日曜社会学 - ルーマン・フォーラム / エスノメソドロジー番外地

Sunday sociology - Luhmann Forum / Ethnomethodology: on the edge of nowhere

ニクラス・ルーマンについて

Date: Fri, 28 Feb 97 05:52:28 -0900
Subject: [polylogos:337] 遅ればせの自己紹介
FROM:酒井泰斗
このメールについて:
このメールはルーマンフォーラム開始当時には存在した「ポリロゴス・メーリングリスト」に、ルーマン・フォーラム開催のアナウンスを受けて投稿されたものです。この当時は、ポリロゴスの各フォーラム参加者は同時にポリロゴスMLのメンバーでもある、という仕組みになっていました。

ポリロゴスMLのみなさん、はじめまして。こんにちは。

 
SUB: ポリロゴスにようこそ
というメールを事務局から受取ったのが、
Mon, 30 Dec 96 21:25:04 -0900
ということになっていますから、このMLに参加以来、二か月近くなんのメールも出していないことになります。
【略】

大学在学中に、おもに学内LANを使用し、哲学科周辺の人たちを中心メンバーにした小さなメーリングリスト“Opera-buffer (おぺら・ばっふぁ)”を(共同)主宰していました。そこでの(まったく上手く行かなかった)経験から、ポリロゴス各フォーラムのモデレータの方々の労苦はとてもよく推察できます。人文諸科学関係の話題は、ほかのML(たとえば情報交換的なML)で扱われる話題とは違って非常にレスがつけにくく、たいがいのばあい主宰者の方が「ちゃんと読まれているのだろうか」と訝りながらなかば孤独感ととに筆を進めていくことになりがちです。

と、そこまで分っているのなら、私もレスをかえせばいいようなものですが、質問形式にまで(すら)まとめるだけの時間がとれなくて、いままではメールをかけませんでした。

そんなことを考えていたおり、このたびニクラス・ルーマンを扱うフォーラムが開始されると聞きました。これを期に私もなにがしかの貢献ができればと思い、まずは、遅ればせながらの自己紹介メールを投函するところから始めさせていただくことにします。


今回開始されるフォーラムで扱われる社会学者、ニクラス・ルーマンは、私にとっては「思い出深い」理論家です。学部生のときにこの理論に出会って以降、それまで気の赴くままに読みかじっていただけだったヘーゲルやカント、フッサールやハイデガー、あるいはまたヴェーバーやデュルケーム、ジンメル、そしてマルクスといった古典的な著述家達の著作を、ルーマンの解析格子を使いながら(特に「超越論的」な側面への関心から)あらためて読み直していったことがありました。私が大学へ入学したのがニューアカ衰退後だったということもあるでしょうが、デリダ、フーコー、ドゥルーズといった「現代思想」家達への飽きたらない思いが、ルーマンを手にとらせた理由だったように思います。

私はそこで、他のどの「思想家」達も決してあたえてはくれなかった切れ味と使い勝手をもつ道具[=理論装置]をルーマンの理論に発見したのですが、しかし現状では(世評をみると)、この理論は、評価・吟味・批判云々以前の「まる無視」状態に置かれており、偶々取扱われても 単なる無理解にともなわれた否定的なやり方、あるいは珍奇な動物並の扱われ方でしかない、という異様な位置にいるようです。 

そして・・・どうやらそれは将来変ることがないようにも思われます。
ちなみに、最近講談社から出版され始めた「現代思想の冒険者たち」のシリーズのなかに、ルーマンの名前は(やはり)見あたりません。
まぁ、執筆出来る人がいない、ということもあるのかもしれません(笑)。

そうした事態が何に預かっているのか、私にはよくわかりません。それでも、想像するに、たぶん次のようなことによるのでしょう:
・・・ほとんど“パッチワーク(あるいはサンプリング&エディット)”とすらいいたくなるほど「オリジナリティ」に乏しい記述内容。敢えて奇をてらっているのかとすら訝しく思われる・よく吟味されていない印象をあたえる他分野からの術語の流用。それゆえに(?)その理論全体からうけとれる拭いがたい「浅薄」な印象。またしばしば居直りとも受取られる「保守的」な立場。 ・・・そして最悪の特徴・・・、ほとんど読み手に「感情移入」させる余地のない、その「冷たい」「非人間的」な(と評される)主張内容。──などなど。

かつて、ブルデュがフーコーを「アドレッセントな思想家」と評したことがありましたが──そしてそれは「まったくそのとおり」だと私には思われるのですが──、そうした側面が読み手の「好意的読解=読み込み」を(あるいはまた、そもそも“読む-コストを-かけよう”と)誘うことはあると思うのです。・・・が、ルーマンにはそうした側面も徹底的に欠けています。

こうした印象は一概に間違ったものだとは言えない、のかもしれません。が、そこにはまた、よく省察してみてよいかもしれない事柄が含まれているようにも、私には思われます。: つまり、徹底して「《人間》の立場に立たない」という態度で社会を記述する理論が、「《人間》の立場に立たない」というまさにその理由から、読者を獲得できない・あるいは読者から拒絶される、という現象。

ルーマンに対して「共感的=同情的」になれない《根拠》のようなものが──ルーマンの主張内容に我々が苛立たせられる《根拠》のようなものが──、我々が「生きる」ということの中に含まれているかしれない、ということ。
・・・このことは、私にはとても興味深く思われます..... 。

 このことに関して、ここでみなさんの興味を引くための放言を許していただけるなら──フォーラムに参加するなかで少しづつ自分なりに考え、展開していければと思いますが──私としては次のように「喧伝」しておきたいと思います: ルーマンはおそらく“最も正統的かつ不埒な”ニーチェの後継者である、と(<準拠問題> は「正統的」だが <解決策> はニーチェがたぶん著しく不快に感じるであろうような、“後継者”)。

読者に対して、フーコーのように実存主義的なシンパシーを感じさせるわけでなく、ドゥルーズのようなアジテーションに心惹かれさせるわけでなく、デリダのように一転突破全面展開的な眺望を与えてくれるわけでないルーマンですが、見向きもされない飄々とした(むしろ殺伐とした、といっていいかもしれない)やりかたで、しかし、こうした人たちが決してやれなかった、深い(というよりも複合的だが浅いと言換えるべきかも知れない)地点でルーマンはニーチェの教説を“解体”しているのだと、私は捉えています。

さて。モデレータの本間直樹さん曰く:

難解なシステム論者として知られるルーマンですが、彼の議論は少し「システマティック」ではありませんし、「システム」という言葉自体「他でもあり得る」柔軟な概念です。ルーマンの解説というよりは、《ルーマンととに考える》フォーラムにしたいと思います。「システム」アレルギーにめげず、多くの方々がご参加されることを期待します。
ということで、モデレータの方とともに、参加者が増えることを期待したいと思います。

以上、フォーラムの宣伝のような自己紹介でした。
以後よろしくおねがいします。