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理論による複雑性の増大と縮減について

Date:1997
Subject: [Luhmann 00041/43] 理論による複雑性の増大と縮減について
From:酒井泰斗
モダニズムでは──私は思いきり話を単純にして言いますが、──芸術作品は理解不可能です。それで、解釈が登場し、あなたに作品について説明してくれます。たとえば、シェーンベルクの曲の何かを聴いたとしましょう。それが何なのかわかりません。そこへアドルノのような人物がやってきて、こんな事をいいます。「あの音楽の不協和音は、私たちの社会生活の不協和音を舞台にあげたものなのだよ。」 それを聞いてあなたは叫びます。「ああ、やっとわかった」(笑)。
  ポストモダニズムでは、話は殆ど正反対です。そして私はこの方が好きなのですが。ポストモダニズムの分析の典型的な対象は、『ブレードランナー』のような商業的作品で、誰だってそれを理解できるものと思われています。理論の機能は、そうすると、作品の理解を容易にすることではなくて、むしろ、それをややこしくすることなのです。「君はそれを理解したつもりだろうが、そうじゃない。もしもラカンに関する微妙な論点を理解していなければ、『ブルーヴェルベット』を理解できないし『ツインピークス』を理解できないのだ」(笑)という具合です。 私はこのように物事をややこしくする分析が好きです。 私のモットーは、「君の人生をもっと複雑にできるところで、なぜそれを単純にしようとするのか」というのです。
スラヴォイ・ジジェク(『批評空間』のインタビューから引用)

理論が理論である限り、それが、何らかの複雑性の増大と縮減とを結果しないとは、およそ考えられない。トリヴィアルなことがらが──しかもルーマン自身そう述べているにもかかわらず──無視されつつ、なぜか「複雑性の縮減を目指したルーマン理論は還元主義であり、云々」という批判が後をたたない。「複雑性の縮減」について語ることと、理論がそれを目指すこととは異なる、という明白なことがらが理解されない理由がなんであるのか、私はいまだに理解できないでいるのだが、たぶんそれはやはり、我々が「複雑性の縮減」なしでは生きていけないということに帰着するしかないのだろう、とも思う。そして、そーゆーことに対して、ルーマンが、とっくの昔に「覚悟」を決めてしまっているのだ、とも。

世界が、[社会進化の過程で]より複合的かつ偶発的な過程を経て規定可能になるにつれて、そしてまたこの効果 がこうした変化の意識的な受け入れによって高められるに連れて、規範化の働きを持った自然の古い[自然法的-倫理思想的な]統一性は、崩壊するか、さもなくばきわめて形式的な決定前提へと後退させられてしまう。そして、共通の普遍的な信念を想定するかわりに、人格的な信頼に依存するようになったとしても、そのことで、選択連鎖が長大化していくことと選択連鎖に入る亀裂が絶え間なく拡大していくこととを調停することはできない。..... ひとは、「世界観」の違いに耐え、それでいながら自分の行動を他者の選択作用に接続させることを学習しなければならない....
ルーマン『信頼』(大庭健訳、勁草、89頁)

そして/つまりこの「学習しなければならない」ということは、ルーマンにも(またルーマンの読者にも)あてはまるわけである。ところで「目的」批判の文脈で、いわば「観察する際の自らの態度」について、68年のルーマンはこう言っている。

広い意味での社会学的理論がもつ独特の魅力は、次の点に依拠している。つまり、新しい定式化によって、通 常の目的志向の背後にさかのぼること・目的思考とは食い違うパースペクティブ*を採用していることである。これはマルクス、ダーウィン、ニーチェ、フロイトといった19世紀の偉大なるソフィストたちが行った作業に類似している。彼らもまた、行為の経験地平の外にある特定の要因によって、目的設定を説明しようとしたのである。この種のイデオロギー批判は、その緊張力と創造性を次のことから汲み上げてきた(同時にそれがまた不十分さの源泉ともなっているのだが)。すなわち、批判の対象となる思考が掲げる真理要求と、批判する思考自身の真理要求が食い違うということからである。もっとも、思想上のどのような立場をも、このやりかたを用いておとしめることができる**のだが。
ルーマン『目的概念とシステム合理性』(馬場靖雄訳、勁草、104頁)
* 「食い違う=等しくないパースペクティヴ」は、『動機の文法』に登場するケネス・バーグのことば。森常治氏による訳書では、「不調和による展望」。「不一致のパースペクティヴ」などと訳されることも。
** 「思想上のどのような立場をも、このやりかたを用いておとしめることができる」というこの表現からは、逆に、そのようなやり方・破壊力に魅入られてしまい、「偶像破壊」的なやり方・「批判」的態度に固着するのではしょーもない、 という考えがすぐ後ろに控えてもいるのだと思う。

理論は、「日常的」な区別とは異なる区別 を用いることで、対象を「別の仕方」で記述する。たとえば、精神分析の〈意識/無意識〉という区別は、「日常的」な区別ではなかった(その後、広く「日常的にも」使用されることになったが)。 「科学」の視線は、「日常的」な視線と異なっており、特に理論の対象そのものが“自己や他者を観察”するものである場合、理論は、その観察者が見ているもの(自己・他己含め)を、その観察者が見ているのとは違う仕方で見ている、ということがクリティカルになる。たとえばそれが、「理論」に対する不信感が語られたり、イデオロギー批判にもつながる「力」の源だと評価されたり、ということの端緒にある。

 84年のルーマンの言葉を引用しつつ、すこしこの点について考えてみよう。(『社会システム論』邦訳上巻87~9頁)

 ただし、ここの文章は、幾つかの理由から少し読みにくいモノ──まぁ、ルーマンの文章はいつもそうなのだが──になっている。 ルーマンはここで、或る時期以降、諸科学の多くの分野において「機能的手法」が(自覚的にも・無自覚にも)導入されてきており、それがメジャーなものになってきている、という認識を前提に、話をすすめている。 ところが、機能的手法といっても様々なヴァリエーション・含意があるはずで、それを区別してかからないとハナシが混乱すること必至なのだが、ここでは彼自身そうした区別 をキチンとしないで・ごっちゃにして書いているのである。 で、そうした区別の努力はルーマンの他の文章には見られるのだが、(文章が長大になってしまって、ハナシが見えにくくなるので)その議論をここでその紹介はしない。 そのへんを気をつけて(というか、無視しつつ)読んでいただければと思う。
引用(数字は引用者による) 解説

[1]  科学のようなシステムは、他のシステムを観察し、その機能分析をおこなっており、そのさい対象システムのパースペクティヴとは等しくないパースペクティヴを用いている。こうした科学システムは、対象システムがそれ自体とその環境をどのように体験しているのかを、けっして模写 しているのではない。科学システムは、そこに見いだされる対象システムの自己像を映し出しているわけではない。そうではなく、観察されるシステムの複雑性の再生産と増大に関しての、そのシステム自体にとっては考えられない方法によって、科学システムによる分析が施されている。
一方において、科学は、その分析の際に概念的抽象化を行っているのであり、観察されるシステムの環境に関する具体的な知見やそのシステムのその時々に行われている自己経験についても、あますことなく捉えているわけではない。
他方において、こうした縮減に基づいて、観察されるシステム自身が接近可能な複雑性よりもより多くの複雑性が[理論によって]明らかにされるのであり、このことが、科学の正当性を根拠づけている。
したがって、科学的な観察や分析の技術としての機能的方法によって、対象が、その対象自体に見いだす複雑性よりも、その対象はいっそう複合的なものとして たち現れることになる。

[1]については、理解しがたい点はないだろう:
 理論は、「観察・分析の際に概念的抽象化を用いている」という意味で、かならず「複雑性の縮減」を行っているはずである。その一方で理論は、「その対象自体が見えないモノをも見ることによって、観察対象を、それ自身がみているものよりも複合的なものとして描き出す」という意味で、「複雑性の増大」をも行っている。
たとえば、心理療法のクライアントが「治療」によって「自分が思いも寄らなかった自分」に出会うなら、ここでは「複雑性の増大」が、科学によってもたらされ、しかも、それが対象自身にフィードバックされているといえる。

[2] この点で、機能的方法は、その対象の自己準拠にもとづく対象自体の編成に過大な要求をしているのである。 それは、その対象の直感的明証性を堀り崩している。 機能的方法はもともと対象をあますところなく把握することなどできないのだが、[観察されているシステムの]生まれつきのにぶさが その対象を充分に保護しない場合には、その対象を惑わせ、ぐらつかせ、撹乱し、もしかすると破壊してしまっている。

[2]の、「生まれつきのにぶさが、云々」のところは、ちょっとわかりにくい。あまりいい例を思いつかないのだが....
 たとえば、先日ルーマン・フォーラムで話題になった「人間の統一性」「個人の個体性」という例を挙げてみよう。:  理論の観察対象でもある私たちは、自分自身のことを、「一個の独立した個人=個体」と考えて[=自己記述]して日々を送っているが、そこで、「人間っていうのは、統一的なものとしてだけでなく、様々なシステムのよせ集まり[=複合体=コンプレックス]としても記述できるんだよ」などと述べてしまうことは、ある人々にとっては「耐え難いこと」であるかもしれない。;
 あるいは、医者が患者に対して、科学的装備を用いてしか捉えられなかったような診断を下すことで、患者に対して「複合的な自己記述」を強いることから発する苦痛というのも、その例といえるだろうか。
 あるいはまた、「昨日までこうしてきた」「じいさんがこう言っていた」ということが規範的な価値をもち、そのことによって社会・世界の「透明性」を作り出している社会で、「でも、社会理論から見れば、それを解決するにはこういうやり方だって考えられるし、君たちみたいなやり方だと、こういうことが隠微されてることになるんだよ」といってしまうことは、その社会に緊張をもたらすことがありうる。

[3] [ところが]こうした過大な要求はあらゆる観察に内在している。この過大な要求に対して、相互行為システムの内部では、たとえば、自己呈示の作法や他者に対する繊細な感覚によって対抗している。科学的分析には、この種のシステム自体に組み込まれたブレーキ が欠けている。

[3]では、さらに、こうした「不一致のパースペクティヴ」という問題は、日常的に起こっていることだ、ということが書かれている。 ルーマンが別の所で挙げている例をひけば──、自動車を運転している人と、助手席に座っている人がいるとする。運転者は、運転するとき、もっぱら「体験に基づいて」自分の行為を制御していると考えている。

ex.子供が急に飛び出してきたので急ブレーキをかけた。信号が変わりそうなのでアクセルを踏んだ

ところが助手席の人は、そこに、運転ぶり[=行為]をみてとり、ひいてはその人の「パーソナリティー」について思いを馳せていたりしうるわけである。ここでは、一方が「体験」として捉えていることを他方が「行為」としてとらえる、というパースペクティヴの違いが現れている。もう少し詳しく言うと、そこでは、運転者は「世界」の側に「原因」を帰属しているのだが、助手席の人は運転者の側に「原因」を帰属させている、という不一致が現れているわけだ。その齟齬を表明するのに、「あんたの運転って、乱暴だねぇ」といったら喧嘩になる、ということは、いちおう「誰でもが」しっているので、それを表明するにあたっても、なにか言葉をやわらげたり・何気なくほのめかしたり、ということを、日常的に私たちはしているわけである。 「この過大な要求に対して、相互行為システムの内部では、たとえば、自己表現の技法や他者に対する繊細な感覚によって対抗している」という言葉は、そうしたことを述べている。
 それに比べて理論は、──人々が「こんにちは」と言葉を交わし合うことは、実は言葉を交わし合わないために行われているのだよ と述べてしまうことがその人々の交友関係に打撃を与えないのかどうか、なんてお構いなしにそうしてしまうというようなことが、起きてしまう。 宗教によって生活を律している人にとって、それがどんなに苦痛な事であろうとも、「社会において宗教といものは、かくかくしかじかの機能を果たしているのであって」などと語ってしまうし、それが「真」であると考えられるなら、「理論」はそれを・そのように語らざるをえない。つまり、理論には、「この種のシステム自体に組み込まれたブレーキが欠けている」のである。 むしろ、そうであるが故に(?)理論は、観察の為に必要な 観察対象からの距離をとろうとしさえする。

[4] そのかわりに[=相互行為システムとは違って]科学システムの場合には、対象システムとのコミュニケーションが困難になっている。この[「過大な要求」という]一般的問題が、機能分析の場合には、特定の形態をもって現れており、詳しく言えば 二重の点でそうなっている。
[4-1] 一つには、機能分析は、「潜在的な」構造や機能について解明することができる。つまり、対象システムにとって可視的ではなく、また おそらくは──その潜在性それ自体がなんらかの機能を果たしているが故に──可視的になり得ない諸関係を、取り上げることができる。
[4-2] もう一つには、機能分析は、[その観察対象自体にとって]周知の事柄や熟知している事柄、したがって「顕在的な」機能(目的)や構造を、それ以外のコンテクストに移し変えて考察している。そうすることによって、顕在的な機能や構造は、それ以外の可能性との比較にさらされているのであり、対象システムそれ自体が、それに相応する改造を視野に入れることができるのか否かを考慮することなしに、そうした顕在的な機能や構造は偶発的[=コンティンジェント]なものとして取り扱われる。したがって、双方の点──潜在性と偶発性[=コンティンジェンシー]──で、機能分析はその対象にとっては、過大な要求なのだが、システム理論の概念装置は、そうした潜在性と偶発性を明らかにしており、対象システムがそれを知る道を開いている。

[4]科学は、このように、自らの複雑性処理能力を、ある種の犠牲にもとづいて増大させようとするし、そうすることによって、理論それ自体も複合化していく。
 複合化した理論は、「専門家」でない人たちにとってもはや、アクセスし・取り扱いうるものではなくなる。 たとえば、「素人」が社会学の理論を読んでる暇などないし、仮に暇があっても、その複合的な理論を理解するための複合的な前提を共有することができない。(つまり、社会学の「対象システム」と社会学とのコミュニケーションは困難になっている)。(その埋め合わせとして、記述される「対象システム」の側では、それに対して防衛的な様々な構えを撮ることが出来るし、もっとも単純には「感情的な反発」をしたりすることはできるのだが)。
以上の一般的問題が、機能主義を採用する理論おいてどう現れるかと言えば:

1)「潜在性/顕在性」という問題として:
「対象の見ていないもの・ひょとしたら見ていないからこそ存立し得ているのかもしれないものを暴露してしまう」ということとして。
2)「偶発性」という問題として:
「観察対象自体が物事を捉えているようには、物事を捉えない」という事として。

言い換えれば、観察対象自体が 多かれ少なかれ「必然性」やら「根拠」やら「確実性」やら「目的」やらとして見ているモノを、理論は「それが別様でもあり得る可能性」を透かしあわせながら観察する。また観察対象自体が、あることを「必然的」とか「確実」とか「根拠のあるもの」とかみなすことによって「何をしていることになるのか」を、学が観察するなどなどという事として。
 こうした事が、対象システムにフィードバックされてしまうと、それは、そのシステムが処理しきれない過大な負担をかけることにはなる(それによって対象システムが崩壊しても、だれも責任をとれない!)。
 しかし同時にそれは、観察対象自体が、「自分の見ていないモノ」を見る可能性や・自分が「別様である可能性」を考慮する可能性を与えているともいえる。

 

ここで指摘したかったのは、ルーマンが、こうした危険性と可能性の双方を見ている、という(あたりまえの)ことである。

というわけで、長々と書いてきたのでもはやおわかりだと思うのですが、ルーマンがいっていることは、(冒頭に引用した論者の言葉のように)「君の人生をもっと複雑にできるところで、なぜそれを単純にしようとするのか」というだけのことではないし、ましてや「理論は複雑性を縮減する」ということだけでもありません。「複雑性の縮減」は、誰もが避けがたく行っていることであり、しかも理論家の場合は、それ特有の「悲しき性」をもはらんでしまうものだ、ということなわけです。

さてみなさん、ルーマンが「複雑性の機械的な縮減をおこなう還元主義的・機械論的な、保守的で居直り型の理論家」だとみなされる理由は、これでわかりましたね?
わかんないよ・・・・。。。

おしまい。