日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

ルーマン・フォーラム開催にあたって[1/3](|1/32/33/3|)

From: 本間直樹
Date: Wed, 12 Mar 1997 04:57:13 +0900
Subject:ルーマン・フォーラム開催にあたって[1/3]

 多くの方が当フォーラムに参加されたと聞き、大変喜ばしく思っております。

 私はこの度、畏れ多くもルーマン・フォーラムのモデレータをつとめさせていただくことになった本間直樹と申します。「畏れ多い」というのは謙遜ではなく、そもそも、言葉の真の意味において私はルーマンの「専門家」と呼ばれるに値しないからです。ドイツ本国で「ヘーゲル賞」なるものを受賞し、ドイツの学生からは「指折りの哲学者」(留学した友人談)と呼ばれるルーマンですが、ルーマンは自らを社会学者と規定しており、恐らく「思想家」というレッテルすら好まないでしょう。ルーマンが「思想家」と呼ぶに足らないとすれば、彼が徹底してオリジナルでない思想を展開しているからだともいえます。

 例えば、

システム、環境、オートポイエーシス、ダブル・コンティンジェンシ、自己準拠 差異、区別と指し示し、再参入、構造、機能、意味、地平、世界、構成主義、 セカンド・オーダー・サイバネティクス、第三項排除、多値論理学、盲点、

 驚くべきことにこれら、ルーマンのシステム論の根幹をなす言葉のどれもが《外》から輸入されたものです。(勿論、「今世紀最大の哲学者」と言われたハイデガーですら、その主要概念の殆どが他の哲学者からの輸入ないし密輸入品であることを考えれば、これも珍しいことではないかもしれません。)

 実際、こうした誠に「浅薄」な印象を与える用語の輸入と乗り換えは読者や研究者に多大な負担と混乱をもたらし、ルーマン理論の悪評の原因にもなっているわけですが、その一見「つぎはぎ」な理論構成の裏には実にシンプルなルーマンの「知の構え」なるものが示されているのです。

 それは、

世界を観察するためにある理論が選択した区別(=問題設定)を その理論が自ら観察する場合に不可避的に生ずる自己言及のパラドクス、 そのパラドクスを別の区別、別の問題設定に置き換えてやることによって一時的であるにせよ、パラドクスを(解消させるのではなく)見えなくさせること。
(?参照:ナセヒ+クニール,122-127)

 これを、もっと後期ハイデガー+α流にいえば、世界に区別を持ち込むことによってもたらされるパラドクスを「精神」「主体」「全体性」「存在」あるいは「人間」といった同一性・統一性のうちに解消させることなく、「持ちこたえること」(ただしハイデガーのように形而上学的言説に溺れることなく、またある時期のデリダのように文学的テクストに埋没してしまうのでもなく、社会のあらゆる事象の観察を続けることによって)

 私の意図とは裏腹にいきなり具体的な媒介物なしに抽象的な話からスタートしてしまいましたが、近年のルーマンの著作に同様の記述が執拗に繰り返されているにもかかわらず、多くの場合(批判者によって)何を言っているのか理解されないまま放置されるか無視されるので、あえてフォーラムの冒頭で取り上げてみました。(例えば、『自己言及について』第1章、29~33ページがそれに当たりますが、そこで言及されている個々の議論を知らずに訳文をそのまま読んだだけではまるで意味不明の文章にしか見えないと思います。)このフォーラムで最終的に考えてみたいのは、こうしたルーマンの構えがどこまで使用に耐えうるのか、という点です(実はルーマン自身の真の問いはここにあると思うのですが)。(→つづき)