なのですが、ただ、この文章の中には一般的文脈に置き換えても非常に興味深い(少なくても自分にとっては)内容が見うけられます。

1、あるサブシステム内での行為が本人の意図と関係なく他者に災厄として降りかかる可能性(私がよく強調するのはあるサブシステム内の意見表明が別なサブシステム内で本人の意図と関係なく別な意味で影響を与える可能性ですが、それとは別な形でこれは更に面白い問いです)

2、人は未来が予想不可能であるにもかかわらず決定しなければならない瞬間があること、そしてそれは我々が政治と呼んでいる狭い領域を越えて全ての人の行為に政治的意味を与えてしまうこと、


1、の問題についてはすでに別スレッドで、フリーと違法コピー との関連でも触れましたし、角田氏が述べている文脈との関連で、マルクスには後の共産主義政権下で殺された人々に対する責任があるかという文脈で述べたこともあります(別な所では逆に自分が所属することを選んだ集団が過去に犯した罪をどこまで背負わなければならないかと言う問いで述べたこともある)。

2、の設問では、「人は、不決定にとどまるぐらいなら、例えそれが未来に対して過ちを犯すことになっても(というより過ちを犯さぬ決定などそもそも不可能)決定しなければならないことがある」という話をサルトルとの関連でしたことがあります。

「全ての行為は権力的である」と言う言明は、もし 行為が差異を断ち切ることを意味し・全て行為に単一原理を打ちたてる要素があるとするなら、こういう次元で正確な物言いといえそうです。

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