日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

オートポイエーシスと観察1
1-1:システムと環境

FROM:本間直樹
DATE:1997/03/26
SUB: 酒井氏への返答2(autopoiesis)(L#006)

  論文「社会システムのオートポイエーシス」の冒頭で述べられているように、「オートポイエーシス」という概念は、生物学において「細胞」や「器官」などの生命現象をあるシステムとして定義するために考案された。その後様々な研究者によってこのオートポイエーシスを生命以外のシステムである社会システムや心的システムに「適用」することが論議された。ルーマンの理論はそこで議論された様々な可能性の一つを代表するものである。

オートポイエティク・システムは、構成要素[components:構成素とも訳す]の---すなわち、構成要素の相互作用をとおして、回帰的[recursiv:再帰的とも訳す]にそれらを生産するネットワークを生み出し[generate]、実現し[realize]、またそれらが存在する範囲[=space:空間と訳すのが正しい]において、そのネットワークの実現に参与する構成要素として、ネットワークの境界を形成する構成要素の---生産ネットワークの統一体[unity]として定義される。

 残念ながら、この訳文は非常にわかりにくい。参考までに私の訳では次のようになる:「オートポイエティク・システムとは、

[1][システムの]構成素を産出するネットワークのなす統一体を意味する。
[2]この[システムの]構成素は、それぞれが相互に作用し合うことによって構成素を産出するネットワークを再帰的に生成かつ実現し、
[3]またこの構成素が、ネットワークの実現に参与することによって、構成素が存在する空間にネットワークの境界を形成する。」

 ここではこの定義の詳しい解説は止めておく。(どうしても先に知りたい人は、クニール+ナセヒ:56-58を見よ。)差し当たり、オートポイエーシスとは、《システムの自己再生産の様式》であるとの理解で先に進もう。

▲先頭

 さて、「オートポイエーシス」の考案者、マトゥラーナとヴァレラは、オートポイエーシスと自己言及(自己準拠)とを厳密に区別するのに対し(両者の違いについてはクニール+ナセヒ:56-64に丁寧な解説があるのでそれを参照)、ルーマンは「オートポイエーシス」と「自己言及」を差し当たっては区別せず、オートポイエーシスを「自己言及的閉鎖性を用いたシステム形成の一般的形式」と定義する。

 前者と後者の主な違いは「生産」ないし「産出」概念の捉え方の差異であると考えられる。細胞や器官といった生命システムはタンパク質の生成という意味で文字どおり、空間にシステムの構成素を「産出」する。しかし、ニューロンを構成素とする神経システムは構成素の自己言及的ネットワークを形成するものの、ニューロン細胞そのものの再生産を行わない。これが前者の意見である。

 しかしルーマンは、

「オートポイエーシスの理論は、オートポイエティク・システムの自己再生産の様式としての生命に固執する限り、脳、機械、心的システム、社会システム、全体社会、短期的な相互行為を包括する一般システム論のレヴェルに到達することはない」

と反論する(8ページ2行目?残念ながら、ここにも誤訳がある!)。要するに彼はシステムの自己言及的再生産の様式は様々であり、生物学的な意味での物理的な生産=再生産に固執する必要はない、というわけである。例えば、ルーマン以外の理論において社会システムの構成素は何かについて議論される場合、往々にして「人間」というものが持ち出され、「人間」どうしが関係し合うことによって「人間」のネットワークが形成され、時には、まさに「出産」によって構成素たる「人間」を再生産する、、などという主張も登場する。

 ルーマンが批判するのはまさにこうしたオートポイエーシスの「生物学的」アナロジーを社会に対して適用することなのであり、また、細胞から始まって、細胞の集合たる器官、器官の集合たる身体、身体の集合たる社会、、、という《部分-全体》論的「システム」のヒエラルキーを構想することなのである。

 ではルーマンの主張する自己言及的オートポイエティク・システムの一般理論とはどのようなものであろうか。

 そこでいきなり登場するのが、9ページの図1である。ここで私たちはカントの範疇表を目の前にしたときのように当惑する。一体どこからこの区分は生じてきたのであろうか。

 ルーマンはここでもそっけなく次のように言う:

この図式はシステムの内的分化の記述理解してはならない。これは諸システムの作動のための図式ではなく、それらの観察のための図式である。この図式によって区別されるのは、様々なシステムのタイプであり、オートポイエーシスの実現の様々な様式なのである。

 さて、ここでようやく「観察」という言葉が登場する。これ以下では社会システムの構成素はコミュニケイションであって、個人や行為ではない、との記述が続く。社会システムは、当のシステムを形成するコミュニケイションの再生産によって成立し、このコミュニケイションのオートポイエティクな産出過程がシステムの自己観察によって、特定の行為ないし行為者へと縮減される、、、コミュニケイションと行為の区別 はオートポイエーシスと観察の区別である、、云々。しかし、私はこうしたルーマンの社会システムについての説明をとりあえず括弧 に入れたいと思う。なぜなら、観察のために持ち出された、オートポイエティクな諸システムの区別 を鵜呑みにすることは危険だからである。始めに述べたように、一体誰がこの区別 をするのだろうか。(あるいは、この図式のなかに「人間」どこに位置するのであろうか、との疑問も当然生じて来よう。)

 例えば、ルーマンの社会システムの説明には当然のごとく、心的システム(意識)と社会システムとの区別 が登場する。この区別はどういうことだろうか。個人と社会との区別なのだろうか。論文「社会システムのオートポイエーシス」には「心的システム」つまり意識システムの説明は登場しない。にもかかわらず、観察、記憶、時間、という「意識」に親和的な言葉が顔を出し、読むものを戸惑わせる。

 ルーマンはこうした諸システムの間の区別をすべて「システム/環境」の差異によって説明する。意識は社会システムにとって環境であり、意識にとって社会システムは環境である、、、というわけである。これを理解するためには最初の問題であった「システムと環境の差異」について、そしてシステムの自己言及的閉鎖性から帰結する新しい「観察」概念についての検討が必要である。

 少々抽象的な議論になるかもしれないが、次回からシステムの環境に対する自己言及的閉鎖性とその自己言及的閉鎖性から帰結する認識論的転回の問題について少しずつ話を進めていきたい。