日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

橋本努「ルーマンの学問システム論をめぐる一考察」

From: 橋本 努
Date: Thu, 1 May 1997 09:55:16 +0900
Subject: [Luhmann 00058]

橋本努です。

以下は、拙稿:

「ルーマンの学問システム論をめぐる一考察」、経済学研究(北海道大学)第46巻、第3号、1996.12.

の最初の部分の抜粋です。

1-1.課題の端緒

 N.ルーマンに従えば、世界を認識的に観察するシステムとしての学問(Wissenschaft) は、一方では対象を認識的に観察する観点に立ちつつも、しかし他方では学問それ自体が社会システムの一部を構成する。学問について観察するシステム、という二重に反省的な観察もまた、その観察の操作という点から見れば学問システムの一部である。反省的観察の操作は、すべて学問システムの内部の出来事であり、外部の超越的な視点ではありえない。あらゆる認識的反省を包摂する学問は、まさに機能的に分化した社会の部分システムとして存在し、システムとして再生産される。

 学問システムが社会システムの部分システムであるとすれば、そのメカニズムは、他の部分システム(政治・経済・法など)と同じ特徴を備えているはずである。ところが近代における認識論は、認識という営みに特権的な地位を与え、その営みは社会(のみならず世界)から超越した場所にあると想定してきた。認識のトポスが社会システムを超えた特権をもつと想定するなら、社会に関する学問的な探求は、まず前問題(Vorfrage)としての認識論的問題を解決してから始める必要がある。認識論的問題の解決は、そこに超越的なトポスを見出すことによって、学的営為に真の特権性と権威を与えるからである。しかし認識論の特権性は、学的営為の現実に即した場合、あるいはまた社会のなかの学問の位置づけに即してみた場合にも、抗事実的な想定である。実際には学的営みは認識論から出発しないし、また学的権威(特権性)は社会における諸々の権威の一部にすぎない。とりわけ社会科学における認識論的知見は、政治思想上の見解に依存的である場合が多い。すなわち、ある一定の認識論の特権性は、一定の思想的見解によって付与される。しかし同時にまた、思想的見解は認識論的な権威に依存的でもあり、両者の正統性の依存関係には“縺れ(tangle)”が存在する。

 このように、学問という営みを社会システムの一部として見た場合、昨今の学問論(とりわけ科学哲学)に対して、どのような示唆的意義を示すことができるだろうか。学問は機能的に分化した部分システムと考えられるが、そこには権威の縺れ関係が生じつつも、他のシステムから一定の独立性をもって自己言及的にシステムの再生産がなされている。このシステムの再生産の在り方を決定づけているものは何か。いかにしてシステムは再生産されるのか。さらに――われわれはこのような一連の問題をまさに学問システムの内部において提起しているのであるが――学問システムにおいてそれ自身を問題にするのは、どのような意義をもち得るのか。


1-2.認識論批判におけるルーマンの位置

 とりわけ1970年代以降になるが、学問=科学に対する見解は、認識論の特権性と普遍主義を否定することで一致しつつも、およそ三つの流れに分化してきた。第一は、相対主義、多元主義、アナーキズムなどの、普遍主義批判・ルール主義批判の立場。第二は、解釈学的実践という認識(エピステーメー)批判の立場。第三は、パラダイムや研究プログラムといった社会的認識論(知識の整序化についての代替案)であるi。これらの三つの立場は、しかしいまだ十分な学問論たりえていない。おそらくもっとも重要な点は、これらの立場が純粋な認識論を批判することに主眼をおくあまり、認識という営みを学問の外部における「認知」や「知」と同等なものとして位置づけたことにあるだろう。これによって、従来のような認識と実践の区別はもはや支持しえないものとなったが、しかし他方で、学問が社会の部分システムとしてどのような種差性を持つのかについての考察が不十分なまま残されたように思われる。また、これらの企てに対抗するポパーの進化論的認識論iiは、学問の営みがもつ特徴を生物の認知-実践行動全般にあてはめるという汎学問的なアプローチをとる点で、近代認識論批判の「主流」の対極に立つが、しかしこのアプローチの困難は、学問に種差的な特徴を特殊限定的に捉えることができない、という点にある。

 ルーマンの大きなモチーフは、近代の認識論を超える地平を、「社会システムとしての学問」として築くことにある。しかし、なるほど近代認識論の克服という点では、ポパーの客観的知識論が一定の成功を収めており、また、社会システムとして捉えるという点では、クーンのパラダイム論(またその原型であるフレックの議論)が先駆的研究として存在する。ポパーによれば、知識は主体の意識の中に存在するのではなく、むしろ、各主体からは独立した客観的領域において存在する。近代の認識論は、知識の存在論的性格を素朴にも「主体」の所有物と捉えることにおいて誤っていた、というのがポパーの主張である。知識は意識の中に存在するのではないし、意識において所持する所有物でもないという主張は、ルーマンにおいても中心的な命題となる。しかしルーマンは、ポパーの主張する客観的知識論とは別の方向で、学問の存在性格を明らかにしようと企てている。ルーマンの意義を正当に評価するならば、学問の自律性を「批判の営み」に回収するような学問理念に対する批判、という点に着目すべきであろう。学問の自律性は、批判的態度をもって社会に臨むということにあるのではない。この主張を妥当なものとして提出するために、ルーマンは、知識の存在性格にさかのぼって論じている、と捉えることができる。われわれは、ルーマンの知識存在論を検討することによって、学問と他の部分社会システムとの関係について、いっそう豊かな考察へ進むことができるだろう。

 以上の二つの課題、すなわち、「知識の存在論的探求」と「真理メディアを組み入れた学問システムの構築」という課題から、われわれはルーマンの学問論の課題を正当に位置づけることができるだろう。以下では、これらの課題を中心に検討を試みる。次節では、「知識」概念について検討する。つづく第三節では「真理」概念について検討する。第四節では「学問システム」について検討する。そして最後に、以上の検討をもとにして私の代替的な見解を提示する。